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自動車が走るのは歩道か車道か

1 :私事ですが名無しです:2006/12/01(金) 02:31:47 ID:???
自転車が走るのは歩道か、車道か――。道交法上は「車両」として、車道通行を義務づけられ
ながら、実際には歩道走行が黙認されてきた自転車のあいまいな位置づけを警察庁が約30年
ぶりに見直す。歩行者をはね、自転車が「加害者」になる事故の急増を重くみた。来年の通常
国会に提出する改正道交法案に歩道を走れる要件を定め、位置づけを明確化する。

国民の3人中2人に普及する身近な自転車だが、「車道の左側端を通行する」と定めた道交法
の原則は78年以降、変わっていなかった。「自転車通行可」の交通規制がある歩道が約4割
にとどまっているなかで、多くの自転車が歩道を走り、一方で検挙されるケースはほとんどなかった。

昨年1年間に自転車が歩行者をはねた事故は2576件で、10年前の4.6倍。背景には、
自転車利用者の増加や運転マナーの悪化があるとみられ、自転車が関係した事故全体でも
1.3倍の約18万3000件に増え、全交通事故の2割を占めた。

また、健康増進や環境保護対策の観点からさらに自転車の利用増加が予想されるため、同庁は
4月、識者がつくる懇談会に、自転車の安全利用のあり方について諮問し、30日に提言を受けた。

改正法案では、車道左側端を通行する原則を維持するが、「子どもや高齢者、買い物目的での
利用」と、「車道通行が著しく危険な場合」に限って歩道走行を認めるべきだとした提言に沿
って、具体的なケースを規定する。

また、昨年の自転車乗車中の事故死者846人のうち、約7割が頭部損傷が死因になったこと
がわかり、幼児・児童を中心に自転車利用者にヘルメット着用を求める規定を改正法案に盛り
込めないか検討する。

マナーの悪化に対し、同庁は4月、信号無視、一時不停止、明らかな酒酔い運転など悪質性の
高い交通違反に対して交通切符による積極的検挙を行うなど、自転車利用者に対する取り締まり
強化の方針を全国の都道府県警察に通達している。

http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY200611300260.html


2 :私事ですが名無しです:2006/12/01(金) 03:51:22 ID:wst1D0Ui
ころころはどこを走ってもいいのさ〜
障害者手帳マンセーさ〜

3 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 01:51:27 ID:???

ロシア帝国の君主制はなぜ一九一七年二月に滅びたのだろうか。
ソヴィエトの歴史家たちは、それは起こるべくして起こった崩壊だと主張した。
マルクス=レーニン主義の教えによれば、帝政国家は都市と農村の上流・中流階級の利害に奉仕しており、
古くさい専制政治の道具をほしいままに用いた。
そしてその不可避的な帰結は、政治的および民族的な抑圧であり、
経済的搾取であり、そして文化的後進性であった。
おそらく唯一の効果的対抗手段は、マルクスとエンゲルスの教義に献身し
ヨーロッパ社会主義革命の時代にロシア労働者階級の動員のために専心する政党を組織することであった。
この政党は、もし帝国体制を動揺させようとするならば、
高度に中央集権化された秘密の組織をもつことが必要であった。
それはまた、非凡な才能を有する指導者をもたねばならなかった。
公認の歴史教科書は、まさにこの天賦の才能がウラジミール・レーニンという人物の中にあったと主張した。
ソ連が存在した最後の時期に、この分析の細かな点を疑問視する試みが、若干の党員歴史家によっておこなわれた。
とりわけ彼らは、ロシア帝国が基本的には農業的で伝統的社会であったこと、
都市の社会主義者によって指導されて成功した革命にかんして必然的だったことは何もなかったこと、を指摘した。
しかし、マルクス主義、レーニンそして労働者階級が帝政の崩壊をあらかじめ決定した、
という主張を金科玉条とする党指導部と正統派の党史研究者によって、これらの懐疑的歴史家たちは退けられた。


4 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 01:53:39 ID:???

共産主義者でない外国人著述家の大多数は、ソヴィエトの公定教科書の一般的な主張を退けた。
しかし彼らは、ロシア帝国が根本的な問題を抱えていたことを認めた。
一九一七年以前にロシアを訪れた旅行者たちは、この国がいかに近代化から立ち遅れているか、
下層社会にとっての状況がいかに後進的で抑圧的か、を強調していた。
帝国の君主制は、「諸民族の牢獄」でありヨーロッパにおける
民主主義と啓蒙とに対する砦である、という世評をえていた。


5 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 01:56:56 ID:???

しかし、西側のすべての人がこうした陰鬱な概観を受け入れたわけではなかった。
帝政の経済上および教育上の達成は相応に目覚ましいものであったし、
もしロシア帝国が第一次世界大戦に参戦しなかったならば
経済は妨げられることなく発展したであろう、と多くの解説者たちは示唆した。
こうしてその当時の発達した資本主義の水準に向かう上昇が、本当にありうることだったと考えられている。
実際に帝政の政策に対しては、ある程度の支持もあった。
在位中にはすこぶる忌み嫌われたニコライ二世もまた、聡明で柔軟な指導者として描かれている。
西欧とロシアの幾人かの歴史家たちは、さらに進んで次のように主張している。
すなわちロマノフ朝の転覆は、レーニンのボリシェヴィキだけでなく他の社会主義者や自由主義者
および保守主義者のすべての反対派集団による、愛国心を欠如させた裏切りの結果である、と。
そのうえ、第一次世界大戦へのロシアの参戦は、軍事的紛争に至ることが予定されていなかった
一連の外交的衝突の果てに起こったと強調されている。
事態は異なった具合に進展したかもしれなかった。
このような確信をもつ著述家たちは、ロシア帝国が政治的にも十分に健全な国家で、
ドイツとの戦争が避けえたとしたら生き長らえただろう、と結論づける。
戦争がなければ、革命もなかったというわけである。


6 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:00:00 ID:???

しかしそうした説明は例外的なものである。
避けがたいものではなかったにせよ、ある種の革命が大いに起こりそうであった、
というのが通常の説明である。
ロマノフ体制のあらゆる側面が、弱さの徴候を示していた。
ニコライ二世は先を見通す力がなく、また一徹であった。
政治体制は警察国家と恣意的な統治によって補強されていた。
すべての民族集団や宗教集団だけでなく、全社会階級が現状に憤慨していた。
貧困は広範な現象であり、基本的な民衆の必要を無視した工業化の推進によって、それはさらに悪化した。
ロシア帝国は爆発するのを待っている火薬樽であった。


7 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:02:01 ID:???

しかし近年の歴史研究の多くは、ニコライ二世が受け継いだ好ましくない状況を強調している。
歴代皇帝は広大な領土を統治しており、それゆえ長大な国境を防備しなければならなかった。
対抗勢力は西にも東にも、そして南にも存在していた。
軍事的な必要が改革を制限した。
農民が反乱を起こさないようにするとともに非ロシア人の服従を維持する必要もまた、そのように作用した。
行政組織網はまばらに散在しており、警察は十分な資源をもっていなかった。
輸送と通信は脆弱であった。
北アメリカとヨーロッパ諸国の経済が達成した工業の優位は大きなものであり、さらに拡大しつつあった。
一方、ほとんどのロシア人は――そう、ロシア人でさえ、国民という意識で統合されてはいなかった。
彼らはまた、自分たちを虐げる上流・中流階級を嫌悪した。
労働者と農民だけでなく、多くの知識人もまた、体制に敵対的であった。
二〇世紀初頭のロシアで想定しうるあらゆる政府の能力を
極限まで試すことになった一連の状況はこのようなものであった、といわれている。
それゆえ、たしかにニコライ二世は傑出した皇帝でなかったかもしれないけれども、
政治体制を襲った攻撃に対する体制の反応を弱めたのは彼の個性ではなくて一般的状況だったのである。
ロマノフ家の打倒は年月が経つにつれて、しだいに起こりそうなものになっていった。


8 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:06:36 ID:???

いくつかの研究によれば、つのりゆく危機は、あまりにも急速な工業化の社会的結果から生じていた。
ここには多くの議論がある。
大多数の人々にとっての物質的零落と社会的不公正とは極端なものであった。
しかし、経済的変容には肯定的な側面も存在した。
労働者と農民の一部は利益をえていた。
そのうえ帝政国家は、のちのスターリンの独裁ほどには民族的少数集団に対して抑圧的なものではなかった。
それゆえ他の研究が主張したところでは、帝政が弱対化したのは工業化の猛威によるというよりはむしろ、
農民共同体〔ミール、オプシチナなどとよばれた、土地割替を特徴とする土地利用に基づいた地縁的共同体。
農民的自治の基盤であるとともに、統治の道具としても利用された〕、宗教的セクト、
工場労働者連中という伝統的な社会グループの持続的な力によるものであり、
こうしたグループが機会を見つけては政治体制に抵抗しそれを蝕んでいったのである。
まさにその機会が一九〇五年に最初に現れたのであり、一九一七年二月についには成功したのであった。


9 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:16:46 ID:???

この章で提起される主張は、第一次世界大戦の帝国秩序が二重の危機、
すなわち闘争を引き起こすような工業化の危機と防御的な伝統主義の危機に対処しつつあった、ということである。
帝政は一つの危機ならほとんど解決したかもしれなかったが、
しかし同時に起こっている危機を二つとも解決することは非常に困難であった。
それらは互いに強烈なほど強化しあった。
ロマノフ君主制とその政府は、社会の「近代的」構成分子を十分に抑えたりなだめたりすることができなかった。
それはまた、昔ながらの構成分子に自らの意思を強制することもできなかった。
ロマノフ君主制は両方の競争に敗れたのである。
さらにこの主張は、もっぱら政治的、経済的、民族的あるいは社会的観点だけでは
納得のいくように議論することができない。
帝政のさまざまな弱さは相互に緊密に関連していたのであり、
それがロシア帝国を全体的に脆弱な状態においていたのである。
もちろん、バランス感覚は維持されなければならない。
一九一四年まで発展してきたロシア帝国は傷つきやすい体制であったけれども、
それは一九一七年の全面的な革命を経験する運命にあったわけではなかった。
その種の革命を可能にしたのは、第一次世界大戦という長く続いた消耗戦であった。
第一次世界大戦がなければ、十月革命はなかった。
レーニンと彼のボリシェヴィキは、おそらく自分たちでは決して獲得しなかったであろう
革命の好機を与えられたのである。


10 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:29:12 ID:???

同時代の多くの観察者は、権力の座からニコライ二世を追い落としさえすれば、
国の政治的、社会的、経済的諸問題すべてが解決することになるのは当然だと考えた。
しかし事態はそれほど単純ではなく、一九〇〇年頃にはロシア帝国は、
体制の転換だけでは克服しがたい困難に直面していた。
サンクト・ペテルブルクから見て、帝国国境の外の世界は、
いまだかつてこれほど脅威を与えるものに思われたことはなかった。
ヨーロッパの平和は移ろいやすいものであった。
フランスとプロシアというニ大国は、一八七〇年に互いに戦争に突入した。
統一国家を作り上げることでドイツは、大陸の中央地域での政治と貿易における優位性を獲得した。
またドイツの盟邦であるオーストリア=ハンガリーは、
バルカン諸国でより大きな影響力を行使すべく奮闘していた。
安全保障の追及のため、ロシアは一八九四年にフランスとの同盟に進んで調印した。
しかしドイツ政府はまた、ペルシアと近東で攻勢を挑み、外交的危機が再燃した。
そのうえ極東では日本が急速な工業化を成し遂げ、ロシアに対するもう一つの地域的な競合相手となった。
時はまさに帝国主義的な勢力拡大の時代であった。
中国は最大の獲物であり、ロシアは中国北部を自らの勢力圏におくという同意を強引に獲得した。
ロシア帝国主義は長い歴史をもっていた。
ウクライナ、シベリア、バルト、ポーランド、ザカフカースの地が征服されていた。
一八七〇年代に至るまで、中央アジア諸地域を征服するために軍隊が派遣されていた。
そして解体に瀕していたオスマン帝国に対しては、サンクト・ペテルブルクの大臣たちは、
ダーダネルス海峡を獲得しようと野望を抱いていた。


11 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:31:25 ID:???

現状への安住は当をえたものではなかった。
外国の支配あるいは領土の割譲ですら避けようと望むロシアのいかなる政府でも、イギリス、フランス、
ドイツやアメリカ合衆国に国際的成功をもたらしたような経済的および文化的変容を促進することを必要としていた。
工場での蒸気の使用、のちには電力の使用は、経済全体を変貌させた。
工業化した諸国の軍隊は大規模な技術的優位を獲得し、またその国々の教育施設は、
あらゆる社会階級に新たに必要となった知的技能の養成を提供した。
競争相手に遅れてこの課題に着手したロシアの体制は、それを遂行するためのいっそう激しい圧力を経験していた。
問題は特有のものというわけではなかった。
イタリアやスペインのような国々もそれに直面していたし、
アフリカ、アジアおよび南アメリカの国々は今日に至るまでそれに立ち向かっている。


12 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:34:01 ID:???

しかしロシアは、ロシアをヨーロッパで無類のものにしていた別の苦境を有していた。
気候はきわめて厳しいものであった。
シベリアの広大な地域は永久凍土の上にあり、中央アジアの一部は砂漠であった。
ロシア本土は、より温暖な天候であった。
しかしモスクワの冬は、ロンドン、パリおよびニューヨークの冬よりもずっと長い。
土壌の質は良くないところが多い。
主として南部ウクライナと南部ステップの限られた地域のみが、
北アメリカの穀物生産地帯の肥沃度にほぼ等しい。
ロシア帝国の大きさもまた重荷であった。
当時サンクト・ペテルブルクによって直接統治されていたポーランド東部から
太平洋側のヴラジヴォストークまでは五〇〇〇マイルあり、
また結氷したロシア北部のムルマンスクはトルコ国境から二〇〇〇マイル離れている。
ロシア皇帝の領土は、他のどの国の広大な領域をも小さく思わせた。
アメリカ合衆国とブラジルを足した面積はロシア帝国と比べてみると小さく、
帝国を結ぶ輸送は巨大な困難を引き起した。
航行可能な大河が主要な経済的中心地から離れていたことは、
地理上の偶然とはいえ、とくに不運なことであった。


13 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:35:33 ID:???

原燃料の散在はさらなる障害であった。
金と木材はシベリア産であり、石油はカスピ海沿岸のバクー産であった。
サンクト・ペテルブルクは金属加工業の中心地となったが、
石炭と鉄の資源集中地は何百マイルも離れたドネツ炭田であった。
民族的な多様性は状況をさらに複雑なものにした。
ロシア人は、自分たちの領土をもとに建設された帝国の人口のうち、
わずか五分の二を構成したにすぎなかった。
国の工業の繁栄にとって重要なところでは、ポーランド人、ラトヴィア人、
ウクライナ人やアゼリ人がその地域での多数派であった。

それゆえロシアの変容は、著しく困難なものにならざるをえなかった。
経済的な後進性は、競争相手の国々よりも早いテンポで変容を追及することを助長したが、
このことは、すでに危険な流動状況にあった社会秩序を動揺させることになった。
そして気候と地勢上の位置の双方も、他のどの国よりも高い財政的負担を必要とした。


14 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:37:26 ID:???

生活水準の飛躍的な向上を労働者がすぐには求めないようにするためには、
他の国々と同様に、強力な国家権力が必要とされた。
経済の発展を調整するために、確固たる指導も求められた。
ロシア帝国は専制君主制によって統治されていた。
一六一三年以来ロマノフ朝が統治しており、
選挙による代議制の議会と権力を分かちあった皇帝は一九世紀には一人もいなかった。
政党は禁止された。
公開の集会は厳しく統制され、発行前の刊行物の事前検閲がおこなわれた。
反乱は稀であった。
一七六二年と一八〇一年には皇帝の殺害が起こった
〔前者ではピョートル三世が廃位ののち殺害され、後者ではパーヴェル一世が殺害された〕。
しかしそれは、一人の帝位在位者を別の人物ととり替えたクーデターであった。
エカチェリーナ二世に反対して一七七三年にエメリヤン・プガチョフによって引き起された民衆反乱は失敗に終わったが、
それでさえ根本的な改革の目標をもっていなかった。
一八二五年になって初めて、真に革命的な組織がつくられた。
それは、軍将校と他の貴族との陰謀という形をとった
〔専制打倒と農奴制の解体をめざして青年貴族士官たちが蜂起したデカブリストの反乱〕。
そしてそれもまた、容易に粉砕された。


15 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:38:58 ID:???

一八二六年に戴冠したニコライ一世〔帝位を継承したのは一八二五年〕と、
彼の後継者のアレクサンドル二世は、絶大な権力を保持した。
皇帝の個人崇拝が促進され、それはおおむね効果的であった。
農民は自分のあばら家の壁に、統治者のイコンを大事に飾った。
そのうえ皇帝の言葉は、まったく文字通りに法律であった。
簡単な口頭での訓令が、立法部のあらゆる法令を無効にした。
君主の気まぐれが勢力を振るった。
そのうえ一九世紀の大臣会議は、イギリスの内閣とはほとんど似ていなかった。
それは共同で審議をおこなうことがなかった。
各大臣は、君主にのみ責任を負っていたのである。
君主はまた、地方政府機関を指導する県知事を任命した。
これらの官僚には巨大な権力が与えられた。
そして地方の警察は、行政的命令によって刑罰を科する権限を有していた。
ロシア帝国は警察国家であっただけでなく、きわめて恣意的に支配される国家でもあった。


16 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:42:51 ID:???

一九世紀末に帝国が直面していた課題を処理するのに、この構造がふさわしいものであったかどうかは疑わしい。
しかし無条件に否定してしまうことは時代錯誤であろう。
一七八九年にフランスの絶対王政が消滅したのは、そう遠い過去ではなかった。
そのうえ、議会制民主主義はイギリスにおいてさえ制限されたものであった。
イギリスで選挙権がすべての成年男子に拡大されたのは、ようやく一八八四年になってからだった。
反体制的集団に対する抑圧は、どこの国でも長く続いた。
ドイツの社会民主主義者は、一八九〇年まで非合法状態におかれていた。
アメリカ合衆国では、一部の雇用者は一九三〇年代以降になっても、
社会主義者にひどいいやがらせをしても事なく済ませていた。
自由のない状態にさまざまな程度がある世界の中で、ロシア君主制は権威主義の極端な事例であった。


17 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:44:41 ID:???

にもかかわらず統治者たちは、経済的変容が必要だと気づくようになった。
一八八一年に帝位に就いたアレクサンドル三世は、一貫した工業化推進者であった。
彼の息子で一八九四年に即位したニコライ二世もまたそうであった。
両者とも、工業化することを知性の面から鼓舞されたり、激励したりしたわけではなかった。
しかし工業発展への彼らの支持は強力なものであった。
一八九二年から一九〇三年まで大蔵大臣であったセルゲイ・ヴィッテは、専制の効用に注目した。
普通選挙でロシアの議会を選挙すれば、
人口数で優位に立つ農民が大きな政治的影響力をもつことになるだろう。
こうした選択がおこなわれれば税収の減少が起こり、また財政政策の点では、
農機具生産部門により高い優先順位が与えられるだろう。
農民の目標はおそらく完全には満たされないであろう。
それにもかかわらず軍備への投資は損害を受けるかもしれない。
もし専制が有産階級に限定された選挙権を認めるならば、たぶんそのような困難は生じないだろう。
ドイツの近代化の様式はこのようなものであった(そしてまた日本が一八九〇年代にこれを採用して成功した)。
しかしロシアでは企業家は相対的に少数であり、
ロシアの地主貴族は工業企業に対するかなり多数の反対意見をもっていた。
ドイツを模倣することは、それ自体の問題を引き起こすであろう。
いずれにせよ、サンクト・ペテルブルクの専制君主が決然としていれば、
工業化を刺激し擁護する上で有用な役割を果たすことができるであろう。
アレクサンドル三世とニコライ二世はそのように行動した。
ブルジョワジーは彼らの庇護のもとで発展した。


18 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:52:28 ID:???

どの国家も内部分裂を有している。
農民をあまりに強く圧迫することの危険性に気づいていた内務省は、急速な工業拡大に警告を発した。
他の機関はそれほど妨害することはなかった。
ロシア正教会は、忠実に政府の宗教的権力機構の機能を果たした。
しかし聖職者の無知は伝説的なほどであり、
経済的近代化を推進することへの彼らの助力はとるに足りないものであった。
何千という官僚たちもまた、無関心であったかあるいは単に当惑していた。
金権腐敗がはびこっていた。
縁故と無能とは帝国の恥辱であった。
そのうえ、資源をめぐっての省庁間競争は熾烈なものであった。
正規軍は国庫の枯渇の原因であった。
カフカース地域の征服を完了しポーランド東部を維持しておくという軍の任務は、出費を強いるものだった。
しかし大蔵省は、予算をめぐる闘争において立派に本分を果たした。
全体として体制は、変化の力に引き寄せられていた。
国家行政は、農業経営に失敗した世襲貴族をもっぱら救済する機関といったものではなかった。
反対に、第一次世界大戦前に文官で最上級の四つの官等にある職務に就いている人々の五分の四は、
地主貴族ではない人々が占めていた。
また一九一二年までには、貴族出身でない人々が軍の将校団の多数派となっていた。


19 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:54:37 ID:???

政府が工業を遂行したやり方は印象的なものであった。
国有企業と国家発注契約とは、ロシアにおける資本主義的経済発展にきわめて大きく貢献した。
兵器生産工場の所有は、当局の伝統的な目標であった。
しかし鉄道もまたその重要性を認められた。
一九一四年には、鉄道網の三分の二が国有であった。
歳入の増加が明らかに必要であった。
工業化は農民の全般的な窮乏化によって達成された、という神話がある。
しかし政府の収入の最大部分は、間接税と物品税によるものであり、それは一九一三年には四〇%を占めていた。
中央政府の直接税は比較的低かった。
農民の友とはほとんどいいがたいヴィッテでさえ、
農村の購買力(それは一定の制限内に厳密に抑えられたものではあったが)の拡大が絶対に必要だと論じていた。
ともかく政府は、自らの財源だけでは発展のために資金を供給することができなかった。
第一次世界大戦の勃発時に政府の手中にあった工業資本ストックは、全体の九分の一に満たなかった。
国内の私企業が育成された。
一八九一年の「莫大な関税」は保護を与えた
〔この年六月に、ロシアの産業を守るための高率の保護関税が定められた〕。
それはまた、外国企業がロシアに輸出する前に帝国内にその支店を開設させた。
ルーブリ通過を金本位制にする一八九七年の決定は、外国からのさらなる投資を引き寄せた。
一九一四年までには、抵当債券を除くロシアの有価証券の四七%を外国人が所有していたと見積もられている。


20 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:56:10 ID:???

西ヨーロッパからの資本投入にあまりにも依存しすぎることは危険であった。
それはヴィッテにも理解されていた。
しかし彼は抜け目なく、大規模な資金の撤退は起こらない、と予言した。
ロシアに信用を供与する価値があることは郡を抜いており、また利益は確実であった。
フランスとベルギーの資金が、サンクト・ペテルブルクの証券取引所で率先して景気をあおっていた。
ともあれ外資導入によるロシアの工業発展は、
外国の利益集団の影響をうけて自前の工業化から大きく外れるようなことはなかった。
ロシアはブルガリアではなかった
〔ブルガリアは一九世紀末に積極的な外資導入による近代化を図ったが、諸外国による国家財政管理を経験した〕。
ロシア政府はそれほど容易には脅迫されなかった。


21 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 02:58:07 ID:???

しかし世界貿易の景気循環はロシアの手に余るものであり、
ロシア帝国経済は、ヨーロッパの他の国々での周期的な景気後退の影響を受けやすいままであった。
一九〇〇年から一九一三年のあいだの不況は損害を与えるものであった。
しかしこの国はまたヨーロッパの好況から利益をえており、
一九一四年までにはロシア帝国は世界で第五位の大工業国となった。
成長率は目覚ましいものであった。
工業生産は一八九〇年代には毎年八%拡大し、
一九〇七年から第一次世界大戦開始までのあいだでは毎年六%の成長率であった。
鉄道は一八六〇年代に発展した。
大戦前の時期に、およそ三万マイルの線路が敷設された。
石炭、銑鉄および鋼鉄の生産では、ロシアは世界第四位の大生産国になった。
石油生産もまた成功した。
バクー油田に匹敵したのはテキサスだけであった。
しかし脆弱な分野が残っていた。
化学工業、電気工業、工作機械工業は懸念材料であった。
そうではあったけれども、ロシアの工場は旋盤、機関車や自動車を製造し始めていた。
国の経済発展において資本財は際立っていた。
しかしそれは、努力がなされた唯一の領分ではなかった。
消費者大衆の要求が増大した。
第一次世界大戦まで、繊維産業は単独ではロシアで最大の工業であり続けた。
そして食品加工業とあわせると、両者は全工業生産価格の五〇%を占めた
(一方、鉱山業と冶金業とをあわせた数値は一四%であった)。
資本財生産と消費財生産とのあいだのこのバランスは、
ロシアのような近代化の段階にある国にとってはとくに異常というものではなかった。

22 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:00:47 ID:???

このように経済は、大砲ばかりでバターなし、というわけではなかった。
工業発展が農業の後退によって達成されたという主張は、論証されていないままである。
ロシア農業の指数は、適度の上昇を示している。
帝国農業の主要産物であった小麦とライ麦の収穫高は、一九世紀後半に増加した。
一八九一―九二年には、飢饉がヴォルガ流域を苦しめた。
気候に左右されて、最もよく組織された農場さえも台無しになることがあった。
それでも、時々の後退はあったものの、改善は堅実なものであった。
一八八一年から一九一三年のあいだのヨーロッパ・ロシアにおける穀物生産高は、
年平均ニ%の上昇を見た(すなわち年間で一一〇万トンの増加であった)。


23 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:02:18 ID:???

体制を非難する人々は、この達成を黙って無視した。
帝国の人口は一九世紀後半に急速に増加し、その結果、農業の拡大による利益のほとんどが失われてしまった。
それでもヨーロッパ・ロシアにおける一人あたり穀物生産はまだ上昇しており、
一八九〇年から一九一三年の上昇率はほぼ三五%であった。
ロシアは世界で最大の穀物輸出国となった。
第一次世界大戦前の五年間に、ロシアは年平均で一一五〇万トンの穀物を国外に販売した。
ロシア農業はまた多様化し始めていた。
ジャガイモと乳製品が、とくにポーランドとバルと海沿岸地域で、商業的に重要なものになった。
小麦生産の拡大を担ったのは、ウクライナ、南部ロシア、ウラル地方および西シベリアであった。
サトウダイコンが重要な作物として登場した。
その栽培にあてられた面積は、主にウクライナにおいてであったが、
第一次世界大戦前の一〇年間で三八%上昇した。
また工業作物も無視されてはいなかった。
綿花栽培はトルケスタン経済に浸透した。
ロシア帝国の農業のさらなる発展の見込みは全体として強まっていた。
機械その他の器具の販売が増加した。
そうした農場資産への投資は、一八九一年から一九一三年のあいだに年率九%で上昇したようである。


24 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:05:32 ID:???

それでも工業と農業との近代化は、長い長い道のりを進まねばならなかった。
わずかに存在する都市はサンクト・ペテルブルクのミニチュア版でさえなく、
無数にある村々は新しい生産技術を知ることもなくまどろんでいた。
変化は地理の上ではむらがあった。
それはまた、外国とのすさまじい競争という脅威をこうむりがちであった。
そのうえロシア政府の貢献は、もっぱら有用であるというわけではなかった。
政府の財政政策と鉄道および軍備への政府発注とは、工業成長を促進した。
農業についてはそれほど配慮されなかった。
農民は独力でやっていくようとり残されたと感じ、また一八八二年に彼らのために創設された農民土地銀行
〔農民の土地購入を促進するために政府が設立した銀行〕は問題の上っ面をなでただけだと考えた。
また政府を擁護する人々でさえ、政府による工業の奨励が包括的なものであったと主張することはなかった。
社会の諸勢力が強い勢いを与えたのである。
実際、一八八〇年代と一八九〇年代に当局が工業化の促進に奮闘する前には、
国家の政策がいくつかの点で工業主義そのものに反対していた数十年の年月があった。


25 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:07:10 ID:???

こうして一九世紀の政治体制は、農民の土地共同体を保持しようと努力した。
共同体の規制に従って農村の若者は、都市へ仕事をしに行くための許可を村の年長者たちに求めなければならなかった。
そうした規定は、土地をもたない貧民の増大を抑えようとする政府の希望を反映していた。
この願望はかなえられたと考えられていた。
結局、一九一三年には工場と鉱山に三一〇万人の労働者がいただけであった。
しかし労働者階級には他の集団も含まれていた。
鉄道員、建設労働者、給仕、家内工業従事者および家事使用人を加えると、全部で一五〇〇万人という数字になる
(また農業賃労働者が算入されるならば二〇〇〇万人となる)。
これは一八六〇年に対して四倍の増加であった。
成長しつつある工業は、初歩的な学校教育の提供を拡大することを必要とした。
政府はまた、競合するヨーロッパ列強を模倣するために、教育施設と社会施設とを拡張しようと望んだ。
一八六四年から政府は、学校、道路および病院に制限された責任を有する、
ゼムストヴォの名で知られる地方自治機関の選挙を認めた。
また同様の地方的課題を遂行するために、常設の自治体会議が強化された〔県および郡の参事会を指す〕。
中央政府自身は、大規模な学校建設計画にとりかかった。
一九一八年の調査によれば、ヨーロッパ・ロシアの全工場労働者のうち、三分の二は読み書きができた。
また首都の印刷工場と金属加工工場では、ほとんど全員が読み書きできた。


26 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:09:18 ID:???

ロシアの労働者がドイツやイギリスの労働者と類似していることは誇張されるべきではなかった。
たいていの工場労働者は、生まれ育った村とのつながりを維持していたのである。
彼らが小区画の土地をもっているのは普通のことであった。
労働者階級の生活はかなり荒っぽいものであった。
拳闘、酔っ払ってのけんか騒ぎや乱暴行為はありふれたものであり、
とくに田舎から出てきたばかりで貧しく暮らしている人々のあいだで顕著であった。
社会の変化の前には長い道のりがあった。
しかし変化は起こっていた。
本を読むことを学び複雑な機械を操作する訓練を受けた「世襲労働者」の非常に大きな層が、
ロシアで現れつつあった。


27 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:12:27 ID:???

これらの労働者があとにした農村は、都市に比べると変化が小さかったけれども、変化がないわけではなかった。
一八六一年には農奴解放令が公布された。
それは、六〇年代の一〇年間に起こった一連の改革の始まりであった。
それ以前には、人口の九割を構成していた農民は、彼らが生まれた土地の所有者に
人格的に隷属することを法的に義務づけられていたか、あるいは政府の役人の監督下におかれた国家の農民であった。
貴族と皇帝一族は、国の最大の私的土地所有者であった。
しかし人格的に解放された彼らの農民は、経済的に不利なとり決めを受け入れた。
帝国中で農民が獲得した土地の平均面積は、ポーランドを除けば、
それ以前に彼らが耕作していた土地より一三%少なかった。
南部ロシアのようなより肥沃な地域では、貴族は農民に対して、
農民が以前に耕作していた土地の三分の一から二分の一もの土地を放棄させた。


28 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:13:58 ID:???

しかし事態はそれにとどまるものではなかった。
貴族の財産として所有されていた土地が減少し始めたのである。
一九〇五年以降、先を争って土地が売却された。
一八六〇年代に貴族が所有していた土地は、一九一二年に彼らが保有していた土地の二倍であったと見積もられている。
不正地主も次第に増加し、多くの地所が賃貸に出された。
貴族の所有地を引き継いだ人々の中には都市住民もいたが、
土地の新たな所有者と賃借人の大多数はかつての農奴であった。
農業経済に占める農民の比率は、小さくなるどころか目立って拡大した。
土地の購入や賃借が大規模に起こった。
一九一六年までにヨーロッパ・ロシアの播種面積の九割近くが〔土地を保有する〕農民によって耕作されていた。
一九一〇年に利用されていた農業機械の五分の四が農民の所有にかかるものであり、
一九〇九年から一九一三年までの時期、帝国の農業生産高の総額のうち八七%は彼らによって生産されたものであった。
市場経済の拡大は、長年に及ぶ村の慣習を動揺させた。
読み書き能力の普及も同様に作用した。
前進は都市においてよりも明らかにゆっくりとしたものであった。
しかし、第一次世界大戦前にヨーロッパ・ロシア一二県でおこなわれた調査で、
農村男子人口のおよそ五分のニが少なくとも自分の名前を読み書きするのを学んだことが明らかにされた。
農村の生活がまだ完全には変化していないのは明白であった。
しかし成し遂げられたことは些細なものではなく、新しい生活形態に向かう動きは本格的に始まっていた。


29 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:15:22 ID:???

すべての貴族が経済的に行き詰まったわけではなかった。
土地を失って立ち去ったものの多くは、法外によい値段を提示されたり
文官勤務やあるいは実業界での仕事に就いたりするためにそうしたのであった。
そのうえ、ウクライナ南部やバルト海沿岸地域の大農場所有者は、
競合する生産者として現れた農民に敗れる兆候をほとんど示さなかった。
彼らは成功した資本家となった。
農民が自分で収穫した生産物のうち市場向けに販売した量の二倍を、地主貴族が販売した。
こうした社会集団が政治改革を求める動機は小さかった。
土地所有貴族は工業ブルジョワジーに憤慨していないわけではなかった。
そして一八九八年に彼らは、ロシアの工場の発展を保護する関税制度を修正することに成功した。
農業機械の輸入に支払うべき税は廃止された。
また、商工業において功績のあった非貴族身分の人々に貴族身分を与えるという提案に対し、
皇帝が反対するよう圧力をかけるべく内務大臣V・K・プレーヴェが率いた運動が功を奏した。
しかしそうした企業家や銀行家は、悪いことばかりではないと考えることができた。
契約だけでなく労働者との紛争の際には助力を与えてくれる国家は、
都市の資本家にとって非常に大切なものであったため、彼らが国家の打倒に努力することなどなかった。
また農村の資本家の不満も、彼らが騒ぎ立てるほどには深刻でなかった。
大蔵省は、農場主が国の内外の市場に輸送する料金を安くするように鉄道輸送料を設定した。


30 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:24:13 ID:???

有産階級のあいだには、とくに激しい不満分子はまだ広範には存在していなかった。
しかし都市で労働者階級が成長するにともなって、多数の問題が起こるようになった。
ロシアの工場労働者は貧しかった。
多くのものは生活に必要なだけ稼いでいる状態であった。
彼らは仕事場で、過酷で屈辱的な扱いを受けていた。
安全規則はあまねく無視されていた。
職長は、些細な規則違反や根拠のない規則違反でさえも理由にして、労働者に罰金を科すことができた。
時間外労働を除いた平均的な労働日〔一日の労働時間〕は、一八八〇年代には一二時間から一四時間のあいだであった。
住宅は劣悪であった。
大多数の労働者にとって選ぶことができたのは、会社の陰気なバラックか、
あるいは値段が高く、非衛生的で過密な賃貸の部屋であった。
これらの事情は、一九〇五年と一九一七年にロシアの労働者階級を伝説的なものにした反抗的態度を雄弁に説明する。
そのようなみすぼらしさは、ロシアに特有なものではなかった。
世紀転換期までにイギリスやドイツなどの国々の労働者の一部が多少ともより快適な生活を送り始めた一方で、
西ヨーロッパにさえひどく困窮した地域があった。
ミラノの労働者のほとんどは、サンクト・ペテルブルクの労働者より暮らし向きがよかったわけではなく、
この二つの都市では反抗精神が旺盛であった。
すべてのロシア労働者が反抗者であったわけではなかった。
騒擾が起こったのはほとんどの場合は農村からやってきた未熟練で経験をもたない若者のせいで、
彼らが都市に押し寄せて時おり手に負えない暴徒になったのだ、としばしば非難された。
しかしこれでは、バーミンガムにやってきたアイルランド人移民が穏やかであることの説明にならない。
そのうえ、紛争を指導し鼓舞したのが労働者の中のより高熟練でより都市化した層であったことは、
ロシアの工場労働者の紛争から明らかである。
ヨーロッパの他の国と同じように、そうした労働者は闘争をおこなうためのとり決めや組織をもつ傾向があった。
一九〇〇年から一九一三年のあいだに平均実質賃金はわずかに上昇した。
しかしそれはごくわずかな改善であり、ほとんどの労働者の関心をひくような改善そのものではなかった。

31 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:27:04 ID:???

劣悪な状態と高まる期待とは、イギリス、フランスやドイツでこの時期に社会的不穏を生み出していた。
世紀が変わる前には、ロシアのストライキははなはだしく大きいわけではなかった。
一八九九年は一〇年間の工業紛争のうちで最高潮に達した年であったが、
それでもストライキ参加者はわずかに九万七〇〇〇人であった。
しかし労働組合の禁止が緊張を高めた。
組合禁止が緊張を激化することは、結局はそしてしばしば条件付きではあったが、
ロシア以外のすべての主要工業国で明確に理解された。
急速な工業化が、不満を表出するための回路を活発なものにしたのである。
ロシアの多くの工場が巨大な規模であったことは、雇用者と従業員とのあいだの隔たり感をいっそうつのらせた。
一九一四年には工場や製作所の労働者のうち五分のニは、従業員一〇〇〇人以上の工場に所属していた。


32 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:28:54 ID:???

農民は、一八六〇年代初頭と一八七〇年代末の多少の騒動を除けば、
一九世紀には警察をひどく悩ませることはなかった。
しかし彼らの惨めな境遇は強烈なものであった。
自ら耕作する非常に多くの土地を、とくに一九〇五年以前には、地主貴族から賃借しなければならなかったことに、
農民は憤激した(地主貴族はまた、きわめて重要な放牧地と森林地とを保有していることで忌み嫌われていた)。
このために、農民の収入の増加は大幅に小さくなった。
ともあれ収入増は総計としての数字であり、それは生活水準の多様な段階をおおい隠していた。
たいていの農民は共同体に住んでいた。
政府はこの制度を、お金のかからない徴税機関として利用した。
そのうえ中部および北部ロシアの共同体は、居住している農民世帯のあいだで定期的に土地の割替をおこなっていた。
しかし不平等は続いた。
クラークという名で知られる富裕な農民は、他の農民を労働者として雇用したり、金貸しになったりした。
ロシア農村の貧民は、アイルランドやドイツと同じように、哀れなほどに貧しかった。
しかし、教育あるいは移民を通じて貧しい境遇から抜け出す機会はほんのわずかであった。
またロシアのクラークは、ドイツの並みの小土地所有者と同じくらいの暮らし向きであることはめったになかった。
このため土地問題に注意が集中した。
農民の土地飢餓はほとんど普遍的であり、土地所有貴族は是が非でもその土地を
農民に譲り渡さなければならないという信念を、農民は強くいだいていた。
当時は差別的な法律が存在していた。
一九〇四年まで農民は、軽罪の罰として体刑を受けなければならなかった。
農村の秩序を維持する責任を負い、しばしば貴族から選出された「地方監督官」の制度は、
さらに農民をわずらわせる種となった
〔ゼムスキー・ナチャーリニクと呼ばれる地方監督官が農民自治機関を監督し、民事・刑事の軽罪事件を管轄した〕。


33 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:32:09 ID:???

不平不満が政治的抵抗に変わるかもしれない可能性は、一九世紀末には政府にとっての悪夢であった。
開明的な労働立法が採択された。
しかし施行にはむらがあり、ストライキを粉砕するために軍隊が用いられた。
雇用者と従業員とのあいだの賃金闘争は、自然と政治的意義を帯びるようになった。
労働者は次第にこのことを意識した。
学生もまた同様であった。
差し出がましい大学の学監、義務的な制服および乏しい財政的援助が、学生をいらだたせた。
卒業後の失業はさらなるいらだちの種であった。
なるほど官僚制が多くの元学生に職を提供したことや、鉄道のような国営企業が主要な雇用者であったことは事実である。
しかし欲求不満の若い世代は、体制が終焉を迎える時期まで、序列と慣例が重々しく強要されることに憤慨していた。
あるものは、法律や医療のような「自由専門職」に就いた。
またあるものはゼムストヴォで活躍した。


34 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:35:43 ID:???

このインテリゲンツィヤに属する人々は、専制君主制が国の災いの根本的原因であると信じていた。
一八六〇年代以降、秘密組織が形成された。
彼らは、農民の土地共同体にある平等主義という土台に立って、社会を建て直すことを目標にした。
「人民」に関心を集中することで、彼らは「人民主義者」(ナロードニキ)という名で呼ばれた。
彼らは、社会主義体制への直接の移行が実現可能である、と熱心に主張した。
「土地と自由」という結社が一八七〇年代に活動を開始し〔「第二次土地と自由」〕、何百という農民を組織した。
しかし農村の大多数の人々は、その名前さえ知ることはなかった。
「土地と自由」の宣伝活動は、ほとんど効果を発揮しなかった。
また、そこから分裂して出たテロリスト分派の「人民の意志」党による皇帝アレクサンドル二世の暗殺は、
一八八一年に急激な反動を引き起こした。
しかし、五〇〇〇人と見積もられる革命家は、続くニ〇年のあいだ政治的な「地下組織」で活動を展開した。
資本主義がロシア経済に深く根付きつつあり、驚くほど無反応な農民よりも
都市労働者階級のほうが政治的スローガンに共鳴していることを、ナロードニキは理解するようになった。


35 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:37:55 ID:???

大きな危険を冒して、一八七四年以降、労働者自身によって秘密の労働組合が組織された。
彼らの要求の中には政治的自由があった。
ナロードニキはそうした組織に入り込んで指導しようと努力した。
一八八〇年代から彼らは、ドイツのマルクス主義の教義をロシアの状態に適応させた集団と競いあった。
ロシアのマルクス主義は、大規模な社会構成単位と都市主義を賛美した。
彼らの見解では、社会主義へのさらなる移行が語られる前に、
ブルジョワに率いられた共和政府が設立されねばならなかった。
彼らの戦略は、一八九〇年代末にはナロードニキ主義より多くの支持者を獲得した。
しかし、大衆労働運動との結合は、断続的にのみ実現された。
オフラナ(政治警察)は何百人もの活動家を一斉検挙した。
自由主義者は苦しい思いをしていた。
ネオ・ナロードニキやエスエル〔社会主義者=革命家党のメンバー。日本では社会革命党の名で知られている〕は、
投獄や追放の憂き目にあった。
一九一四年には一万人の支持者を擁して最大の反君主制政党となったロシアのマルクス主義者は、激しく迫害された。


36 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:39:29 ID:???

しかし抑圧は、政府にとってそれほど効果的には機能しなかった。
他の予防的措置が試みられた。
世紀の転換後には、農民に対する差別的な法律が廃止され始めた。
労働者にも注意が向けられた。
若干の労働組合は合法化されたが、厳しい制限とオフラナの監視の下におかれていた。
この試みは内務省によってすぐに危険と判断され、一九〇四年までには組合は威嚇されるようになった。


37 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:41:23 ID:???

サンクト・ペテルブルクにあったそうした一組合のメンバーたちは翌年、
正教会の司祭ゲオルギー・ガポン神父に率いられて動乱を引き起こした。
一九〇二年に騒動が起こったロストフ=ナ=ドヌーは、軍隊の力で鎮圧されねばならなかった。
三年後のサンクト・ペテルブルクを抑えるのはさらに容易ではなかった。
一九〇五年一月九日、立憲的改革と社会改革とを求めるガポンの平和的行進に向かって、守備隊が発砲した。
この「血の日曜日」事件は、ストライキと民衆の行進とを引き起こした。
ポーランド人が都市でバリケードを築いたりグルジアが事実上自治的になったりしたように、
ロシア人以外の諸民族はとくに政府に公然と反抗した。
フィンランド人もまた不穏な状態であった。
そのうえ軍隊は一九〇四年以来、日本との損害の大きい戦争にかかりきりであった。
極東での敗北ののち何百という反乱が起こり、君主制の運命は危機に瀕した。
ロシアやその他の地域の労働者は、彼ら自身の地域的な、選挙で選出された評議会を創設した。
評議会を意味するロシア語はソヴィエトである。
これらの評議会は、ストライキ指導の機能を超えて発展し、行政機関を作り上げた。
政治革命が出現した。


38 :私事ですが名無しです:2006/12/05(火) 03:41:54 ID:???

旱魃で収穫が台無しになっていた農民は、反抗的であった。
夏には地主所有地での不法な放牧や木材の伐採が発生し、農業賃労働者がストライキを起こした。
放火事件が増加した。
偶発的な土地の奪取が発生した。
村の共同体が存在しているところでは、それが反地主暴動をとりまとめた。
農民同盟が創設された。
しかし農村の反抗者たちは、この同盟とは無関係に行動した。
何らかの種類の大規模組織が影響力を行使したのは、都市においてであった。
ロシアの家族構造を考慮すれば意外なことではないが、女性よりも男性が多く参加した。
官吏、給仕および失業者のあいだでさえも労働組合が結成された。
街頭に出ていたのは労働者だけではなかった。
企業家は政府の専門的能力に疑いを抱き、憲法を求める最初の要求に加わった。
政党が秘密裏の存在から表舞台に現れた。
黒海艦隊で反乱が起こった。
モスクワ・ソヴィエトのマルクス主義者の指導部は、一九〇五年一二月に労働者の武装蜂起をおこなった。


39 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 03:48:20 ID:???

二つの重要なことが体制に役立った。
一つは軍隊を容赦なく用いたことであり、もう一つは一九〇五年の十月詔書による土壇場での政治的譲歩の約束であった。
反乱は鎮圧されるか、あるいは低調になっていった。
国家ドゥーマという名の議会の開設が約束された。
それは一九〇六年四月に開催された。
ドゥーマの権力は非常に制限されたものであった。
それは、大臣を指名することも自主的に法律を採択することもできなかった。
それはまた、皇帝の命令による解散に従わねばならなかった。
それにもかかわらず、控えめになったニコライ二世は、ロシア自由主義の指導者たちに好意を示すのをいとわなかった。
彼は、パーヴェル・ミリュコーフを含む若干の自由主義者を大臣会議に招聘した。
この政治的な部分的妥協は、ロシアの発明品ではなかった。
それはドイツに一九一八年まで存在した。
しかしその試みは、ロシアでは遅すぎた。
より早くおこなわれたとしても、ともかくそれは、うまくやってのけるには困難な策略だったであろう。
しかし、立憲民主主義者あるいはカデットと自称した自由主義者は、この提案をはねつけた
〔彼らは立憲民主党(カデット党)を設立していた〕。
彼らは、独立した立法権力をもつ議会の承認をあくまで要求した。
第一ドゥーマにおいて自由主義者は、大臣に向かって長広舌をふるった。
しかしこれは、皇帝の命令によって解散される結果に終わっただけであった。
君主と彼の首相ピョートル・ストルィピンは、もはや第二ドゥーマに熱意を示さなかった。
そして一九〇七年には、土地所有貴族が新たな議会で優位を占めるようにするために、
クーデター的な方法によって彼らは選挙規則を変更した。
その結果が第三ドゥーマであった。
第三ドゥーマの最大政党はオクチャブリストの名で知られる改革志向の保守勢力であり、彼らは合法的政治行動の制限を
受け入れて、またドゥーマにおいて政府と協調することで政府に対する影響力を獲得することを目指していた
〔オクチャブリストは「一〇月一七日同盟」メンバーを意味する用語。十月詔書を受け入れたことからこの名が採られた〕。

40 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 03:56:51 ID:???

土地所有貴族に依拠しすぎることを望まなかったストルィピンは、
ゼムストヴォの選挙において農民の権利を強化しようとした。
彼の試みは挫折した。
それは貴族の利害に反していたのであり、ニコライ二世は現状を維持する要求に応じたのであった。
土地所有貴族は、農村での彼らの優位を近隣の企業家とさえ分かちあうことに反対した。
ともあれストルィピン自身の熱望は、それ自体に矛盾をはらんでいた。
というのは、農民人口の数の力が第三ドゥーマで正当に示されないよう彼が計画したからであった。
彼はまた、一九〇五年の農民騒擾の「首謀者」を処刑するよう命じた。
野戦軍法会議が、そのようなニ六九四人の男女を即決で死刑に処した。


41 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:02:59 ID:???

一九一一年に、暗殺者がストルィピンを殺害した。
しかし彼の政治的命運はすでに長らく光彩を失っていた。
ニコライ二世は彼の帝国で最大の土地所有者であり、
土地所有階級の希望に反した行動をとることに相変わらず気が進まなかった。
皇帝は立憲的改革に決して熱心ではなかったし、彼の王朝の権力を完全なままで保持しようとする意志が、
徐々に他の願望に付随して現れた。
一九〇九年に、オクチャブリストと正常な関係を維持するためには、
ドゥーマが帝国海軍予算のような問題を審議すべきであるとしたストルィピンの提案に、皇帝は立腹した。
ニコライと皇后は、気心の合った助言者たちを見つけ出した。
宮廷には神秘主義者や山師、そして「聖なる人」ラスプーチンが出入りした。
大臣の役職は一段と密接に賄賂や汚職と結びついた。
ヴィッテやストルィピンのような直言家の廷臣は、おべっか使いに取って代わられた。
宮廷で批判をおこなった人々もあったが、しかし彼らは病弊ではなく頽廃の徴候を非難したのであった。
彼らはより根本的な政治問題を理解しようとせずに、ラスプーチンをののしった。
一九〇六年の擬似立憲的解決策には、少しも重要ではないドゥーマの釣り合いをとるものとして、帝国国家評議会があった。
国家評議会は、国家や教会、ゼムストヴォ、実業界および土地貴族の高い地位の人々から集められており、
非常に保守的なその多数派は、ドゥーマからそしてストルィピンから出された変化を求める発議を一様にくつがえした。
これはニコライ二世の趣旨に沿うものだったのであり、
彼が国家評議会へ議員を任命したことは彼の硬直性を反映していた。


42 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:13:38 ID:???

ロシア・ナショナリズムは体制にとっての最後の頼みの綱となった。
帝国西部でユダヤ人の虐殺を助長し彼らの家や財産を略奪した黒百人組のような組織を制限するための措置は、
ほとんどなされなかった。
伝統的な大国主義もまた、不自然ではない形態をとった。
政府の宗教上の軍隊であった正教会は、他のキリスト諸教派やムスリムに対する不寛容を強めることに
主として独創力を発揮した。
一方、外務省は、バルカン諸国におけるスラヴ人の保護者としてのロシアの役割を主張した。


43 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:19:53 ID:???

しかし君主制の力は衰えつつあった。
一九〇五年以降に革命家がはなはだしく粉砕されたのは事実である。
たとえば、組織されたマルクス主義の支持者は、一九〇七年の一五万人から一九一〇年には一万人に減少した。
しかし帝国政府は、日常的な政治活動の取り締まりよりも短期的な弾圧の方で、大きな力を発揮した。
警察国家はまだ建設なかばにすぎなかった。
実際ロシア帝国は、イギリスに比べると全人口あたりで七分の一の警察官しか有していなかった。
たしかにこの比較は、それが治安維持のために配備されている守備隊や農村の「自警組織」を考慮していない点で、
誤解を招きかねないものである。
それでも国家権力にかんする限界が明らかにされた一九〇五年以降、
市民社会の統制はいっそうおぼつかないものになっていった。
政治活動のあらゆる動きを追うのは困難であった。
とくに一九〇六年に、検閲が出版者に出版前の原稿の提出を求めることをやめたのち、
思想の普及を取り締まるのはいっそう困難であった。
それ以前の検閲がとりわけ厳しいものというわけではなかった。
マルクスの『資本論』は、一八七二年に合法的に翻訳されて出版された。
そのうえロシア文学の大作家リストには、アレクサンドル・プーシキンからレフ・トルストイや
マクシム・ゴーリキーに至る、遠まわしの表現で政治批判を粉飾して著作の出版禁止を逃れた作家たちがいた。
第一次世界大戦前には、用語法の制限がよりいっそう小さくなった。
印刷刊行物は従来どおり、当局によって罰金を科されたり発行停止にされたりした。
しかし革命政党でさえも出版を何とか再開することができた。
普通それは、単に新聞の名称を変えただけで以前と同じように印刷を続けたのである。


44 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:23:25 ID:???

国の規模の大きさと緩慢な情報伝達は、それ以上の効果的な取り締まりを不可能にした。
スターリンが率いたソ連やヒトラーが率いたドイツのような極端に抑圧的な国家を促進した新しい技術すべてが、
まだ普及してはいなかった。
そのうえ政府は、そのような過度の組織化を目的とは考えていなかった。
一九〇六年から一九〇九年の処刑の多さは、標準というよりはむしろ例外であった。
追放が政治的反対者に対する通常の刑罰であった(あまりに貧しくて鉄道料金を工面することができない人々は
徒歩でシベリアまで旅しなければならず、途中で死ぬこともあったけれども)。


45 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:25:53 ID:???

そうではあったが、体制に対する民衆の支持を動員するための努力はごく小さいものであった。
それは逆の結果を招くことさえあった。
一八九六年におこなわれたニコライ二世の戴冠式はあまりにお粗末に計画されたため、
何百人もの見物人がホドゥインカ原で押しつぶされて死亡した
〔戴冠式の祝賀集会に集まった人々が押されて倒され、一〇〇〇人を超える死者が出る惨事となった〕。
一九一三年におこなわれたロマノフ朝三〇〇年祭の祝祭のような国家祭典は、その後はもっと手際よく準備された。
しかしサンクト・ペテルブルクの支配層は、国家と社会とのあいだの結合を確立するために
新たな儀礼を展開するという点で、ベルリンあるいはロンドンの支配層がもっていた構想力を欠いていた。
そのうえロシアの君主は互いに敵対しあう諸民族からなる帝国を統治しており、
ロシア人は彼の臣民のわずか四五%を構成したにすぎなかった。
ほとんどのポーランド人と多数のフィンランド人の賛同をえることは、
彼らに帝国から分離することを認めないとすれば、きわめて困難であった。
民族的にロシア人に近かったウクライナ人とベロルシア人は、それほど卸し難いわけではなかった。
またザカフカース地方では、アルメニア人は、独立によってトルコの侵略の脅威にさらされるであろうと理解していた。
しかし帝国当局は、非ロシア人のあいだでその声望を高める努力をほとんどしなかった。
ロシア人の支持を結集する好機もまた見逃された。
ニコライ二世は、彼以前の歴代皇帝と同様、国民形成についてよりもむしろ帝国の利益について考えていた。
たいていのロシア人は農民であり、その生活の視野は、村、農業そしてキリスト教の祭りに限られていた。
自分たち自身の小さい村の範囲を越えたことについては、農民はほとんど何も知らなかった。
当局はこの状況を都合のよいものと考えた。
もし農民がロシアと世界についてより深く理解することになったとしたら、
彼らは帝国の安定を揺るがす全国規模の勢力になったかもしれなかった。


46 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:32:11 ID:???

中流階級もまた、ロシア下層階級を社会の広範な世論へとまとめあげるために、わずかな努力しか払わなかった。
市民的誇りや、ある程度までは階級を超えた文化の出現を西欧で促した、
サッカークラブや合唱団体を設立することを、彼らは軽蔑した。
たぶん社会的反目があまりに頑迷なものだったのである。
文化的統合は、社会の好意的反響を誘発できる統一の象徴に訴えることで成功しうる。
ロシア人は富めるものも貧しいものも気前よく物乞いに施しをおこなったけれども、
それでもやはり、慈善的な性質のものでさえキャンペーンはほとんどおこなわれなかった。
一般に知られているように、ゼムストヴォはいくつか病院を経営したが、そのために生じた税負担に農民は憤慨した。
また都市では、労働者に読書クラブを提供するためのいくつかの「人民の家」は、
私人によって設立されていた。


47 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:34:19 ID:???

それゆえ働く人々は、国家からも中流階級からも隔たっていた。
彼らは自分たち自身の集団を組織した。
一九世紀なかばから、彼らは日曜学校をつくっていた。
それは成人教育を始めたり普及させたりするために用いられ、
またそこに革命活動家がボランティアの教師として集まった。
もう一つの活動拠点は、疾病保険基金であった(法律によってそこに雇用者代表が入ることになっていたけれども)。
居酒屋は人々が好んで集う場所であった。
無神論とアルコール中毒が、当局の大きな懸念を引き起こした。
しかしウオッカを飲んで泥酔した労働者が体制の脅威なのではなかった。
他の形態の社交がよりいっそう不安を生じさせていた。
政府はとくに、ゼムリャーチェストヴォの名で知られた、共通の地域的出自で結びついた労働者の集団にやきもきした。
そこでは人は、警察の目を恐れることなくくつろいで話をすることができたのである。
そのうえ一九〇五年の十月詔書は、労働組合といういっそう大きな組織の増加をもたらした。
一般に知られるように、およそ六〇〇の組合が一九一一年までに閉鎖された。
しかし多少の組合はいつも生き延びて、その指導部は、
任務を処理するよう何百という労働者階級の職員を訓練した。
協同組合運動もまた盛んになった。
一九一四年までには、何千という農業協同組合ができた。
これもまた官僚のいやがらせを受けたが、このことは、
主として農民であったその構成員が体制の現状から離反していくことを促しただけであった。
「専制のロシア」はもはや完全に専制的には作動しなかったのである。


48 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:40:21 ID:???

一九〇五年以前でさえ政府は、農業改革を体制が生き残るための最後の希望と考えていた。
この年に現れた農村の不穏によって、当局と地主層は、農民共同体がおよそ現存の秩序にとって
支柱の機能を果たすどころかその基礎を掘り崩しているという見解を確信した。
共同体的農業は三圃制と深くかかわっていた。
さらにそれぞれの圃場は、各農戸の有するいくつかの地条に分割されていた。
またヨーロッパ・ロシアでは、農戸によって土地の定期的な再配分がおこなわれた。
ロシアの農民の農業は、それが前進したにもかかわらず、西欧列強の標準に遅れをとったままであった。
一九〇六年に首相となったときにストルィピンが望んだことは、農民のために共同体を解体し、
農戸の地条を一区画の保有地にまとめて、農戸の現在の家長に土地所有証書を与えることであった。
独立した豊かな小所有者が彼の目標であった。


49 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:42:01 ID:???

実際には、帝国のヨーロッパ地域で一九一六年までに土地整理をおこなったのは、およそ一割の農戸だけであった。
政府は、共同体からの脱退条件を徐々に容易なものにした。
それでも一九〇九年以降は、個々人の脱退志願の減少に歯止めがかかることはなかった。
改革を熱心に歓迎する動きは、ロシア帝国の肥沃な南部地域で起こった。
しかし、ドニェプル川西岸のウクライナ三県で設立された土地整理済みの農場の平均規模は、
それでも大規模というにはほど遠く、一五エーカー〔約六ヘクタール〕であった。
ともあれたいていの農民は、不安定な個別農業経営よりも、ある程度の集団的福利を共同体が保証していることを、
それがいかに不十分であっても、選んだのであった。
実際に農業省は、第一次世界大戦前に反共同体方針の推進を弱めた。
はっきりしたことは、すぐに利益をあげねばならないという圧力が強かったために、
「土地整理者」がしばしば土地を消耗させる農法のもっともはなはだしい唱道者になったことであった。
それに比べて多くの共同体は、多圃制の導入についての助言を積極的にとり入れた。
しかし共同体を通じた活動には、農業発展のためのずっと長期にわたる計画である移住もあった。
一方、気候は従来同様に、およそ七年ごとに収穫に破滅的な影響を及ぼしていた。
やせた土質であった北部ロシアでは、生きていくためには
穀物とジャガイモを他所から運び込まなければならなかった。
また、一九世紀には伝統的に余剰を北部に搬出していた中部ロシアは、
第一次世界大戦前には、人口が増加する早さに応じて生産を増加させることができなかった。


50 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:49:47 ID:???

当時のロシア農業は、苦労して獲得した成功と時おり起こる荒廃とのあいだで不安定な釣り合いをとっていた。
一九〇九年から一九一三年まで続いた豊作は、問題を見えないものにした。
ロシア工業もまた窮地に立っていた。
一九〇五年の景気の底とそれに続く不景気ののちに、
フランスからの莫大な借款によって活発に促進された持続的な景気回復が起こった。
そして拡大は第一次世界大戦に至るまで続いた。
工業では国家とかかわりのない民間経済が国家の支援に依存した過去の状態からついに離れたが、
しかしここでも見かけで発展を判断するのは誤っている。


51 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:53:38 ID:???

政府の事業は帝国の工業生産において重要であり続けた。
バルト海艦隊が全滅した一九〇四年から一九〇五年の日露戦争での敗北ののち、
冶金業は国防のための莫大な発注による後押しを受けた。
「再軍備」はロシアに特有のものではなかった。
しかしドイツ、イギリスそしてフランスは、より進んだ工業化の段階にあった。
民需目的への投資の比重の低下は、ロシアにはより具合の悪い効果をおよぼしており、
輸送網は目下存在しているよりもはるかに緊密に結ばれる必要があった。
そのうえサンクト・ペテルブルクの政府は、少数の巨大企業との馴れ合いの関係をつくりあげた。
予定通りに固定価格で製品を引き渡すことが、自由放任競争よりも
国家の利害にはよりふさわしいと考えられたのである。
度を超した利益をめぐるスキャンダルが繰り返し起こった。
さらに不運なことに、この同じ冶金企業は、農機具に対する要求を満たすことができなかった。
機具や機械の輸入が、とくにアメリカ合衆国からのものが増加した。
一方、政府との契約に恵まれなかったロシアの企業は、業務の遂行に支障をきたした。
ロシア帝国の工業生産は一九一四年以前に増加していたけれども、アメリカ合衆国とドイツでは
よりいっそう高い比率で拡大が進んでいたため、生産能力の溝は拡大していたのである。


52 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 04:55:39 ID:???

しかし、経済的達成は控えめに考えるべきではない。
ロシアの農業と工業の活力はなかなかのものであり、農業を別として工場での経済的困難に限定していえば、
それは資本主義的発展に直接の脅威を与えるものではなかった。
しかしたいていの労働者と農民は貧しいままであった。
貧困が続いたことは、帝国の政治の上にぶらさがったダモレスクの剣であった。


53 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:03:47 ID:???

工場労働者が再び攻勢をとるようになるにつれ、最後の非常事態がいっそう近づいてきた。
一九一二年にはニ〇三二年のストライキが発生した。
ストライキ噴出のタイミングは、雇用機会を増加し雇用者に立ち向かうことへの恐れを弱めた好景気に影響を受けた。
また、長く続いている勤労民衆の不満は、労働生産性を引き上げるために
一九〇五年以降に工場に導入された変化によって、より激しいものになった。
「科学的管理」の強調は、単に管理者側の攻勢というだけではなかった(それは事態の一面ではあったけれども)。
賃金は西ヨーロッパの標準に比べて低かった。
しかし、住宅や技能養成の提供という点で考量した労働総経費は、ずっと高かった。
事業を合理化するという企業家への圧力は深刻なものであった。
政府がブルジョワ側に加担しているのではないかというなかなか消えない疑念は、
一九一二年四月にレナ金鉱で起こったストライキ中の労働者に対する発砲事件によって、
そうであったことがはっきり示された。
クライマックスへの進展が続いた。
一九一四年の前半だけで三〇〇〇件以上のストライキがあり、そのうちの三分の二が政治的要求を掲げていた。
多くのストライキ参加者は、民主共和国、八時間労働日および地主所有地の接収を要求した。
これらのスローガンは、ウラジーミル・レーニンやレフ・トロツキーの支持者のような
非妥協的なマルクス主義者に支持された。
革命集団に対するオフラナの潜入は成功し続けていた。
また、ほとんどの労働者はマルクス主義の教義に通じていなかった。
にもかかわらず、社会不安が高まるにつれ、
一九一四年夏にはサンクト・ペテルブルクで君主制に反対する巨大なデモンストレーションが発生した。
それは鎮圧され、革命的情勢は先手を取られて封じられたが、
しかし政治体制の脆さはいま一度明らかにされた。


54 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:06:57 ID:???

宮廷と政府は無能力なうえ、いっそう大きな中流階級層への嫌悪をあらわにしていたように思われた。
ニコライ二世は、独裁制に常にみられる逆行に屈したのである。
一九一三年にアレクサンドル・グチコーフと他のオクチャブリストがカデットに
反政府協定の提案をおこなったとき、ニコライ二世の支持基盤は深刻なほどに狭まった。
こうして穏健な保守主義は、皇帝の支持の獲得を断念することを公にしたのである。
他方、ロシア人民同盟のようにドゥーマの外にいて君主制の友を自称する勢力は、
体制の力では明らかに実現できないような、抑圧と反立憲主義に基づく包括的政治綱領を主張した。


55 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:18:47 ID:???

国外での出来事は、政治的混乱の上にのしかかった。
一九一四年六月ニ八日に、オーストリア大公フランツ・フェルディナンドがサラエヴォで暗殺され、
ハプスブルク政府はセルビアを非難した。
ロシアはセルビア人を支持することを公表した。
ドイツ政府の支援を受けたオーストリア=ハンガリーは、セルビアを攻撃した。
ロシア皇帝は、軍隊の予備動員を命じた。
ドイツはロシアに対抗して動員を開始した。
フランスはロシアとの軍事的連帯を約束し、気が進まないようなイギリスの内閣はフランスの動きを支持した。
八月初旬までに、大戦争がヨーロッパを包み込んだ。
それぞれの政府の動機は複雑で議論のあるところであった。
ロシアでは、戦いをおこなう決定的で直接の決断はニコライ二世によっておこなわれた。
彼は、彼の国の威信と大国としての地位への自負を保持することを切望した。
自分が受けた教育と自身のものの見方のために、彼はこのように反応することになった。
国際関係の推移もまた影響力を及ぼしていた。
世紀転換期には、サンクト・ペテルブルクとベルリンは、それほど困難なしに双方の対抗関係を収拾した。
しかしロシアは、パリで調達された借款がきわめて重要であるとわかった一九〇五年以降、
同盟国フランスにいっそう接近していった。


56 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:26:53 ID:???

世界規模での地位を求めるドイツの不満は、ちょうど同じ時期に大きくなった。
一九〇五年から一九〇六年にかけてのモロッコをめぐる独仏間の紛争は、ベルリンの外交的敗北に終わった。
しかしそののちドイツは、セルビアの抗議にもかかわらず、
一九〇八年のオーストリア=ハンガリーによるボスニア併合を支持して成功した。
ロシアはセルビアを支持して声明を出したが、ドイツと戦争になる危険があったためニコライ二世は譲歩した。
一九一四年には、彼はそうした屈辱をもう一度受けるつもりはなかった。
そのうえ、たとえ彼が自発的に宣戦を布告しなかったとしても、
おそらく彼はそうするように動かされたことであろう。
ドゥーマの保守派の政治家と自由主義政治家は、帝国の「名誉」と物質的利害の問題に同じように敏感であった。
問題は地政学だけでなく経済にもかかわるものであった。
ロシア市場へのドイツ工業の浸透は深いものであった。
ロシアの工業、銀行および商業の大立者の多くは、敗北したドイツに対して
自らの権利を主張することを期待し、またロシアがダーダネルス海峡を保有することを強く望んだ。
また幾人かの大臣は、短期間で勝利のうちに終わる戦争が国内の革命の恐れに終止符を打つだろう、と主張した。


57 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:28:27 ID:???

皇帝の行為は幅広い称賛をえた。
労働者と所有者、農民と地主、官吏、法律家や貴族、といった
帝国社会のすべての階層が、愛国主義的熱狂を共有した。
反政府ストライキの計画は放棄された。
当局の楽観主義は上り調子であったが、たしかにロシア帝国軍は、
かつて考えられていたほどにはひどく準備不足というわけではなかった。
実際にドイツの最高司令部は、もし機先を制した戦争がおこなわれなければ
ロシアの力は打ち勝ちがたいものになるであろう、と恐れていた。
しかし東プロシアでの最初の軍事行動は、ロシアの大敗北に終わった。
一九一四年八月のタンネンベルクの戦いで、ドイツ軍はロシア軍を包囲し、何万人という兵士を捕虜にした。
戦争が長期にわたるものであることもまた明らかになった。
そして全面的で長期にわたる戦争の緊張は、ロシア帝国の経済と社会に
よりいっそう困難な影響を与えないではおかなかった。
政治的爆発の瞬間がさらに近づいたのである。


58 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:30:01 ID:???

ボリシェヴィキが一九一七年一〇月にロシアの首都で権力を掌握できた出来事は、
どのようにして起こったのだろうか。
ソ連における公式的回答によれば、ボリシェヴィキの成功は、
党の政策と労働者、農民、旧ロシア帝国の兵士の願望とがぴったりと一致した結果であった。
ソヴィエトの代表的な主張では、社会主義革命は不可避のものであり、
戦時ロシアの軍事的、経済的および政治的混乱は資本主義の滅亡にとっての単なる背景にすぎなかった。
それにもかかわらず、ロシアの社会主義者はおそらく、
適切な教義と政策、緊密な組織的調整とすばらしい指導を有する必要があった。
これらの前提条件は、ロマノフ朝の瓦解ののちにレーニンが亡命から戻ったことで、しかるべき場所に収まった。
レーニンの決定的な貢献は、ボリシェヴィキ党を指導し、革命的理念を下層社会に伝達した点にあった。
彼の崇拝者たちによれば、同時代のライバル政治家がいずれも人を欺こうと努力したのに対して、
レーニンは率直に発言する政治家であった。
民衆の世論はボリシェヴィキに有利に働いた。
党が権力の座に進むのを後押しした大衆組織はすでに存在しており、
また一九一七年秋にボリシェヴィキは主要な都市ソヴィエトで議席の多数を獲得した。
ソ連においては、「レーニン、党、大衆」という歴史的な三位一体をほんのわずかでも軽視することは
異端とみなされ、実質的な議論はあまり重要でない問題についてのみ可能であった。


59 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:33:43 ID:???

世界の共産主義政党の外部では、この都合のいい説明はいつも拒絶されている。
しかし一つの事柄については意見の一致がある。
それはレーニンの役割についてである。
実際、当時もその後も西側の誰もが、レーニンがいなければ十月革命はなかったであろうと認めた。
彼を誰かに置き換えることができないということは、自明のこととみなされた。


60 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:37:36 ID:???

ソ連で承認された他のすべての解釈は否認された。
いくつかの著作は、レーニンとボリシェヴィキ党はいつも労働者階級に信頼をおいておらず、
一九一七年に彼らは政治権力を求めて民衆の世論を故意に惑わせた、とほのめかした。
レーニンがそうしたかもしれない理由は議論のあるところである。
レーニンを非難する人々は、彼を剥き出しの権力にのみ関心をもつ誇大妄想狂と考える。
他の人々は、レーニンは発言するときに自分の言うことを完全に信じていた、と主張した。
この不一致のほかに、西側と東側とには、
革命ロシアを求める闘いは一つの政治エリート集団とその他の集団とのあいだにあった、
すなわちそれはボリシェヴィキ党とその他の社会主義者、自由主義者、保守主義者との対抗であった、
という見解の一致があった。
労働者、兵士そして農民は、他に関係なしに行動したわけではなかった。
ソヴィエト、労働組合および他の組織は政治エリートに支配されており、
ボリシェヴィキとその反対者とのあいだの唯一の相違は、
双方によって示された教義上の熱狂、戦術上の巧妙さと組織内部での服従の水準における相違であった。
そして意志の力と直観力との点では、誰もレーニンにはかなわなかった。
大衆の気分を不断に啓発することで、ボリシェヴィキ党は、
二月革命時の目立たない存在から十月革命を率いることができる位置へと浮上した。


61 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:40:44 ID:???

レーニンが党を支配し、党が大衆を支配した、という説明は明らかに、まったく単純なものだった。
もちろん、ソ連を批判する人々がボリシェヴィキには悪意と無知な教条主義しかなかったと主張したのに対して、
ソ連のスポークスマンはボリシェヴィキの博愛主義と全知の力とを主張した。
しかし、他の点ではみごとな意見の一致があった。


62 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:48:35 ID:???

過去二〇年間に幾人かの著述家は、十月革命前の時期を考察する上でいくぶん異なった方法を提起してきた。
革命的変容は政治エリートに独占されただけではなく、自らの利益のために、
また自らの組織を通じて行動する大衆をも巻き込んだ、というのが彼らの基本的な主張である。
ソヴィエトや他の組織は、帝政崩壊後の臨時政府の政策と統治権とを否認するようになった。
また民衆が長年にわたって中流階級を軽蔑したことは、
下層社会が当局を気にすることなく地域共同体を運営するよう促した。
大衆は正気を失ったわけではなかった。
戦争、経済的混乱および行政的崩壊は、人々の日々の必要が満たされないことを意味した。
人々にとって唯一の選択は、自分たち自身の問題を統括することであった。
そして状況が悪化したため、労働者、兵士、水兵や農民は、直接の政治行動に訴えた。
ボリシェヴィキ党は、彼らの願望にほとんど合致したスローガンをもっていた。
それゆえレーニン主義者の権力奪取は容易な課題だった。
大衆はボリシェヴィキの仕事の大部分をすでに終えていたのである。


63 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:50:34 ID:???

この学派の見解は、「下からの歴史」「社会史」「修正主義史学」などさまざまに評されており、
「政治史」を強調するもっと伝統的な説明にしばしば対置されている。
これは誤った対比である。
一九一七年という年は、この二つのタイプの分析を組み合わせることで最も良く理解される。
つまり、ロシア政治の頂点での出来事が下層社会で起こったことに形を与えた一方で、
この同じ社会が、政治家や政党とは無関係に、活動の理念と形態とを作り出したのである。
それは動態的な相互作用の過程であった。


64 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:54:30 ID:???

それゆえ政治は重要であった。
レーニンは自分の好機をつかみ、ケレンスキーはそれを逸した。
ボリシェヴィキのイデオロギーは「大衆」の人気を獲得し、
ボリシェヴィキ党は権力と革命とを求めて熱狂的な運動をおこなった。
しかし、ボリシェヴィキの政策と大衆の熱望とのあいだの一致は決して厳密ではなく
それが常に不運だったことも、また理解されねばならない。
レーニンは、民衆の支持を失いかねない自分の意図については沈黙を守ることで、民衆の見解を操作した。
これさえも現実を単純化しすぎている。
レーニンは、実際に成し遂げたよりももっと容易に社会主義権力を確立することを心から望んでいた。
もし彼が大衆をだましたとすれば(彼はそうしたのだが)、彼は自分をも欺いたのである。
そのうえ、この乖離を理解するためには、一九一七年二月と一〇月とのあいだの
政治的および社会的変容が一貫した過程ではなかった点に注意することが重要である。
それは混沌として多面的なものであった。
旧ロシア帝国中で一つの革命があったのではなく、地方で、県で、都市で、郡で、
都市近郊や農村で多数の革命があったのである。
それぞれの革命の利害が主張され、そしてついには、それらのあいだで問題が解決されることになった。
ロシアが戦争によって引き裂かれて、市民が思い切った方策にとりかかりつつあったとき、
平穏な結末はとてもありそうにはなかった。


65 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 05:59:02 ID:???

一九一七年に起こった多くのことは、ボリシェヴィキ指導者の機敏さと大胆さ、そして彼らを支えたとともに
彼らが勤労民衆のあいだで助長したユートピア主義とによって、引き起こされたものであった。
しかしこれらの点だけでは革命的爆発を説明しきれない。
経済的・軍事的状況が、分析の重要な出発点となる。
戦闘が一九一五年に続くにつれて、ロシア軍は塹壕戦に十分に順応した。
しかし、東部戦線に兵員、軍需物資や食糧を優先的に輸送することになったときに、
鉄道は負担過重になり、また十分な補修がおこなわれなくなった。
平時において全貨物輸送をかろうじてこなしていた鉄道網は、戦争が始まって丸一年で、
穀物が不足する中部および北部ロシアの諸県へ南部から十分な穀物を輸送することが困難になった。
都市での配給制が真剣に考慮された。
一九一四年と一九一五年の豊作に続いて、一九一六年には、
第一次世界大戦前の五年間の年平均生産量に比べて穀物生産が一〇%減少した。
ロシア帝国には、ドイツの海上封鎖のおかげで余剰穀物があった。
しかし農民は市場で売る量を減らした。
ある農民たちは、戦時の混乱のために零落した。
またある農民たちは、より高い価格がつくよう穀物を手元においておくか、
そうでなければより多くの穀物を家畜にえさとして与えたり禁制の市販用ウオッカ作りに用いたりした。


66 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:33:21 ID:???

鉄道を修繕するための時間も資金もなかった。
また、塹壕にいる軍と兵器工場に精一杯の資源を与えていた政府は、
農民に穀物を売る気にさせるのに必要な高い買付価格を設定することができなかった。
冶金および鉱山企業は軍の作戦行動の能力にとってきわめて重要な存在であり、
帝国政府から有利な扱いを受けていた。
即効的な解決策は存在しなかった。
連合国から緊急借款を調達したのちに政府は、大量の紙幣を印刷することで対処した。
農民は、収穫物を市場に出す誘因をほとんど感じなかった。
農業大臣のA・A・リッチフは一九一六年一一月、固定価格で穀物を国家徴発する措置を導入する
といって威嚇したが、農民の反感を買うことを恐れてこの措置は強行されなかった。


67 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:37:52 ID:???

工業の状態は問題を大きくした。
農機具の生産は、戦前水準の一五%まで落ち込んだ。
農民は購入する気持ちがあっても、買うことのできるものはほとんどなかった。
一九一六年までに、機械製造業のほぼ五分の四は、帝国軍の必要に充当されていた。
概して工業は、この点で国家需要を満たしていた。
多数の工場が軍需工場に転換された。
しかしその結果、民需市場向け生産が損害をこうむることは避けがたかった。
砲弾、ライフルや軍需品の政府買付契約には、保証された利益という魅力があった。
しかしすべての企業がそうした契約を獲得したわけではなかった。
戦争関連の活動にかかわっていない工場はどれも、原材料を入手することが困難であった。
ウクライナを基盤としていた支配的な鉱山カルテルのプロダメト〔ロシア製鉄工場製品販売会社〕が
中・小規模工場に十分な鉄を販売しなかったために、それらは大混乱に陥った。
鉄道の損耗状態は事態を悪化させた。
早くも一九一五年には、燃料と金属とが不足し始めた。
一九一六年までには危機についての風説が起こり、
戦争関連の製造部門が混乱に陥るであろうことはもはや予見できた。


68 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:39:31 ID:???

このことは、なによりも帝国政府が無能力だった、という理由で起こったわけではなかった。
二年間の戦争が、敵であるドイツの経済ほどにはいまだ近代化していなかったロシア経済の弱点を、
さらに悪化させることになったのである。
自由主義者であれ社会主義者であれ他のどの政治グループが戦争遂行に責任を負っていたとしても、
経済の崩壊が起こったであろう。
国家が数百万の兵員を十分に装備させ満足に食べさせなければならないうちは、
生産と取引とは激しく混乱したであろう。
ロシアが戦争を続けているかぎり、転換はありそうもなかった。


69 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:43:04 ID:???

しかしこうした状況は、帝国の君主制にとって悪い前兆となった。
ロシアの参戦は、しばらくのあいだ政治的小康状態をもたらした。
多くの革命活動家さえも、中欧列強を打倒するという一般的な希望を共有した。
しかし経済的崩壊はとどまるところを知らず、労働者と守備隊兵士は飢えつつあった。
労働者の規模の拡大は困難を追加した。
一九一六年末までにそうした労働者はほぼ三五〇万人であったが、勤労男性の四分の一が徴兵によって
軍隊に行ったことは、工業雇用への労働力流入が見かけよりもはるかに著しいものであったことを意味した。
住宅供給への圧力は容赦ないものであった。
ドイツ風の響きを弱めるためにペトログラードと改称されたサンクト・ペテルブルクの
惨めな住宅事情は悪名高いものであった。
一般に認められているように、金属加工工場では実質賃金がいくぶん上昇した。
しかし他の工場では実質賃金は低下した。
一方で雇用者は、日常の仕事を一層強化し、安全基準を維持することを怠った。
そのうえ、高給とりの熟練金属労働者は、どれだけたくさん稼いでも、
商店の棚に届いただけの品物を買うことしかできなかった。
食料品の小売取引高はひどく減少した。
パンを求める行列が長くなった。
そして労働者は、体制の打倒を求める立場に復帰した。
一九一五年末と一九一六年末にはストライキの波がロシアの公式筋を攻撃した。


70 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:44:57 ID:???

イギリス政府とドイツ政府もまた、労働者の不穏な動きに襲われていたが、
その強さの程度は同じではなかった
また両政府は、中流階級の不平不満の嵐を切り抜けていく必要はなかった。
ハプスブルク君主制というひどく傾きかけた廃船でさえも、
まだロシアほどには叩きのめされていなかった。
ロシアでは、医師、法律家、教師および他の「自由専門職」層の人々が、
戦前よりも一段と国家官僚機構にうんざりしていた。
新聞は、東部戦線にある不潔で設備の悪い病院について報じた。
人々はラスプーチンとアレクサンドラ皇后との親交を不愉快に感じた。
工業の雇用者は結束力をもつ集団ではなかった。
ペトログラードの工場を事業の基盤としていた、収益の多い戦時契約を結んでいる雇用者は、かなり満足していた。
しかし他のところでは不満が強かった。
モスクワでは、多くの工場が小規模であったか、あるいは民間消費者向けの生産であったため、
戦時財政の利益の分け前をえることができず、彼らのあいだでは君主制への反対が定着していった。
やせた猫は、太った猫になりたかったのである。
ニコライ二世は、地主貴族からさえも大きな支持をあてにすることができなかった。
彼らの息子たちは、東部戦線の軍将校となって、矢継ぎ早に戦死していた。
そしてその交替に塹壕に入った要員は、君主制への忠誠心がより低い、
貴族身分以外の人々になる傾向があった。
一方、経済事情が悪化するにつれて、農村の地主の士気が急速に低下した。
強壮な成年男子を一四〇〇万人も徴兵したことで、平均的農民世帯が養わなければならない口数が減少し、
このことによって、農民が地主所有地で働いたり地主に高額の地代を支払ったりすべき金銭的な圧力が軽減された。
一九一六年までには、連合貴族団評議会〔地主貴族の利益代表組織〕の指導者さえも、
体制の改変があるいは望ましいかもしれないと論じていた。

71 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:50:14 ID:???

しかし皇帝と歴代首相たちがドゥーマをこれほど軽んじて扱ったことはなかった。
ドゥーマを休会にしたりそうすると脅したりすることは、政府の戦時中の気晴らしであった。
戦時融資の裁決を妨害した第四ドゥーマのマルクス主義者の代議員たちは逮捕された。
警察は地下の革命政党に深く侵入していたが、政治的な反対勢力は生き残った。
ドゥーマ内の自由主義者と保守グループとのあいだの交渉は、一九一五年にはついに、
カデット、オクチャブリスト、進歩党からなる「進歩ブロック」を形成する合意をもたらした。
これは、不満をもった専門職層や地主および企業家の意見を共同で表明することを容易にした。
ドゥーマで屈辱を受けたこれらの政治家は〔皇帝は九月にドゥーマの休会を命じた〕、
ゼムストヴォや自発的に組織されたさまざまな公共団体での活動を強めた。
その目的は、政府の戦争遂行業務にあった欠陥に対処することであった。
野戦病院が設立された。
戦時工業委員会もまた大きな影響力をもった。
これは工場レヴェルや全国規模で設立された民間の機関であり、
生産と供給の調整を改善すべく政府の許可を何とか獲得した。
戦時工業委員会の存在は、当局の権威の崩壊と考えられた。


72 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:56:17 ID:???

しかしニコライ二世に対するクーデターについての進歩ブロックの見解は、議論する段階に
達していなかった(一九一六年一二月にオクチャブリストの指導者アレクサンドル・グチコーフが
クーデターの意思調査をおこなったのを例外として)。
自由主義者と保守主義者は依然として、革命が「大衆」の憤激を爆発させるのではないかと心配していた。
それゆえ労働者組織は、君主制のいっそう危険な反対者であった。
少なからぬ企業家は、戦時工業委員会に代表を送ることを
工場労働者に認め続けるのは賢明ではない、と考えた。
また合法的な疾病保険寄金は疑いなく、政治的不穏を助長するために革命家によって用いられていた。
ともあれ政府は、一九一六年末にストライキを精力的に抑圧した。
政府はまた、帝国軍に徴用されることに反抗的なムスリムが中央アジアで起こした反乱を鎮圧した。
政府の活力は打破することができないように見えた。
しかし実体は見かけどおりではなかった。
労働者はなだめ難いほど体制に敵対的なままであり、
一九一七年二月にはプチーロフ兵器工場で紛争が発生した。
それから女性繊維労働者がストライキをおこない、そしてデモが首都の往来に満ち満ちた。
ペトログラード守備隊が反乱を起こした。
皇帝は前線司令部に武装部隊の援軍を求めたが、すでに遅かった。
ともあれその時までには、君主への幻滅はモギリョフ大本営にさえ広まっていた。
皇帝への忠誠は消え失せていた。


73 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 06:58:07 ID:???

二月の出来事は複合的なものであった。
労働者が暴動を起こし、兵士はそれを鎮圧することを拒否した。
しかしストライキ、デモそして兵士反乱は、もし強制機関がニコライ二世への信頼を保っていたならば、
まだ鎮圧されえたであろう。
ロマノフ権力の弔いの鐘が鳴らされたという民衆の確信はなかった。
重要であったのは結局、街頭にいた中級の命令執行者が、
現状を維持するために暴力を用いる意思を失ったことであった。
とかくするうちに革命政党の活動家は、一九一六年一二月にオフラナ〔政治警察〕が
彼らの小集団を粉砕して以来感じていた懸念を振り捨てた。
そして舞台裏ではドゥーマのエリートと大企業が大いに喜んでいた。
連合国はこの出来事をおとなしく承認した。
しかし行動したのは労働者と兵士であり、政治家、将軍、実業家や大使たちではなかった。
そして革命は行動を、大胆な行動を求めるものである。
ペトログラード中心部でのストライキ、デモそして兵士反乱という形で、行動が起こった。


74 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:01:01 ID:???

三月二日、当惑したニコライ二世は退位することに同意した。
臨時政府の組織にとりかかっていたドゥーマの政治家グループによって、最後の圧力が加えられた。
内閣で優位を占めたのは進歩ブロックの支持者で、カデットが多数派であった。
閣僚たちは、言論、集会および結社の市民的自由を公布することを速やかに提議し、
成人普通選挙による憲法制定会議の選挙を実施することを約束した。
彼らはロシアが戦争を継続することを目指した。
しかし最初のうち彼らは、全面的な勝利と領土獲得を求めて戦うという目的を隠した。
彼らはまた、農業改革を法令で定めることを拒否した。
彼らは、憲法制定会議で決議するまで土地問題の解決を延期することを望んだ。
処置を決めがたい問題への懸念がここに明白に現れている。
しかしカデットはまた、もし農民への土地の割譲が布告されれば農業生産活動の混乱と軍の解体が起こるであろう、
と現実的に論じていた(なぜなら農民兵が地主の土地からの配分を獲得するために故郷の村へと脱走するであろうから)。
そのうえカデットは、雇用者との交渉で労働者組織に自制させるよう努力した。
臨時政府は、もし工業の紛争が長引くなら軍事的安全保障が脅かされるであろう、と強調した。
こうした判断は、社会的な急進主義を回避することを意味した。
一九〇五年にはカデットは、金銭的補償をともなってではあったが、
貴族の所有地を強制的にとり上げる計画を立案した。
数年のうちに彼らは、この種の計画を強調することにあまり熱心ではなくなっていた。
もし政府の権力を獲得することを望むならば、ロシアの有産階級エリートと
運命をともにしなければならない、と彼らは考えた。
一九一七年二月の出来事は、労働者と農民に対する彼らの恐怖をつのらせることになった。
控えめにいっても、彼らの政府の命令を憲法制定会議選挙という試験にかけるよう準備する熱意が欠けていた。


75 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:03:56 ID:???

したがって、都市と農村の中流階級の利益を守る包括的政党というカデットの特徴は、偶然のものではなかった。
旧体制との密接な関係から利益をえていた企業家でさえも、臨時政府を歓迎した。
地主の反動的な強硬派のあいだには、カデット主導の政府に積極的に反対したものはほとんどいなかった。


76 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:16:21 ID:???

しかし災いの前兆はすでに存在していた。
組閣にあたってカデットとその仲間は、二月革命のさなかに大急ぎで設立された大衆組織である
ペトログラード・ソヴィエトと協調関係を維持しなければならなかった。
ゲオルギー・リヴォフが首相となった。
彼の首相就任は、皇帝に退位を促した自由主義的圧力のおかげだっただけでなく、
ソヴィエトの黙認によるものでもあった。
「二重権力」が革命後の秩序の確立に組み込まれた。
首都における政府とソヴィエトとの不安定な協働は、国中でそれに類似したものを生み出したが、
それは労働者と兵士が(そして結局は農民も)ソヴィエトや他の地域的大衆組織を設立したためであった。
どちらかといえばむしろ、政府機関の弱さは地方において際立っていた。
内閣は旧県知事を解任して自らのコミッサールを任命したが〔県知事解任後に地方行政は、「臨時政府県委員」
(コミッサール)と改称された県ゼムストヴォ参事会議長に引き継がれた〕、彼らは君主制の打倒後に現れた、
たいていは自由主義者に率いられたさまざまな「公安委員会」とともに働かなければならなかった。
そうした組織は長くはもたなかった。
内閣は、自治体の議会とゼムストヴォの権限を拡大した。
しかしそれらは初めて選挙権の制限がなくなった選挙で選出されなければならず、
そこでは投票者たちはたちまちカデットに反対を示すことになった。
臨時政府にとっては、ロシアでの問題は大きかったが、非ロシア地域では問題はさらに深刻であった。
現地の代議制機関に限定的な自治以上のものを認めるのを政権が渋ったことは、
ウクライナとフィンランドで激しい反対を引き起こした。
そのうえ国家権力は国中でとるに足りないものであった。
ロシア正教会でさえもカデットに友好的ではなかった。
数百年におよぶ政府の監督から解放された聖職者は、その自由を用いて身内の争いを展開した。
一方、二月の大変動の中で警察が解体され、守備隊兵士はリヴォフ内閣によって用心深く扱われた。


77 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:19:00 ID:???

しかし政府と民衆の意見とのあいだの溝は、これまでのところは深刻な亀裂というよりもひび割れという程度であった。
街頭でのデモや闘争をおこなった労働者は残虐なニコライを打倒したが、
「ブルジョワ」内閣が権力を継承したときに脇へ退いた。
一部のボリシェヴィキは、一九〇五年以来意図していた、少なくとも一時的な社会主義政府を設立しようと望んだ。
彼らの不満は増大し、同じように考えた民衆の心をひきつけた。
しかし労働者はそうした見方で考えてはいなかった。
今はまだ。


78 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:22:43 ID:???

労働者はまだ、国全体の中で自分たちの数の力が弱いと考えており、
さまざまな社会階級のあいだでの政治的団結が必要だと信じていた。
内戦は彼らが最も望んでいないものであった。
労働者階級の望みはまだ形をなしつつある段階であった。
しかしおそらくは、第一次世界大戦前と同様に、民主共和国、八時間労働日そしてより高額の賃金を彼らは望んでいた。
戦争で領土を拡大するという目標を彼らは退けた。
彼らの考えでは、軍隊の仕事はただ国境を守備することであった。
労働者は二月革命の最初の日々にすでに、自分たちの決意を示しつつあった。
仕事場での敬意を払った扱いが要求された。
不愉快な管理者や職長は、赤ペンキを塗りつけられたり袋詰にされたりして、
手押し車に乗せられて工場の周りを引き回された(ひどい場合には近くの川に放り込まれた)。
こうした行動は、勤労民衆がこれ以上の屈辱に我慢しないことを示すために計画されたものだった。
攻勢の矛先はまた、賃金の上昇のためにも向けられた。
雇用者はすぐには折れなかった。
用心深く譲歩するよりも攻撃を好む所有者の伝統的な態度は、弱まってはいなかった。
しかし労働者はしっかりともちこたえ、春には合意に達して実質賃金が増加し、
紛争の処理のためにより穏やかな方法がとられることになった。


79 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:24:31 ID:???

官吏と専門職に就いている人々は、それほど大きな問題を起こさなかった。
彼らのあいだではカデットへの支持が強かった。
また臨時政府は、旧県知事と内務省の役人とを解任したのちは、国家官僚をそのままにしておいた。
専門家は、自らの専門知識がより高く評価されたことで活気づいた。
しかし他の機関はもっと敵対的であった。
たいていの陸海軍将校は新内閣を受け入れたが、部隊のほうはそれほど容易には満足しなかった。
二月には規律に厳しい軍人の殺害が発生した。
ペトログラード守備隊はソヴィエトに「命令第一号」を布告させ、
それによって彼らはもはや非番の将校に敬礼しなくなり、あるいはまた屈辱的な言葉をかけられることはなくなった。
臨時政府は譲歩し、この改革は軍全体に拡大された。
守備隊の部隊は前線部隊よりも政治的に積極的であったが、すべての兵員がこの譲歩を歓迎した。
政府に対して忠誠が誓われた。
しかしまた兵士たちがますます明らかにしたように、当局が憲法制定会議を招集し、
軍事作戦を防衛に限定し、そして大陸の和平を交渉するかどうか、に彼らの忠誠がかかっていた。


80 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 07:26:20 ID:???

こうした成りゆきは他の交戦諸国の軍隊では前代未聞のものであり、内閣の行動範囲を著しく制約した。
しかし閣僚たちは自信に満ちて語り続けた。
二月革命の際に農村が平穏であったことに、彼らはとくに満足した。
主として農民出身であった兵士たちは、後方の農村にいる家族よりもずっと不安定な状態であった。
しかしこの違いは一時的なものだった。
臨時政府が土地改革を延期したことは、数百満の農民をいらだたせた。
数百年のあいだ農民は、土地はそこで働く人間のものであるべきだと思っていた。
そして彼らの大多数は、共同体がそうした土地譲渡を管理することを望んだ。
その場しのぎの方法は農民をなだめることにはならなかった。
地主との交渉は、一九一七年三月にはおおかたは友好的で穏やかなものであったが、暴力沙汰も起こった。
ロシア人が多数居住する諸県では、同月に一八三件の騒動が報告されており、また四九件の放火が記録された。
農民は彼らの歴史的な特質の枠内で行動していた。
農民は慣習的に何十年も運命をじっと我慢し、そののち突然、
農村外で起こった危機が農村に影響を及ぼしたときに、彼らは特定の目的に向かって立ち上がった。
農民は政治的な素養を欠いてはいたが、それで専制崩壊後の体制に対する農民の脅威が小さくなったわけではなかった。
農民は土地を欲しており、そしてついに土地を獲得する申し分のない好機を手に入れたのである。


81 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:23:21 ID:???

それゆえ臨時政府は、政治的急進主義を抑制することのできる機関を探しまわった。
彼らは、必要としていると考えたものをソヴィエト指導部に見いだした。
メンシェヴィキとエスエルは、最初のソヴィエト選挙で勝利したおかげで、ソヴィエトを指導していた。
この二つの社会主義政党は、市民的自由を守るとともにドイツとハプスブルクの両帝国に対する
防衛戦争に戦争を限定することを条件に、臨時政府を承認した。
カデットの側は、これらの政党が労働者、農民および兵士の行き過ぎた要求を抑えるだろうと期待した。


82 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:32:24 ID:???

最初のうちは、妥協が楽観的な見方の根拠をいくらか与えていた。
一九一七年二月以前はわずかに数千の党員を数えるにすぎなかったメンシェヴィキは、
二月革命後にたちまち大衆政党となり、秋までにはおよそニ〇万の党員を獲得した。
エスエルは都市とともに農村で党員を集め、一〇〇万人の党員数を誇って、あっさりと最大の政党になった。
メンシェヴィキもエスエルも、まだ政府の公職を求めていなかった。
もちろん彼らには、互いに政策上の見解の相違があった。
当時の一般的なマルクス主義者であったメンシェヴィキは、
最後に社会主義を勝ちとる上で指導的役割を果たすのは都市労働者階級だとしており、
国家と社会における大規模で中央集権的な組織形態を高く評価した。
ロシアのナロードニキの伝統を受け継ぐエスエルは、小規模で分権的な組織的編成を称揚した。
彼らは農民の積極的な潜在力を強調した。
こうした違いはあったが、この両党の見解は、数年にわたって事実上一致していた。
エスエルの有力な指導者たちは、一八七〇年代のナロードニキとではなく同時代のメンシェヴィキと同じように、
社会主義者が権力獲得を試みるよりも前に、国の生産力と文化的資源を作り出すために
ロシアの工業経済はさらなる資本主義的発展を必要とする、と考えた。
ともあれエスエルは、すべての「勤労人民」(農民だけではなく)によるすべての「勤労人民」のための革命を目指した。
もっと直接的には、自力で運動を展開しブルジョワジーと分裂することで経済的破滅の危険をおかすには
戦時は最悪の時局である、と両党ともに判断した。


83 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:42:10 ID:???

彼らが臨時政府を条件つきで支持したことは、もっともな出方であった。
しかしこのためには、カデットの膨張主義的な戦争目的に目をつぶることが必要であった。
ニコライ二世が結んだ一九一五年の秘密協定〔イギリス、フランスおよびロシアのあいだで
戦後の領土的要求を確認した協定〕のとり決めを臨時政府が遵守する旨を、
外務大臣パーヴェル・ミリュコーフがロンドンとパリに通告した四月に、この協調関係は破綻した。
ペトログラード・ソヴィエトのメンシェヴィキとエスエルは、抗議デモを組織した。
リヴォフ内閣は熱のこもった会議を開き、ソヴィエトの圧力を受けて、ミリュコーフとグチコーフが辞任した。


84 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:46:03 ID:???

カデットは、メンシェヴィキおよびエスエルとの連携が緊密なものでなければならない、という教訓をえた。
リヴォフ首相はペトログラード・ソヴィエトに、連立内閣を組織するために代表を出すよう要請した。
ソヴィエト執行委員会は不本意ながらこれに応じ、
一九一七年五月からは、閣内少数派を構成する社会主義者が入閣した。
そのうち最も精力的であったのは、メンシェヴィキのイラクリ・ツェレチェリとマトヴェイ・スコーベレフ、
そしてエスエルのヴィクトル・チェルノーフであった。
入閣する大臣たちは、カデットの同僚を顧みずに政府の政策を変更するよう託された。
ツェレチェリは、全交戦国政府に圧力をかけて戦争を終結させる目的で、
中立国スウェーデンで全交戦国の社会主義政党の会議を開催する手筈を整えるために働いた。
スコーベレフは、工場労働者の福利厚生を改善し工業の国家規制を強化するための措置を導入した
(そしてこのことは進歩党員のA・I・コノヴァーロフの辞任を招いた)。
チェルノーフは、政府が農業改革に反対することに不満を示し、
現地で選出された土地委員会を通じて未利用農地を農民に譲渡することを慎重に認めた。


85 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:51:06 ID:???

しかし社会主義閣僚が勝ちえたものは、微々たる影響しかもたないものだった。
ストックホルム会議は開催されなかったし、スコーベレフの措置は
ロシア工業経済における私的利益をほとんど打ち破ることはなかった。
土地問題についていえば、タヴリーダ宮殿の臨時政府執務室の外でおこなわれたチェルノーフの勇ましい演説は、
彼が政府執務室内で政策を変更させる力をもたないことを示す徴候であった。
カデットは闘争なしに譲歩することはなかった。
権力をとるためのしかるべき時がまだ到来していないという社会主義閣僚の信念に、カデットは助けられた。
そのうえメンシェヴィキとエスエルは、「革命」に対する最も深刻な危険は
政治的右翼からのものであると信じ続けていた。
軍事クーデターの危険性が彼らの頭を離れることはなかった。
このことは、軍事独裁よりも小さな悪であるカデットに彼ら社会主義者を固執させたもう一つの要因であった。
カデット閣僚は彼ら自身の立場を主張し続けた。
彼らは東部戦線でのロシア軍の攻勢を再開することを常に要求し、
一九一七年六月にはガリツィアのオーストリア防衛区域に対する攻撃を命ずるよう内閣を説き伏せた。
当初はロシア軍が軍事的に成功した。
オーストリア軍はドイツの援軍を求め、ロシアの将軍アレクセイ・ブルシーロフの軍団は結局、
前線を堅固にするためにウクライナに新たな塹壕を掘ることになった。


86 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:53:42 ID:???

ロシア国家の上層部で起こった出来事は、それにもかかわらず一九一七年の主要なドラマの副次的な物語であった。
労働者階級および軍隊と農村にいた農民が、彼ら自身の歴史の参加者であった。
政治家はいたるところで、「中央」と「地方」、「上部」と「下部」、
「当局」と「すさまじい大衆」のあいだの衝突について語った。
たいていの政治家には、何もかもがめちゃくちゃのように思われた。
ボリシェヴィキという一つの主要政党だけが、この状況を歓迎した。
労働者は物質的条件の悪化に苦しんでおり、財産と権力を有するロシア世界から遠ざけられていると
彼らは常に感じていたので、彼らは状況の悪化をもっぱら中流階級のせいにした。
しかし雇用者もまた厳しい時期を過ごしていた。
重工業の製造工場の利ざやはおよそ九%であった(これは実際には戦前水準をわずかに上回る数字であった)。
しかしこの数字は、おそらく一九一七年を通じて操業していた企業についてのみのものであり、
また軽工業部門については何も教えてくれない。
全製造業の窮状についてのより正確な指標となるのは、
一九一七年一月から八月のあいだに一ヵ月あたりの石炭生産量がニ七%減少したことである。
さらに、早くも四月には国中の工場が、契約の遂行に必要な金属の五分のニも受け取ってはいなかった。
インフレーションが加速した。
輸送の困難が増大した。
企業の閉鎖が始まった。
そして都市への食糧供給が減少した。
穀物取引の国家独占が三月に布告された。
都市でパンの配給を導入する措置もとられた。
しかし配給基準が守られることはありえず、四月と六月に引き続いて基準の引き下げがおこなわれた。
そのうえ賃金設定は価格の上昇に追いつくことができなかった。


87 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:57:30 ID:???

工場労働者に対する雇用者の冷酷さは作り話ではなく、「飢えでやせこけた手」を見て労働者が自分たちの要求を
控えめにすればいいのだが、と祈ったのは、繊維業の大富豪P・P・リャブシンスキーだけではなかった。
しかし、所有者と労働者とがうまくやっていったとしても、工業はおそらく崩壊することになったであろう。
資本と原材料の不足は二月革命以前に深刻化しつつあり、工業の紛争は、
すでに悪化しつつあった状況をさらに悪化させただけであった。
都市労働者階級は、冬に起こるかもしれない飢餓に恐れをなしていた。
ストはなお発生していたが、雇用者が生産を削減していったとき、その効果は低下した。
労働者は、稼動している工場で職を維持することを切実に必要としていた。
一方、企業内で定期的に大衆集会がおこなわれたため、多くの企業家は労働生産性が低下し続けるだろうと確信した。
他方で労働者は、再び出し抜かれないよう固く決意していた。
彼らは、熟練労働者も未熟練労働者も、男性も女性も、古参従業員も新参者も、固く団結した。
彼らは自分たちの暮らしへの共通の脅威を理解しており、
資本主義よりも公平な世界が建設されうるだろうという信念で結ばれていた。
工場の閉鎖が差し迫っているような場合には既存の経営者に取って代わる権限が、
労働者によって選出された工場委員会に与えられた。
真夏以降ペトログラードで、「労働者統制」がスローガンとなった。


88 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:01:34 ID:???

この運動の起源は、自己防衛的なものであった。
労働者階級は、職を失って街頭に放り出されて飢える危険から自分の立場を守りたかった。
雇用者にロックアウトを宣告されるのを阻止することが最も重要であった。
工業が奈落の底へ転落することを労働者が本当に押し止めたかどうかは疑わしい。
問題は根深いものであり、戦時にあっては間違いなく解決できないものであった。
にもかかわらず、労働者は何かをしなければならなかった。
もう一つの道は、まったくの絶望であった。


89 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:03:39 ID:???

兵士の、とくに守備隊における不満は、同様の動機を示していた。
一九一七年六月の攻勢は戦争に勝利せんとするカデットの意志を明らかにしたが、
非常に多くの部隊は大砲の餌食になると考えて動揺した。
七月と八月には、脱走はまだ大規模に及ぶ問題ではなかった。
しかし臨時政府への不信は広まりつつあった。
日々の食糧の到着が確保されえなかった事実は、更なる不満を引き起こした。
兵士や水兵の態度は、それ自体が不穏なものであった。
そのうえそれは、農民がしたいようにするのを阻止するための軍事力が残っていない、という心配を内閣にいだかせた。
臨時政府が存在した八ヵ月間に、政府の穀物調達機関が調達したのは、
国の穀物必要量のわずか四八%であった。
政府は必死になって、八月に農産物固定価格を二倍にした。
しかし持続的な改革は起こらなかった。
また農民の抵抗は単に消極的だっただけではなかった。
憲法制定会議のみが農業問題を解決すべきであるという政府の声明は、むなしく響いていた。
六月と七月には、牧草地の五分の三が農民に占拠された。
五月から一〇月にかけて、明らかに耕作可能な土地が徐々に横どりされていった。
地主が居住しているだけで敵対しているのだと受けとられた。
殺人事件が起こった。
社会一般に暴力が横行した。
騒ぎが絶頂にあった七月には、四八一件の「騒動」が報告された。


90 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:09:53 ID:???

ヨーロッパ・ロシアの大部分では、都市で工場委員会がおこなったのと同じように活動したのは、土地共同体であった。
ボリシェヴィキはこの共同体にはほとんど影響力をもっていなかった。
村々にはボリシェヴィキ党のアジテーターがほとんどいなかった。
ボリシェヴィキ党委員会が基礎をおいていたのは都市であった。
そうではあったが、党には経験を有する人的資源が一般に不足していた。
したがって、革命的気運が広まったのはボリシェヴィキの影響力によるものだ、
とするボリシェヴィキ党の反対者は、事実を誇張していた。
労働者と農民、そしておそらくは都市の中流階級下層も、ボリシェヴィキからの大きな刺激がなくとも、
急進的な政治理念を採り入れた。
「インテリゲンツィヤ」が「大衆」を思うままに指導することさえなければすべてがうまくいっただろう、
という説明も同様に誇張されていた。
知識人が重要でなかったということではない。
地方ソヴィエトでは、彼らの手腕が重んじられていた。
そしてペトログラードという全国レヴェルでも、彼らは非常に傑出していた。
しかしインテリゲンツィヤは分裂した階層であった。
レーニンやトロツキーのような一部の知識人は、熱烈なボリシェヴィキであった。
ツェレチェリのような他の知識人は、労働者階級が街頭で直接行動をおこなうのを
抑制しようとする社会主義政党に属していた。
そのうえ、ソヴィエトの指導的な政治家の中には元労働者もいた。
その主要な人物は、メンシェヴィキのクジマ・グヴォズデフであった。
また工場委員会では、中流階級の指導者の影響力は多分ほんのわずかであった。
おそらくそれは、地方の労働組合支部ではずっと小さいものであった。
さまざまな大衆組織は、自らの利益を守るために勤労民衆が相当の力を結集できたことを示した。


91 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:11:29 ID:???

実際、君主制の打倒は、貴族も含めた社会全体が民主的熱狂をともにすることを可能にした。
地域的な組織が多数存在した。
選挙、討論、要求が通例の活動になった。
政府の権力は弱いままであり、実際にソヴィエトは潜在的なもう一つの政府になった。
六月にソヴィエトは初めての全国大会を開催し、そこで国中の問題を処理するために、
メンシェヴィキとエスエルに率いられた全ロシア中央執行委員会を選出した。
臨時政府の省庁を監視するために委員会が設立された。
しかし時代は熱狂的な様相を呈しており、数十人のメンバーを擁した中央執行委員会は、
状況の急な変化に迅速に対応するにはあまりに実際的でなかった。
それゆえ実験はその内部にある幹部会に移った(そして結局は、「星室庁」と称された、
ツェレチェリのような著名な幹部からなる中核へと移った)〔メンシェヴィキのスハーノフによる比喩。
星室庁はウェストミンスター宮殿におかれた法廷で、イギリス絶対主義の統治機構において重要な役割を果たした〕。
カデットの閣僚は、中央のソヴィエト機関の強化だけでなく、
政府の法令を国中で施行する上で無力であることでも動揺した。
彼らが嫌ったのは、政治の趨勢、とくにウクライナに地域的自治権が
認められるべきだとするメンシェヴィキとエスエルの主張であった。
カデットの見解では、これは国家の領域的分解の第一段階であり、七月の最初の週に彼らは集団で閣僚を辞任した。


92 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:17:56 ID:???

続いて熱心な協議がおこなわれ、エスエルの政治巧者で、
二月革命以来の閣僚であるアレクサンドル・ケレンスキーが首相となった。
ケレンスキーは新たな連立内閣を組織し、多数派をソヴィエトの穏健社会主義者から構成して、
カデット閣僚はわずか四名になった。
一見したところ、メンシェヴィキとエスエルはこっそりと権力を獲得した。
しかし現実はそれとは異なっていた。
ケレンスキーの政策は、言葉遣いを別とすれば、カデットの政策とほとんど違いがなかった。
しかしながら臨時政府の業績は、思いがけなくも非常に軽蔑された。
穏健社会主義者は実際、何かひどく変わったことを成し遂げようと努力していたわけではなかった。
イギリスで一九三一年にできたラムゼイ・マクドナルドの挙国一致内閣は、右翼と左翼の政治グループを統合することで
経済的崩壊を回避しようとしたが、それはロシアでおこなわれた試みと同様のもの以外の何だっただろうか?
類推はあまり過度に強調されるべきではない。
ロシアは社会主義に向かう用意があるとおおかたのメンシェヴィキやエスエルに考えさせるような出来事は、
二月革命以後には起こらなかった、と付言すれば十分である。
どちらかといえば、事態の成りゆきは彼らの懐疑主義を確認しているように見えた。
経済的崩壊と軍事的後退が続いた。
そのうえ社会的混乱が増大しつつある徴候があった。
チェルノーフ自身、七月にペトログラードで労働者と兵士にすんでのところでリンチを加えられるところだった。
すべての階級の和解を達成しようとする最後の努力が時宜にかなっているように思われた。


93 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:21:38 ID:???

そういうわけで主要なソヴィエト指導者は、あたかも彼らが社会主義政府を設立したかのように見えたのに、
まさにそのことを考えてぞっとした。
彼らはカデットを過度に怒らせることを注意深く避けた。
そしてこのことは、これとは別の政府がもし設立されるのであるならば、
他の政治勢力から創設されなければならないことを意味した。
この現象は地方でも起こった。
一九一七年の夏にゆっくりと、真っ白な印画紙が現像液の中で画像を現すように、政治革命が現れ始めていた。
国中の都市ソヴィエトが首都の中央執行委員会と同じように遠慮がちであったわけではなかった。
臨時政府と激しく対立していたクロンシタットとツァリーツィンのソヴィエトは、
独立共和国を宣言することをかろうじて思いとどまっていた。
他のソヴィエトはそれほど敵対的ではなかったけれども、にもかかわらずそれらは、
いくつかの正規の政府機能を遂行する際に公式の官僚制に取って代わる傾向があった。
ソヴィエトは管轄地域の治安を維持するために民警を設立した。
ソヴィエトは食堂や教育施設を用意し、祝賀行事を催した。
その指令は、守備隊指揮官によって出された命令をとり消すことができた。
ソヴィエトはその地方の経済活動に介入できた。
こうした事情はロシアに限ったことではなかった。
カスピ海沿岸のバクーのような遠く離れた都市でも、事態は同様に展開した。
首都から離れた都市ソヴィエトのメンシェヴィキとエスエルの指導部は、
臨時政府の出先機関の権限を否応なしに侵害せざるをえなかった。
彼らがためらったところでは、近隣のソヴィエトがしばしば割って入って、代わりにその仕事をおこなった。
現実政治をめぐる紛争が起こったときにはいつも上級機関を無視することは、
下位のソヴィエト機関に共通の傾向であった。


94 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:24:36 ID:???

経済と社会のいっそう徹底的な改革を求める労働者、兵士や農民の要求に中央委員会が応じることを
たとえ拒否したとしても、彼らが「ソヴィエト」と「ソヴィエト権力」に信頼を示した理由はここにある。
ソヴィエトにおける討論への大衆参加は一九一七年を通じて続いた。
公開集会は、民衆の意見が表明される討論の場を提供していたし、
ソヴィエト代議員総会が内密に開催されることはめったになかった。
選挙人の願望を代表できない場合には、代議員は個人的にリコールされえた。
一般に知られるように、この制度は濫用されがちであった。
執行委員会の会議の開催頻度は少なくなっていった。
ソヴィエトの総選挙がおこなわれる間隔はより長くなった。
ソヴィエト職員は、選挙人を扱う際の過度に権威ばったやり方を身につけた。
しかし概して地方ソヴィエト機関は、下からの要求に敏感であった。
激しく変化する状況の中ではこのことが自らの権威にとって不可欠である、と地方ソヴィエト機関は理解していた。
最もはっきりした警告は労働者からのものであった。
一九一七年春に、多くのソヴィエトが労働者階級の熱望を抑えようと試みた。
工場労働者は、彼らの願望の実現を追及するために、ソヴィエト機関の頭越しに進んで工場委員会のような
ほかの大衆組織に飛び移ることでこれに逆襲した。


95 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:31:02 ID:???

このような政治の流動性は、人々の方向感覚を失わせつつあった。
そのためすべての政党は迅速に、敏感に、そして決然と反応することが必要であった。
ボリシェヴィキだけがこれを成し遂げた。
ボリシェヴィキの成功は、彼らが臨時政府に無条件に反対する
唯一の主要政党であったという事実と深く結びついていた。
彼らの立場は四月までには明確になった。
彼らが望んだのは、政府が打倒されてソヴィエトに基礎をおいた政治構造に交替することであった。
ボリシェヴィキは、多少は動揺した。
ソヴィエトにおいて自らの立場を高める見通しが不十分であると思われた夏の終わりに、
彼らは「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンをとりやめた。
しかしこの放棄は一時的なものであった。
そのうえ、戦争についてのボリシェヴィキの政策は変わらなかった。
彼らは即時の全面講和を目指した。
ロシアにおける社会主義革命はドイツやその他の国々での革命を誘発し、
それらの革命が併合あるいは賠償金なしに戦争を終結させるであろう、と彼らは主張した。
ボリシェヴィキは、旧ロシア帝国内および世界中での民族自決を要求した。


96 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:37:26 ID:???

国内での彼らの経済的目標には、大規模工業企業とすべての銀行の政府所有が含まれていた。
もう一つ意図したことは土地の国有化であった。
それは主として、農民が農民所有以外の土地を奪取してその土地を私的利益のために耕作する形態をとると想定された。
ボリシェヴィキは憲法制定会議の選挙を実施するつもりであった。
この選挙の勝利がソヴィエトによる権力獲得を正当化するであろう、と彼らは自信満々に予言した
(地域的な機関としてのソヴィエトは、通常は中流・上流階級に代議員選出権を与えていなかった)。
この計画された独裁は、戦略の変更を必要とした。
一九一七年までボリシェヴィキは、専制の終焉ののち長期にわたる
ブルジョワジーによる支配の時代が続くであろうと予想していた。
今や彼らは、社会主義への即時の移行を開始することを望んだ。
党指導者のウラジーミル・レーニンは、彼の「四月テーゼ」においてこの理念を表明した。
スイスから帰国した際に、彼は、多くのボリシェヴィキが独自にこれと同じ結論に達したと言及した。
ボリシェヴィキ党四月協議会では、この新たな路線が勝利した。


97 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:46:15 ID:???

ボリシェヴィキ党はゆるやかに組織化されていた。
公式の規約によれば、一般党員、党活動家、党職員および下級党職員は上級組織の指令に従わなければならなかった。
しかしレーニンも中央委員会も、下部の従順さを自動的に確保できたわけではなかった。
かなりの程度、説得が重要な要素であった。
同様に決め手となったのは、基本的な直接目標について
ほとんどすべてのボリシェヴィキの意見が一致していたことであった。
この合意は三月には萌芽的段階にあった。
抵抗は中央委員会において最も強力であったが、すみやかに克服された。
下級レヴェルでは、反対した党員はボリシェヴィキの隊列を去った。
この経緯はトラウマとなった。
多数の一般党員は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとが別々の政党に分かれていることに反対し続けていた。
しかし真夏までには、メンシェヴィキとカデットとの共同に愛想が尽きたため、
そうした感情的な抵抗は消えてなくなった。
戦争に反対し革命を追及する大衆政党の強化への道は開かれていた。
そしてボリシェヴィキはこの機会をとらえた。
一九一七年二月には、ボリシェヴィキであると自認していたのは数千人であった。
夏の終わりまでには、この数字は二五万人に達した、といくぶん誇張をもって主張された。
党員増は一般党員に限ったことではなかった。
公式の調査によれば、一九一七年七月の党大会代議員のうち八三%だけが、第一次世界大戦前からのボリシェヴィキであった
(そしてたぶんニ三%ほどの代議員は、以前はメンシェヴィキあるいは他の政党の支持者だった〔この数字は不正確である。
党大会代議員のうち、ボリシェヴィキ組織に入る前に社会民主労働党で一九一四年以前から活動していた者が三二%、
社会民主労働党の活動に入る前に他の党派に属したことのある者が一二%であった〕)。


98 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 14:51:45 ID:???

この党が革命行動の精力的な活動主体になったのは、教義を唱えていたからではなかった。
あるいはレーニンの図抜けた戦術的才能のためだけでもなかった。
反対に、彼の判断は時おりひどく誤ったものであった。
たとえば六月中旬に、レーニンは、臨時政府に対して労働者と水兵が武装デモを構えるのを助長した。
彼が自分の生急さに気づいてそれを完全に中止させようとしたのは、
最後の瞬間である七月の最初の週に入ってからであった。
延期の決定は遅すぎた。
鎮圧部隊がデモ参加者に発砲した。
レーニンを含めた著名なボリシェヴィキの逮捕の命令が出された。
レーニンはフィンランドに逃亡した。
彼は幸運な人物であった。
なぜなら、非常に多数の工場労働者と守備隊兵士とが直接の政治行動に賛成したという事実に比べれば、
彼の個人的な失策はそれほど重要でなかったからである。
党と労働者階級とは、整然と分かれた存在ではなかった。
一九一七年末の時点で、労働者は党員のおよそ五分の三を構成しているといわれており、
このおかげで地元の党委員会は、民衆の気分が進展していくのに遅れをとらずにいることができたのである。
ボリシェヴィキ党の活動においては、地元の問題はしばしば、
より一般的な問題と同じくらいの重要さをもっていた。
いわゆる「党員大衆」はたびたび、より急進的な措置を自分の属している党委員会にとらせた。
この傾向は激しくまた過大なものになり、物質的状態が悪化するにつれて、少し捨て鉢なものにもなった。
非常に「民主的な」理念と非常に「権威主義的な」理念とが、ボリシェヴィキの思考の中に共存していた。
そしてあらゆるレヴェルの党員は、中央委員会においてさえも、
未来の政策の矛盾をあらかじめ解決しておかねばならないとはほとんど考えていなかった。
「実践」が「理論」の遺漏を埋めるであろうという信念があった。
この楽観主義は見当違いのものであったが、それは党員募集や
選挙の支持を求める党の運動をそこなうものではなかった。
戦争、経済、政府についての恐るべき困難はすぐに克服することができると
本当に信じている唯一の集団であったことのおかげで、ボリシェヴィキはとても魅力的に見えるようになった。


99 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 15:05:15 ID:???

ロシア政治の分極化は容赦なく進んだ。
そして、都市でボリシェヴィキの人気が増すにつれて、
さまざまな大衆組織におけるボリシェヴィキの代議員も増加した。
最初は工場委員会が、のちには、といってもそう遅くなってからというわけではないが、
ソヴィエトが彼らの影響下におかれた。
ペトログラード、クロンシタットそしてツァリーツィンは、彼らが早くから成功した地域であった。
これが九月までに起こりつつあったということは、党の回復力の証しであった。
首都でのトロツキーとコロンタイの逮捕、およびレーニンとジノヴィエフのフィンランドへの逃避行は、
新聞雑誌上での中傷キャンペーンをともなった。
しかしこれは重要な後退ではなかった。
ボリシェヴィズムは常に反革命に対する民衆の砦であると主張しており、
ボリシェヴィキの援助なしにはケレンスキーは極右の軍隊を撃退することができなかった。
ケレンスキーの策略は、複雑でよくわからないものであった。
ペトログラードで臨時政府の権威を再び誇示するために、八月に彼は
ラヴル・コルニーロフ軍司令官に戦闘部隊を首都へ移動するよう命じた。
最後の瞬間に彼は、コルニーロフがクーデターを目論んでいることに気づいた。
コルニーロフは、自分が逮捕される恐れを察知しながら、どうせケレンスキーが手に負えないソヴィエトを
叩き潰すことはないだろうからクーデターは実際に望ましいものだ、と結論した。
エスエルやメンシェヴィキの活動家と同様にボリシェヴィキは、
指揮官の命令に従わないようコルニーロフの部隊を急いで説得した。
ペトログラード守備隊であればコルニーロフを阻止しえなかったであろう。
政治的煽動の派遣団は成功を収め、コルニーロフは逮捕された。
その後ボリシェヴィキは、七月以降彼らを悩ませた政府からの妨害さえうけないで、政治闘争を再開した。


100 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 15:09:19 ID:???

しばらくのあいだ、運命の女神はボリシェヴィキとともにあった。
一九一八年末にドイツの諸都市を襲撃した義勇軍のような、全国的な反社会主義軍団に
参加することを望んでいる兵士には、その機会はほとんどなかった。
臨時政府は自由に使えるそのような部隊をもっていなかったのである。
ロシア人の労働者と農民もまた、民族主義的なスローガンに決して共鳴していなかった。
彼らは他の民族や民族的集団とともに平静に働き続けており、
また劣悪な物質的状態はロシア民族に限ったものではないと考え続けていた。
ロシアにおける「勤労人民」の連帯は、一九一七年のあいだは、
他のありうべき境界線を越えたものであった。
対照的に、民族主義は旧ロシア帝国の辺境地域で成長しつつあった。
しかしそれは、臨時政府を助けるのではなく妨げるのに役立った。
ウクライナはペトログラードから制御できなくなりつつあった。
選挙で選出された独自のラーダ〔ウクライナの評議会〕がキエフを制した。
フィン人、アルメニア人、アゼリ人やグルジア人もまた、自らのより大きな自由を求めていた。
ケレンスキーが混乱していったのは少しも不思議ではなかった。
彼は、最後の手段として外国の直接の干渉を要請することすらできなかった。
イギリスとフランスの軍隊は、西部戦線の戦闘で泥沼にはまり込んでいた。
アメリカ人は、アメリカの船舶に対するドイツの攻撃ののち一九一七年春に連合国に加わったが、
その部隊は一九一八年までフランスに到着しなかった。
臨時政府は孤立していた。


101 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 15:15:48 ID:???

一方で臨時政府は、連合国とのつながりから憂き目を見ただけだった。
六月末に東部戦線で、損害の大きい攻勢が再開された。
世界の目にさらされるところとなったロシアの軍事的な弱さに加えて、イギリスとフランスの内閣は、
バルカン諸国においておこなわれる戦後の領土協定からケレンスキーの外交官を排除することで、さらに恥をかかせた。
八月に、ドイツ軍がバルト海沿岸地方の防衛線を撃破してリガを占領したとき、
政府の無力さはよりいっそう容赦なく暴かれた。
さらなる前進があればペトログラードも危険にさらされたであろう。
ケレンスキーは、メンシェヴィキとエスエルの有力な知人たちの要求に、
より注意深く耳を傾けざるをえなかった。
極右から極左まですべての政党と公的組織が集まって国の苦悩について審議するために、
八月にケレンスキーがモスクワで「国家会議」を招集したとき、カデットは彼に対して冷淡であった。
コルニーロフ反乱の直前に、カデットは再び政府から辞職した。
ケレンスキーはあわてふためいて、九月に民主主義派会議を招集した。
この出来事は非常に狭い基盤に立って計画されていた。
極右だけでなく、コルニーロフの行動を許したことですべての社会主義者を憤慨させた自由主義者も、
参加を認められなかった。
しかしその結果は建設的なものではなかった。
第一次連立内閣でツェレチェリとチェルノーフによって進められた政策の方向により迅速に進むとともに、
カデット抜きの内閣を組織するためのとり決めがなされた。
しかし精彩を欠いた見解が幅をきかせていた。
ケレンスキーはカデットが彼に協力することを望み、幾人かはそれに加わる用意を示した。


102 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 15:24:14 ID:???

ボリシェビキは民主主義派会議を軽蔑し、社会主義的綱領の必要性を宣言するのに十分な時間だけそれに参加して、
それから退場した。
ボリシェヴィキの中央委員会には、動きがあまりに速すぎる危険性が感じられた。
彼らは抜け目なく、直ちに権力を奪取すべしというレーニンの勧告を退けた。
とり乱したケレンスキーの権力が日々小さくなる一方、
彼らはソヴィエトの権力構造における自らの基盤を強化し続けた。
ボリシェヴィキの権力奪取という予想が大きくなった。
レーニンの党は公務の重荷によってすぐさま無力になるだろうという軽率な期待が、
カデットから厚顔無恥な君主主義者に至るグループに広まった。


103 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 15:29:25 ID:???

好機が到来したことを、まだすべてのボリシェヴィキが確信していたわけではなかった。
しかしレーニンは、好機到来と判断して突進した。
彼は説得し煽動する限りない能力を有していた。
一〇月一〇日、中央委員会は国家権力の問題を討議した。
レーニンはこれに参加するためにひそかにフィンランドから戻っており、
討論に続いて採択された決議は彼のペンで書かれたものであった。
まだ彼は拘束されるべき身の上であった。
彼は直ちに権力を奪取するよう要求した。
国家権力を掌握するのを可能にするために、蜂起の時期を第二回全ロシア・ソヴィエト大会の開会日に合わせるべきである、
というトロツキーの主張が採られた。
こうすれば「ソヴィエト権力」が樹立されるはずであった。
理屈はそうでも、ペトログラードにおけるボリシェヴィキへの積極的支持の強さについては不確定であった。
党内の左派の多くでさえ、労働者が暴力的方法への意気込みを欠いていることについて報告していた。
しかし十分な戦力が現れようとしていた。
ペトログラード・ソヴィエトは、軍事革命委員会を通じて、守備隊を統制化においた。
また赤衛隊の労働者は、必要な武器と明確な意識とをもっていた。


104 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 15:30:33 ID:???

これらの力が冬宮で政府の守備隊を打倒した。
民衆蜂起は、民衆全体によって組織されることは決してなかった。
少数の人々だけが直接に参加したのである。
そして一〇月中旬までにレーニンは、ボリシェヴィキが多数派になるという点で
ロシア中の都市という都市のソヴィエトはペトログラードとモスクワの例に続いている、と主張することもできた。
第二回ソヴィエト大会は疑いなく、ボリシェヴィキ党に中央ソヴィエト機関を担当させるはずだった。
労働者階級の意見は、ケレンスキーの解任を支持するほうへ回った。
とくに工場からの要求を考慮するための政策をボリシェヴィキが進んで調整していたので、
この趨勢は逆行できないかのように思われた。
一九一七年五月に「労働者統制」というスローガンを採択したことは、その鮮明な例であった。
農民の支持を求める努力もまたおこなわれた。
土地国有化の提案が農村で疑いの目で見られていることに気づいて、
レーニンはそれに代えて、土地は「全人民」の所有物にならなければならないと言明した。

二月革命は衰退の最終段階にあり、いずれにせよ大混乱の中からある種の社会主義政府が現れたであろう。
しかし、そうした政府が実際にとった独特の形態を確実なものにしたのは、レーニンの独創力であった。
党を彼にそして労働者階級を党の側につけておくために、彼の指導は、
目的の率直な主張と注意深い政治的な誇張表現とを兼ね備えていた。
ペトログラードにおける権力の移行は、長く続く衝突をともなうことはなかった。
トロツキーに率いられたペトログラード・ソヴィエトの軍事革命委員会は、効率よく活動した。
一九一七年一〇月二五日、臨時政府が解散され、権力は第二回全ロシア・ソヴィエト大会に掌握された。


105 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:49:08 ID:???

ボリシェヴィキ党が政権を掌握し続けたのはなぜだろうか。
ソ連の公式の教科書は、ただ一つの回答を与えている。
すなわち、レーニンに率いられたボリシェヴィキが、一九一七年以降に起こった非常事態に
見事に対処したからだというのである。
党はあらゆることを予測したわけではなかったしそうすることもできなかったけれども、
党の根本原理はそれをうまく乗り切らせた。
おそらくはソヴィエト政府の社会経済改革が、労働者や農民そして兵士たちに対して
ソヴィエト政府を永く魅力あるものにした。
ボリシェヴィキは申し分のない未来への展望についてのパンフレットを広く配布する一方で、
内戦を闘うために諸政策を改変した。
そして軍事闘争が終結したとき、新経済政策によって譲歩をおこない、自らの立場を強化した。
その間に彼らは、現実のものであれ潜在的なものであれ彼らの統治に対する直接の挑戦すべてを排除した。
ボリシェヴィキは、「ヨーロッパ社会主義革命」の展開によって彼らの政権が支持されると期待した。
彼らのスポークスマンは、当時もその後も、党の努力が十月革命後の一〇年間ですでに成功を証明されたと主張した。


106 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:49:49 ID:???

国外の観察者は、少なくとも世界共産主義運動と無関係であれば、この見方にほとんど同調しなかった。
多くの批判者たちは、実際にレーニン主義体制が不人気であり
独裁だけがレーニンとボリシェヴィキを政権の座につかせていた、と主張した。
彼らによれば、ボリシェヴィキ党は社会の少数者によってのみ支持されていた。
内戦に勝利しその後の平時にも自らを維持するために、党は凶暴なテロルを用いた。
ボリシェヴィキ党は、レーニンという狂信的な指導者と、狂信的な教義とを有していた。
帝政の最悪の伝統を強化しながら、ボリシェヴィキ党はおぞましい一党支配体制を押しつけ、
自らが統治した社会の文化的後進性を利用した。


107 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:50:35 ID:???

しかしこの説明は、別の問題については意見の相違に多くの余地を残した。
ある著者たちは、レーニンが権力を奪取したとき彼は「民主的」国家を創設しようと本当に望んでおり、
彼が独裁へと突き動かされたのは、予期せぬ困難さらには政治的・軍事的抵抗によってであった、と主張した。
別の論者たちは、レーニンと彼の党は常にテロル体制を支持していたが
政権の座につくまでこのことを黙っていたのだ、と反駁した。
論争のさらなる核心は、初期ソヴィエト史の時期区分であった。
レーニンの激しい敵対者たちは、政治体制が純粋にそして終始一貫して厭わしいものだったと主張した。
他の論者は、一九ニ一年に導入された新経済政策を、初期の行き過ぎからの一時休止であると考えた。
このこと全部が、一党制国家の内的規範の問題にかかわっていた。
一つの回答は、ボリシェヴィキは生き残るために強硬で攻撃的なままでなければならなかった、というものであった。
しかしこの見解には異論が唱えられた。
ある論者たちは、内戦が勝利に終わったからには、政治的独裁と社会的威嚇を恒久的に除去するための、
そして真に民主的な社会主義を建設するための扉が開かれた、と主張した。
このような主題は、初期ソヴィエト一党制国家についての著作において論争点であり続けている。


108 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:51:06 ID:???

ボリシェヴィキに賛成するものであれ反対するものであれ、これらの著作に共通していたのは、
一九一七年の十月革命の結果は主として政治指導者の行動によって説明できるという見解であった。
近年では、社会的および経済的要因にも、そして実際に中央レヴェルより下の政治力学にも注意が払われている。
このような分析の主唱者の多くは、ソヴィエト政府と共産党が国中で
かなりの程度の支持をえていたことを強調している。
幾人かは現に、レーニン主義体制が実際にひどく独裁的であったというわけではまったくない、と主張している。
しかし他の論者たちは、結果として現れた独裁は古い世代の著者たちが主張したほどに
運命を予定されたものではなかった、と論じるにとどめている。


109 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:51:39 ID:???

より新しい著作のテーマの中に、政治に対する文化の影響というものがある。
ロシア人は寛容という概念を身につけておらず、第一次世界大戦と内戦とが
それでなくとも粗暴な感情と行動とを残忍なものにした、というのである。
だがもしそうだとしても、それは文化の問題だけではなかった。
それは行政の問題でもあったのである。
ボリシェヴィキが自国に秩序を押しつけようと望めば、断固たる態度で統治しなければならなかった。
輸送と通信とは混乱状態にあった。
行政機関のサボタージュが頻発していた。
体制に対する政治的、宗教的、民族的敵対者たちによる反乱の可能性はなくなってはおらず、
経済状態は一九ニ〇年代なかばまで実にひどいものだった。
一党制国家を創設することで状況を秩序あるものとし、集権的で規律正しい行動様式を導入しようとする願望は、
ボリシェヴィキとその支持者たちのあいだで共有されていた。
レーニンは、彼の党の要請に反して中央集権主義を押しつけたのではなかった。
ボリシェヴィキ党職員は一般に中央集権化の必要性を認めていたのであり、それゆえ独裁とテロルの輪郭は、
ある程度は困難な状況に対する実際的な態度によって形づくられた。
またおそらくは、ヨーロッパとアジアとにおけるソヴィエト体制の孤立は、
ボリシェヴィキが厳格で権威主義的な一党制国家の特徴を強化する必要性をさらに強めることになった。


110 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:52:22 ID:???

このように研究の動向は、個々の指導者や政治的決定そしてイデオロギーの重視から、
十月革命の帰結へと移ってきている。
ソヴィエト権力の最初の一〇年間に起こった出来事は、
複雑な社会的、経済的、行政的、国際的基盤を有していると説明されている。

この章では、別の接近方法を除外してただ一つの研究方法に固執すべき論理的に正しい理由はない、
ということが論じられている。
権力を強化するレーニンの手法は本質的に独裁的なものであった。
彼の党の教義は一九一七年以前でさえ高度に権威主義的であり、
内戦と激しい「階級闘争」に従事することを不快と感じるボリシェヴィキはいなかった。
このリーダーシップとイデオロギーがなければ、実際に出現したような類のソヴィエト国家はなかったであろう。
党は状況によって完全に制約されていたわけではなかった。
例えば党は、一九一八年三月に同盟国とのブレスト=リトフスク条約を率先して承認し、
またその三年後には新経済政策を自ら提起した。
党はまた、自らの願望に従ってソヴィエト国家の諸機関を整備した。
とりわけ党は、ソ連邦の内部で非ロシア人が自分たちの共和国をもつことを認めた擬似連邦制的憲法構造を創設した。
しかし概してボリシェヴィキは、彼らが遭遇した敵意によって大いに制約されていた。
彼らは、ひどく扱いづらい政治的・社会的要因に対処していたのである。
そのうえこれらの要因は、多くの問題を引き起こさざるをえなかった。
すなわち経済的崩壊や不寛容な政治文化、財産と教養を有するエリート層への大衆の軽蔑、恣意的な行動様式に慣れた行政、
戦争と革命の年月によって粗野なものとなった大衆の一連の態度、そして帝政によって抑えられていたけれども
一九一七年以降に劇的に高まった民族的、社会的および宗教的緊張、といった問題である。


111 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:53:05 ID:???

そのような要因が交錯していたため、ボリシェヴィキが状況をかき回さなかったとしても、
おそらくはひどい混乱状態になったことであろう
ボリシェヴィキ党がそれほどユートピア的でも冷酷でもなければ、そして政権を掌握し続けることに
それほど専心さえしなければ、いくぶん混乱が収まる見通しはあったかもしれない。
しかしボリシェヴィキは、彼らがそうあるがままの存在であった。
彼らは自分たちが一九一七年に夢見た革命的変革を成し遂げはしなかった。
このことは決して驚くべきことではない。
彼らの理想は一貫性の欠けた途方もないものであり、また政府の経験によって精緻化されていないものであった。
彼らは権力の座にあって、生き残るための実験をおこなわねばならなかった。
そして実験をおこなうたびに、ボリシェヴィキは概して、真っ先に反革命から自身を護ることを選択した。
ひどい状況は一段と悪化し、この状況から革命ロシアの悲劇が発生した。


112 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:58:48 ID:???

ボリシェヴィキの指導者たちは、十月革命の最初から抑圧的であった。
彼らは大多数の労働者と多くの兵士たち、そして多少は運のよいことに農民のかなりの部分に
支持されているであろうことを理解して、首都での政治的な武装蜂起によって権力を掌握した。
ボリシェヴィキは、ペトログラードにおける彼らの行動に民衆蜂起が続いて起こることを必要とし期待もした。
そして実際にいくつかのロシアの都市で暴動が起こり、政府の交替が起こるやいなや農民は土地を奪取した。
一方、ペトログラード・ソヴィエトの軍事革命委員会はボリシェヴィキの指令に基づいて、
政府を組織した最初の週に反対勢力を逮捕し、カデットと右派メンシェヴィキの新聞を発行停止にした。
ボリシェヴィキは詳細で長期的な行動計画をもってはいなかったが、
彼らは指針となる一連の基本的前提を有していた。
そしてすぐに、反対勢力に対する最後に残っていた寛容さがその前提からとり除かれた。


113 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 19:59:55 ID:???

権力奪取の直後に法令の公布が始まった。
ボリシェヴィキに牛耳られた第二回全ロシア・ソヴィエト大会は、ボリシェヴィキの政府を組織した。
ロシア語の略称でソヴナルコムと呼ばれたその政府の正式な名称は人民委員会議であった。
その「議長」はレーニンで、彼は民族自決に基づく戦争の終結を求める「平和にかする布告」を起草した。
臨時政府によってドイツ占領下のポーランドに約束された独立が確認され、フィンランドの独立もまた承認された。
こうして党は、この両国での社会主義革命を促進し他の至るところでも労働者と兵士に権力を奪取させるよう望んだ。
「ヨーロッパ社会主義革命」が予言された。
一方ロシアでは、ボリシェヴィキは多くの大規模工場とすべての銀行とを国有化した。
外国貿易は政府の管理下におかれ、ソヴナルコムはニコライ二世とケレンスキーの
二つの政府が残した債務を一方的に破棄した。
各企業の労働者がその経営者を点検するように、工業に「労働者統制」が導入された。
ボリシェヴィキは、工業の衰退を直ちにくつがえし都市と農村とのあいだの商品交換を復興することを期待した。
このためには農民の支持がきわめて重要であり、ボリシェヴィキはプロレタリアートと貧農との同盟を追求した。
「土地にかんする布告」が公布された。
この布告は、帝室領や教会領および貴族所有地の再分配を監督し
農民のものでない土地を無償で収用する権限を農民ソヴィエトに与えた。


114 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:02:16 ID:???

一九一七年一〇月二五日には、「ソヴィエト権力」はペトログラード以外にはほとんど広まっていなかった。
しかしコサック騎馬隊によるケレンスキーの対抗クーデターの試みは茶番劇であり、
ペトログラード・ソヴィエトは軍事革命委員会を通じて首都の新政府を護るべく行動した。
ボリシェヴィキに率いられた他の都市ソヴィエトは首都の例に従った。
北部および中部ロシアでは、この経過は迅速であった。
モスクワでは数日にわたって戦闘が続いた。
イヴァノヴォ=ヴォズネセンスクでは、ソヴナルコムの創設を祝う
「インターナショナル」の騒々しい演奏が主な騒動であった。
ロシア南部のヴォルガ川流域のいくつかの都市では、衝突は流血の惨事となった。
しかし一般には、衝突は長続きせずそれほど激しくもないものだった。


115 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:03:20 ID:???

ロシアの都市部は一九一八年初めまでにはソヴィエトの支配下におかれた。
しかしウクライナとザカフカースの主として非ロシア人住民は、
依然としてペトログラードの統制からの自治を切望しており、アゼルバイジャンの都市バクーのように
ソヴナルコムに忠誠を宣言している旧ロシア帝国の周辺地域の都市ソヴィエトは稀なものであった。
本国のロシアでは、農民はレーニン政府に直接の支持を与えることをやめた。
しばらくのあいだボリシェヴィキ党は楽天的なままだった。
問題はただ解決されるためにのみ存在していたか、あるいは当時はそのように思われていた。
ボリシェヴィキ党員はソヴィエトや他の国家機関の部署に配属された。
諸機関が急速に増加した。
党指導部は残存している政府機関を引き継いだだけでなく、
それらがしばしばボリシェヴィキの課題に不適当だとわかったために多くの新たな機関を創設した。
地方の主導性の余地が広範に存在しており、サラトフではソヴィエトへの権力の移動が
次のような大げさな声明を生み出した。
「われわれのコミューンは世界規模のコミューンの始まりである。
われわれは指導者としてあらゆる責任を負っており、なにものも恐れない」。
ペトログラードのボリシェヴィキ党指導者たちはこれに同意した。
党の中心的な組織活動家だったIa・M・スヴェルドロフは、政府の法令は一般的指針を与えるだけで
自分たちの革命を進めるのは地方の務めである、と主張した。
「大衆的実践活動」がレーニンの常套句だった。
民衆の創造的可能性の解放が、ソヴナルコムにとって上部からの行政的指導と同様に重要な優先事項であった。


116 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:43:14 ID:???

しかしながらこの方針は、党がロシアの経済上および外交政策上お非常事態を小さく見積もる限りでのみ可能であった。
L・B・カーメネフやG・E・ジノヴィエフのような党中央委員会の懐疑的な人々は、
ほとんど支持者をもたなかった。
十月革命前のレーニンの所説は政治的見通しについて多義的で沈黙を守ってもいたが、
そのレーニンでさえ数週間は超楽天的な見解を維持していた。
その一方で破局が迫っていた。

その兆候はたくさんあった。
一九一七年には、大規模・中規模工場の生産量は第一次世界大戦が始まる前年の三分の二にすぎなかった。
それらの企業における一九一八年の生産は、前年記録のわずか三分の一に急落した。
輸送の崩壊、不十分な原料供給、資本投資の不足や抑制のきかないインフレーションによって、
工業経済は徹底的に破壊された。
十月革命後の一〇ヵ月間に、国の大規模工場の三八%が閉鎖を余儀なくされた。
農業部門はわずかばかりうまく運んだ。
一九一七年秋の収穫は、一九〇九年―一三年の平均収穫から一三%低下したにすぎなかった。
しかしここでもまた、問題の始まりが認められた。
通常の消費基準と考えられていた消費量を満たすには、国全体で一三三〇万トンの穀物が不足した状態にあった。
南部ロシアやウクライナでさえも、他の地域に「搬出する」余剰穀物をもっていなかったし、
ヴォルガ流域でも域内の必要量を下回る穀物不足が伝えられた。
さらに経済全体における二つの主要部門での困難は、第三の困難、
すなわち両部門間の関係の困難によって一段と悪化した。
工業の衰退は、ろくに満足いかない穀物供給を都市のために獲得することさえも困難なものにしたが、
それは工業製品があまりにもわずかで穀物とひきかえに農村に工業製品を送ることができなかったためであった。


117 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:43:46 ID:???

ボリシェヴィキは、その前の臨時政府と同様に、あらゆる非難を招いた。
しかしソヴナルコムの施策には積極的な側面もあった。
国有化と労働者統制は多くの工場が所有者によって整理解散されるのを防いだし、
暴利をむさぼる商売はなくなった。
当局はまた、あるだけの工業製品を農村に搬送しようとした。
しかし政策の逆の結果がさらに重荷となってのしかかった。
党の究極目標は資本主義の廃絶であり、これは実業家のあらゆる信頼をそこねることになった。
レーニン自身は、社会主義を即時にまた全般的に導入することを意図してはいなかった。
しかし彼は党全体ではなかった。
彼の同僚たちは、企業家を直ちに破滅に追いやることを威嚇的に語っていた。
戦争を終結させようとする熱意でさえも問題を複雑にした。
政府が軍需生産への資金調達を停止したとき、工場のうちで多数を占めていた軍需向け工場は、
即座には民需向け工場に転換できなかった。
混乱は予見できた結果であった。


118 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:44:19 ID:???

ソヴィエト共和国の対外関係もまた困難に向かいつつあった。
外務人民委員であったトロツキーは、自らの任務は元皇帝の秘密協定を暴露したのち辞職して
必然的に生ずる世界的な紛争を待つことだ、と警句風に述べていた。
しかし導火線は一九一七―一八年の冬には弱々しくくすぶっていた。
中欧と西欧での暴動、ストライキや反乱は革命を引き起こすには至らず、
ドイツの外交官たちはソヴナルコムが旧ロシア帝国の西部地域の主権をドイツに引き渡すよう要求した。
ドイツとの交渉を引き延ばそうとするトロツキーの計画は、数週間はうまくいった。
しかし一九一八年一月にドイツ側は最後通牒を手交した。
中央でも地方でもたいていのボリシェヴィキにとっては、「革命戦争」を遂行する以外に道は残されていなかった。
レーニンはこれとは違った考えに立ち、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの
単独講和を拒絶することは子供じみた政策である、と主張した。
二月になってドイツ側の軍事的優位が明白になると、他の党員たちもこれと同様な結論に達した。
ニコライ・ブハーリンやその他のいわゆる左翼共産主義者たちは、革命戦争への支持が弱まっていることを理解した。
ブレスト=リトフスク条約の条項によってソヴィエト政府は、
ウクライナとベロルシアおよびバルト海沿岸地域に対する権利を放棄した。
これはロシアの工業資源の五分の二を喪失させることになった。
それはまた、友好的な隣邦が現れることで経済を再建し政治的安定化を図るという希望を打ち砕いた。
それはまた穀物供給の困難を大いに悪化させた。
ウクライナの喪失は、地域住民を養うことさえできない地域から穀物を調達しなければならないことを意味したのであった。


119 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:44:54 ID:???

しかし党はどうにか生き延びた。
あらゆる社会革命のエリートは、住民の広範な階層の支持に依拠する必要がある。
一九一七―一八年には、ソヴナルコムの社会改革は労働者、農民、兵士のあいだでかなりの支持を受けていた。
自己解放と市民参加の気運がはっきりと残っていた。
党はまだすべての公的問題を管理したわけではなかった。
反対に経済と社会の基層での大多数の変化は、政府の法令とは無関係に実施された。
一九一七年末には男女労働者がボリシェヴィキ党員の六〇%を占めたといわれ、
彼らの存在が、「大衆」の目標が真剣に考慮されることを当面は保証した。


120 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:45:31 ID:???

選挙で選ばれた工場委員会が既存の工場管理部を監督しうる方法としての
「労働者統制」というレーニンの理念から、多くの工場労働者がはみ出していった。
それよりも彼らは、以前の所有者、管理者や職長をすっかり追放したのである。
ボリシェヴィキ党は一九一八年三月にロシア共産党と名称を変更したが、
その左派はこの創意を歓迎した。
左派の人々は同様に、より大規模な国有化政策を求める下からの要求に満足した。
対照的にレーニンは、工業の「管制高地」だけを国家所有とすることを望んでおり、
その過程も長い期間にわたることが想定された。
そのうえ、中・小規模の工場は政府の接収を免除された。
しかし多くの労働者はこの制限を放棄し、首都の当局に相談することなしに自分たちの工場を「国有化した」。
こうした労働者統制と国家所有の導入は、
抑圧と搾取から自由な新しい社会が建設されつつあるという民衆の気分を反映していた。
それはまた、工場の閉鎖を阻止するための必死の企てでもあった。
このように、ユートピア主義と慎重さとの問題が絡み合っていた。
そして工場の門外での政治に信頼をおいていた多数の労働者は、進んで国家機関の職務にあたった。
労働組合のような労働者自身の組織は、彼らの参加を必要とし続けた。
地方や中央の経済機関もまた、ニコライ二世の政府と臨時政府から引き継いだ官吏を監督する方法として、
労働者階級出身の人員を歓迎した。
ボリシェヴィキの理論は、都市プロレタリアートを社会主義革命の前衛と称揚した。
しかし非常に多くの労働者は、公務に就く上でほとんど煽動を必要としなかった。
彼らはロマノフ君主制を打倒したのであり、政治過程に参加し続けることを望んでいた。


121 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:46:13 ID:???

そうではあったが、失望の前兆はすでに現れていた。
全般的な経済状況は大量の失業をもたらした。
有給の職に就いている工場労働者の一九一七年の平均人数は、翌年には二三%低下した。
非熟練労働者は最もひどい影響を受けた。
彼らは農村との緊密なつながりをもつ傾向があったので、工場委員会は彼らに、
自分の村に帰って胃袋を満たすように勧めた。
しかし都市に居住するという特権は、職に就いていたとしても楽なものではなかった。
飢餓が現実の脅威となっていた。
ペトログラードでは、一九一八年二月にはパンの公定配給量を
一日あたり数オンス〔百数十グラム〕にまで減らさなければならなかった。


122 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:47:04 ID:???

労働者ははっきりと、ソヴナルコムによって説明される国家の利害よりも各自の企業の利害を優先し始めた。
国家を崩壊させるような地域主義が政府によって非難され、
農民の自己中心的な態度が同様に政府の怒りを引き起こした。
農民は自らの革命を欲し、そしてそれを獲得した。
一九一七年一〇月の「土地にかんする布告」と、四ヵ月後に制定された土地社会化法とが、このことを確認した。
資本家の大規模所有地の分割禁止といった農民をいらだたせた条項は、地方では無視された。
一九一八年の真夏までに、五万人近くの「アジテーター」が都市から農村へ赴いた。
しかし農村は煽動をほとんど必要としておらず、共同体のさらなる強化が起こった。
地域的な差異は見られたものの、全般的傾向は非常に明白であった。
一九ニ〇年までにヨーロッパ・ロシア三九県で共同体組織の外にあったのは、農民世帯のわずかに四%だけであった。
農民保有地でない土地の没収が続いた。
ロシアの中央農業地帯では、農民は彼らが以前に保有していた面積より四分の一多い土地に対する直接の管理権を獲得した。
またウクライナでは、増加した土地は、農民の以前の保有面積のおよそ四分の三であった。
しかし農民世帯が直ちに豊かになったわけではなかった。
ほとんどすべての家族はわずかの土地しか保有していなかったので、
ウクライナで見られたような大幅な保有地増加でさえも、農民を貧困から救うことはなかったのである。
土地飢餓が続いた。
そのうえ、一九一七―一八年に農民によって奪取された圃場のほとんどはどのみち、
賃貸された農民によって長年のあいだ耕作されていたものであった。
したがって農民が耕作する実際の面積は、わずかに拡大しただけであった。
にもかかわらず、革命の結果として生じた利益は些細なものではなかった。
わずかな土地であってもまったく増加がないよりはましだった。
地主に対する支払いはなくなり、抵当に入っている債務は破棄された。
そして農民は、政府の抑圧機関が永久にとり除かれたように思われた風景を見渡して喜んだ。


123 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 20:47:38 ID:???

しかし農民は、感謝の念を示さなかった。
高まりつつあるインフレーションと販売されている工業製品の欠乏とに警戒して、
農民は穀物を売りに出さないで保持し続けた。
しかし国家は弾力的ではなかった。
国家は兵士と労働者とを食べさせていく責任を負っていた。
そして食糧供給人民委員部は、完全な自由取引システムがソヴナルコムによって調達される小麦の量を減少させて、
さらなる配給の削減を余儀なくさせるだろう、と主張した。
モスクワの外では懸念が高まりつつあり、いくつかの地方ソヴィエトは穀物独占を一時的に中止した。
しかし人々はどこでも、非合法の物々交換で生き延びた。
最小量の食糧を徴発して穀物余剰を農民が私的に販売することを許していたならば、
ソヴナルコムはより賢明だったであろう。
結局、一九一七―一八年の冬には、軍と労働者階級の規模が急速に縮小した。
しかしイデオロギー上の要因がこの提案を実行できないものにした。
エスエルのチェルノーフを擁したケレンスキー政府がおこなったよりも大きな寛大さを私的事業に示すことを、
ボリシェヴィキは矛盾したことであると考えた。
もう一つの方法は、力の行使のみであった。
いくつかの都市の当局は一九一八年初めにこの方針を採用し、穀物の押収がおこなわれた。
農民との衝突が発生した。


124 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:04:17 ID:???

労働者階級と農民とが同盟し続けるであろうという前提に立脚した綱領を有する党にとって、
このすべてのことが打撃であった。
しかしボリシェヴィキは常々、この二つの社会集団のうちで農民をより信頼できないものと考えていた。
また、利益を求める農業を営むことを農民に止めさせて土地と労働力を社会主義的集団農場で共同利用させる計画が
着手されなかったことに、一部の地方党指導者は不満を覚えていた。
一九一七年一〇月から数ヵ月間の農村における紛争は、農民に対する党の疑念を強めた。
ボリシェヴィキ指導部は状況の犠牲者であったが、より大きな程度で犠牲を強いる者でもあったのである。
農村の災難は、都市における政治的に不寛容な行為に引き続いて起こった。
とりわけレーニンとトロツキーは、ケレンスキーの臨時政府に参加したことを理由に、
メンシェヴィキとエスエルにソヴナルコムへ参加することを呼びかける提案に反対した。
ボリシェヴィキ党中央委員会と人民委員の幾人かは、このことにひどく驚いた。
誰が新政府を構成すべきかにかんする事前の議論なしに武装蜂起が実施されたということは、
党指導部の見解の不統一を示す指標である。
レーニンとトロツキーは今や、思いのままに行動した。
異議を唱える同僚は辞任した。
そしてメンシェヴィキおよびエスエルとの交渉決裂は、すべての社会主義政党を結束する体制が
形成されるだろうと想定して権力奪取を支持した無数の労働者に対する侮辱の始まりであった。


125 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:05:19 ID:???

にもかかわらず、十月革命それ自体が、すでに十分とはいえない妥協の余地を一段と切り詰めた。
メンシェヴィキとエスエルは、レーニンが加わっている政府に参加することを拒絶した。
ボリシェヴィキの強制的な排除を求める要求は一般的なものであった。
メンシェヴィキはそのような要求を自制した唯一の反対党であったが、
彼らでさえもソヴナルコムに対する武装闘争を主張する集団を抱えていた。
一方で、極右派の力が再結集しつつあった。
ミハイル・アレクセーエフ将軍は、南部ロシアで義勇軍を組織した。
少なからぬカデットは、彼がうまくやることを願った。
ある者たちは、ソヴィエト政府の打倒を容易にできるならば
ドイツ軍の占領を歓迎する用意さえあったのである。


126 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:06:05 ID:???

レーニンとトロツキーは、何が何でも連立政権に反対だったわけではなかった。
彼らは十月革命の最中に、エスエル党から政治的に独立していた左派エスエルに
ソヴナルコムに参加するよう要請した。
最初の勧誘は拒絶された。
しかし結局一二月に、左派エスエルはソヴィエト政府の少数派の構成メンバーとなった。
さらにレーニンとトロツキーは、不寛容の一時代を開始することに誰よりも多く寄与していた。
権力を奪取する以前には、労働者が恐れを抱くだろうと思ったときには、
レーニンは内戦と独裁に特徴的な言葉の表現を和らげた。
しかし、ソヴィエト政権首班としての最初の週に命じた逮捕と新聞社の閉鎖が示したように、
レーニンは引き締めを意図していた。
続いて一二月におこなわれた非常委員会(チェカ)の創設は、きわめて重大な境界線を越えることを意味した。
その目的は、反革命とサボタージュとを撲滅することであった。
だが非常委員会は、証拠を集め処罰を遂行する上で司法上の手続きを遵守する必要性を軽減されていた。
そののち一九一八年一月五日には、憲法制定会議の会期初日がやってきた。
この会議の選挙でボリシェヴィキは、都市においては順調な結果を収めた。
投票をおこなった大多数の労働者が、ボリシェヴィキを支持したことは明らかである。
しかしボリシェヴィキ党は、全投票数のわずか二一%しか獲得しなかった。
農村の大きな支持をえたエスエルが、三八%を得票する勝利を成し遂げた
(しかもこの数字は、非ロシア人地域の姉妹政党への支持を含まずにであった)。


127 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:10:38 ID:???

この選挙は、ロシア史上初の自由競争による選挙であり、その後七〇年以上にわたって最後のものであった。
ソヴナルコムは事もなげに、この結果を受け入れることを拒否した。
憲法制定会議は強制的に解散され、たくさんの人々が街頭デモで銃撃された。
都市労働者階級は、一丸となってボリシェヴィキを支持したわけでは決してなかった。
経済情勢と暴力的な光景は意見の相違を強めた。
一九一八年春にボリシェヴィキは、中部ロシアの幾つかの都市ソヴィエト選挙で敗北した。
ふたたび投票結果が無効と判定された。
また、ボリシェヴィキ当局がソヴィエトに対する強力な支配力を維持していたペトログラードにおいては、
ボリシェヴィキに反対する多数の労働者が自らの全権代表会議を創設した。
これを粉砕するために暴力が用いられ、労働者たちが犠牲になった。

これらの処置は、ボリシェヴィキ党が無慈悲であることを明らかにした。
しかしそれらは同じ程度に、ボリシェヴィキ党の脆弱な権威の指標でもあった。
政府の存在は脅威にさらされていた。
しかし政府が生き延びたのは、その強制力を行使する機関が激しい活動を展開したからだけでなく、
ソヴナルコムの初期の経済法令に民衆が賛成し続けていたからでもあった。
さらに工場労働者の公職への昇進は、ソヴィエト国家を内部的に強化した。
また党それ自体も依然として、一般党員の大多数が労働者階級の出自であると誇ることができた。
ボリシェヴィキを打倒する見込みは、考えられたよりも小さかった。
飢餓、失業そして都市からの逃走は、組織化された抵抗の可能性を弱めた。
ソヴィエトは、一九一七年には独立した社会活動の基礎であった。
しかしながら、ソヴィエトを党の意思に従属させようとするボリシェヴィキの決意に対してソヴィエトが
その本来の姿を維持しようとするならば、ソヴィエトにきわめて都合の良い状況が長年続くことが必要であった。
反ボリシェヴィキ派の統一の欠如と低い士気とは、レーニンの課題を容易なものにした。


128 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:11:55 ID:???

内戦が勃発した。
財産諸法の基礎を攻撃する十月革命のような権力奪取は、本質的に武装闘争を誘発しそうな出来事であった。
一九四九年の中国と一九五九年のキューバにおいては、旧体制の解体は戦闘の最高潮に達した時点であった。
ロシアにおいては、一〇月の出来事は、その後長く続いた戦争状態に初めて近づいたことを告げるものであった。

ソヴィエトの軍隊が、一九一七年一二月にウクライナに派遣された。
その成功は一時的なものであった。
北部では、ドイツの軍事的脅威のために一九一八年二月にペトログラードからモスクワへの首都移転がおこなわれ、
さらにブレスト=リトフスク講和条約がウクライナからソヴィエトを撤退させた。
五月には、さらなる領土の縮小が起こった。
チェコスロヴァキアの旧軍事捕虜の軍団が、ソヴナルコムに対して反乱を起こした。
彼らはシベリアからヴォルガ川に至る地域で、ボリシェヴィキが指導するソヴィエトを一掃した。
数ヵ月のあいだ、ニコライ二世とその家族はウラル地方に拘禁されていた。
ソヴィエト当局は、チェコスロヴァキア軍団が皇帝一家を解放するのではないかと恐れ、
ロマノフ一家を処刑してしまった。
チェコスロヴァキア軍団に押されての退却が続いた。


129 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:14:22 ID:???

サマーラに至って軍団は、憲法制定会議のエスエル代議員が組織した政府に支持を与えた。
しかもなお、いくつかの反ボリシェヴィキ政党を代表する別の行政府が、シベリアのオムスクに設立された。
一方、プレスト=リトフスク条約と穀物徴発に激昂した左派エスエルは、ソヴナルコムの連立から離脱した。
ボリシェヴィキの困難は強まりつつあった。
アレクセーエフ将軍の死後にアントン・デニーキン将軍に率いられた義勇軍が、南部において活動していた。
秋にはアレクサンドル・コルチャーク提督が、シベリアで反動的な帝国軍将校の別の一団を結集した。
「赤衛軍」と区別するために白衛軍と呼ばれたこの二つの軍団は、
憲法制定会議を復興する意図などほとんどもっていなかった。
実際、一一月にコルチャークの部下がおこなった最初の行動は、
エスエルに支持されたオムスク政府を粉砕することであった。


130 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:16:52 ID:???

二月以降ソヴィエト政府は労農赤軍を組織しつつあり、トロツキーの熱烈で精力的な指導の下で部隊を急派して、
一九一八年夏の終わりにヴォルガ流域の諸都市を奪回した。
全面戦争への事態の急転は、一九一八年初頭以来ボリシェヴィキによっておこなわれていた、
ソヴィエト国家の諸制度を徹底的に見直す動きを強めた。
中央集権主義、規律および管轄画定が少しずつ導入され始めた。
一九一七年一〇月革命的秩序が大きな混乱をもたらしたと理解された。
政治もまた混乱の原因となった。
ブレスト=リトフスク論争は、ボリシェヴィキ党をばらばらに分裂させそうになった。
前線での状況が急激に悪化した一九一八年の真夏以降、位階制的な権力を求める主張は反駁しがたいものになった。
党は変容した。
組織論の上で長年のあいだ中央集権論者であったボリシェヴィキは、
彼らが唱えてきたことをついに実践しつつあった。
そのうえ、党の最上層での権力は、一九一九年一月に、
中央委員会からその内部にある二つの下部委員会へと移行した。
政治局が大局的な戦略と高度な政治の意思決定をおこなうものとされ、
組織局は党内行政を監督するものとされた。
ごくわずかの党官僚への権力の委譲は、地方党組織においてもまた進行した。
そのうえ党の機能は、事実上それが国家の最高機関となるほどにまで拡大された。
一九一八年には、ソヴナルコムの任務と中央委員会の任務とのあいだに混同がみられた。
政治局が新たに優位に立ったことは、転換点であった。
こうした布陣は実際には、理論上ほどには、整然としたものというわけではなかった。
党は赤軍に要員を送っており、それゆえ党の管理能力は時おり制限された。
赤軍とチェカの双方が、日々の作戦行動において大きな独立性を維持していた。
政治局は統制力を維持するために闘わねばならなかった。
しかし政治局が関心をもっていたのは結果であって、きちんとした方法ではなかった。
それ自身の内部的手続きが融通のきくものであった。


131 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:19:07 ID:???

レーニンは時々、本来の会議を開かずに政治局の同僚と電話で会話したのちに指令を発した。
ボリシェヴィキの考えでは、戦時には例外的な措置が必要なのであった。
ソヴィエト法の侵犯は、それが軍事的な成果に役立つ限りで認められた。
国中の仕事のスタイルは熱狂的なものであった。
それはまた威嚇的なものでもあった。
トロツキーは、軍事人民委員として、旧帝国軍の多数の将校を、赤軍に配員するために採用した。
彼ら一人ひとりに対してトロツキーは、その忠誠を確保するために、「政治委員」を貼りつけて監視させた。
また彼らの家族から人質もとられた。
社会主義者でない多くの人々にとって、ソヴィエト国家が魅力をもたなかったわけではなかった。
戦前の官僚は、文官と武官のいずれも、急速な昇進の機会をえた。


132 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:22:11 ID:???

党はまた、非ロシア人の共感を勝ちとる努力を続けた。
しかし民族自決の原則は、十月革命前にレーニンが約束したよりもはるかに限定的に実施された。
赤軍は再び領域を統合するという課題に責任を負った。
国境地帯にかんして住民投票をおこなうことは必要とされなかった。
にもかかわらず、非ロシア人が集中して居住した領域には、好意的な配慮がおこなわれた。
ウクライナ、ベロルシア、エストニアおよびラトヴィアは独自のソヴィエト共和国を獲得し、
それらは少なくとも公式的にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)と同等の資格をえた
〔一九一八年末、エストニアとラトヴィアでもソヴィエト共和国樹立が宣言された〕。
ロシア共和国内部では、民族自決共和国が樹立される、と政治局が定めた。
現地の言語で教育し新聞を発行する機会が提供され、
また非ロシア人は共産党に入党してソヴィエト体制の影響力の拡大を促進するよう奨励された。
ボリシェヴィキは、ロマノフ家の領土を回復すべく戦う一方、
赤い衣をまとった帝国主義者という非難を避けようとした。
実際、国際的な革命は目標であり続けた。
国外の極左政治グループとの連合が追求された。
そして一九一九年三月には、全世界の共産主義政党を統一し指導する共産主義インターナショナル(コミンテルン)の
創設大会がモスクワで開催された。


133 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:24:59 ID:???

「すべてを前線へ」がスローガンであった。
一九一九年春、白衛軍に対する戦闘が再び始まった。
秋までには、デニーキン軍とコルチャーク軍の双方が敗北した。
コルチャーク軍は真夏までに、遠くシベリアへ退却した。
彼らの苦境のおかげで赤軍は、デニーキンの二方向からの攻撃を
ヴォルガ川方面とウクライナの向こう側へ押し返すことができるようになった。
ニコライ・ユデーニチ将軍の率いる第三の白衛軍が、一〇月にエストニアからペトログラードに向けて移動した。
その軍隊は深刻な軍事的脅威ではなく、容易に粉砕された。
コルチャークは捕らえられて、一九ニ〇年に処刑された。
デニーキンは指揮権をピョートル・ヴランゲリ将軍に譲り渡したが、
この最後の白衛軍によるクリミア半島の包囲突破は短命なものだった。
一九二〇年秋までには、内戦の結果は疑いないものとなった。


134 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:26:40 ID:???

ソヴィエトのスポークスマンによれば、このすばらしい勝利はかなりの程度、
政府の経済政策の変更によって達成された。
この変更は一九一八年初頭に始まり、戦闘が激しくなったときに強化された。
工業の国有化を加速することに対するソヴナルコムの反対は立ち消えになった。
ほとんどすべての大規模工場は一九一九年一月までに国家所有となり、
また同年末までに事実上すべての中規模工場も国家所有となった。
これらの没収は、貴重な資源を政府が利用できるようにした。
一般的労働義務が法制化された。
工場では厳格な規律が求められ、都市の所有階級は除雪作業員や軍需工場の穴掘り要員として働くことを強制された。
都市で生産された製品は、主に赤軍に配当されることになった。
食糧配給も同様に赤軍が優先された。
また、一九一八年初頭に突発的に実施された穀物の強制徴発が制度化されていった。
富裕ではない農民との協力が追求された。
一九一八年六月に政府は、食糧余剰を退蔵している富裕な家族が誰かを明らかにするため
「貧農委員会」を設立するよう村々に命令を発した。
一九一九年二月には、さらなる措置がとられた。
中央当局は、各県に対する食糧引渡し割当量を定めた。
武装した都市住民の部隊が、現地の共同体に割り当てられた供出量を要求することになった。
それは冷酷な処置であった。
農民が自分たちの食糧にするとともに播種用に残しておくために全穀物を必要としたところでさえ、穀物が略奪された。


135 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:29:46 ID:???

このような措置は、状況に即した実際的な対応であった。
しかし同時にイデオロギー的な要素も存在した。
一九一七年以前に党の力不足と迫害という試練の炉で燃え立ったボリシェヴィキの理念は、
確固とした強さを失っていなかった。
私有を排除した、貨幣のない、集権的に統制された経済を党は熱烈に望んでいた。
レーニンは十月革命時に、他の多くのボリシェヴィキ指導者が主張したよりも用心深い速度で
工業と農業における変化を進めることを提唱したが、そのレーニンでさえ興奮に心を奪われた。


136 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:40:18 ID:???

それでも「戦時共産主義」の経済は、多くの基準に照らしてみると、非常にうまくいったというわけではなかった。
一九ニ〇年の工場生産は一九一三年の総生産の七分の一であり、一九一九年の政府の穀物調達量は、
一九一七年の総調達量に比べてさえ三分の一にすぎなかった。
白衛派はこの点で不利な立場にはなかった。
コルチャークとデニーキンは、イギリスとフランスから軍事物資の供給を受けていた。
また彼らの軍隊は穀物の豊富な地域から出撃していた。
しかし他の点では、共産主義者はより幸運であった。
一九一八年一一月に終結した第一次世界大戦での連合国の勝利は、
東ヨーロッパにおけるドイツ軍の占領に直ちに終止符を打った。
またアルハンゲリスクとオデッサに上陸したイギリスとフランスの派遣部隊は、
ほとんど戦闘に加わらなかった。
連合国は一九一九年末には軍事干渉を中止した。
加えてコルチャークとデニーキンは、「単一にして不可分のロシア」という彼らの理想を語ることで、
自ら困った事態を引き起こしていた。
これが非ロシア人を怒らせ不安にさせたのであった。
とりわけ白衛軍将校の反ユダヤ主義的中傷が、ユダヤ系住民をボリシェヴィキ支持の側につけた。
ラトヴィア人もまた、共産主義者に非常に有能な部隊を提供した。
伝統的に帝政を支持した集団であったコサック部隊でさえ、進んで赤軍騎馬隊を組織した。
道なき田舎では、馬の利用は重要だった。
戦闘様式は機動性の高いもので、第一次世界大戦時の塹壕突破技術は不必要であった。
鉄道の地理的配置のために、白衛派は絶えず自由な動きを妨げられた。
モスクワとペトログラードを決して失うことのなかったボリシェヴィキは、
通信と輸送の二大中心地と兵士となりうる大多数の人々が住む地域とを保持し続けた。
どちらの側も一方的に戦略上の間違いをしたわけではなかった。
しかし赤軍の回復の見込みはより大きく、レーニンやトロツキー、
スヴェルドロフおよびスターリンの機略と冷酷さとを具えた白衛派の指導者はいなかった。


137 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 07:42:59 ID:???

そのうえ政治局は、政見一般により大きな魅力を有していた。
コルチャークもデニーキンも、農民から地主の土地をとり戻すことを公然とは主張しなかった。
しかし彼らの部下たちは反動派であった。
農民の「抵抗の首謀者」は絞首刑にされ、白衛軍占領地域では土地がかつての地主に戻された。
そうした地域の都市では、ボリシェヴィキ党活動家を処刑が待ちうけていた。
一九一七年に民衆が勝ちえた利益に対するこうした全面攻撃を無分別だと理解したエスエルは、追い払われた
(そして共産主義者と白衛派とのあいだで選択を強いられた彼らの多くは、赤軍に加わった)。
カデットは白衛派政府において多くの役職を占めた。
しかし彼らもまた、軍指揮官たちから疑いの目で見られていた。
またほとんどのカデットは、白衛派の非道を制止しようとする勇気を具えていなかった。
ボリシェヴィキ党の綱領は、これに比べると大いに役立った。
新聞『プラウダ』紙上や「宣伝列車」によって、また兵士や活動家の口々に、次のような言葉が発せられた。
内戦における共産党の勝利は、財産を有するかつての支配集団が力をとり戻さない唯一の保証である、と。


138 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 10:59:55 ID:???

それでもボリシェヴィキは、もっと幅広い支持を獲得することもできたはずだった。
軍事的な抗争は僅差での勝利だったのであり、もし共産主義者がいくつかの政策を
もっと速やかに放棄していれば、彼らに不利な情況は多少とも改善されたであろう。
しかしチェカは暴れまわった。
都市の中流階級に対する非道なふるまいがおこなわれた。
また、時には生き延びるために穀物を取引するというとても凶悪犯罪とはいえない理由で、
数千人の労働者と農民も獄中で死亡した。
農業分野の立法措置は、ボリシェヴィキの評判を一段と悪化させた。
一九一八年なかばに設立された貧農委員会は、ほとんどの農戸がそれを不快に思ったために、
その年が終わる前に廃止された。
そうではあったが、農民に対する強制が続けられた。
ウクライナでは、農民を集団農場に押し込む努力がなされた。
政治局はそうした計画を無効にした。
しかし政治局の構成員もまた穀物徴発に固執しており、
一九ニ〇年までは穀物徴発の方針を永続的な政策とみなしていた。
このことが問題を引き起こしつつあった。
この同じ年には、党組織は都市においても図に乗りすぎた。
軍の兵士を動員解除するかわりに彼らを「労働軍」に転属させるほどに、工場の規律は極端なものになった。
また革命を国外に広めるという野望も忘れられてはいなかった。
ピウスツキ〔独立後のポーランドの国家元首〕指揮下のポーランド軍が、一九ニ〇年春にキエフを奪った。
赤軍は反撃した。
迅速な軍事行動によって、赤軍はワルシャワに肉薄した。
政治局は「ヨーロッパ社会主義革命」を視野に入れた。


139 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:00:34 ID:???

暴力的な動乱は、第一次世界大戦後のロシア帝国に特有のものではなかった。
一九一九年一月には、ドイツのスパルタクス団〔大戦中に創設された左派社会主義派の組織で、
一九一八年末にドイツ共産党を結成した〕がベルリンで一時的に蜂起をおこなった。
一九一九年三月には、バヴァリアとハンガリーでソヴィエト共和国が宣言された
〔バヴァリア共和国が樹立されたのは四月〕。
また一九ニ〇年には、北イタリアの労働者評議会運動がすんでのところで国民革命を引き起こすところだった。
にもかかわらず、ロシアでは殺戮の規模とそれが続いた期間とがそれらのうちで最大であり、
ロシアの出来事に並ぶほど激しかったのはハンガリーの戦闘だけであった。
ロシアの被害は甚大であった。
一九一八年から一九二三年のあいだに国の人口が実に七〇〇万人も減少しており、
戦闘での死亡よりも病死のほうが数で勝っていた。
戦闘部隊とその軍民双方の指導者たちは、この流血の規模に重大な責任を負っていたが、
彼ら自身もまたこの過程に関与したことから強く影響を受けていた。
とりわけボリシェヴィズムには大きな影響が現れた。
大衆的説得と大規模な強制とをめぐる論争は、党の理念においては、一段と決定的に、暴力に有利に展開した。
独裁と内戦についての大雑把な概念は、長年のあいだボリシェヴィキの思想の中に存在していた。
十月革命後の軍事的対立は、その概念をはなはだしく発展させた。


140 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:02:05 ID:???

こうして一九一八年以後、社会に対する軍隊調の統制が強まった。
しかし服従はとても完璧とはいえない代物であった(一九七四年以降のチリにおけるピノチェト政府のような
あからさまな軍事政権でさえ、たいてい気がつくことだが)。
工業労働市場の規制は、主に熟練労働者の深刻な不足のために、不可能であることがわかった。
熟練工は食べ物を求めて村へ逃れ、農民がその手工業製品を購入したので、その結果農村で工業が生き残った。
また国家は耕作地を維持することができなかった。
一九ニ一年に穀物が播種された面積は少なくとも一六%減少しており、おそらくはより一段と減少していた。
都市の食糧の半分は、農村で非合法に小麦を買い付けた「かつぎ屋」から闇市場で供給された。
規律の低下は赤軍にさえも影響を及ぼした。
単に召集令を無視した多数のものを含めた脱走兵は、一九一九年に一〇〇万人に達した。
この数は、戦線で実際に戦っている総兵員数にはるかに及ばないものではなかった。
ソヴィエト当局に対する抵抗は、ますます活発な形をとった。
モスクワとペトログラードでは、内戦期間中にストライキが起こった。
農村は不安定であった。
公式報道は、一九一九年なかばまでに三四四件の農民暴動が発生した、と慎重に認めた。
一九ニ〇年には、公然たる抵抗が強まった。
農民反乱がタムボフ県を全域にわたって制圧した。
ウクライナと西シベリアは、白衛軍と共産主義者とを等しく嫌悪した「緑軍」の名で知られた農民部隊の根拠地であった。
都市におけるストライキ行動は次第に強まりつつあった。
一九ニ一年二月までには、クロンシタットの水兵は反乱の瀬戸際にあった。


141 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:04:04 ID:???

農民の暴徒、ストライキ労働者そして水兵の反乱者は、行動を合わせたわけではなかった。
しかし彼らの要求は互いによく似ていた。
彼らが求めたものは、穀物徴発の廃止、食糧供給の増量、政党間の自由競争を再びとり入れ
ボリシェヴィキの権力独占を終えること、であった。
敵対勢力の包囲の環は強まった。
一九ニ〇年八月には、ヴィスワ川の戦いでポーランド軍が思いがけなく赤軍を打ち破り、
そののち講和交渉がおこなわれた。
国内ではボリシェヴィキ党は、ソヴィエト体制が依拠しうる唯一の機関のように思われた。
しかしボリシェヴィキ党への依拠さえも問題を含むものであった。
戦時の中央集権化は、地方と中央のボリシェヴィキ組織のあいだの軋轢を小さくはしたが、
とり除いたわけではなかった。
党内競争は激しいものだった。
そのうえ多数の労働者が、戦時共産主義に抗議して党の隊列を去った。
一九ニ〇年までには一般党員の五分のニ弱が労働者階級出自であるとされたが、
これさえもおそらくは誇張であった。


142 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:05:44 ID:???

一九ニ一年二月に政治局は、新経済政策(ネップ)の名で知られるようになった大きな改革について決定した。
穀物徴発は廃止された。
それは累進的な現物税にとり替えられ、一九ニ〇年にはほぼ七〇〇万トンの穀物が求められたのに対して、
穀物調達の目標は四〇〇万トンより少なく設定された。
農民は穀物の余剰を合法的に取引できた。

一九ニ一年三月の第一〇回党大会は、この政策転換を承認した。
同時に党大会は、クロンシタット反乱〔クロンシタット軍港で起きたバルト海艦隊水兵の反政府反乱〕を
鎮圧するために代表を派遣した。
すべての抵抗は粉砕されねばならず、体制から政治的譲歩が引き出せると考えることは
国内では誰にも許されなかった。
エスエル指導者は一九二二年に見世物裁判にかけられ、長期間の禁固刑が言い渡された。
第一〇回党大会は早くも、ボリシェヴィキ党内の分派を禁止した。
民主主義的中央集権派は、政治局の権限の削減を主張した。
労働者反対派は、経済的決定に対して労働者がより大きな統制権をもつことを望んだ。
この二つの分派は抑圧された。
レーニンは、困難な経済的退却がおこなわれているときには党内の統一は堅固でなければならない、と主張した。
一九ニ一年には私営企業が工業に再登場した。
小工場は農民が購入する多くの商品を伝統的に供給しており、
農民世帯が都市で余剰穀物を売りに出すようにさせる条件を創り出すために、
農民向けに生産する多くの小工場が、国家によって以前の所有者に賃貸された。
一九二三年までには、小規模工場の労働者のうち、政府に雇用されている者はわずか二%にすぎなかった。
外国の会社との取引を復活する努力がなされた。
ネップはロシアに資本主義を呼び戻した。


143 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:07:26 ID:???

しかし、レーニンがおこなおうとしていた経済的妥協には限界があった。
大工場や銀行や外国貿易は、政府の手中に残された。
中央の工業計画もまた目標であり続けた。
ネップのあいだソヴィエト体制は、私的部門を犠牲にして国家部門の優位がしっかりと維持された混合経済を統括した。

そうではあったが、政治は混乱状態のままであった。
一九七〇年代と八〇年代のイラクにおけるバース党の経験が示しているように、
一党制国家の創出はそれだけでは単一党内部の緊張を除去するものではない。
一九ニ一年以降、ボリシェヴィキのあいだでは多くの論争があった。
ネップが都市に十分な食糧を確保するかどうかは誰にもわからなかったため、ネップそれ自体が巨大な賭けであった。
都市人口の減少と軍隊の動員解除は、政府が食糧を供給する必要を低下させた。
しかし一九ニ一年に設定された税収水準はこの低い必要量以下であり、配給制度は段階的に撤廃された。
どの家族も食糧を求めて買物をしなければならなかった。
ネップの危険性は、一九ニ一年の収穫が不十分であるとわかったときに明らかなものになった。
一九ニ一年にジェノヴァで開かれた国際会議でイギリスとフランスの代表団は、
世界貿易コミュニティへの復帰を求めるソヴィエトの要求をはねつけた。
列強の中では、ドイツ人だけが最初に協力した。
そのうえ国内での価格政策が失敗した。
農民は一九二三年までに、都市で生産された製品に対して実質価格で一九一三年の三倍の額を支払うよう求められた。
トロツキーの鮮やかな比喩によれば、工業価格の刃と農業価格の刃とが離れたために経済の鋏が開かれたのであった
〔農産物価格に対して工業製品の価格が上昇し、「鋏状価格差」とよばれた〕。
農民は穀物を売りに出すことを停止してこれに応じた。
政治局は鋏を閉じるために価格を調整しなければならず、経済的な無力さと農村の資本主義に対する寛大さとの両面で
トロツキーや他の左派ボリシェヴィキに批判された。


144 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:08:17 ID:???

にもかかわらず、ネップは経済復興のための対処法として維持された。
それぞれの阻害要因に対処するよう薬の服用量が調整され、全般的な立ち直りが生じた。
そして薬を服用させるために用いられた強制とともにこの達成が、
ネップが広く受け入れられたことを説明するのに役立っている。
農業と工業は利益をえた。
一九二六年の穀物生産は、一九〇九年から一九一三年の平均生産量とおおよそ同じであった。
畜産は戦前の生産性をかなり上回った。
こうして、帝国時代に始まっていた農業を多角化し集約化する動きが再開された。
一九一三年には播種面積の九〇%が穀物栽培にあてられていたが、
一九二八年までには穀物栽培に八二%が必要とされただけであった。
サトウダイコン、ジャガイモおよび綿花の産出高が増加した。
農業技術の向上が進んだ。
一九二〇年代後半には、馬が牽引する農機具の年間供給量が第一次世界大戦前のそれを超えていた。
また一九ニ七年にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国で播種面積の一七%において多圃制がおこなわれていたが、
これに対して一九一六年には同じ領域で多圃制がおこなわれていたのはわずか一・五%であった。
こうした数字は、資本主義的領地経営の利益を喪失した農業部門が停滞に陥ったという見解の誤りを立証している。
ネップはそれ自身の穏やかな速度で前進したのである。
工業部門においても強力な回復が生じた。
私的な小規模生産と手工業生産は、一九二六年―二七経済年度にはすべてのタイプの企業で
一九一三年の水準よりほんのわずか低いところまで上昇した。
別の研究は、一九二六―二七経済年度の生産のほうが六%上回っていたと主張している。
またネップは、工業への投資の減少をともなったわけでもなかった。
工業技術力は戦前期を上回っており、工業生産高全般のうち生産に再投資された比率は、
ニコライ二世統治下に比べて少しも低くはなかった。


145 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:09:16 ID:???

工場生産活動において六%の年間成長率を維持する可能性は、
周囲をすべて敵対的な資本主義列強に囲まれた社会主義国家にとってはなかなかの出来であった。
「一国社会主義」が体制の攻勢のスローガンになっていた。
しかし経済的孤立は実際には利点がないわけではなかったし、全く徹底していたわけでもなかった。
一九一七年におこなわれた数十億ルーブリにおよぶ政府債務の一方的破棄は、ロシアを巨大な財政負担から解放した。
そのうえイギリスが一九二四年にソヴィエト共和国と通商関係を回復した。
世界との貿易は一九二〇年代を通じて増加した。
石油輸出は第一次世界大戦前に記録された量の二倍以上になった。
また政府は、この外貨収入を用いるとともに工業に利権獲得者を引き寄せながら、
国の技術的基礎を刷新しようと努めた。
外国での買入れもまた非常に重要であった。
一九二六―二七年に購入された機械類やその他資本設備の五分のニは輸入されたものであった。


146 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:51:01 ID:???

経済戦略についての論争は、第一次世界大戦後のヨーロッパ政治に共通のものだった。
それはロシアにおいてはとりわけ激しくまた公然たるものだった。
成熟した工業社会という目標が、党と政府の官僚すべてに共有されていた
(これに対して旧体制下では無数の官僚や地主貴族が工業主義を忌まわしく思っていた)。
このことが経済の回復を促進した。
加えて労働関係は二〇世紀初期のどの時期よりも安定していた。
内戦終結時に、トロツキーはストライキの非合法化を強力に主張した。
実際には、労働者階級が十月革命から獲得したものは、それほど大幅に削減されたわけではなかった。
ストライキは発生した。
厄介な年であった一九二七年にかんする公式報告によれば、二万一〇〇〇人の労働者のみがストにかかわっていた。
しかしこれは多分、かなりの過小評価であった。
生産性を引き上げるために、政府は労働を制限する慣行を除去する必要を強調し、時間=動作研究
〔一九二〇年代に生産性向上のために試みられた、効率的な労働者養成法を確立する研究〕の専門家が企業を巡回した。
しかし彼らの勧告はめったに実施されなかった。
労働組合中央指導部はボリシェヴィキが独占しており、国有企業でのストライキを認めなかったが、
それでもなお彼らの交渉活動は完全におざなりのものというわけではなかった。
そのうえ労働者階級は、ネップの下で勤め口が増えたことを歓迎していた。
一九二〇年には大工場において雇用されていた労働者は一二〇万人にすぎなかったが、
一九二六―二七年までには二八〇万人に増加した。
農村に移動したり内戦で赤軍に勤務したりした男性は、そこから戻ってかつての職に就いた。
女性は戦時には工場で歓迎されたが、工場から解雇されがちであった。
一九二一年の賃金は、実質で一九一三年の賃金の三分の一にすぎなかった。
しかし状況は好転した。
一九ニ七―二八経済年度までには賃金水準は再び帝政期の水準にまで達しており、
おそらくは二四%それを上回っていたであろう。
一部の失業者にとっても、ロシアで初めて国家が財政的救済をおこなった限りでは、ある程度の改善があった。


147 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:51:42 ID:???

この改善は、体制が生き残ったことを説明する一助となっている。
しかし社会的な不安定状態を引き起こす力は持続していた。
工場での仕事が増えたことが、大量の失業を皆無にしたわけではなかった。
一九二七年には一〇〇万人を超える労働者が失業者として登録されていた。
採用と解雇の手続きは、国営工場においてさえ依然として独断的なことがあった。
ネップへの移行後に「ネップマン」という名で知られた小規模な商人は、商売で大きくあてようと奮闘した。
贅沢な商品を販売する商店が、ペトログラードのネフスキー大通りに再開した。
一九二一年六月に正式に創設された、刊行前に検閲をおこなう事前検閲機関であるグラヴリト〔文学・出版総局の略称〕の
網の目をすり抜けて、ソヴィエト体制を遠まわしに批判するいくつかの小説が現れた。


148 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:54:16 ID:???

間断なく勝利のうちに社会主義へ前進しようとする党の期待は、無遠慮にもくじかれた。
ほとんどの労働者は党の理念に無関心であり、チャーリー・チャップリンの映画が
ソヴィエトのアヴァンギャルド政治映画の人気を凌駕したことは党の宣伝活動家をいらだたせた。
そのうえ農民はマスメディアの影響を受けずに生活しており、
ほとんどの農村では農業技師や測量技師はあいかわらずめったに見かけない存在であった。
ネップの下では、ヨーロッパ・ロシアにおける農村世帯の生活の九割がたを規定したのは土地共同体であった。
反宗教を掲げる共産主義は、農民のキリスト教信仰に(あるいはソヴィエト共和国の南部・東部地域では
ムスリムに対して)ほとんど影響を与えることはなかった。
性慣習はほとんど変化しなかったようであり、この事情は都市住民にもあてはまった。
どちらかといえば、公式のソヴィエト当局がかつての社会的礼儀の規範を嘲笑したために、
人々の態度は一般にぞんざいなものになった。
しかしほとんどの人々はともかく、国家による干渉を受けないで何とか暮らしていくことを望んだ。
避難場所となりえたところは、数百年のあいだ存在してきた小規模な非公式集団、すなわち農民共同体や
労働者のゼムリャーチェストヴォ〔同郷団〕、宗教グループそして民族や一族のつながりであった。
国家の干渉が強まるにつれて、これらはより強力になった。
こうして十月革命と内戦とは、たくさんのものを変容させた一方で、
多くの点で社会に対して変化を抑える効果をおよぼしたのであった。


149 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 11:56:42 ID:???

けれども変化が全くないわけではなかった。
革命あるいは赤軍に加わった経験を通じて自信をつけた若い農民は、より大胆に年長の農民に反抗した。
しかしこのことは、農村の多くの経済的慣行を打ち破るまでには至らなかった。
一九一七―一八年には農民世帯のあいだで土地保有の平準化が起こり、
富農あるいは貧農に分類される農民の割合は縮小した。
だが社会的分化がまた現れてきた。
多くの貧農は、自分の土地を耕作するための農具や家畜をもっておらず、
土地をより豊かな隣人に賃貸して自らは雇用労働者として働いた。
こうした成りゆきを禁ずる法令は施行しえないものだった。
政府は一九二〇年代なかばの一連の段階的措置によってこのことを認めた。
社会的および物質的不平等が再び拡大した。
一九ニ七―二八経済年度までには、ヨーロッパ・ロシアにおける穀物の純売上高の五六%が、
わずか一一%の農民世帯の販売によるものになっていた。
では農民の状態はニコライ二世統治下で広く見られた状態と大きく異なっていたのだろうか?
この問題に答えるには議論の余地のないような研究が必要だが、
一つの重要な事実は、ネップ期には農民のあいだにより多くの穀物があったということである。
農村から搬出された収穫物の比率は、一九一三年から一九二六―二七年のあいだに二〇%から一五%、
ひょっとしたらもっと低くて一〇%以下にまで低下した。
より多くの農民と彼らが飼育する家畜は以前より多くの量を、また質の良いものを食べた。
一九二〇年代なかばの農村では、「騒動」が起こったとほうじられることはほとんどなかった。


150 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 12:02:43 ID:???

しかし農民にとってネップは楽園ではなかった。
ネップの下では、農村での工業製品の実質価格は第一次世界大戦前よりも高いままだった。
政策には多くの社会集団それぞれの要求のあいだの均衡が必要であり、
労働者や農民そして行政官の要求には、当局の特別の配慮がなされた。
国家官僚制の活動は一九一七―二〇年の大混乱ののち落ち着いたものとなり、公務員の給与と諸条件はよくなった。
政府の権力は一九二一年以降ひき続き強力に押しつけられた。
政治局の自信はかなりの程度、長年にわたる抑圧と戦争とが
政治局の支配に対するあらゆる組織的な妨害を打破したという事実に由来していた。
社会の意見を反映するよりもそれを指導することを常に重んじてきたボリシェヴィキ指導部は、
現状に対するいかなる脅威も望まなかった。
実際に政治的暴力は内戦後には減少した。
公然たる反革命は国外に追いやられた。
動乱の時代に一〇〇万から三〇〇万の人々が国外に移住したが、彼らは主に中流・上流階級に属する人々であった。
ボリシェヴィキにとって相変わらず脅威だったのは、政治的右翼によるものではなく左翼によるものであった。
二つの小規模な反ボリシェヴィキの共産主義政党が組織された。
しかしそれらはチェカによって容易に粉砕された。
赤軍はその規模を削減された。
国は侵略に対して守りを固めた。
一九二一年のグルジア人の反乱と中央アジアのムスリムのゲリラ戦を除けば、
国内の武力紛争はほとんど厄介なものではなかった。
当局は何事も成りゆきに任せることはなかった。
かつては修道院として使われていたソロフキ島監獄が、かたくなに抵抗する積極的な反対派のために用意されていた。
ネップ期におけるレーニンのロシアは、政治的な自由のない点でニコライ二世時代になおまさっていた。
ボリシェヴィキはゆるぎない独占的権力を有していた。
一九一七年以前に君主制が成し遂げたことはせいぜい、
政党の群れをやせこけてほとんど光のあたらない存在に限定しておくことであった。

151 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 12:03:59 ID:???

しかしながらソヴィエト体制は、単にすぐれた大量処刑執行人であっただけではなかった。
それはまた、いくらかの政治的管理術に磨きをかけた。
新たな商業の権益が確認された。
農民や商人および小規模企業家は、従前どおり自分たちが恣意的な警察の手入れの犠牲者だと感じており、
商売の環境は不安定だった。
それでもそれは以前よりは安定的なものになった。
同様に正教会に対する迫害も、一九二二年に逮捕と処刑によって
正教会に損害を与えるキャンペーンがおこなわれたのちには緩和された。
反キリスト教および反イスラム教の暴力は単に不安を引き起こすだけだと理解された。
そして政治局は、とくに優れた農業経営をおこなっている分離派の農民を宗教的に迫害することを避けようとした。
国家は一般に、より慎重にそしてさまざまな予測を立てながら権力を行使した。
こうして技術的な専門知識に対しては高い報酬が用意された。
次第に多くの非ボリシェヴィキ「専門家」がソヴィエト諸機関に引き入れられ、
メンシェヴィキの経済専門家がとくに目立つ存在になった。
非ロシア諸民族の好意も従前どおり獲得するよう努められた。
一九二二年一二月には、ソヴィエト社会主義共和国連邦の結成が承認された。
モスクワはすべての外交政策と内政のほとんどにかんする指導権を維持したが、にもかかわらず
ウクライナ・ソヴィエト共和国のようなさまざまの地域的単位に教育、保健や司法にかんする実質的な影響力が与えられた。
有能な非ロシア人の若者たちが、諸機関で役職に就いて十月革命の利益とともに
それぞれの民族グループの利益を促進するよう激励された。


152 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 12:08:03 ID:???

しかしボリシェヴィキの自己適応性には限界があった。
単一政党が統治しており、従来どおり政治局が党を支配していた。
レーニンは独裁者ではなかった。
しかし彼の説得力と決断力がたいていは勝利をえた。
党外では、彼はソヴナルコムの議長職を維持した。
複雑な混合経済は、小規模な党中央機関の能力を超えた詳細な意思決定を要求した。
ソヴナルコムの意義はそれに応じて増大した。
しかしレーニンは一九二四年に死去し、ただちに政治局が統制力を強化した。
他の党中央諸機関、とりわけ組織局と書記局とが、ともかくも内戦以来その力を強化していた。
統制のとれた位階制的な地方の委員会という構造がすべての党中央指導部に共有された目標であり、
要員の選抜がきわめて重要な問題となった。
一九二二年以降スターリンが占めていた書記長の役職は、不可避的に影響力を獲得した。
レーニンは死の直前に、スターリンがあまりにも粗暴で破廉恥に過ぎると決めつけた。
しかしスターリンを書記局から追放する彼の企てはあまりに遅すぎた。
スターリンの支配下で、一九二〇年代中ごろには党に対する中央機関の統制が強まった。
独断的な命令が典型的なものになった。
しかし模範的な従順さは、すんなりと単調な日常業務になるわけにはいかなかった。
各地方委員会書記は極度に活動的でなければならず、彼は率先力を示さなければならなかった。
地方委員会書記は、政治局の高度な目標が危うくなったときにはいつも、
官僚主義的形式主義を克服することを期待されていた。
規則正しい手続きにかんするネップの圧力は決して絶対的なものではなかった。
以前と同様に、行動と達成とがより重要なことであった。


153 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 12:08:40 ID:???

政治局はすっかり満足したわけではなかった。
党内での分派の禁止は、完全には実施されていなかった。
論争は政治局をも分裂させており、裁定が必要とされたために中央委員会の(そして政策の履行を
監督するために一九二〇年に創設された中央統制委員会の)権威はいくぶん回復することになった。
そのうえソヴナルコムの人民委員部は、党の指令を申し分なく受け入れたわけではなかった。
一九二〇年代の政治システムには、圧力集団のようなものが出現した。
その後のソ連や他のすべての国々においてと同様、政府の職員はしばしば、
彼ら自身の機関の利害に都合のよい助言や情報を提供した。
人民委員部で働いているボリシェヴィキ党員とて例外ではなかった。
最高国民経済会議の歴代の指導者たちは、工業への国家投資を増やすことを支持する主張を展開して、
この趨勢を典型的に示していた。
特定の地理的範囲を基礎とした機構間の提携が非公式に活躍した。
ドンバスやウラル地方の政治家たちは、石炭業の急速な拡張のための措置を提唱する傾向があった。
政治局はそうしたロビー活動をあるがまま受け入れながら、労農監督人民委員部に主要な諸問題を別途調査させて、
はなはだしく間違った情報を受けることを回避しようとした。
金銭上の腐敗行為もまた調査された。
しかし労農監督人民委員部にとってはるかに処理しにくい課題は、
国家の日々の正常な行政活動がきちんとおこなわれるよう保証することであった。
ロシアは、とりわけ農村においては、多くの点で「十分に統治されていない」ままであった。
規制とサービスの公的ネットワークの密度は低かった。
いっそう悪いことに、政府の役所は対応が鈍いことでいみじくも知られており、
要求や苦情の手紙を握りしめた不安そうな市民の行列が都市生活の相も変わらぬ特徴であった。


154 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:17:12 ID:???

このことがまた、党と都市労働者階級とのあいだの相互的な結びつきについての心配を大きなものにした。
一九一七年に創り出されたその結びつきは、非常に貧弱なものになっていた。
しかしそれはばらばらに壊れてはいなかった。
党は、説得や昇進そして巧妙な操作のための手腕を発揮した。
『共産主義のABC』〔ブハーリンとプレオブラジェンスキー(後出)が一九一九年に著した有名な入門書〕
のような書名がついた多数の入門書が、ボリシェヴィズムの究極目標を説明した。
ポスター芸術が隆盛をきわめた。


155 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:18:04 ID:???

レーニンは、党においてだけでなくより広く社会において和解のシンボルとなることによって、
非妥協的であることに終わりを告げた。
政治局はロシア・ナショナリズムを厳しく抑制し、それにつながるパイプとなりうるような
あらゆる組織に――正教会も含めて――徐々に影響力を及ぼして弱体化させた。
しかし、統治のスタイルはこの国の伝統に適応しなければならない、と公に理解されていた。
農民は、かつてロマノフ朝の皇帝のもとへ旅したように、レーニンに親しく請願すべく旅をした。
彼らは自ら進んでそうしたのであり、またレーニン自身もその実践を奨励した。
そのうえ一九二四年に彼が死去したのち、
無神論者レーニンが擬似宗教的な崇拝の対象となるようなレーニン礼賛が組織された。
他の国家儀礼もまた推進された。
社会主義にかかわりのある日には、毎年恒例の行進や祝賀行事がおこなわれた。
労働者が公然と集まることを完全に禁じられて政治体制全体を恨みに思うよりも
休日に彼らが街頭に出るほうがいい、とボリシェヴィキは理解した。
祝典は組織と対になっていた。
文化団体やスポーツ団体が、国家の財政支援を受けて登場した。
一九二七年までに労働組合の構成員はほぼ一〇〇〇万人になった。
ボリシェヴィキは、党の統制下にある組織にできるだけ多くの人々を統合し動員することを目指した。


156 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:18:50 ID:???

無関心と敵意は大きくなりつつあったけれども、党は労働者階級を
ボリシェヴィキの政治的主導権に少なくとも黙って従わせていた。
党員のおよそ五五%が労働者階級の出自であるといわれた。
実際には多くが都市中流階級の下層の出身であり、それゆえ体制にとっては疑わしい存在であった。
このことはまた、国家行政の構成要員についてもあてはまった。
そしてボリシェヴィキの中央指導者たちは、かつての支配階級がひそかに権力の座に復帰しつつあると心配していた。
しかしこれへの対抗策はかなり効果的なものであった。
一九二六年と一九二八年におこなわれた調査では、国家官僚の大多数は君主制下では役職に就いていなかったのである。


157 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:20:20 ID:???

それにもかかわらず一九二七年以降、ネップそれ自体は崩壊の進んだ段階にあった。
一見したところ、これは不可解なことである。
ネップは工業と農業の両部門を経済発展のコースに戻すのに役立ったし、
さらなる前進の可能性は大きいものであった。
経済的な目的達成の点でボリシェヴィキが帝政期の業績に匹敵しただけであったとしても、
政治の面では彼らは混乱を小さくする上でより容赦なくまた構想力に富んでいた。


158 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:22:29 ID:???

このことはボリシェヴィキを国内の厄介な問題から救うことにはならなかった。
一九二一年には、ネップを一時的な退却以上のものと考えるボリシェヴィキ指導者はいなかった。
レーニンはためらいがちに、この政策が長期にわたって維持されることを望むようになったが、
彼は詳細な戦略を描き出すことなく死去した。
ブレハーリンはレーニンの最晩年の見解を引き継いで、ネップはまったく退却などではなく、
そこから社会主義という頂上に向かう最後の登攀にとりかかる尾根の占拠であると論じた。
工業化そして集団農業さえもネップによって促進されうるのであった。
そのように党の政策を改めることは、党内で多くの批判者を生み出した。
一九二三年に彼らは、トロツキーとE・A・プレオブラジェンスキーに触発されて、左翼反対派を形成した。
ボリシェヴィキのあいだでの分派闘争が突如戻ってきた。
左翼反対派は、現在と過去とを都合よく比較することを潔しとせず、彼らが望んでいた将来と現在とを対比させた。
そのうえネップは活力があったにもかかわらず、弱い分野ももっていた。
一九二六年の金属採掘企業の生産は、一九一三年の採掘総量の半分より少なかった。
兵器生産は立ち遅れた。


159 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:24:36 ID:???

ソ連と主要資本主義国とのあいだの技術的格差は拡大し、とくに工作機械工業での格差が大きかった。
農業においては、生産単位の規模があいかわらず懸念材料であった。
クラークは西欧でおなじみの「大農場主」タイプの農民ではなかったし、
一九二七年にはソヴィエト共和国にわずか二万四五〇四台のトラクターしかなかった。
国際関係は、とりわけ一九二七年にイギリス保守党政府が通商関係を断絶したときに、大きな動揺を引き起こした。
戦争の脅威がこの一〇年間にすでに幾度も起こっていた。
そして左翼反対派は、マルクス主義的分析に拠りながら、ネップによって達成されたいかなる成功も
私的商人と富裕な農民がますます豊かになることを不可避的にともなった、と論じた。
これら左翼は都市の失業の増加を批判し、
また一九二七年にはソ連の播種面積のうち集団農場が占める割合は一%に満たないと嘆いた。


160 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:34:48 ID:???

そのような主張は、一九二〇年代なかばにジノヴィエフ、カーメネフ、
スターリンおよびブハーリンから構成された支配的な党指導部によって退けられた。
左翼反対派は激しく打ち負かされた。
一九二六年にはジノヴィエフとカーメネフが、拡大するスターリンの権力とネップの結果とに気をもむようになり、
合同反対派を形成するためにトロツキーと合流した。
しかしスターリンとブハーリンは一歩も譲らなかった。
一九二七年までに彼らは合同反対派とその追随者を打倒した。
反対派の活動家は自説を撤回するか、あるいは党からの除名や時には追放の憂き目にあった。
合同反対派は全般的な民主綱領をまったくもってはいなかった。
彼らは他のボリシェヴィキと同じように、ボリシェヴィキ党の政治的独占を望んだ。
そして彼らは党内の民主的手続きを再び導入することについて語ったにもかかわらず、
彼らがそれに関与した度合は疑わしいものであった。
より広く参加できる決定方式とはどのみち、協調よりも分裂を引き起こしたことであろう。
急速な工業の資本蓄積のために求められた一段と高率の課税に富裕な農民が同意しただろうとか、
大多数の中農が集団農場に加入することを容易に納得しただろうということも、信じられないことである。


161 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 14:39:16 ID:???

にもかかわらず中央と地方の忠実な党官僚は、反対派の主張を退ける一方で、
経済の近代化と軍事的安全保障を目指す攻勢を加速するための強い衝動を反対派と同様に感じており、
スターリンもまたその一人であった。
彼らの意向は、国内外で打ち続く、耐え忍ぶより仕方のない危機によって強化された。
ネップにはブハーリンのごとき臆することのない擁護者がほとんどいなかった。
すでに一九二五―二六経済年度には、支配的な党指導部は自分たちの政策を変化させたくてたまらなくなっていた。
国営工業に投資するための財源を工面するために、富裕な農民に対して重く課税する会計法が導入された。
価格政策は、農産物と工業製品については処置を誤ったものであり、
一九二七年には穀物の市場販売が崩壊した。
同時に国家の中央系各機関であるゴスプラン(国家計画委員会)は、
急進的な工業化を目指す五ヵ年計画を作成するよう指令を受けていた。
そして一九ニ七年末にさらにもう一つの食糧供給危機が起こり、一九二八年一月にはスターリンが、
穀物を力ずくで徴発するためにウラル地方と西シベリアに赴いた公式の派遣部隊を率いた。
第一次五ヵ年計画から生じる大混乱を予測する財政の専門家は沈黙させられた。
そしてシャフトゥイ市の技師たちの見世物裁判は、国中の経営活動家や専門家を震撼させた
〔いわゆるシャフトゥイ事件。一九二八年に五〇名を超える鉱山技師が、経済分野の反革命妨害活動の罪で
裁判にかけられ、ほとんどが有罪判決を受けた。被告たちは二〇〇〇年一二月に名誉回復された〕。
ブハーリンと彼の支持者たちは、右翼偏向の汚名を着せられた。
彼らは反対派と呼びうるほど十分な支持を党内でえてはいなかった。
工業の目標は急速に高くなった。
食糧供給を確保しさらに穀物輸出を増やすために(それは外国技術の購入を容易にしたであろう)、
農民を強制的に集団農場に押し込めることが決定された。
また潜在的な抵抗を排除するために、少数派であったクラークは自分の土地にとどまることを許されなかった。
きわめて多数の人々がシベリアに送られた。
一九三二年までには農村で飢えに苦しむようになった恐怖に怯えた農民が、
職と食糧を求めて数百万人も都市に移り住んだ。

162 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 16:43:17 ID:???

強引に進められた工業化と強制的で大規模な農業集団化とに踏み込むことは、
この著作の著述の範囲を越えることになる。
一九二〇年代末に、重要性という点で一九一七年の革命に匹敵する変容が動き出したのである。
第一次五ヵ年計画に着手したとき、スターリンはごく簡単な計画しか考慮していなかった。
最初は彼と同僚たちは、自分たちが労働者の物質的な生活水準を引き上げるとともに
多くの集団農場にトラクターを与えるだろうと想定していたようである。
ネップを終わらせるという計画は、そうした途方もない誤算から成り立っていた。


163 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 16:53:20 ID:???

スターリンは欲するところの行為にとりかかった。
彼だけでなくヒトラーやチャーチルをも生み出した世紀において、
個々の政治家が時代にきわめて大きな衝撃を及ぼしうることを誰が否定するだろうか?
レーニンもまた政治的な巨人であった。
もしレーニンがいなかったとしたら、数多くの決定が採択されなかっただろうし、
あるいは少なくとも本質的に異なったやり方で定式化されたであろう。
にもかかわらずレーニンもスターリンも、組織化された支持なしには行動できなかった。
とりわけネップの終焉は、ネップの時代を通じていつでも起こりうることであった。
より厳密に管理された社会と経済とを求める気持ちは、党の専従職員だけのものではなかった。
同様の考えは、党の青年組織の内部や政治警察においても表明された。
教育界の主流派のあいだでも、新たな政策を求める声があがった。
いくつかの文学グループも同じように語った。
同時に工場では、賃金と労働条件が不十分なままだという不平がつぶやかれていた。
スターリンは単にこれらの圧力に対応しただけだ、と時には説明されている。
しかしこれは説得力のない議論である。
むしろ、スターリンと彼の主要な僚友たちが熟慮の上でその圧力を利用しそれを強めた、というのが実情だった。
ネップへの幻滅は普遍的なものではなかった。
そしてその幻滅が存在したところでも、それはまだ始まったばかりであった。
どんな政策がそれにとって代わるべきかはほとんど考えられていなかった。


164 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:05:09 ID:???

スターリンのグループは、この転換にまとまった形を与えた。
工業と教育そして管理の拡大が次第に速度を増すにつれ、社会移動も増大した。
非常に多数の人々が、新しいシステムが持続することに利害関係をもった。
昇進はよくあることだった。
このようにソヴィエトの国家と経済との改造をともなった大規模な暴力は、
社会的支持の範囲を切り開くものでもあった。
それゆえ一九二七年という年は歴史上の道標だったのである。
その年は、革命後の初期の時代にみられた不安定な構成体と、
国家と社会の強固な構造がソ連で構築された時代とを分けている。
この後者の構造もまた独自の緊張と未完成の部分とをもってはいたが、それは数十年のあいだもちこたえた。
その強さは、この構造を廃止しようとした一九八五年以降に、共産党の
――そして一九九一年からは反共産主義の立場の――政治指導者が経験した困難によって、明らかに示されている。


165 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:07:10 ID:???

一九一七年の革命は、到達点でありまた出発点であった。
古い体制に終止符が打たれ、新たな体制が始まったのである。
しかしこの大事件は中断でもあった。
第一次世界大戦前の経済的な達成はたいしたものであったし、それはネップの下で強固なものとなった。
帝国時代末期に始まった社会的変容は、一九二〇年代初頭に現れ始めた。
ニコライ二世の政府もボリシェヴィキも、そのような近代化を促進した。
国家の経済的介入は一九一七年以前にはすでに無視しえないものであり、その後はさらに大規模なものになった。
しかし近代化への推進力は、もっぱら上層からの政治活動によってのみ生み出されたわけではなかった。
社会全体が変化への突進を支えたのである。
一九一四年までに帝政当局は、もはや社会を徹底した統制下におくようなことはできなくなっていた。
実行できたのは不意打ちに抑圧することだけであった。
その後、強制のためにより大きな力をたくわえたボリシェヴィキさえも、
内戦の中で労働者階級と農民との一部からの抵抗に遭遇した。
一九二一年までには譲歩が避けがたいものになった。
この二つの体制のあいだには、ほかの連続性もあった。
自由な政治的競争は、いずれの体制にも存在しなかった。
絶望的な貧困が広範に残っていた。
イデオロギー的不寛容は、一九一七年以前にもそれ以後にも存在した。
なによりも、国の基本的な必要条件が変化していなかった。
ボリシェヴィキ統治の最初の一〇年間には、ロマノフ朝末期の皇帝たちの治世と同じくらいに、
経済力と軍事力とを拡大することが差し迫った課題であった。
物質的発展を精力的に追求したことは肯定的な結果をもたらしたけれども、
それはまた脆弱な点を目立たせることになった。
社会的な緊張は相変わらず存在した。
経済には時々起こる危機がともない、とりわけ農業は周期的に起こる災難の影響をうけやすかった。


166 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:13:25 ID:???

帝国体制の不安定さは一九〇五年と一九一四年に暴露され、君主制は一九一七年二月に崩壊した。
第一次世界大戦が決定的な打撃を与える圧力を引き起こした。
しかし、帝政への敵対者を結びつけていたわずかな合意は、たちまち消え失せた。
労働者、兵士そして農民は、旧体制と結びついていたたいていの支配形態を受け入れることに賛成しなかった。
彼らの要求は、最初のうちは一〇月の権力奪取によって認められた。
いくつかの利益は永続する性質のものであった。
労働者の管理的地位への昇進が始まった。
労働者階級の誇りが育成され、富裕な人々の財産権は撤廃された。
一方、農民は地主を追い出したことで利益をえた。
おそらくは技術人員もまた、レーニンの政府とニコライ二世の政府とのあいだの相違を
もっぱら不愉快に思ったわけではなかった。
いずれにせよボリシェヴィキは、国家権力の独占を押しつける点でより有能であった。


167 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:18:47 ID:???

しかし革命が穏やかな漸進主義路線を進める見込みは決して大きくはなかった。
一九一七年という年は、矛盾した現実的でない目標を生じさせた。
こうして一九一七年と一九二〇年のあいだに経済的崩壊が起きた。
欠乏が闘争を激しいものにした。
そのうえ、国の文化的・社会的伝統は、一九一七年春の小康状態ののち、
政治論争を平和裏に解決したいというおおかたの欲求を制限した。
そして自らもそのような社会の産物であったボリシェヴィキは、無慈悲な政治の領域を拡大した。
内戦は残忍な結果をもたらした。
実際、国家権力の及ぶ範囲についての実践的にも理論的にも非常に重要な抑制のいくつかは、
レーニンの存命中に遠慮なく取り除かれた。
一九二〇年代末までは、スターリン主義に至る道は避けられないものではなかった。
けれどもそれは、常に一つのありうべき道であった。
レーニンは一党制の単一イデオロギー国家を後世に残した。
彼は支配の方法としてテロルを使用し続けた。
スターリンが自らのいっそう恐ろしい共産主義独裁の形態を開始するのに必要とした制度的枠組みを確立したのは、
レーニンであった。
彼は党の対抗勢力を人民の敵と分類し、社会全体の態度をすさんだものにした。
自らのネップを通じて経済組織の形態について妥協したにもかかわらず、
レーニンは自身の退却を永続的なものにするつもりは決してなかった。


168 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:25:52 ID:???

だがレーニンはスターリンと同じほど遠くまで暴力の道を進んでいったのだろうか?
このことは非常に疑わしい。
レーニンは個人独裁の装飾を性分に合わないものと考えた。
彼は党と政府にあってスターリンが感じたほど自らの立場が不安定だとは思わなかったし、
たとえ人々がレーニンとその政策に向かって反抗の手を振り上げることはなかったにせよ、
彼が数百万の人々を強制労働収容所に放り込むようなことは到底なかっただろう。
レーニンなら農民にかんして何をおこなっただろうか、ということはそれほどはっきりしているわけではない。
しかし、暴力的で大規模な農業集団化をレーニンが好んで選択しただろう、と考えるべき理由はほとんどない。


169 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:32:30 ID:???

ネップの時代に深刻なものになった国際問題、政治、民族、文化そして経済問題などの諸問題に対処するのに十分なほどには、
レーニンは長生きしなかった。
スターリンの崇拝者たちはいつでも、スターリン主義的な解決策が一九二〇年代末までには
唯一の現実的な計画になった、と主張した。
こうして彼らの論じるところでは、初期の五ヵ年計画がソ連を工業と技術との点で十分な近代化の方向に発進させ、
そしてナチス・ドイツのような強力な侵略者を打倒する潜在的能力をもつことが可能になってきたのであった
(とはいえ、ネップを継続すれば必然的に一九四一年のソ連は軍事的に無力になったであろう、という見解は説得力がない)。
しかし、これらの成功がわれわれの判断を惑わせてはならない。
強引な速度の工業化と強制的な農業集団化は、社会的な激痛を引き起こした。
そのうえスターリンは、自らの政策によっていかに大きな物質的改善が生じたかを大げさに主張した。
彼は、帝国時代末期とソヴィエト時代初期にすでに始まっていた発展を無視した。
工業化は、彼の政治的上昇が始まる前に進行中であった。
創意や社会的公正そして合法性をロシア社会にとり入れようとする際に、ソヴィエト時代とポスト・ソヴィエト時代の
双方の改革者たちが直面した困難は、スターリン主義の遺産から生じているのである。
しかし、もしレーニンがスターリンに地図を与えなかったとしたら、
スターリンは行き先を選ぶ好機を決してもたなかったであろう。


170 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:39:22 ID:???

本書は、Robert Service, The Russian Revolution 1900-1927, Third edition
(Basingstoke and New York: Palgrave Macmillan, 1999)の全訳である。
著者サーヴィスは現在、オックスフォード大学のセント・アントニーズ・カレッジのフェローと
同大学現代史学部教授とを兼務するロシア現代史専門家で、
日本では邦訳『レーニン』(日本語文献[12])で知られる気鋭の歴史家である。
最近の著作には、右のレーニン伝のほかに、
ソヴィエト時代の通史を叙述した A History of Twentieth Century Russia(London: Allen Lane, 1997)や、
ソ連解体後の現代ロシア一〇年の歩みを描いた Russia: Experiment With A People, From 1991 To The Present
(London: Macmillan, 2002)などがある。
また先ごろは、レーニン伝に続いてスターリン伝 Stalin: A Biography
(Cambridge, Mass.: Belknap Press of Harvard University Press, 2005)が刊行された。


171 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:51:20 ID:???

改めて指摘するまでもなく、ロシア革命は現代史の中でも大きな衝撃を与えた出来事の一つである。
そしてそれをどのように理解するかという問題は、ソヴィエト・ロシアを認識する者がおかれた立場や
属している社会の利害関心などにより、大きく影響されてきた。
たしかに一九九一年のソ連解体によって、一九一七年一〇月に始まったロシア史の社会主義時代は、
少なくとも体制としては完結した。
これによって、ロシア革命とその後のソ連社会主義の歴史は、純粋な歴史研究の対象になると考えられた。
しかし現実は必ずしもそうではなかった。
「ロシア革命は二〇世紀の終わりにあって、それが起こった時代と同じくらいに論争の的になっている」という
著者の指摘(本書vi頁)は、二一世紀を迎えた今日にもあてはまる。

ロシア革命についての旧ソ連時代の公式的な見解を始めとして、西側での対立しあう主要な観点は
本書において簡潔に紹介されているので、それ自体を重ねてとり上げる必要はないであろう。
ここでは、これからロシア近現代史を学ぼうとする読者のために、ロシア革命と
その後のソヴィエト・ロシアをとらえる認識の枠組の変化という視角から、まずこの問題に手短に触れておきたい。


172 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:53:59 ID:???

ソヴィエト・ロシア研究は第二次世界大戦中から戦後にかけて本格化し、その中心となったのはアメリカ合衆国であった。
特定の地域を学際的に研究するという地域研究から出発したアメリカのソ連研究は、
当時の国策に支援されて積極的に進められた。
しかし逆にこうした研究のあり方は、その視角を大きく制約することになった。
研究が現実政治の利害関心に規定され、現実政治と関わりの深い研究が主体となったのである。
こうした中でソ連に対する認識の枠組として強い影響力を及ぼしたのが、「全体主義論」と呼ばれる議論であった。
これは元来、ファシスト・イタリアやナチズムのドイツを分析するために用いられた概念であった。
「全体主義」の定義は必ずしも一様ではなかったが、単一のイデオロギーに基づいて社会に対する全体的支配を志向する、
現代的テクノロジーを駆使した新しい型の独裁の様式、という理解が次第に整備され、全体主義論として有力な分析概念となった。
これが冷戦期には、「新たな独裁」である共産主義体制の分析概念として用いられるようになったのである。
このように全体主義論は、東西のイデオロギー対立の中で生まれた政治的価値判断を含んだ概念であったが、
それゆえそれは、十月革命とソヴィエト・ロシアに批判的な歴史研究と結びつくことになった。
この立場の歴史研究は、ボリシェヴィキに代わりえた勢力として帝政末期のロシア自由主義の可能性を
高く評価するとともに、ボリシェヴィキによって遂行された革命の政治的契機を重視した。
さらにこの潮流は、スターリン体制を十月革命の必然的な帰結であると単線的に理解し、十月革命を強く批判した。


173 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:56:00 ID:???

全体主義論と親和的なこうした単線的な認識枠組を越えて、ロシア・ソ連社会の内部の変化を歴史的に説明できる
新しい枠組を模索する動きは、一九七〇年代以降の新たな状況の中で現れた。
しばしば「修正主義史学」とよばれるこの潮流(本書四八頁参照)の特徴は、
近代ロシアを社会的矛盾の累積した社会ととらえ、それゆえ革命は不可避だったと理解する点にある。
修正主義史学は、ソヴィエト体制の特質が一九一七年の革命から直線的に導かれたものではないこと、
またソヴィエト体制の内部にさまざまな利害対立や紛争が存在したことに光をあてた。
この潮流の特徴の一つは、従来の狭い「政治史」研究を批判し、
ロシア社会を「下から」解釈する「社会史」の観点を重視したことである。
彼らは、十月革命が労働者、兵士、農民および多様な民族集団の革命であったことを改めて強調し、
そこに大衆的支持が存在したことを論証した。
一九八〇年代にかけてこの潮流は良質の研究を産出し、アメリカのロシア近現代史研究の主流を形成するに至った。

しかしペレストロイカが挫折してソ連解体が訪れたとき、全体主義論の「逆襲」が始まった。
全体主義論者たちは、十月革命が少数の革命家集団によるクーデターであったと解釈し、
ボリシェヴィキ=共産党が露骨な暴力によって独裁的権力を樹立したと改めて主張した。
さらに彼らは、ソヴィエト体制が結局は全体主義体制に導かれたこと、
そしてそれはレーニンの思想とボリシェヴィキの行動から直接的に導かれた帰結であること、を強調した。
こうした観点は、修正主義史学に真っ向から反対するものであった。
しかし、全体主義論者のこのような批判にもかかわらず、修正主義史学がロシア革命と
その後の歴史の未知の分野を切り開き、豊かな研究成果を残したことは否定できない。
だが一方で、ソ連の解体は、十月革命で成立した体制を通じて近代化を遂げたソヴィエト・ロシアが、
結果的には資本主義体制へと移行したことを示した。
こうしてソ連解体という事態は、従来の枠組を越えた新しいロシア史像の構築を求めているのである。


174 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 17:59:28 ID:???

アメリカを中心としたロシア・ソ連についての認識枠組の変化の中で見ると、
著者の立場の独自性も明らかになってくる。
著者はイギリスの歴史家らしく、特定の政治的な認識枠組を設定して歴史をとらえる全体主義論の影響からは
(そしてそれに強く反発した修正主義史学の影響からも)自由な立場で、ロシア革命とその後のソヴィエト・ロシアの歩みを、
政治的価値判断を越えた地点で冷静な態度で叙述している。
従来の良質な研究の蓄積と自らの新たな実証研究の成果に基づいて、ソ連解体という状況をふまえた上で、
経験主義的な立場からロシア革命をとらえ直そうとした試みが本書である。

著者が序文で記しているように、ロシア革命の歴史を叙述する際の時期区分として
一九〇〇年から一九二七年という長期にわたる期間を設定していることは、本書の大きな特徴である。
こうして著者は、およそ一世代におよぶ歴史の文脈の中でロシア革命のもつ意義を理解しようと試みるのである。
このような著者の観点は、一九一七年の出来事が生み出した結果に重点をおくE・H・カーの『ロシア革命』や、
一九一七年の歴史過程そのものを叙述するN・ヴェルトの『ロシア革命』やなどとは好対象をなしている。
こうした独自の視角から著者は、帝政末期のロシアと一九二〇年代のソヴィエト・ロシアとのあいだの
「連続と断絶」という問題に新たな光をあてている。
著者によれば、工業化や経済成長、社会の近代化という帝政末期のロシアの課題は、
革命後のソヴィエト政権にとっても共通の課題であった。
工業化・近代化に向かう動きは帝政末期にすでに一定程度進行しており、第一次世界大戦と革命による中断はあったものの、
一九二〇年代初頭にはこの近代化に向かう動きが再び現れたのである。
こうした主張は、本書のように、革命を長期的展望の中で位置づけることによって
はじめて説得的に論ずることができるのである。


175 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:01:54 ID:???

このような観点から著者は、二〇世紀初頭のロシアにおける「社会」の変容を重視する。
実はこの「社会」が具体的に何を意味するのかは必ずしもはっきりしないのだが、
著者は、「社会の近代的構成分子」のみならず、伝統的な「社会グループ」の自律的な動きを
二〇世紀のロシア帝政が効果的に抑えることができなかったと指摘する。
帝政は、近代化に向かう過程で重層的な「社会」が示した政治体制への抵抗に適切に対処しえなくなった。
こうして著者は、二〇世紀初頭のロシアでは帝政の打倒が起こりうる状況にあった、と論じるのである。
しかし同時に著者は、そのことが一九一七年の革命に直ちに帰結するわけではないという。
著者によれば、実際に起こった革命を導いたのは、
ロシアに政治的・経済的および社会的大混乱を招いた第一次世界大戦という総力戦だったのである。
さらに著者は、帝政の打倒ののちに、ある種の社会主義政府が登場したであろうことを認めた上で、
現実にソヴィエト政権が誕生するにはボリシェヴィキの「政治」が重要な役割を果たした、と主張する。
こうした主張も、二〇世紀初頭から第一次世界大戦中のロシアが直面していた困難な状況を
多面的に分析することによって、説得力をもつものとなっている。

著者は革命における「政治」の領域を重視する一方、全体主義論者のように「社会史」的研究の成果を否定するのではなく、
逆にその成果を高く評価してそれをとり入れながら、「社会史」と「政治史」との結合を目指そうとしている。
ここにも本書の独自の視点が現れている。
著者が「政治」の領域を重視するのは、自身がこれまで研究対象とした初期ボリシェヴィキ政権の歴史やレーニン伝などで、
政治的要因を重視していることともかかわっていよう。
本書が指摘するように、一九一七年一〇月の出来事は、「少数の人々だけが直接に参加した」行動だったのであり、
そこに至る過程でボリシェヴィキは多くの住民から一定の支持を獲得していたのであった。
こうして著者は、一九一七年の全過程をバランスのとれた見方で論じていくのである。


176 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:03:56 ID:???

公平な見方を貫こうとする著者の姿勢は、ロシア革命の帰結を論じた第3章でも維持されている。
ここでは、ボリシェヴィキの政策それ自体がロシアの経済状態をいっそう悪化させていったこと、
内戦期の共産党勢力と反共産党勢力との対抗、ネップへの移行による経済復興と社会の回復、
ネップに内包されていた矛盾、といった重要な論点が目配りよく配置されている。
革命の帰結を論じたのちに、著者は本書の結論において、「レーニン主義とスターリン主義」という大問題を提起する。
本書はこの問題について直接に論じているわけではないので、著者の立場は必ずしも明示的には示されてはいない。
しかし、「もしレーニンがスターリンに地図を与えなかったとしたら、
スターリンは行き先を選ぶ好機を決してもたなかったであろう」という結論末尾の文章から判断すると、
著者はレーニンとスターリンとのあいだの連続性の契機をより重視しているように思われる。

この点は、ロシア革命の歴史をどのような次元で理解するかという問題とかかわっている。
本書において著者は、ロシア革命をロシア近現代史の中で位置づけることに重点をおいているため、
右のような評価に傾いているように思われる。
しかし同時にロシア革命は、世界史的な意義をもつ出来事でもある。
ロシア革命を一国史の枠組で論じる本書では、ロシア革命の世界史的な意義や、
ロシア革命が掲げた理想が及ぼした影響などについてはほとんど触れられていない。
世界史の中でロシア革命を位置づけ直す視点に立つならば、「レーニン主義とスターリン主義」という問題を、
著者とは異なった角度から評価することが可能になるかもしれない。


177 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:06:18 ID:???

さらに、ロシア革命を一国史のなかで論ずる場合に問題となるのは、その時期区分である。
本書は叙述の起点を一九〇〇年に、また革命の帰結を論ずる終点を一九二七年においている。
しかし一九〇〇年を画期とする積極的な論拠は示されてはいない。
一方、一九二七年で叙述を終えることについて著者は、この年が「革命後の初期の時代にみられた不安定な構成体と、
国家と社会の強固な構造がソ連で構築された時代とを分けている」と論じて、その画期性を強調している。
しかしこのような主張は、読者に誤解を与える恐れがある。
著者の時期区分による一九二八年以降に直ちに確固たる構造が構築されたわけではなく、
農業集団化と急進的な工業化の過程で新たな構造が次第に形成され、
それが一九三〇年代初頭以降に固定化していくことになるのである。
政治史の点でみても、最後の反対派であるブハーリン・グループが最終的に敗北するのは一九二九年であり、
政治構造の変化も一九二七年を画期とするには異論がある。
もとより著者は、そのことを十分理解しながら一九二七年で叙述を終えているはずであろうから、
この点についてはより説得的な説明が望まれるところである。

このような疑問は残るものの、全体として本書はきわめてバランスよく叙述された概説書であり、
ロシア近現代史を学ぶ上で最良の入門書の一つであることはうたがいない。
本書を通じて二〇世紀のロシアについての見方がより豊かなものになるならば、訳者にとって幸いである。


178 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:08:20 ID:???

1894  ニコライ2世即位.露仏同盟締結.

1896  ホドゥインカ原の惨事.

1897  ルーブリ通貨が金本位制に移行.

1898  ロシア社会民主労働党創設.

1901  社会主義者=革命家党(エスエル党)創設.

1903  解放同盟創設.のち1905年に立憲民主党(カデット党)となる.

1904-05  日露戦争.

1905   1月 「血の日曜日」.冬宮前の平和的デモに対する発砲事件.

     10月  ストライキ運動強化.ニコライ2世が譲歩し,十月詔書を発布.

     12月  モスクワ蜂起の鎮圧.


179 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:10:51 ID:???

1906   4月  国家基本法の公布.第1国家ドゥーマ開会.

     7月  ドゥーマ解散.

1907   2月  第2国家ドゥーマ開会.

     6月  ドゥーマ解散.より制限された選挙規則の公表.

     11月  第3国家ドゥーマ選挙.

1912   4月  レナ金鉱虐殺事件.

     11月  第4国家ドゥーマ開会.

1914   6月  サンクト・ペテルブルクで街頭デモ.

     7月  第一次世界大戦勃発.

1915   4月 ツァーリ政府,連合国とのあいだで秘密協定を調印.

     5月  戦時工業委員会創設.

     8月  ニコライ2世,最高総司令官に就任.進歩ブロック結成.


180 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:14:57 ID:???

1916   6月  東部戦線でブルシーロフ将軍の攻勢.

     12月  ラスプーチン暗殺.グチコーフ,起こりうるクーデターの試みについて将軍たちに打診.

1917   2月  ペトログラードで労働者のストライキと兵士の反乱.ペトログラード・ソヴィエト設立.

     3月  ニコライ2世退位.リヴォフを首班とする臨時政府成立.ソヴィエトの拡大.
       農民が地主に対する圧力の行使を開始.メンシェヴィキとエスエル,臨時政府を条件つきで支持.

     4月  レーニン,スイスから帰国し「四月テーゼ」を発表.連合国に対するミリュコーフ覚書が
       ペトログラードの街頭デモを誘発.ミリュコーフとグチコーフ,閣僚を辞任.

     5月  リヴォフ,メンシェヴィキとエスエルを含む連立内閣を組閣.

     6月  第1回全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト大会.東部戦線でロシア軍の攻勢.
       ウクライナに対する地域的自治の承認を提案.

     7月  カデット閣僚の辞任.ペトログラードで労働者と兵士の武装デモ.
       レーニンの逃亡.ケレンスキー首相に就任.


181 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:18:11 ID:???

     8月  モスクワで国家会議.ドイツ軍,リガを奪取.コルニーロフ反乱の鎮圧.

     9月  ボリシェヴィキ,ペトログラード・ソヴィエトを支配.ペトログラードで民主主義派会議.

     10月  レーニンに指導されたボリシェヴィキ党中央委員会,権力奪取を決定.
       第2回全ロシア・ソヴィエト大会.臨時政府の打倒と人民委員会議(ソヴナルコム)成立.
       「平和にかんする布告」と「土地にかんする布告」の発表.カデットその他の逮捕.

     11月  左派エスエル,最終的に自らの党を結成.憲法制定会議選挙.東部戦線で停戦.

     12月  非常委員会(チェカ)創設.左派エスエル,人民委員会議に参加.銀行の国有化.
       ソヴィエトの軍隊がウクライナに侵攻,ウクライナ・ソヴィエト政府樹立を宣言.

1918   1月  憲法制定会議の開会と解散.人民委員会議,赤軍の創設を決定.
       中欧列強との単独講和提案をめぐるボリシェヴィキの論争.

     2月  土地社会化法公布.

     3月  ボリシェヴィキ党,ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改称.ブレスト=リトフスク条約により,
       ロシアは第一次世界大戦から離脱するとともに、ウクライナ,ベロルシア,リトアニア,ラトヴィアおよび
       エストニアに対する領有権を放棄.ロシアの多くの都市ソヴィエト選挙でボリシェヴィキが敗北.


182 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:27:38 ID:???

     4月  ドイツ側がウクライナでスコロパツキー傀儡政権を樹立.

     5月  チェコスロヴァキア軍団の反乱.

     6月  サマーラでエスエル政府成立.工業国有化の大規模なキャンペーン.貧農委員会にかんする法令.

     7月  左派エスエル党の弾圧.ウラルで皇帝一家銃殺.

     8月  レーニン暗殺未遂事件.

     9月  赤色テロル,公式に宣言される.赤軍,カザンを回復.

     11月  第一次世界大戦終結.ロシア・ソヴィエト共和国,ブレスト=リトフスク条約の無効を宣言.
       コルチャーク,オムスクで最高統治官を宣言.エストニア・ソヴィエト共和国の樹立宣言.

     12月  貧農委員会の廃止.コルチャーク,ウラル地方のペルミを奪取.ラトヴィアとリトアニアの
       両ソヴィエト共和国の樹立を宣言.ペトリューラ,ウクライナ政府を引き継ぐ.


183 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:35:24 ID:???

1919   1月  共産党中央委員会に政治局,組織局および書記局を設置.
       赤軍,東ウクライナを奪取.ベロルシア・ソヴィエト共和国樹立.

     2月  穀物割当徴発制の正式承認.赤軍,キエフを奪取.

     3月  第1回共産主義インターナショナル大会.第8回ロシア共産党大会.
       ハンガリーで短命に終わったソヴィエト共和国創設.ウクライナ・ソヴィエト共和国復活.

     4月  コルチャークの進撃が阻止される.

     5月  デニーキンの攻撃開始.

     8月  赤軍,ウクライナを撤退.

     10月  ユデーニチ,ペトログラードへ進撃,デニーキンの敗北.その後ユデーニチも敗北.

     12月  赤軍,キエフを再回復.


184 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:38:22 ID:???

1920   1月  連合国,ソヴィエト・ロシアに対する封鎖を解除.労働軍の導入.

     2月  コルチャーク処刑.ロシア・ソヴィエト共和国,エストニアの独立を承認.

     4月  ポーランドとの軍事的対立が激化.アゼルバイジャン・ソヴィエト共和国の樹立.

     5月  ピウスツキがキエフを奪取するも、7月には退却.

     7月  ロシア・ソヴィエト共和国,リトアニアの独立を承認.

     8月  ロシア・ソヴィエト共和国,ラトヴィアの独立を承認.ポーランド軍,ヴィスワ川の戦いで赤軍を撃破.

     12月  アルメニア・ソヴィエト共和国樹立.

1921   2月  政治局,新経済政策の導入を承認.グルジア・ソヴィエト共和国樹立.

     3月  クロンシタット水兵反乱.第10回共産党大会,新経済政策を正式に認めるとともに,
       労働者反対派その他の党内分派を禁止.


185 :私事ですが名無しです:2006/12/07(木) 18:39:56 ID:???

1922     ジェノヴァ会議.レーニン,深刻な病気となる.エスエルに対する見世物裁判.
       包括的な出版事前検閲システムの正式導入.

1922-23   病床のレーニン,「政治的遺言」を口述.

1923     経済管理面で「鋏状危機」発生.左翼反対派の結成.

1924     レーニン死去.ソ連邦が正式に成立〔ソ連憲法の採択〕.ペトログラード,レニングラードと改称.
       イギリスとの通商関係回復.スターリン,カーメネフおよびジノヴィエフが,トロツキーを攻撃.

1925     カーメネフとジノヴィエフ,レニングラード反対派を結成してスターリンとブハーリンに対抗.

1925-26   反クラーク的経済規制の導入.

1926     カーメネフとジノヴィエフがトロツキーと結んで,スターリンとブハーリンに対抗する合同反対派を結成.

1928     スターリン,シベリアを訪れて穀物徴発を再導入.農民の抵抗.第一次五ヵ年計画開始.
       トロツキーの追放.カーメネフとジノヴィエフ,自己批判.シャフトゥイの技師たちの裁判.
       スターリンとブハーリン,政治的に対立.


186 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:03:18 ID:???

先行きが不透明な時期にあっては、現代世界の原点にさかのぼって歴史を学ぶこと、原点と対話を重ねることが大切である。
おそらく数世紀後の人々は、20世紀という時代を、1917年ロシア革命が切り開いた時代として回顧するにちがいない。
なるほど、1991年にソ連文明が崩壊した結果、ロシア革命を現代の原点や起点として位置づけるのに、
躊躇する人がいるかもしれない。
だがソ連文明は、ロシア革命の唯一の継承者であるかのように言い張り、またその存在がどんなに目立っていたとしても
―実際目立っていたのだ―、1917年ロシア革命の数多くある継承者の一つにすぎない。
そもそもロシア革命は、ロマノフ朝の転覆やボリシェヴィキの権力奪取という劇的な事件につきるはずがない。
またそれは、なにか特定の世界をつくり出すための事件でもなかった。
ロシア革命は、20世紀世界を象徴する無数の問いかけからなる独自の世界であり、場なのであった。
それをソ連文明と共に葬り去る理由は、どこにもないのだ。


187 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:04:33 ID:???

革命がそうした性格を帯びた背景の一つには、ロシア帝国が、さながら地球の縮図の様相を呈していたことがある。
北は北極圏、南は温暖な地中海性気候、シベリアには鬱蒼と生い茂る針葉樹林(タイガ)、南方には広大な砂漠が広がっていた。
多彩なのは地理だけではない。
ヨーロッパ・ロシアの都市部では、西ヨーロッパと同水準の都市生活が営まれていた。
他方で、氷の住居に住むエスキモーもいれば、遊牧民もいた。
また、ロシアは多くの民族や宗教をかかえる世界でもある。
そうした多用な世界は、19世紀になって工業化、近代化、都市化の嵐に巻き込まれることになった。
身分上の差別や富の極端な不平等に加えて、都市問題、労働問題、土地問題、環境問題、人口問題など、新たな問題も起こった。
近代化や工業化は、伝統的、農村的な価値観と新たなものとの間で、深刻な軋轢を生み出し、
宗教上の対立や民族対立とも絡み合うことになった。
その結果、採り入れられてきた種々の近代的制度、近代的価値観、近代的知などの妥当性が、
ロシアで先駆的に問われることになったのである。
しかも1914年に始まる第一次世界大戦は、人類文明の最先端に到達していると自認していた欧米露が自ら殺戮しあうことで、
近代ヒューマニズムへの無力感を広めていた。
要するに、近代文明のあり方も問われていたのである。


188 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:07:11 ID:???

1917年革命までのロシアは、20世紀への移行過程にあった世界全体の縮図であったと言えるだろう。
そこで提起されていたのは、「20世紀世界」が近代化に向かう過程で直面し、
その解決に本格的に取り組まざるをえなくなるような性質の難問なのであった。
したがってロマノフ朝が第一次世界大戦の最中に崩壊したのは、純「ロシア的な」ものに限られない、
そうした性質の難題に直面していたからである。

第一次世界大戦は、ロシア世界の矛盾を先鋭化させただけではない。
総力戦としての性格により、ロシア社会に逆説的な効果をもたらすことになった。
たとえ強いられたにせよ、「外敵」と共同して戦うという経験を積むことで、
ロシアの人々の間に「共同性」の意識が強まったのである。
このことは2月革命のさなかに、さらにその後に出現した自由な空間の中で、
日常生活に根差した「共同性」をどのように再建し、再構築したらよいのか、という性格の課題も提起することになる。
そして、その課題は、経済状況や戦争などに対して有効に対応できないそれまでの近代的制度・価値観等、
すなわち近代文明全体への鋭い問いかけを、不可避的に伴っていた。
経済活動や私有財産権の自由の程度の問題、言い換えれば、その自由への社会的・公的規制の程度の問題が、
かつてなく先鋭化したのも、また、自由と民主主義の関係がぎりぎりにまで問いつめられ、
広汎な人々の間で議論の対象となったのも、そのためであった。
こうしてロシア革命は、広くとらえて言えば、地球上の多様な世界の「共生」関係をどのように再構築したらよいのか、
という20世紀以降の世界が直面する難題を、大胆に、また先駆的に提起した場となったのである。
そこに参加したさまざまな民族のエリートや民衆一人一人による、問題解決のための試みの壮大なパノラマであった。


189 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:11:44 ID:???

そうである以上、何ごとかを「解決できたか否か」を絶対的な基準にしてロシア革命を評価するのは、不適切である。
たしかにロシア革命は、解決のためのさまざまな取り組み方をも示唆しさえしていた。
そして10月革命とは、ロシアの地で提起されていた「20世紀的難題」を、レーニンやボリシェヴィキ=共産党員なりに
真剣に取り組み、解決しようとした、もっとも早い時期の企ての一例なのであった。
だが本格的な取り組みは、後世にゆだねることになった。
ソ連文明も、そうした難問に74年間取り組んできた試行錯誤の一つの軌跡なのであって、もちろん、解決だったのではない。
ソ連文明の解体した今こそ、ロシア革命との対話の要請がいっそう強まっている理由である。


190 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:13:45 ID:???

「同志諸君、ボリシェヴィキ(元ロシア社会民主労働党・左派)がつねにその必然性を主張してきた、
 労働者と農民の革命が実現した。
 この労働者と農民の革命は、どのような意味を持っているのか。
 なによりもまず、われわれはブルジョアジーがいっさい参加しないソヴィエトの政府を持つことになる。
 それは、われわれ全員に属する権力である。
 抑圧された大衆が、自分自身の手で生みだす権力なのだ。
 古い国家組織は完全に破壊され、ソヴィエトのさまざまな機関からなる生命体のなかに、新しい執行組織がつくられるだろう。
 そしてロシアの歴史に新たな局面が生まれ、この第3の革命は、究極的には、社会主義の勝利を導くことになるだろう」

レーニン
1917年10月25日
第2回ソヴィエト大会
での発言


191 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:16:00 ID:???

◆1914年7月19日、ロシア帝国はドイツからの宣戦布告を受け、第1次世界大戦に突入した
〔注:ロシアは1918年1月末まで、西暦よりも13日遅れの「ロシア暦」を採用していた。
 そのためこの日は西暦では同年8月1日に当たるが、本書では1918年一月以前の日付はすべてロシア暦にしたがった〕。
その2年半後の1917年2月には革命(2月革命)が起こり、300年続いたロマノフ王朝による専制政治が終わりを告げた。
それから8ヵ月後、レーニンのひきいるボリシェヴィキ(元ロシア社会民主労働党・左派)のクーデター(10月革命)によって、
第3次臨時政府が崩壊する。
こうして20世紀初頭、ロシア社会は驚くほど急激な変貌をとげていったのである。


192 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:17:32 ID:???

20世紀初頭、ロシアはアメリカと共に、前途有望な大国として世界史の舞台に登場した。
ロシア経済は1885年以降、年平均約5パーセントという成長率で、急速な発展をとげていた。
ロシアは世界一の穀物生産国・輸出国であり、鉄鋼と石油の産出量は1890年以降、倍増する勢いを見せていた。

政治的にも、ロシアは安定しているように見えた。
1905年には革命(第1次革命)が起き、翌年にかけて混乱が続いたものの、
ロシア皇帝〈ツァーリ〉ニコライ2世はわずかな譲歩を行ない、不平等な選挙制度にもとづく、
あまり権限のないドゥーマ(帝国議会)を創設することで、事態を収拾したかに見えた。

ロシアの経済成長と政局の安定は、外国の投資家たちの心をひきつけており、
たとえばフランスの年金生活者たちは、ロシア国債を大量に購入していた。
当時パリではロシア国債は、ちょうど西欧の人びとを魅了しはじめていたロシア・バレエ団と同じくらい、
評価が高かったのである。


193 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:40:43 ID:???

1914年の夏にはじまった第1次世界大戦で、ロシアの強大な陸軍(兵士の総数は2000万人ともいわれていた)は、
進軍の途中でプロイセン(ドイツ北東部)を制圧し、冬になる前にドイツの首都ベルリンを陥落させる予定だった。
そしてこの大戦に勝利することで、皇帝〈ツァーリ〉による専制政治を強化するもくろみだったのである。
しかし現実は、第1次世界大戦への参加によって、ロシアの帝政は崩壊へ向かうことになった。
戦争は、一見安定したロシアの社会内にひそむさまざまな矛盾と弱さを、容赦なく暴きだしたのだった。

最初にあきらかになったのは、ロシア経済のかかえる致命的な脆弱さだった。
第1次世界大戦に参加した他の国々と同じく、ロシア政府はこの戦争が短時間で終わるものと予想していた。
そのため遠征用の軍事物資は3ヵ月分しかなく、1914年の末には、多くの部隊で弾丸が不足するようになった。

また通商路である海峡が閉ざされ、実質的な経済封鎖の状況に陥ったことにより、
ロシア経済が外国に依存しているという現実があきらかになってしまった。
1915年になると、ヨーロッパ・ロシアにドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍が侵入し、
ロシア帝国のなかでも非常に発展していたポーランド地方の工業製品を失う結果となった。

ロシア経済は、戦争の続行に耐えることができなかった。
戦争開始後半年で、封鎖のために鉄道網は崩壊し、全機関車の3分の1が使いものにならなくなって、
軍需品や工作機械が不足しはじめた。
そして大半の工場が軍需品をつくるようになったため、国内市場は混乱をきわめ、
一般市民は工業製品を手に入れることができなくなってしまったのである。
農村でも農作物を輸送することができなくなり、莫大な量の野菜や作物が、ただ腐るのを待つだけになっていた。
民衆は深刻なインフレと物不足に苦しめられていたが、あまりにも中央集権化されていたロシアの国家権力は、
そうした状況にうまく対処することができなかったのである。

194 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 06:41:54 ID:???

積極的な策を講じようとしないロシア政府に、民衆の日々の暮らしを支える能力があるようには見えなかった。
そうした状況のなか、市民社会の円滑な運営のため、さまざまな委員会や団体が結成されるようになった。

たとえば赤十字委員会は、はじめはごく小さな団体だったが、やがてロシアの保健行政全般をとりしきるまでに成長した。
都市同盟やゼムストボ(地方自治機関)同盟も、軍隊への物資補給を一手にまかなうようになり、
商業や工業分野の大資本家たちは「戦時工業委員会」を結成して、軍事物資の生産性を高めようとした。
一方、消費者の側も、何万人もの組合員からなる巨大な協同組合をつくるようになった。

こうしてロシアの民衆は、しだいにみずからの力で政治を動かすようになっていった。
彼らにどれほどの力があるのかはまだ未知数だったが、
ロシア社会のもっとも深い部分で巨大な変動が起こりはじめていたことはたしかだった。

ところがロシア皇帝ニコライ2世は、進歩的な思想を持つ人びととの妥協点を探ろうとはせず、
「慈愛に満ちた父のような皇帝」が国民を守る理想国家という非現実的な幻想にしがみついていた。
皇后アレクサンドラと、皇太子の血友病を治療したことで宮廷内での影響力を強めていた怪僧ラスプーチンの助言にしたがい、
1915年9月5日にニコライ2世はみずから軍の最高司令官となった。
しかし皇帝にとって、これは自殺行為ともいえた。
そもそもロシアは戦争で敗北を重ねており、そのうえ皇帝がモギリョフ(ベラルーシ東部)の総司令部に引きこもったため、
ロシアの国政は、敵国ドイツの出身であるという理由で嫌われていた皇后の手にゆだねられることになったからである。

こうして1916年、ロシアの帝政は崩壊への道をたどりはじめた。
ドゥーマ(帝国議会)はわずか数週間しか開かれず、内閣改造が何度も行なわれ、
無能で人気のない人物が次々と大臣の座についた。
人びとは不満をつのらせ、皇后とラスプーチンを中心とする親ドイツ勢力が、
敵国ドイツと手を結んでいるといって非難するようになった。


195 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:07:07 ID:???

反体制派のうち、カデット(立憲民主党)にリードされた自由主義者たちは、
「進歩ブロック」という議員グループをつくり、「国民から信頼される政府」の創設をめざした。
まったくの穏健派だった彼らの政策は、政治犯に対する大赦を行ない、
ポーランドの自治に関する法律を制定するというものだった。
しかし彼らは革命運動によって社会が大きく変化することを恐れ、思い切った行動に出ることはなかった。

一方、社会主義者たちは、指導者の多くが亡命したり、投獄されるなか、
戦争に対する意見の違いから分裂状態にあった。
ボリシェヴィキ(元ロシア社会民主労働党・左派)のレーニン、国際主義者トロツキー、メンシェヴィキ
(元ロシア社会民主労働党・穏健派)のマルトフは、領土の併合も賠償金の支払いも伴なわない即時停戦を呼びかけていた。


196 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:09:08 ID:???

一方、メンシェヴィキのチヘイゼ、トルドビキ(勤労派)のケレンスキーなど、より穏健路線に立つ人びとは、
戦争を祖国ロシアの防衛戦争と位置づけ、賛成の立場をとっていた。
ロシアに共産主義(マルクス主義)をもたらしたプレハーノフも、戦争には賛成していた。

民衆、とくに疲弊して戦意を失った兵士たちや、数年来反体制派の先頭に立っていたロシアの首都ペトログラード
(旧サンクト・ペテルブルグ)の労働者たちの不満は、日に日に高まっていた。
しかしこの時期の革命家たちは、指導者層が内部分裂していたため、
民衆の不満を吸いあげてひとつの大きな動きへつなげることができなかったのである。

1916年の末には、国内情勢は本格的に悪化していた。
ラスプーチンの暗殺に象徴される政治的混乱のなかで、ストライキがふたたびさかんに行なわれるようになり、
軍隊が不穏な動きを見せ、輸送網が崩壊して、前線の兵士たちや一般市民への食糧の補給が困難になった。
1917年2月に突然、革命(2月革命)が起こったのは、政府が信用を失い、弱体化したためだけではなく、
反体制派が団結せず無力だったことにも原因がある。


197 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:10:10 ID:???

◆「あなた、なんと恐ろしい時代に、私たちは生きていることでしょう!
  神はあなたに、あまりにも重い十字架を背負わされました。
  状況は改善しているように見えますが、でも、あなた、毅然となさってください。
  威圧的な態度で臨んでください。
  それこそが、ロシア人に必要なことなのです。
  (略)いまこそ、あなたのこぶしを突きつけるときです!」

皇后アレクサンドラから皇帝ニコライ2世への手紙
1917年2月24日


198 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:14:15 ID:???

1917年2月19日、当時ロシア帝国の首都だったペトログラード(旧サンクト・ペテルブルグ)の市当局は、
食糧を配給制とする決定を下した。
鉄道網が麻痺していたため、ペトログラードにおける小麦粉の備蓄が、あと10日分程度になってしまったからである。

きびしい寒さのなか、人びとはパン屋の店先に並んだ。
街のあちこちで混乱が起こり、不満の声があがった。
権力者が敵国に買収されているとか、「ユダヤ人やドイツ人の投機家たち」が
値段をつりあげるために小麦を隠し持っているなどのうわさが街中をかけめぐっていたのである。


199 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:15:50 ID:???

また、ペトログラード最大の軍需工場だったプチーロフ工場は、操業に必要な物資が不足したため、
何千人もの労働者を解雇し、街頭へ放りだした。
当然のことながら街は騒然となり、ドゥーマ(帝国議会)は「無能な大臣たち」の辞職を要求した。

しかし、多くの労働者が住む大都市ペトログラードでは、1905年や1914年にも大きなストライキが起こっており、
そうした混乱はめずらしいことではなかった。
そのためこの時点では誰も、この騒ぎがわずか数日間で、300年続いたロマノフ王朝に終焉をもたらすことになるとは、
思ってもみなかったのである。


200 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:51:44 ID:???

華夷秩序と朝貢体制

 本講の前半では、自由民権論者の対外認識をみましたので、いわば本来はその対極にあ
ったはずの立場のものとして、軍事費拡大について政府部内で最右翼の議論を展開してい
たであろう、軍事当局者の対外認識をみていきます。なかでも、一貫して、軍と藩閥勢力
の中心にいた山県有朋がのこした意見書類を主に読んでいきますが、その前に、華夷秩序
とは何かを、近年の研究に従って説明しておきましょう。
 一九世紀後半の東アジア情勢は、国際法の遵守を掲げた欧米列強の形成する「近代的」
秩序によって、清国を中心とする伝統的な華夷秩序が圧倒されてゆく過程であったという
ことができます。華夷秩序とは、文明の中心である中国が周辺地域に対して、世界の中心
である中国の「徳」を及ぼすものであり、その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成され
る、属人的秩序と考えられていました。よって、近代的秩序のような、排他的領土管轄の
概念で動かされる秩序ではありませんでした。


201 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 13:58:53 ID:???

 その華夷秩序のなかでも、とくに、中国と東アジアとの関係を律する国際秩序が、朝貢
体制と呼ばれる宗属関係でした。ここにいう朝貢とは、朝貢国(属国)が中国(宗主国)皇帝
を訪問して臣下の礼をとることを指し、その際臣下の礼をとった者は、皇帝からその地域
の「王」として資格を授与されます。この関係は、冊封と呼ばれていました。たとえば朝
鮮の場合、伝統的に中国に朝貢することで朝鮮国王として冊封され、そのことによって民
族的文化的な優越意識を確保したとみられています。
 儀礼上の手続きを履行している限り、ふつう中国が朝貢国への内政・外交に干渉するこ
とはなく、必ずしも支配―被支配という、権力的上下関係に立つものではありませんでし
た。最近の研究動向の支持する朝貢体制理解は、この体制の、当時の文脈における合理性
を指摘する傾向にあります。朝貢体制とは「定められた儀礼の体系を守っている限り、緊
張が必要以上に昂まることはなく、とすればこの関係は、双方にとって軍事的に必要以上
の負担がかからない、極めて安価な安全保障のための装置」(茂木敏夫による定義)でした。
朝鮮が清国を宗主国とし、清国の側が朝鮮に対して宗主権をもつ宗属関係とは、このよう
な関係を意味するものでした。以上のような対外関係構築の方法を清国がとっていたのだ
と、まずはご理解ください。


202 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 14:03:49 ID:???

 よって東アジアの大状況としては、このような伝統的な国際関係を構築してきた清国
が、列強に対して今後いったいどのような関係を切り結ぶのかとの視点から、当時の日本
が清国を熱心に観察する構図が描けます。このような経緯から、軍事当局者の東アジア認
識も、清国の近代化に対する見通しいかんによって、時期とともにかなり変化しました。
ここでいう清国の近代化に対する見通しというのは、もし、列強が清国の伝統的な国際関
係を認めない立場をとって武力でせまってきた場合に、武力の前に屈してしまうのか、そ
れとも自国の近代化に努めながら、西欧「近代的」秩序のルールにのっとり、力で対抗し
てゆこうとするのか、その場合の清国のとるべき道についての見通しのことです。
 あるいは、ロシアへの対抗を第一とするイギリスの帝国主義的な打算などの要因がはた
らいて、イギリスが清国と朝鮮のあいだの宗属関係を、以前にもまして認める事態も考え
られます。よって、清国の取りうる第三の選択肢としては、列強に清国と朝鮮の宗属関係
を承認させつつ、それ以外の部分で、西欧型の近代化をとげる道もありえました。いずれ
にしろ、清国の近代化の方向性いかんで、日本のこうむる影響の種類も度合いも異なると
の判断から、清国についての真剣な観察がなされていました。


203 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 14:08:00 ID:???

朝鮮半島をどのようにしたら第三国の占領下に置かないですむか

 一八八二(明治十五)年と八八年の意見書を比べてみますと、山県の意見が少し変化して
いることに気づかれるでしょう。八二年段階の意見書では、清国強しというイメージで、
日本の軍備拡充を急がせる基準国としての清国を中心に語っていますが、その六年後のも
のでは、英露間の何らかの戦争が朝鮮を巻きこんでなされるのではないかとの危機感が前
面におし出され、中国問題は後景にしりぞいているようにみえます。それはどのような論
理からもたらされる変化でしょうか。
 山県とも親しく、軍人勅諭の起草者として知られ、学界の元老的立場にあった西周は、
そのころ元老院議官もつとめていました。その西が八三年時点で元老院議官として発言し
たものから、その事情を推測しておきましょう。徴兵令改正案が元老院にかけられたとき
の発言で西は、東アジアの情勢がただならぬものであると述べています。すなわち、数年
前にイリ地方の国境問題で露清間は緊張し、露清二国間の戦争が起こりそうになった、そ
の際ロシアの海軍中将レソフスキーは艦隊を率いて長崎に停泊したが、もしそのとき露清
間に戦争が勃発して清国が敗けていたりしたら、「魯兵の帰次、我に寇する有らば何を以て
折衝禦侮するを得ん」――。


204 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 14:10:50 ID:???

 西周が論じているのは、先にもふれたイリ紛争のことです。つまり、ロシア・清国間に
戦争があって清国が敗けたような場合、ロシアは帰りがけに日本の侵略に及んでいたかも
しれず、そのような行為に対して日本は果たして武力をもって反撃できただろうかとの懸
念を、西は表明していました。清国の敗北で、日本は被害をこうむる可能性があるのだか
ら、そのような可能性を、日本は武力でしりぞけなければならないという考え方です。
 清国より、むしろロシアがますます日本の警戒の対象となってゆき、その分清国は、ロ
シアに口実を与えてしまう国、東アジア情勢に一大変動を与えうる国、というイメージで
認識されるようになってきていることがわかります。清国が近代化を進めて軍事的に強国
になるのを日本側が恐れる視点はだんだんと後景にしりぞき、むしろ朝鮮がロシアに侵略
される機会を、みすみす清国がつくり出すのではないかとの疑心が生じてくるのです。


205 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 14:13:41 ID:???

 その背景には、清国の対外姿勢の変化がありました。清国は当時、英露列強に対して、
朝鮮やその他の領域に対する宗属関係をさらに強化する姿勢をみせつけており、日本側は
その点に強い危機感をつのらせていたのです。一八八四(明治十七)年、清仏戦争の戦況は
日本において実に詳細に報道されていましたが、それは、清国がフランスに対して武力に
うったえてまで安南(ベトナム)との宗属関係を守ろうとしたことを、衝撃ととらえる感覚
が当時の人々にあったからでした。
 また、日本にとってより切実な問題として感じられていたのは、巨文島(ポート・ハミルト
ン)の一件でした。巨文島とは、半島の南、朝鮮海峡上の要衝を占め、全羅南道と済州島
を結ぶ水路の中間にある島です。当時、英露両国の対立がイギリスの保護領化されていた
アフガニスタン地域をめぐって顕在化しつつあるなかで、八五年四月、イギリスが中央ア
ジアでの一触即発の事態に備える目的で、巨文島を占領するという挙に出たのでした。


206 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 14:16:26 ID:???

 もちろん、この背景には、ロシアが朝鮮半島北部の日本海側に位置する元山(ポート・レ
ザノフ)を奪い取ろうとしていたという、現実的な危機がありました。ユーラシア大陸内
部の対立の局面において、東アジア一帯の制海権を有利に掌握するための措置であったこ
とはいうまでもありません。このときは、最終的に清国が英露両国に交渉し、ロシアが朝
鮮不侵犯の声明を出したことでイギリスも妥協し、翌年巨文島から撤兵しましたが、この
一件は、日本に衝撃を与えるに十分な事件でした。
 日本が衝撃を受けたのは、西周のいうようなパターンを想定したからだけではありませ
ん。イギリスが清国の許可をとった上で、朝鮮の巨文島を占領したことがきわめて重大な
のでした。なぜ重大だったかといえば、朝鮮が当面、第三国に占有されるような状況を回
避するには、列国が朝鮮を独立国として相互に認めあうことが必要だと考えていた日本に
とって、巨文島の占領という事態はその立脚点を打ちくだくものであったからです。ま
た、イギリスが巨文島占領という実力行使に出た以上、それに応じてロシアが朝鮮の港湾
などを占領する可能性も高まったからです。日本の目には、このイギリスの巨文島占領に
根拠を与えた、再編されつつある清国・朝鮮の宗属関係こそが、禍根であるとの認識が高
まってきます。あまつさえイギリスは、みずからの帝国主義的な利益のために、伝統的な
清国・朝鮮の宗属関係を利用する動きをみせたのでした。


207 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:27:20 ID:???

2月23日は、社会主義者たちが重視する「国際婦人デー」にあたっており、
学生や労働者など何千人もの女性がペトログラードの中心地を練り歩いた。
その日は太陽が輝き、春らしいおだやかな陽気だった。
ところが、午後に事件が起きた。
労働者街であるヴィボルグ区の繊維工場で働く女性労働者たちが、パン不足に抗議するためのストライキを行ない、
デモ行進をしていたところ、その列がヴィボルグ区と高級住宅街を結ぶリチェイヌィ橋をふさいでいた柵を
突破してしまったのである。

女性たちは、「パンをよこせ!」と叫びながら行進を続けたが、なかには「皇帝〈ツァーリ〉を倒せ!」と叫ぶ声もあった。
やがて、氷の張ったネヴァ川を渡ってきた男性労働者のデモ隊も合流し、高級住宅街のいくつかの店が襲撃された。
しかし群集を驚かせ、力づけたことに、デモの鎮圧にあたるべきコサック兵は、
いつものように鞭で彼らを追い払うことはなかったのである。


208 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:27:57 ID:???

翌24日もすばらしい天気だった。
そのため15万人もの労働者がストライキに参加し、市の中心地へ続々と集まっていった。
前日と同じくデモ隊に圧倒されたコサック兵は、軍当局からの正式な命令を受けとれず、
増加し続けるデモ隊を追い払うことができなかった。

デモ隊のほかにも数多くの野次馬が加わり、群集の数は増え続けていった。
何百もの人だかりができ、即席の政治集会がいくつも開かれた。
市の中心にあるズナメンスカヤ広場では、
演説者がアレクサンドル3世(ニコライ2世の父)の騎馬像の台座に乗って演説を行なっていた。


209 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:28:37 ID:???

2月25日、ストライキはゼネストに発展し、デモはさらに政治的な意味合いを深めることになった。
人びとはあいかわらず「パンをよこせ!」と叫んでいたが、「皇帝〈ツァーリ〉を倒せ!」とか、
「戦争をやめろ!」という声も多くなり、デモの参加者は刻々と増え続けていった。

一方、ロシア政府は、数百トンのパンをペトログラードへ送りさえすれば、事態は収拾されると判断していた。
革命派の指導者も、この時点では同じ考えを持っていた。
この日ペトログラードで開かれたボリシェヴィキの集会で、指導者だったアレクサンドル・シリャプニコフは、
こう叫んでいたのである。
「革命だって? なにが革命だ。1人500グラムのパンが労働者に渡れば、ストライキなんて終わるさ!」


210 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:29:21 ID:???

ところが、同日20時30分、ペトログラード軍管区司令官のハバロフ将軍は、
モギリョフ(ベラルーシ東部)の総司令部にいるニコライ2世からの電報を受け取る。
「軍隊の力によって、ペトログラードの暴動を明日までに終わらせるように」。
この皇帝の命令によって、1905年以来ペトログラードでは何度も起こっていた「散発的な混乱」(と思われていた事態)が、
突然革命へ移行することになったのである。

2月26日日曜日の朝、ペトログラードの中心地では厳戒態勢が敷かれた。
市内の重要な交差点には騎馬警官隊や守備隊が配置され、パトロール隊が街を監視した。
ネフスキー大通りでは、機関銃を持った部隊がねらいを定めていた。
正午ごろ、労働者のデモ隊が、ふたたび街の中心地に集まった。
そしてネフスキー大通りやズナメンスカヤ広場で、警察と軍隊による砲撃が開始され、150人以上が殺害されたのである。

デモの参加者たちは落胆して家に戻り、政府は厳戒令を発令した。
そしてその前日にドゥーマ(帝国議会)の議長ミハイル・ロジャンコが、「国民の信頼を得ることのできる政府」をつくるよう
皇帝に進言していたにもかかわらず、政府はそれを無視してドゥーマの解散を命じたのである。


211 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 11:23:08 ID:???

けれども実はこのとき、ボリシェヴィキも、メンシェヴィキも、エス・エル党(社会革命党)も、
すべての革命政党は主導権を握るための準備をまったくしていなかった。
トロツキーは『ロシア革命史』のなかで、こう書いている。
「労働者たちは、2月27日の早朝の時点で、(略)問題を解決できるのは現実にはずっと先のことだと考えていた。
 (略)実はこの時点で、なすべきことはすでに9割方なしとげられていたのに、
 まだそのすべてが残されていると思っていたのである。(略)〔革命の〕兵士たちは、すでに市へ出ていた。」

事実、26日の夜から27日にかけて、仮宿舎に戻ってきたヴォルインスキー連隊と
プレオブラジェンスキー連隊の兵士と若い士官たちは、その日の出来事に衝撃を受けて、
自分たちの「兄弟である労働者たち」に発砲したことを悔やみ、反乱を起こした。
その動きは数時間のうちに、ペトログラードの守備隊のほとんどに広がっていった。


212 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 11:23:59 ID:???

2月27日が終わるまでに、勝敗は決していた。
そして前日までの「デモ」は、革命の動乱へと変わったのである。
兵士と労働者のデモ隊は兵器廠を襲撃して10万丁近くの銃を手に入れ、郵便局、駅、電話局を占領した。
戦いは、最後まで政府側についた警察を相手に一日中続いた。

いまや「革命の兵士」と化した民衆は、まず政治犯の監獄となっていたペトロパブロフスク要塞を攻撃した。
専制政治の象徴だったこの監獄は、短い戦闘ののちに群集の手に落ち、その頂上には革命派の赤い旗がかかげられた。
しかしそこには、前日逮捕された15人程度の収監者しかいなかった。


213 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 11:25:24 ID:???

そこで群集は次々とほかの監獄へ行き、次々と襲撃を加えた。
その結果、8000人近くの収監者が自由の身になったが、そのほとんどは「一般法」を犯した犯罪者だった。
彼らと無秩序な群集たちは、その後、不当な略奪行為を行ない、輝かしいはずの革命に大きな汚点を残すことになった。

2月27日に「ロンドン・タイムズ」のペトログラード特派員は、「群集の性格は、誰もがしっているように、
生まれつき粗暴なものだ。それは革命のはじめにあきらかになる、もっとも顕著な事実である」と、ロンドンに打電している。

「人びとは、一連の出来事を支持していることを示すために、自発的に赤い腕章をし、ボタンホールに赤いリボンをつけている。
 カフェやレストランは再開し、兵士や労働者たちに無料で食事を出している。
 あるカフェの店頭で、私は次のような張り紙を見た。
 『市民たちよ! 偉大なる自由の日々を記念して、自由の戦闘員であるあなたがた全員を歓迎します。
 さあ、お入りになって、心ゆくまで飲んだり食べたりしてください!』」


214 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 16:28:44 ID:???

しかしこのような光景は、2月革命の持つ一面にすぎない。
27日以降、反乱を起こした兵士たちや、監獄から出た犯罪者たちは、みな武装して、街のさまざまな場所で犯罪的行為を働いた。
彼らは店を略奪し、無抵抗な人を殴り、通行人を痛めつけ、脅迫した。

3月1日に、ロシアの作家マクシム・ゴーリキーはこう書いている。
「非常に多くの人びとが、(略)群集の堕落した暴力を革命的なものだと思っている。(略)略奪がはじまった。今度は、
 なにが起こるのだろうか。まったくわからない。しかし多くの血が、いままで見たこともないほど多くの血が流れる予感がする」

ペトログラードで起きたこの2月革命では、公式発表によると1433人の犠牲者が出たという。
突如起こった革命のなかで、旧体制に対して長くつのらせてきた憎しみを、人びとはダイレクトに表現した。
警察官は群集に追われ、リンチを加えられることもあった。
ある労働者グループは、巨大なアレクサンドル2世(ニコライ2世の2代前の皇帝)像の頭部を切りとり、
それを手に持ってカメラの前でポーズをとった。
アレクサンドル3世の騎馬像の台座には、誰かが「カバ」(下層民がこの皇帝につけたあだ名)という文字を刻んでいた。


215 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 16:29:25 ID:???

一方、この2月革命が起こったとき、代表的な革命指導者は誰もペトログラードにいなかった。
ほとんどが、国外に亡命していたからである。
ロシア社会民主労働党のレーニンとマルトフはスイスのチューリヒに、トロツキーはニューヨークに、
エス・エル党の指導者チェルノフはパリにいた(ツェレテーリとダンとスターリンはシベリアに流されていた)。

そのため、ペトログラードに残っていた指導者たちが、この革命の嵐のなか、
さまざまな決定を行なう重責を担わされることになった。
その結果、彼らは唯一の前例といえる1905年の革命(第1次革命)を思い出し、当時と同じく、
労働者の代表からなる指導機関「ソヴィエト」をつくることが必要だと考えたのである
〔ソヴィエトとは、「会議」や「評議会」を意味するロシア語で、1905年の第1次革命では、
 工場のストライキ委員会などから生まれたソヴィエトが、一定の政治的・行政的機能を持つようになった〕。


216 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 16:30:09 ID:???

こうして2月27日の午後、メンシェヴィキ、エス・エル党、ボリシェヴィキ、トルドビキ(勤労派)など
さまざまな革命政党の活動家約50人が、ドゥーマ(帝国議会)の置かれていたタヴリーダ宮殿の一室で、
「労働者代表ソヴィエト臨時執行委員会」を発足させた。
臨時執行委員会は、労働者と守備隊の兵士たちに、「自分たちの代表」を選ぶよう呼びかけた。
翌日、各工場や部隊から選ばれた600人近くの代表者が会議を開いた。
この会議で「プロ」の革命家たちが執行委員会に選ばれ、彼らが臨時執行委員会をひきいることになった。

同じころ、タヴリーダ宮殿の別の部屋では、前日に皇帝が出した解散決定にしたがうことを拒んだドゥーマの議員たちが、
「秩序の回復と諸機関や要人との交渉の臨時委員会」をつくっていた。
委員会に属する多くの議員は、皇帝による専制政治には反対の立場をとっていたが、
なによりもまず治安を回復することが必要だと考えていた。

臨時執行委員会がもっとも優先して行なおうとしたことは、反乱を起こした兵士たちを兵舎へ戻すことだった。
そのため、兵士側代表との交渉が行なわれ、「兵士の権利憲章」である「命令第1号」という基本文書が
まとめられることになったが、この「命令第1号」によって軍隊の規律は根底からくつがえされることになる。
「命令第1号」は抑圧的な軍隊の規律を廃止し、市民である兵士が「兵士委員会」をつくることを認め、
兵士と士官のあいだに存在した対立を激化させることになったからである。


217 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 16:32:08 ID:???

しかし、この時点で、ソヴィエト臨時執行委員会(以下、ソヴィエト)は、事態の推移をとらえかねていた。
参謀本部の意向も、ペトログラードから数百キロメートル離れたモギリョフの大本営にいる皇帝の意向も、
まったくわからなかったので、この時点では、みずから権力を握ることなど誰も考えてもみなかったのである。

軍や皇帝からの反撃を恐れていたことに加え、思想的な問題もあった。
つまり、ボリシェヴィキもメンシェヴィキもエス・エル党も、革命家たちはみな共産主義理論の信奉者だったため、
まず第1段階として「ブルジョア革命」が起こり、そのあとプロレタリアと農民による革命へと発展するのが
「歴史的必然」だと考えていた。
そうした認識からすると、現時点の動きはまだ「ブルジョア革命」にすぎないと彼らは判断していたのである。


218 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 16:35:43 ID:???

社会の混乱が広がることを心配したドゥーマ臨時委員会と、
自分たちは権力を行使しないと主張したソヴィエトとのあいだで、長時間の裏交渉が行なわれた。
その結果、3月2日の朝に協定が結ばれた。
ソヴィエトは、憲法制定会議が召集されるまでのあいだ、カデット(立憲民主党)の代表者たちがひきいる、
大半が自由主義者からなる臨時政府が正当な権力機関であることを条件つきで認めることにした。

その条件とは、基本的人権を明示した民主的な政策要綱をつくること、普通選挙を実施すること、
身分や民族や宗教にもとづくあらゆる差別を廃止すること、警察にかわって民兵をつくること、
市民である兵士の権利を認めること、政治犯として収監されているもの全員にすぐ大赦をあたえることである。
しかし基本的なふたつの問題、つまり戦争を続行するか和平を結ぶかという問題と、
土地問題については触れられず、この2つの問題は、1917年を通して政治的争点として残されることになった。


219 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 13:01:42 ID:???

1917年3月2日の妥協によって、ふたつの異なった勢力からなる「二重権力」体制が誕生した。

権力のひとつはカデット(立憲民主党)を中心とする臨時政府で、彼らは従来の秩序を重んじ、議会制度の確立をめざし、
ロシアをイギリスやアメリカのような近代的で自由な資本主義国に変貌させようと考えていた。
もうひとつの権力はソヴィエトで、当時は穏健路線をとる社会主義者たちが優勢だったが、
それでも臨時政府にくらべると、より革命的な姿勢を強めていた。
けれどもその一方で、ソヴィエトそのものがこの時点では、まだまだ不安定な存在にすぎなかった。
なぜならこの時期のソヴィエトは誕生したばかりで、中央集権化された組織ではなく、
気まぐれな世論の動きに流されがちな傾向にあったからである。

第1次臨時政府は、ゲオルギー・リヴォフ公を首相として3月2日に誕生した。
外相にパーヴェル・ミリュコーフ、運輸相にニコライ・ネクラーソフ、
農相にアンドレイ・シンガリョーフというように、カデット側の指導者の多くが大臣となった。
一方、ソヴィエト側の指導者からは、アレクサンドル・ケレンスキーがただひとり入閣した。
雄弁家のケレンスキーは、臨時政府とソヴィエト間の橋渡し役として、
このときからすでに特別な地位をしめるようになっていた。


220 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 23:04:40 ID:???

臨時政府が発足した3月2日の時点で、ニコライ2世と参謀本部がどのような態度に出るかは、まだまったく予測がつかなかった。
事実、自分の理解を超える一連の出来事に遭遇し、すっかり途方に暮れたニコライ2世は、
矛盾する命令を次々と出していたのである。

ペトログラードにおける民衆の反乱が勝利を収めた2月27日、ニコライ2世はペトログラードの軍管区司令官を
ハバロフからイワーノフに変え、「反乱を収束させるように」との命令をくりかえし、
翌日、ペトログラードから数キロメートル離れたツァールスコエ・セローの宮殿へ向かった。

しかし途中で行き先をプスコフ(ロシア北西部)へ変更することを余儀なくさせられ、
3月1日に到着したときには、民衆の反乱がすでに目的を達成したことを知った。
ところが大方の予想とは異なり、今後の政局を握るのはソヴィエトではなくドゥーマ臨時委員会であることが確実になったため、
アレクセーエフ最高総司令官は協調路線に転じ、「国家の独立を守り、王朝の存続を保証するため」に譲位するよう、
ニコライ2世に進言した。
皇太子アレクセイは血友病だったので、皇帝は弟のミハイル大公に帝位を譲った。

しかし、ニコライ2世がミハイル大公に帝位を譲ったという知らせが届くと、ペトログラードでは激しい抗議運動が起きた、
兵士や労働者のデモ隊が「共和国万歳!」「ロマノフ王朝を倒せ!」と叫びながら、タヴリーダ宮殿に押し寄せた。
このままでは無政府状態が国中に広がるという理由で、臨時政府は帝位をあきらめるようミハイル大公を説得した。

1917年3月3日18時、ミハイル大公は譲位証書に署名し、ロマノフ王朝は終焉した。
それを知った民衆は各地で歓迎のデモを行ない、
自由な時代の象徴である賛歌『ラ・マルセイエーズ』が街中で高らかに鳴り響くことになった。


221 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 23:05:11 ID:???

◆「ロシアの民衆の精神は、その本質そのものにより、普遍的・民主的な精神であることがあきらかになった。
  その精神は、ただたんに普遍的民主主義のなかにとけこもうとしているだけではない。
  フランス革命の偉大なる原則である『自由、平等、友愛』という標柱が立てられた『進歩』という道の
  先頭に立とうとしているのである」

リヴォフ公(第1次臨時政府首相)
1917年3月20日


222 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 11:14:10 ID:???

2月革命による陶酔状態にあった1917年の春、新しく権力の座についた人びとは、
ロシアを「世界一自由な国」にすることを夢見ていた。
事実、数週間内に、臨時政府は輝かしい一連の新政策を実行に移した。
つまり、基本的自由、普通選挙、全面的な大赦、死刑の廃止、身分・民族・宗教にもとづくあらゆる差別の廃止、
ポーランドとフィンランドの民族自決の権利の承認、少数民族に対する自治権の約束などである。

しかし、何世紀にもわたる専制政治と縁を切ったばかりの国で、
まちがいなく革命的なこうした民主的な措置がとられたことを、新政府の功績だと考える者は誰ひとりいなかった。
たたえられるべきは革命の華々しい成功であり、政府がこのような措置を講じたのは、
その結果にすぎないことはあきらかだったからである。

束縛を解かれて自由になったロシア社会の、いたるところに政治が入りこんでいった。
いわばあらゆる場所で、お祭り騒ぎのような政治集会が開かれているようなものだった。


223 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 11:15:11 ID:???

タバコを1箱買うにしても、辻馬車に乗るにしても、政治的な議論をせずにすむことはなかった。
カフェのウェイターや使用人は、国民の義務となった選挙の実施方法に関する助言を求めてきた。
街中の塀という塀は、政治集会や会議や集会や選挙の予定を告げるポスターで埋めつくされていた。
ロシア語のポスターだけではなく、ポーランド語やリトアニア語や
インディッシュ語(東欧のユダヤ人が使う言語)のものもあった。
ネフスキー大通りは、まるでカルチェラタン(パリの学生街)のようになった。
本屋が歩道にずらりと並び、ラスプーチンやニコライ2世やレーニンに関する扇情的な風刺文書や、
農民ひとりあたりどれだけの土地をもらうことができるかを説明したエス・エル党(社会革命党)の
土地問題についての政策要綱を売っていた。

わずか数週間で、何百ものソヴィエト、何千もの工場委員会や地区委員会、「赤衛隊」と呼ばれる民兵、
農民委員会、コサック兵委員会、主婦委員会が誕生した。
また、街の有力者で構成された、保守的な安全委員会も数多くつくられた。

さらに、自分たちの権利を主張したり世論を伝えるための討論の場も、ありとあらゆる場所に設けられた。
1905年の革命により一定の言論の自由はもたらされていたが、
1917年2月の革命によって、真の意味で自由な言論活動ができるようになっていた。
その結果、それまで発言の機会のなかった労働者や兵士、農民、ユダヤ系知識人、イスラム教徒の女性、
アルメニア人教師などが、自分たちの組織を代表する人びとを介して、民衆の悲惨な状態や、
革命によって生まれた大きな希望を記した無数の議案、請願書、建白書、陳情書をソヴィエトに送ったのである。


224 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 12:49:03 ID:???

1917年の3月から7月にかけて、さまざまな分野の100万人以上の労働者がストライキに参加し、
自分たちの権利を声高に主張した。
職人、洗濯屋、理髪師、カフェのウェイター、使用人、運転手など、それまではみずからの要求を訴えることなど
考えもしなかった人びとが、まるでストライキ経験の豊富な工場労働者のように、旗をかかげてデモをしはじめたのである。

労働者たちは8時間労働の制定を求め、すぐにその実現を勝ちとった。
そのほかの要求には、社会保険制度の実施や、経営者による一方的な採用と解雇の監視、罰金と虐待的な措置の廃止、
「1日あたり1.5キログラムのパンを買うことができるようになるため」のささやかな賃上げなどがあった。
ロシア西部のトヴェーリの繊維工場の労働者たちは、工場に入る際の身体検査の廃止を、
コストロマの繊維工場の労働者たちは、経営者に雇われたスパイと民兵の解雇を求めた。

モスクワでは使用人たちがデモ行進を行ない、
雇い主が自分たちのことを「農奴のように『お前』と呼ぶこと」をやめるよう要求した。
ペトログラードではカフェのウェイターが、
「カフェのウェイターに敬意を示すことを要求する。チップを廃止しろ! 給仕も市民だ!」と書かれた旗を持って行進した。

こうしたさまざまな要求は、新体制になってからわずか数週間のうちに、
事態の推移に圧倒された経営者たちによって、ほぼ実現されることになった。
そのため大都市の大工場で働く労働者たちは、非常に早い時期から、
さらに一歩進めて工場委員会や赤衛隊をつくりはじめていた。


225 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 12:50:29 ID:???

工場委員会がつくられたのは、採用と解雇を監視し、経営者が(操業に必要な物資が不足したという理由などで)
みだりに工場を閉鎖しないようにすることが目的だった。
しかし同時にそれは、職場の規律を維持し、正当な理由のない欠勤をなくす目的も持っていた。
つまり経済状況が悪化し、失業が増え、工場が閉鎖されるなかで、1917年にしだいに広がっていったスローガンである、
生産の「労働者統制」を推進するために組織されたものだったのである。
経済危機が進み、経営者との対立がますます激しくなっていくなか、
工場委員会はボリシェヴィキが主張する企業の国有化という考えに、しだいに賛成するようになっていった。

一方、労働者の武装組織である赤衛隊は、2月27日以降に兵器廠や軍需工場から奪った武器を手に、
経営者のロックアウト(工場閉鎖)に対抗すると同時に、「革命の守り手」であることも任務としていた。

1917年の夏、ペトログラードには武装した労働者が2万人、モスクワには1万2000人いたが、
ロシア西部の大工業都市イヴァノヴォ・ヴォズネセンスクでも3000人、トヴェーリでも1500人、
小さな都市であるトゥーラでも300人いた。
「自分たちの」革命を守ろうと固く決意していた労働者の武装組織は、規模の大小にかかわらず、
階級間の闘争をかかげるボリシェヴィキの思想に、ますます影響を受けていった。


226 :私事ですが名無しです:2006/12/14(木) 19:32:17 ID:???

このころ、ひとりの若い中隊長が地主である父にあてて、軍隊内の状況について次のように書き送っている。
「私たち士官と兵士たちのあいだには、底知れぬ深い溝があります。
 兵士たちにとって、私たち士官は支配者です。
 (略)しかし、今回起きた(略)社会的な改革においては、彼らが勝者で私たちが敗者なのです。
 いまや彼らは自分たちの委員会をつくり、私たちにこういいます。
 『以前はあんたたちが支配者だったが、今度はおれたちが支配者になる番だ!』と。
 彼らは、何世紀にもわたる隷属状態の仕返しがようやくできるものと考えているのです」。

1917年の革命において、農民のなかから動員された1000万人の兵士が果たした役割は、非常に大きかった。
軍隊から多くの兵士たちが脱走したことや、平和主義によってロシア軍がしだいに解体していったことが、
体制全体の崩壊へとつながったからである。

軍隊の司令部にとって、諸悪の根源は兵士委員会を生みだした「命令第1号」だった。
さらに兵士委員会は、「命令第1号」に書かれた特権以上のものを行使し、軍事戦略にまでかかわるようになり、
命令にしたがわなくなり、自分たちの意に添わない士官の交替を求めるまでになっていった。


227 :私事ですが名無しです:2006/12/14(木) 19:34:18 ID:???

兵士たちの声によって動かされるようになった軍隊には、しだいにボリシェヴィキの思想が浸透していったが、
その「塹壕のボリシェヴィズム」は、革命指導者たちが主張していた思想からは、かなりかけはなれたものだった。
ブルシーロフ将軍は、次のように語っている。
「兵士たちは、彼らの願いと一致しているように見える『塹壕のボリシェヴィズム』に、少しずつとりこまれていった。
 彼らは、共産主義やプロレタリアや憲法がどのようなものであるかなど少しも考えていなかった。
 彼らは平和、土地、掟も士官も地主も存在しない自由を望んでいた。
 事実、彼らの『ボリシェヴィズム』は、束縛のない自由や無政府状態への途方もないあこがれでしかなかったのである」。

ほかの交戦国の兵士の大半と同じく、ロシアの兵士たちも戦争が終わることをなによりも望んでいた。
もともと農民である彼らは、自分たちの村で土地の分配が行なわれるときにその場に居合わせないと、
分け前をもらうことができないという話を聞いて、ますます故郷への思いをつのらせていた。
その結果、1917年の3月から10月のあいだに、戦いに疲れ、飢えに苦しむ兵士が200万人以上も脱走した。
しかし彼らが村に戻ったことで、今度は農村内でのいざこざが起こる結果となったのである。


228 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:45:12 ID:???

ロシアの人里離れた農村の多くには、皇帝〈ツァーリ〉が譲位したという知らせが3月中旬か、それ以降に届いた。
大事件が起きたときのしきたりどおり、(村々に)農民集会が召集され、代書人か教師か教区付き司祭によって、
農民の苦情や希望が記された請願書が作成された。
ペトログラード・ソヴィエトやモスクワ・ソヴィエトの記録には、
そうした「ロシア革命の陳情書」がたくさん残されている。

そのなかには、政治的な要求事項や、戦争を早く終結させてほしいという願いなども書かれていた。
「共和国の宣言をしてほしい」「憲法制定会議を早く招集してほしい」
「平等な選挙制度をつくり、すべての人が教育を受けられるようにしてほしい」
「適切で公平な和平をできるだけ早く結んでほしい」など、農民たちはさまざまな議案や請願書を積極的に出していた。
農民たちの言葉は、よほどの場合でなければ記録されなかったため、
現存するこれらの文書は、歴史家たちにとって非常に興味深いものといえる。

「われわれロシア人は、タタール人(モンゴル系遊牧民族)ではない。
 彼らはいつも、自分たちの家畜の群れとテントを持って、ロシアに侵入してくる。
 われわれは(敵国である)ドイツへ行ってそこに住みたいとは思わない。
 ドイツの人びとを奴隷にもしたくないし、彼らの家畜や土地を分割したくもない。
 その理由は、ふたつある。
 ひとつは、それが聖書の福音書に反する行ないだから。
 もうひとつは、それが諸刃の剣、つまり最初は勝者となっても次には敗者となり、
 そのくり返しからは殺戮しか生まれないからである」。


229 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:45:54 ID:???

農民たちの議案や請願書には、経済的・社会的な権利に関する強い要求も含まれていた。
彼らは、国家や旧皇族や大地主の土地を、
各人が扶養しなければならない人数に応じて分配するのが理想のありかたであると主張した。
そして「大地主に残す土地は、賃金労働者や戦争捕虜を使うことなく、
彼らが自分たち自身で耕せる広さでなければならない」としていた。

それ以外にも、さまざまな要求があった。
たとえば、地代をさげてほしい、憲法制定会議が召集されるまで土地の売買を停止してほしい、牧場や森林を分配してほしい、
「戦争中であるということから特別に」国有林の木の伐採を許可してほしい、などなどである。

4月末までの数週間、農村は平穏を保っているように見えた。
1905年の革命時とくらべると、混乱は非常に少なかった。
しかし農民たちは、村や郷(郡と村のあいだの行政単位)のレベルで土地委員会をつくっていった。

エス・エル党(社会革命党)の思想に近い「農村の知識人〈インテリゲンチャ〉」にひきいられることが多かった
これらの委員会は、依然として臨時政府とソヴィエトが土地問題を解決してくれるものと信じていた。
ところが4月末以降になると、農民たちのいらだちは高まり、彼らは法律をたびたび犯して地主たちを悩ませるようになった。
そうした違法行為は4月には100件以下だったが、6月には1000件を超えるようになり、
農民委員会の態度も急進化しはじめていた。


230 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:47:04 ID:???

2月革命は、皇帝による専制政治(とロシア化政策)に押さえこまれていた各地の民族運動にとっても、決定的な転機となった。
当時、ロシア帝国領だったフィンランド、ポーランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、
グルジア、アルメニア、タタール、ウクライナの知識人たちは、ロマノフ朝の終焉によって、
民族の自治、さらには民族独立の希望をいだくようになったからである。

ウクライナのキエフでは、知識人の組織である「ラーダ」(ウクライナ語で「会議」の意味)が、
次のような言葉で革命を熱烈に歓迎した。
「ウクライナ人たち、市民たち、同志たちよ!
 何世紀ものあいだ抑圧されてきたウクライナが生まれ変わる幸福な日がやってきた。
 新体制を支持せよ。
 なぜなら新体制は、ウクライナに自由をもたらすからだ。
 憲法制定のための国民議会を準備せよ。
 その議会では、連邦国家をつくるために、ウクライナの大衆の声を一致させなければならない」。
その後、まもなくラーダは、全ウクライナ人を代表して、ウクライナの独立を宣言した。


231 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:48:32 ID:???

ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、カフカスでも、同じような運動が広がっていった。
各地のイスラム教徒たちもそれに続き、そうした過程で、古くから存在した社会的対立があちこちで表面化するようになった。
女性解放運動を支持する「進歩派」と支持しない「保守派」、
タタール人の支援のもとでイスラム教徒の統一を実現したい「統一派」と、
バキシール人、ウズベク人、アゼリー人にリードされた「連邦派」といった具合である。

国家の崩壊につながるような、これほどさまざまな強い願望を、突如として突きつけられた臨時政府は、
彼らの熱意に応え、ロシア人以外の民族に対する差別的措置をほとんど全廃することを決めた。
その結果、旧ロシア帝国内の各民族は、以後、国内を自由に移動・転居し、あらゆる職業を営み、
自分たちの言語で教育を受け、選挙権を行使することができるようになった。
これは非常に大きな進歩だったといえるだろう。
しかしそれでもなお、それは彼らの究極的な望みである民族独立という要望を満たすものではなかったのである。


232 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:49:13 ID:???

◆2月革命後のロシアにおいて、政治上の論争の中心は、戦争を継続するか否かの問題にしぼられていた。
事実、当時のロシア社会は戦争を終わらせて革命をさらに推し進めるべきか、
戦争を続行して勝利することで革命を終わらせるべきか、真っ二つに分裂していたのである。


233 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:50:31 ID:???

新政府は、連合国軍の一員として第1次大戦に勝利を収めさえすれば、新しく誕生したヨーロッパ流の民主主義体制が強化され、
革命の混乱がおさまらないロシア社会も、うまく軌道に乗るものと考えていた。

革命後まもない3月4日には、新しく外相となったパーヴェル・ミリュコーフが各国のロシア大使にあてて、帝政時代に
ロシアが約束した国際的な債務を守り、最終的な勝利を得るまで戦争を続行することを決定したという覚書を送っている。
新体制となっても、戦争に関する政府の見解は帝政時代とまったく変わらず、アジアとヨーロッパを結ぶ
戦略上の要地コンスタンティノープル(イスタンブール)を征服することが、重要な課題となっていた。
しかしその一方、ペトログラード・ソヴィエトの見解は、政府のものとは大きく異なっていた。

戦争を続行するか否かという重要な問題に関して、穏健派の社会主義者たちからなるペトログラード・ソヴィエトは、
3月14日に、「革命的防衛主義」が平和な理想社会をつくるという内容の「全世界の人びとへの呼びかけ」を採択した。
これは「交戦中のすべての国の政府が持つ併合政策の野望に対し、断固として戦いを挑み、
無併合・無賠償による和平を結ばせる」ことを人びとに求めたものだった。
しかしこの文書のなかには、「ロシアは戦争を続け、軍隊の戦闘意欲を保ち、積極的に軍事行動を進める」という、
戦争の続行をはっきりと示す記述もあったのである。


234 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:11:03 ID:???

ボリシェヴィキの内部でも、党員の大半はペトログラード・ソヴィエトの見解に同調していた。
ところが、革命指導者のなかでひとりだけ、「革命的防衛主義」と、
ソヴィエトが推進している政府との協調政策が、やがて破綻すると予測していた人物がいた。
スイスに亡命中だったレーニンである。

レーニンは、チューリヒで書いた4通の「遠方からの手紙」のなかで、ソヴィエトが即刻政府と手を切り、
革命の次なる段階であるプロレタリア革命へ向けて積極的な準備をするよう求めていた。
彼は「プロレタリアート(労働者)によるソヴィエト」が各地で出現しているという事実が、
革命がすでに「ブルジョア革命の段階」を終えつつある証拠と考え、これ以上事態の推移を静観せず、
革命組織であるソヴィエトがみずから権力を奪い、帝国主義戦争を終わらせる必要があると判断していたのである。

なんとしてもロシアへ戻る必要があると決意したレーニンは、スイスの社会主義者プラッテンがドイツ当局と結んだ協定を受け入れ、
3月28日にボリシェヴィキの革命家たちと一緒に治外法権が認められた列車に乗った。
そしてチューリヒを出発したあと、敵国ドイツを通過し、スウェーデン経由でペトログラードに到着したのである。
ドイツ政府がレーニンの帰国を認めたのは、戦争の続行に反対しているレーニンがロシアの民衆の前に姿を現わせば、
ロシア社会が不穏な空気につつまれるはずだと考えていたのである。

ペトログラードに到着した翌日の4月4日、レーニンはボリシェヴィキの集会で、「4月テーゼ」と呼ばれる政策要綱を発表した。
そのなかで彼は、「革命的防衛主義」と臨時政府と議会制共和国に対し、全面的に反対すると宣言した。
さらに、警察と軍隊と国家の官僚制全体を廃止し、大地主の土地を没収して国有化し、
企業では「労働者統制」を行なうべきだとのべている。
そして当面の目標として、「戦争をやめろ!」「臨時政府を倒せ!」
「全権力をソヴィエトへ!」という3つのスローガンを提案したのだった。


235 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:12:06 ID:???

ボリシェヴィキの指導者の大半は、「4月テーゼ」を聞いて?然とし、敵意をあらわにした。
しかしレーニンの主張は、しだいに人びとの賛同を集めるようになり、4月24日から29日まで開かれた
ボリシェヴィキ党協議会では、ぎりぎり過半数の150人の代表が、わずかに修正されたレーニンの主張に賛成した。

指導者層とは異なり、ボリシェヴィキの下部組織の活動家たちは、共産主義(マルクス主義)の理論をよく知らなかったため、
「社会主義に移行する」ためには「ブルジョア革命の段階」を経る必要があるということがよく理解できなかった。
そのためソヴィエトがすぐに権力を握るべきだというレーニンの主張のほうが、
彼らにとっては受け入れやすかったのである。

とはいえ、問題は山積しており、レーニンの主張はなかなか実現しそうになかった。
ペトログラードの沖合にあるクロンシタットの要塞で働く兵士たち、ペトログラードのいくつかの守備隊、
労働者街であるヴィボルグ区の赤衛隊など下部組織の人びとは、いずれも忍耐心に欠け、
すぐに行動を起こしたがっていたし、逆にジノヴィエフやカーメネフといったボリシェヴィキ党の指導者たちは、
蜂起が失敗に終わることを恐れ、行動に移すにはまだ早すぎると主張していた。

ボリシェヴィキの内部は、4月の時点でも7月の時点でも10月の時点でも、広く知られている一般的な見解とは異なり、
武装蜂起を実行しようと沸きたつ人びとと、煮えきらない態度の人びとに大きくわかれていた。
革命のための現実的な方策を練るのではなく、ただ議論だけで争っているといった状態だったのである。


236 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:15:35 ID:???

4月18日、外相ミリュコーフは連合国軍に対して、ロシアが同盟を守り、
「最終的勝利を得るまで」戦争を続けるという内容の覚書を送った。
しかしこの覚書のなかには、「無併合・無賠償による和平」というソヴィエトの主張はまったく記されていなかった。
その結果、世論は騒然となり、ソヴィエト副議長でもある法相ケレンスキーは辞職をほのめかすようになった。

ペトログラードの労働者たちは、ミリュコーフの辞職を求める運動を即座に開始した。
何万人もの民衆が、街の中心地へ向けてデモ行進をした。
デモ隊からは、「臨時政府を倒せ! 権力をソヴィエトへ!」というボリシェヴィキのスローガンが聞こえていた。
一方、ボリシェヴィキに対抗して、士官候補生や高級住宅街に住む若いブルジョアジーたちが、
「レーニンのドイツのスパイとその仲間たち」を非難しながら、対抗デモを行なった。
こうしてペトログラードでは内戦の風が吹きはじめたのである。


237 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:19:26 ID:???

政府は、ロシアが戦争問題に関して併合政策をとっていないことを公式に発表していたが、
それだけでは国内の政治危機を回避することはできなかった。
「ミリュコーフの覚書」は、臨時政府とソヴィエトの二重権力の矛盾をあばく結果となったのである。
数日後、人びとから糾弾されたミリュコーフは辞職し、それに続いて、
「兵士委員会に毒された軍隊」に対する影響力をすっかり失ったと考えた陸海軍相グチコフも閣外へ去った。
一方、ソヴィエトは連立政権への参加を表明した。

しかしこの連立政権は、まさに野合以外の何ものでもなかった。
臨時政府をひきいる穏健派は、メンシェヴィキとエス・エル党(社会革命党)の人間を政府の要職につけ、
彼らに戦争の指揮権をあたえれば、民衆に対する社会主義者たちは、自分たちが入閣することで、
改革を促進すると同時に、社会主義者に対する政府の敵対行為を終わらせ、「反革命」の計画をくじくことができると考えていた。


238 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:21:14 ID:???

数週間におよぶ裏取引が行なわれたあと、5月5日にようやく第2次臨時政府が誕生した。
カデット(立憲民主党)からは首相のリヴォフ公と、7人の大臣が起用された。
社会主義陣営からも6人の大臣が登用されたが、なかでも強い影響力を持っていたのが、
ペトログラード・ソヴィエトの主要メンバーである「革命的防衛主義」の主唱者ツェレテーリ(郵政相)と、
エス・エル党の指導者チェルノフ(農相)とケレンスキー(陸海軍相)の3人だった。

ペトログラード・ソヴィエトの指導者でもある社会主義者たちが入閣したことで、ロシアの政治的な力関係は大きく変化した。
「ブルジョアジー政府」の運営者となったエス・エル党とメンシェヴィキは、このあと、
まさにロシア社会の緊張が頂点に達したときに、革命の主導権をボリシェヴィキに奪われてしまうことになるのである。


239 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:24:49 ID:???

この時点で臨時政府がなによりも必要と考えていたのは、平和の回復だった。
戦争を終わらせるために、郵政相ツェレテーリは連合国軍に、
無併合による和平という手段をとるよう働きかけると共に、交戦国の指導者たちに平和を説くために、
スウェーデンのストックホルムですべての社会主義者を対象とした会議を開くことを計画した。
しかしこの非現実的な計画は、すぐに失敗に終わった。
ロシア革命の救世主を自任していた陸海軍相アレクサンドル・ケレンスキーが、分裂していた参謀本部を説得して、
交戦国に対して大攻勢を開始するという危険な賭けに出てしまったからである。

ケレンスキーは精力的に前線を視察し、すぐれた雄弁家ぶりを発揮して
(彼はボリシェヴィキの人びとから、「たわごと長官」というあだ名をつけられていた)、
「2月革命で得た権利を守るため、国民はおおいに奮起せよ」という主題で、「市民である兵士たち」を勇気づけようとした。
ところが実際には彼は、演説を聞きに来た兵士たちに向かって、
「自由で民主的な新しいロシアは、現実には暴動を起こす奴隷の国なのか」と、激しい口調で語りかけたのである。


240 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:27:54 ID:???

その言葉は軍隊全体に広まり、戦闘員としての誇りを持つように強いられてきた兵士たちを激昂させた。
大攻勢が開始される直前に脱走兵が急増し、その数は6月10日から17日の1週間で10万人以上にものぼった。
6月18日、ロシア軍は数百キロメートルにわたる地域で攻撃に移り、
当初はオースリア・ハンガリー軍を相手にいくつかの勝利を収めた。
しかし7月2日にドイツ軍が反撃を開始すると、武器や弾薬が不足していたロシア軍は混乱に陥って後退した。
2週間で40万人が死傷して捕虜となり、前線は100キロから200キロメートル後退した。

この大攻勢が失敗に終わったことは、臨時政府の信用を決定的に失墜させた。
この政府のために国民が奮起し、愛国心を発揮する必要のないことが、誰の目にもあきらかになったのである。


241 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:32:06 ID:???

一方、都市でも農村でも、社会の緊張はしだいに高まっていった。
工場経営者は態度を硬化させ、しだいに急進化する工場委員会が要求する「労働者統制」を拒否し、
ストライキにはロックアウト(工場閉鎖)で対抗するようになった。
農村では、土地委員会が利用されていない土地を専有し、
地主の農具や家畜を差し押さえ、有無をいわせず賃貸料をさげさせた。
大地主たちはこれに反発して種まきを中断し、この「無政府状態」を終らせるために軍隊の派遣を政府に要求した。

同じころ、さまざまな民族運動も活発化していたが、政府は民族問題をそれほど重視していなかった。
政府は5月1日にカザン(ロシア東部)で行なわれた第1回全イスラム会議のことも知らず、
ウクライナ人のいだく強い独立への願望も理解していなかった。
しかしウクライナ人は自分たちの手で「基本法〈ユニヴェルサル〉」を定め、
自分たちの軍隊をつくり、ロシアから分離する姿勢を強めていたのである。


242 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:34:47 ID:???

さまざまな緊張が高まるなか、自主的に、あるいは民主的に選ばれた権力組織であり、「政府の党派」から
断固として距離を置いていたボリシェヴィキ党は、勢力を拡大し続け、あらゆる形での民衆の急進化を助長していった。
労働組合やソヴィエト内ではボリシェヴィキは長らく少数派であり続けたが、
5月末に行なわれたペトログラード工場委員会協議会では「労働者統制」の考えが支持され、はじめて多数派となった。

これに力を得たボリシェヴィキは、6月3日から24日まで開かれた第1回全ロシア・ソヴィエト大会で、
800人の代表のうちわずか100人強しかしめておらず、大半はメンシェヴィキとエス・エル党の代表だったにもかかわらず、
ごくあたりまえのように議事運行の主導権を握り、この大会を「革命議会」とし、全権力を握る宣言を行なうよう要求した。

この大会の席上で、メンシェヴィキの指導者ツェレテーリは、
ロシア内には単独で政権を担当する用意のある政党は存在しないと断言した。
しかしそれに対してレーニンは、
「いや、ある。(略)われわれの党は、権力を握ることは拒まないし、いつでもその準備ができている」と主張した。


243 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:59:30 ID:???

参謀本部が大攻勢を行なった日と同じ6月18日、ペトログラードでソヴィエトが組織したデモが行なわれたが、
このデモはボリシェヴィキの優位を決定的なものにした。
ほとんどの旗には、メンシェヴィキとエス・エル党が示したスローガンである「憲法制定会議によって民主的な共和国へ!」
ではなく、ボリシェビキのスローガンである「攻勢をやめろ!」「労働者統制、万歳!」「全権力をソヴィエトへ!」
という言葉が記されていたのである。

穏健派の社会主義者たちとボリシェヴィキのデモ隊が激しく対立したこの日、ロシアの社会主義陣営は決定的に分裂した。
作家のゴーリキーは次のように書いている。
「これがペトログラードとは、とても思えない。
 街は不潔きわまりない。
 人びとは急激に怠惰で無気力になり、私がつねに戦ってきた犯罪的で恥ずべき本能のすべてが、
 目覚めてしまったように見える。
 これは、ロシアを破壊する堕落した革命である」


244 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:08:20 ID:???

4月と同じく、戦争の問題に端を発した大事件が、7月3日と4日に起こった。
それ以前の6月下旬、ペトログラードの守備隊には、すでに緊張した雰囲気が漂っていた。
政府がいくつかの連隊、とくに1万人の兵士と1000人の機関銃兵からなる第1機関銃連隊を、
前線に送る決定をしたからである。
第1機関銃連隊は労働者街であるヴィボルグ区に駐屯するペトログラードの中心的な武装勢力で、
ボリシェヴィキの軍事的な砦といえる存在だった。

6月21日以降、第1機関銃連隊は政府に対して公然と反抗するようになった。
前線へ行くことを拒み、「あくまでも決定を守ろうとする」なら、「政府を追い払う」といっておどしたのである。
7月3日、守備隊の多くの部隊が「全権力をソヴィエトへ」わたすために行動に移った。

武装した兵士と労働者たちは、ソヴィエトの本部が置かれているタヴリーダ宮殿へ向かった。
穏健派の社会主義指導者たちは、やっとの思いでデモ隊の興奮をしずめることができたが、
下部組織の活動家たちからつきあげられたボリシェヴィキの指導者たちは、途方に暮れていた。
レーニンはペトログラードを離れてフィンランドで休養中だったし、
カーメネフとジノヴィエフはデモ隊の説得に出向いていたからである。
ほかのボリシェヴィキの指導者の多くも、はっきりとした態度をとることができなかったため、
デモ隊は翌日もソヴィエトに圧力をかけ続けた。


245 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:21:27 ID:???

こうしたボリシェヴィキ指導部の混乱ぶりは、7月4日付のボリシェヴィキの党機関紙「プラウダ」を見るとよくわかる。
この日の第1面は、大きな空白となっているのである。
ぎりぎりのときになって、ジノヴィエフとカーメネフが自制するようにとの署名原稿を書いたのだが、
それらは記事にならなかった。

7月4日、街全体が騒然となった。
朝、ペトログラードの沖合にあるクロンシタット島の要塞で働く何千人もの水兵が、
ボリシェヴィキの活動家ラスコーリニコフにひきいられて、武装蜂起を勝利に導くためにやってきた。
労働運動歌「インターナショナル」を奏でる楽隊を先頭に、
彼らはボリシェヴィキ党本部が置かれていたクシェシンスカヤ邸へ向かった。

夜中にフィンランドから戻ってきたレーニンは、予想外の事態に当惑して決断を下すことができず、
バルコニーから短い演説を行なっただけだった。
演説のなかで彼は、やがてソヴィエトが権力を握るときが来ると信じていると語ったが、
その歯切れは悪く、彼が思い切って行動を起こすことを期待していた群集に具体的な支持をあたえることはなかった。

途方に暮れた群集は、ふたたびタヴリーダ宮殿へ向かったが、明確な目的がなかったため、すぐに解散した。
ネフスキー大通りでは、政府軍の兵士たちが発砲し、混乱に拍車をかけた。


246 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:31:45 ID:???

夕方5時ころ、デモ隊の一部が暴徒化して、タヴリーダ宮殿の前でいくつもの悲喜劇が起きた。
彼らは、ソヴィエトの指導者でもある社会主義者の大臣たちが、なぜ権力を奪わないのか、
群集が彼らに権力をあたえるといっているのに、なぜそれを拒否するのかがわからず激昂していた。
そうしたデモ隊をなだめるため、エス・エル党の指導者だったチェルノフ農相がタヴリーダ宮殿の階段に姿を現わすと、
怒り狂った群集がチェルノフに向かって、「権力をとれ、この馬鹿野郎! 民衆がお前に権力をやるといってるんだから!」
と叫びながら、彼を手荒く車のなかに押しこんだ。
しかしこのときはトロツキーが宮殿から出てきて、「民主主義の人質」となっていたチェルノフを、やっとのことで救いだした。

夜になると、政府はレーニンに反感をいだく信頼できる部隊を呼び寄せた。
そしてペトログラード市内に厳戒令が出され、何百人ものボリシェヴィキの活動家が逮捕されて、
ボリシェヴィキ党は活動を停止させられた。
「ドイツ皇帝のスパイ」と呼ばれて国家反逆の罪を問われたレーニンは、フィンランドへ逃亡した。
レーニンが逃げたことで、人びとは彼が有罪だと信じるようになり、
ボリシェヴィキ党は指導者を失ったように思われた。

この「7月事件」のあと、リヴォフ公は首相を辞任し、陸海軍相のケレンスキーがその後任となった。
カデットが入閣をためらったため組閣は難航したが、7月24日にケレンスキーを首相とする第3次臨時政府が誕生した。
この「革命を救う政府」には、カデットと穏健派の社会主義者が入閣したが、
彼らをかろうじて結びつけていたものは、ボリシェヴィキの動きに対する恐怖だけだったのである。


247 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:36:10 ID:???

◆「7月事件」以降、政治をとりまく雰囲気は大きく変化していった。
 ボリシェヴィキは一時的に政治の表舞台から姿を消し、政治家たちはなんとかして国の秩序を回復しようとした。
 しかし、政府がこのままロシアを統治し続けることができるかは、疑問だった。
 1917年の夏を通して、社会の緊張はますます高まり、パン、失業、平和、土地といった、
 ロシア社会を悩ませているさまざまな現実問題も、なにひとつ解決されなかったからである。


248 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:44:45 ID:???

国のトップでは、政府と軍部が権力争いを続け、司法・行政・軍隊といった国家を支える支柱は揺らぎ、
権利は踏みにじられ、権威はあらゆる面において失墜した。
一方、都市、農村、工場、連隊などの下部組織では、革命運動が続いていた。


249 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:47:14 ID:???

7月10日に、作家のゴーリキーは次のように書いている。
「民衆の暗い本能をもてあそんでいたボリシェヴィズムは、致命傷を負った。
 それはよいことだ。
 (略)しかし、現在ブルジョアジーの新聞や雑誌は、すべての社会主義者に怒りをぶちまけている。
 反革命はもはや幻想ではなく、現実のものとなった」。

2月革命以降、労働者街の群集が定期的に侵入していたペトログラードの高級住宅街は、
厳戒令から数日のうちに静けさをとりもどした。
暴徒の発生元であり、デモ隊の集合場所であったペトログラード・ソヴィエトの本部は、
タヴリーダ宮殿を追いだされ、街の中心地から少し離れたスモーリヌイ学院へ移されることになった。

以後、カデット(立憲民主党)に同調する大企業家や銀行家が集まったロシア経済復興協会、大地主連合、
陸海軍士官連合など、保守派の圧力団体が、権力を左右する立場をしめるようになる。
保守派の新聞や雑誌は、毎日のようにソヴィエトの解体、ボリシェヴィキの追及、兵士委員会の廃止を要求した。
一方、ロシア革命を終結させ、急進的なボリシェヴィキの活動を根絶しようと決意した首相アレクサンドル・ケレンスキーは、
前線における死刑の復活、兵士委員会の権利の制限、農民の反乱を鎮圧するための軍隊の派遣など、
権威主義的な政策を次々と推し進めていった。


250 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:55:19 ID:???

混乱が続いたこの夏、人びとが気づかぬうちに、ひとりの人物がしだいに頭角を現わしはじめていた。
ケレンスキーによって、ブルシーロフ将軍にかわって総司令官に任命されたコルニーロフ将軍である。
彼は旧体制の多くの将軍と異なり、貴族ではなくシベリアのコサック兵の息子であり、
軍隊の力で民主主義を実現すると宣言していた、ただひとりの人物だった。
コルニーロフは西南方面軍総司令官だったとき、政治集会を禁止したり
脱走兵を銃殺刑に処したりすることで軍隊の規律を回復するという実績を残していた。

保守派の陣営では、ソヴィエトとのつながりを持ち、
現在は穏健派とはいえ、かつては革命家だったケレンスキーの評判は悪かった。
それに対して、軍人であるコルニーロフは、無政府状態に陥っていくロシアの行く末を案じていた軍司令官からも、
企業経営者たちからも、連合国軍からも、頼りになる人物として急速に人望を集めていたのである。

8月12日から15日まで、モスクワで国政会議が開かれた。
経営者、労働組合、職業団体、士官団体、教会、ボリシェヴィキ党をのぞく政党の代表たちが集まったこの会議は、
ケレンスキーとコルニーロフの対決の場となった。
優位に立ったコルニーロフは、ロシアを「無政府状態」から救いだすための計画をのべた。
それは、すべての革命委員会を解体し、経済と社会のあらゆる分野に国家が介入することをやめ、
鉄道と軍需工場を軍隊の支配下に置き、死刑を復活させるというものだった。
このとき、ついにクーデターの可能性が生まれることになったのである。


251 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 16:59:55 ID:???

8月24日、首相のケレンスキーは総司令官コルニーロフの政治的意図を探るために、
モギリョフ(ベラルーシ東部)の総司令部へ密使を送った。
有利な立場にあることを確信したコルニーロフは、自分は新しく独裁政府をつくってそのトップに立つつもりだが、
ケレンスキーをその政府に参加させてもよいと、密使にいいはなった。

ペトログラードへ戻った密使は、コルニーロフが全権力を要求していることをケレンスキーに報告した。
そこでケレンスキーはすぐに閣議を開き、コルニーロフと対決するために、
いっさいの権力を自分にあたえてほしいと大臣たちに求めた。
しかしケレンスキーを信用していなかったカデットの大臣たちはそれを拒否し、
ケレンスキーを支持するよりはましだといって辞職した。
ケレンスキーは即座にコルニーロフを解任し、みずからが総司令官の地位についた。
こうして、ふたりの対立は決定的なものとなったのである。

裏切り者として法の保護の外に置かれたコルニーロフは、「ロシアを救う」ため、
クルイモフ将軍ひきいるコサック師団をペトログラードへ進軍させることにした。
このとき、「7月事件」以降苦難を味わっていたソヴィエトはケレンスキーの支持にまわり、
「反革命に対する闘争委員会」を設立した。
この委員会には、メンシェヴィキとエス・エル党(社会革命党)のほかに、ボリシェヴィキも加わった。
指導者たちも釈放され、ボリシェヴィキはふたたび政治の表舞台に華々しく復帰したのである。
ボリシェヴィキは鉄道員や兵士に対してひそかにプロパガンダを進め、
コルニーロフ派の部隊の進軍をはばんだ。


252 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:09:03 ID:???

コルニーロフはペトログラードで武装蜂起が起こることを期待していたが、結局それは起こらなかった。
反乱軍はペトログラードの手前で気力を失い、ケレンスキーとソヴィエトに忠実な部隊に直面して歩みを止めた。
こうしてクーデターはあっけなく失敗し、クルイモフは自殺し、コルニーロフは逮捕された。

のちにケレンスキーは、「コルニーロフのクーデターがなかったら、レーニンの時代は来なかっただろう」と語っている。
事実、このクーデターが失敗に終わったことにより、政局は大きく変化した。
コルニーロフを公然と支持したカデットの信用が急落してしまったのである。

一方、ボリシェヴィキは、「7月事件」以降すっかり息の根を止められたように見えていたが、実際は地下にもぐって
生きのびており、「革命を救った」という名声につつまれて、ふたたび人びとの前に姿を現わすことになった。

ケレンスキーについては、一見このクーデターの勝者のように見えたものの、
実際にはその立場は非常に不安定なものだった。
軍司令部は彼を信頼せず、「ボリシェヴィキの人質」と考えるようになった。
それよりもさらに問題だったのは、ケレンスキーと、古くからの権力とのあいだの仲介をしてくれる人物が、
もはや誰も存在しなくなったことだった。
加えて民衆レベルでは、依然として革命運動が続いていたのである。


253 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:15:45 ID:???

こうして政府と軍部が支配権をめぐって争っているあいだに、ロシアは大混乱に陥っていった。
あらゆる形の権威が消滅し、兵士たちは脱走し、気に入らない士官を虐殺した。
農民たちは地主の館を略奪したり、焼き払った。
労働者たちは工場を占領し、即座に「労働者統制」を認めるよう求めた。

ペトログラード・ソヴィエトのメンバーで、2月革命の英雄のひとりであるフョードル・リンデ(彼は2月27日に、
プレオブラジェンスキー部隊を労働者のデモ隊側に寝返らせた功績がある)がひきいる第443連隊では、
部隊の規律をとりもどす努力が行なわれたにもかかわらず、反乱を起こした兵士たちによるリンチが横行した。
この出来事は、1917年の夏時点における軍隊内部の急速な退廃ぶりを示している。

ドイツ軍が勢力を増していたにもかかわらず(8月21日にはバルト海に面する港湾都市リガが陥落した)、
ロシア軍の内部では反乱が広がるばかりだった。
「反革命派」の疑いがかけられた何百人もの士官が兵士たちに捕らえられ、その多くが虐殺された。
脱走兵は、1日あたり数万人にものぼった。

このころロシアの兵士たちは、ただひとつのことしか考えていなかった。
それは、大地主の土地と家畜が分配される場に立ち会えるよう、急いで故郷へ戻ることだった。
脱走兵たちは商店を略奪したり住民に危害をあたえたため、小さな都市に恐怖をまきちらした。
10月のはじめには、軍隊から脱走した兵士の数は、200万人以上にものぼっていた。


254 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:19:24 ID:???

種まきの季節である秋が近づくと、農村の雰囲気は険悪になっていった。
そのときまで、土地委員会でまとめられた農民たちの要求は、地代を安くしてほしいということ、
牧場や森林や大地主が利用していない土地を差し押さえてほしいという程度だった。
ところが8月末以降、そして9月と10月を通じて、政府が約束を守らず、土地改革にいつまでも着手しないことに
失望した農民たちは、気に入らない地主たちの屋敷を襲撃し、略奪して焼き払いはじめたのである。

武装した脱走兵にリードされる形で、もっとも激しい農民の反乱が起こったのは、
肥沃な土地にもかかわらず、深刻な飢饉に苦しめられていたウクライナだった。
タンボフ県では8月24日にはじまった反乱で、大地主のひとりであるボリス・ヴァゼムスキー公が殺害されている。
農民たちはその年の春から、1905年の反乱に加わった罰として、いくつもの村落共同体から没収された
数千ヘクタールの牧場を返してくれるようヴァゼムスキー公に求めていたが、その要求が通ることはなかった。

8月24日、数百人の武装した脱走兵が少し前に村へ戻ってきたことに勇気づけられ、
5000人近くの農民がヴァゼムスキー公の屋敷に侵入した。
敷地内を守っていたコサック兵の小分遣隊は、まったく役に立たなかった。
ヴァゼムスキー公は捕らえられ、すぐに形だけの裁判にかけられ、
「農民のように戦うことを学び、祖国を守るために前線へ送る」刑がいいわたされた。


255 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:25:01 ID:???

しかし群集のあいだから、「公爵なんか、うんざりだ! 殺してしまおう!」という叫び声があがり、
ヴァゼムスキー公はリンチにかけられた。
一族と使用人は殺され、館は焼き払われ、1万ヘクタール以上の土地や家畜や農具は、
それぞれの村落共同体に分配された。

9月と10月には、タンボフ県、ペンザ県(1200の領主の館のうち、250が焼き払われた)、ヴォロネジ県、サラトフ県、
オリョール県、トゥーラ県、リャザン県を中心に、1000近くの領主が同じように略奪されて焼き払われた。
治安を守る機能はまったく働かなかったので、地主たちはパニックに陥り、都市部へと逃げだした。

農民たちにとって、1917年の秋はなによりもまず国家の崩壊と領主の所有地を守っていた公務員、
判事、徴税人、憲兵の没落を意味していた。
伝統的な権力機関が機能しなくなった特殊な状況のなかで、激しい農民一揆がロシアを荒廃させていった。
この農民一揆は、最終的には農民たちの勝利で終わることになった。
1917年は農民が大地主と国家を相手に最後の対決をした年だが、
それは扶養する家族の人数に応じて土地を分配してほしいという長年の望みを実現するため、
さらには農村が都市の権力当局から監視されることをいっさい拒否するための反乱だったといえる。


256 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:30:43 ID:???

農村と同じく都市でも、社会の雰囲気は緊迫の度を深めていった。
経営者を監禁するなど、しだいに荒々しくなっていくストライキに対抗するため、
企業家が生産活動を中止することも多くなった。
景気は沈滞し、物不足が広がり、物価が急騰し(7月から10月のあいだで3倍になった)、何十万もの失業者が発生した。
工場委員会も急進化し、穏健派の社会主義政党や労働組合を激しく攻撃するようになった。

労働者たちにとって、こうした状況から脱するためのただひとつの手段は、採用と解雇を監視し、
在庫や操業に必要な物資を管理する「労働者統制」を行なうことだった。
しかしこの「労働者統制」が実行に移されるためには、根本的に新しい形の政府、
つまり「ソヴィエトによる権力」が必要だったのである。
労働者たちにいわせれば、「ソヴィエトによる権力」だけが徹底的な政策、とくに企業を第三者に供託する
(当時だんだんと使われるようになってきた言葉では「国有化」する)ことが可能なのだった。

このように都市でも農村でも、3月以降、期待と忍耐しか説かない政府の政策に幻滅した民衆は、あきらかに急進化していった。
しかしこの動きは、民衆のボリシェヴィキ化を意味していたわけではない。
ボリシェヴィキの活動家と労働者は、共通のスローガンのもとに集まってはいたものの、
そのスローガンが意味するものは同じではないことが多かった。


257 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:35:11 ID:???

農民の反乱に関しては、まったくボリシェヴィキの方針とは関係がなく、
農民たちがめざしていたのは、ボリシェヴィキが説く土地の「国有化」と大規模な集団でのその利用というよりも、
むしろエス・エル党の政策要綱である土地の「総割替」のほうに近かった。
農村ではボリシェヴィキのことを知る人などほとんど存在せず、知っている人でも、
革命指導者たちが主張していた思想からはかなりかけはなれた「塹壕のボリシェヴィズム」を知る脱走兵から、
「平和と土地」というスローガンをわずかに耳にしただけだった。

こうしたさまざまな不満分子は、ボリシェヴィキ党に加入しようなどとは考えてもおらず、
そのため同党は10月革命の勃発時にはわずか10万人から20万人の党員しかいなかった。
しかし1917年の秋は、政府がまったく機能しなくなり、
ソヴィエトやそのほかの集団に権力が分散されていた政治の空白期になっていた。
そのため、見事に組織化され、確固とした信念を持っていたボリシェヴィキ党は、ただ決然と行動するだけで、
彼らの持っていた力とはまったくつりあわないほど巨大な権力を手に入れることができたのである。

9月になって、ボリシェヴィキはペトログラード・ソヴィエトだけでなく(9月9日にできた新しい執行委員会の議長には
トロツキーが選ばれた)、モスクワ、キエフ、サラトフをはじめとする約50の地方都市のソヴィエトでも多数派となった。
ボリシェヴィキが確実に勢力を増していくことに不安を感じたケレンスキーひきいる政府は、
なんとかしてソヴィエトにかわる新しい組織である「共和国評議会」をつくろうとした。
これは1917年3月から召集が約束されていた憲法制定会議の選挙を準備するための、いわば予備議会だった。

しかし10月7日に開かれた会議のはじめから、トロツキーがこの会議を「新しいドゥーマ」にすぎないと批判して、
ボリシェヴィキの代表たちは退場してしまった。
あとから考えると、この出来事こそが10月革命の幕開けだったのである。


258 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:39:56 ID:???

◆「4月と7月、レーニンは穏健な路線をとっていた。
  8月には、彼は新しい段階〔プロレタリア革命〕を理論的に準備していた。
  9月中ごろからは、それを全力で推し進め、急がせている。
  いまや、危険は急ぎすぎることではなく、立ちおくれることにあったからである」

レフ・トロツキー
「ロシア革命史」


259 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:44:29 ID:???

1917年10月にロシアで起きた「社会主義大革命」から、すでに90年近くがたつが、
この革命についての「解釈をめぐる戦い」は、現在も依然として続いている。

「自由主義者」と呼ばれる歴史家たちによれば、1917年10月のボリシェヴィキ革命は、
暴力によって起こされたクーデター、つまり現実的な社会基盤をまったく持たないひとにぎりの狂信者が、
社会の混乱を利用して企てた巧みな陰謀の結果にすぎなかったと主張する。

一方、「共産主義陣営」は、この革命はボリシェヴィキに賛同した「大衆」によってはじめられた解放への道のりの、
必然的な帰着点であったと主張した。
さらに、別の解釈をしようとする人びともいる。
先駆者であるマルク・フェローの言葉を借りれば、
「1917年10月の暴動は、大衆運動ではあるが、それに参加したのはわずかな人だけだった」という解釈である。

ときをへて、さまざまな角度から研究が行なわれた結果、1917年10月の革命にはふたつの特徴があることがあきらかになった。
ひとつは、ボリシェヴィキが綿密な反乱を計画して成功し、政権を握ったという事実。
もうひとつは、自主的で大規模な社会革命が各方面で起こったという事実である。


260 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:53:00 ID:???

大規模な社会革命は、非常にさまざまな形で現われた。
すでに長い歴史を持っていた激しい農民一揆、軍隊の根本的な崩壊、「労働者統制」「権力をソヴィエトへ」といった
革命のスローガンをかかげる労働者の権利要求運動、旧ロシア帝国内の各民族の解放運動などである。
これらの動きはそれぞれ別個のエネルギーと願いを秘めており、
ボリシェヴィキのスローガンのなかに収まりきる性質のものではなかった。

1917年末の短いが決定的な瞬間に、ごく少数の勢力にすぎなかったボリシェヴィキは、
非常に多くの人びとの願望を満たすことに成功した。
そしてその後、政治家たちのクーデターと民衆による社会革命は、一時的に共通の目標のもとに結集した。
より正確にいえば、たがいに重なりあったのである。


261 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 17:59:50 ID:???

亡命先のフィンランドから、レーニンはボリシェヴィキの党中央委員会に、武装蜂起をうながし、
「7月事件」で苦い経験をした指導部の革命的合法主義をとがめる手紙や論文を送り続けた。
9月12日と14日に、彼は「ボリシェヴィキは権力を握らなければならない」と「マルクス主義と武装蜂起」と題された
2通の手紙を出し、そのなかで「ふたつの首都(ペトログラードとモスクワ)のソヴィエトで多数派となった以上、
ボリシェヴィキは権力を握ることが可能であり、そうしなければならない」と主張した。

またレーニンは、即座に和平を結ぶ提案を行ない、農民に土地をあたえることで
「ボリシェヴィキは誰も倒すことのできない政府を樹立するだろう」と書いている。
さらに「ボリシェヴィキが『反論の余地がない』多数派になることを待つなど、馬鹿正直なことだ。どんな革命でも、
そんなことを待ちはしない。(略)もし、いまわれわれが権力を握らなければ、歴史はわれわれを許さないだろう」とつづけていた。

9月15日に中央委員会は、レーニンの手紙をおおまかに検討した。
しかし指導部の大半は、レーニンの主張に懐疑的だった。
ソヴィエトは急速に「ボリシェヴィキ化」しているのに、なぜことを急ぐ必要があるのか。
10月20日に予定されている第2回全ロシア・ソヴィエト大会を、なぜ待てないのか。
その大会でボリシェヴィキは確実に多数派、少なくともほぼ多数派になるのだから、
そこですべての権力がソヴィエトへ移るだろう、というのである。


262 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 18:03:05 ID:???

しかしレーニンは、ソヴィエト大会の採決によって権力を握った場合、
新しくつくられる政府が連立内閣となることを恐れていた。
その政府内でたしかにボリシェヴィキは一定の地位を得ることができるだろうが、ほかの社会主義グループ、
メンシェヴィキやとくに農村や軍隊で人気のあるエス・エル党(社会革命党)と権力をわかちあわなければならない……。

そのためレーニンは、なんとしてでも第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開かれるよりも前にボリシェヴィキが武装蜂起し、
権力を握る必要があると考えていた。
そしてボリシェヴィキが武装蜂起した場合、ほかの社会主義政党はそれを非難してボリシェヴィキと対立するしかなく、
結果として全権力がボリシェヴィキの手中に落ちるものと判断していたのである。


263 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 18:42:39 ID:???
 

264 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:46:31 ID:???

10月はじめ、レーニンは労働者に変装して、ペトログラードへひそかに戻った。
「敵国を利するような陰謀とスパイ行為」の容疑をかけられていたレーニンは、
あいかわらず警察に追われる身だったのである。

10月10日、レーニンはボリシェヴィキ党中央委員会のメンバー21人のうち12人を、
あるアパートの一室に集め、秘密会議を開いた。
10時間におよぶ討議のすえ、彼はできるだけ早く武装蜂起するという、
党がそれまで認めなかった方針を、出席者の大半に説得することに成功した。
この決議に賛成したのは10人で、ジノヴィエフとカーメネフのふたりだけは、
第2回全ロシア・ソヴィエト大会の開会を待つべきだという主張をまげず、反対し続けた。
彼らは、首相ケレンスキーが政府に忠実な軍隊をまだ動かすことができる以上、
早まったことをしてボリシェヴィキが政権を握るチャンスを失ってはならないと考えていたのである。


265 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:49:29 ID:???

10月16日、ボリシェヴィキ党中央委員会のメンバーがふたたび集まった。
守備隊からの報告はあまり良いものとはいえなかった。
軍隊は中立の態度をとろうとしているように見えたからである。
兵士たちは疲れ果てており、前線へ送られることを恐れていた。
労働者たちの士気も衰えていた。
ソヴィエト大会の前に武装蜂起して、なんの役に立つというのだ、というわけである。

下部組織からのこのような報告に力を得たジノヴィエフとカーメネフは、クーデターの延期を求める動議を提出した。
この動議は否決されたが、21人の出席者のうち6人の賛成を得た。
カーメネフは中央委員会のメンバーを辞任し、2日後、
作家のゴーリキーが発行していた新聞「新生活」で、自分が置かれている立場を説明した。
そのなかで彼は、先の中央委員会の会議で、ジノヴィエフと自分は
「ボリシェヴィキ党が武装蜂起の主導権を握ることに当面は反対した」と明言した。

それに対して、レーニンは、「ジノヴィエフ氏とカーメネフ氏」を
「ただちに党から除名しなければならない」といって激怒した。
近いうちにボリシェヴィキが武装蜂起するという計画はこうして人びとの知るところとなり、
そのことについて毎日のように新聞や雑誌が書きたてるようになった。


266 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:50:38 ID:???

10月16日、ペトログラード・ソヴィエトの議長として強い影響力を持っていたトロツキーは、
少数派である穏健派の社会主義者たちが反対したにもかかわらず、ボリシェヴィキの意のままにあやつることのできる軍事組織、
「ペトログラード軍事革命委員会」を発足させた(理論上はソヴィエトを母体とする組織だったが)。
この組織の表向きの目的は、「ドイツの脅威からペトログラードの革命を守り、
コルニーロフの反革命勢力が白日のもとで計画した襲撃から人びとの安全を確保する」ことだった。
ソヴィエトを代表して行動するこの組織のもとで、ボリシェヴィキは武装蜂起を指揮することになったのである。

一方、このようにボリシェヴィキが着々と準備を進めているあいだ、首相であるケレンスキーは何をしていたのか。
閣僚たちと共に冬宮に立てこもり、現実の社会から遮断されていた彼は、ボリシェヴィキの脅威を軽く見ていた。
その上、コルニーロフ将軍のクーデター以来ケレンスキーを信用しなくなっていた軍司令部は、部隊の士気は高く、
ボリシェヴィキと戦う強い意欲を持っているという楽観的な報告を送り続けていた。
そのため、ケレンスキーは来るべきクーデターを恐れていたどころか、
この機会にボリシェヴィキを一掃することができると考えて、クーデターの勃発を待ち望んでいたのである。


267 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 18:31:09 ID:???

突発的・自然発生的に起こった2月革命とは異なり、10月革命はボリシェヴィキによって綿密に準備されたものだった。
しかし政府は、その状況をまったく把握できていなかった。

実のところ、「10月の社会主義大革命」に直接参加した人の数は非常に少なかった。
守備隊の兵士と、クロンシタットの水兵と、ペトログラード軍事革命委員会に同調した赤衛隊が数千人、
工場委員会に属するボリシェヴィキの活動家が数百人程度だったのである。
小競り合いすらほとんどなく、犠牲者も10人以下にすぎなかった。
このことは、クーデターが民衆に待ち望まれており、妨害されることなく行なわれたことを示している。

作戦は、10月22日に開始された。この日ペトログラード軍事革命委員会は、守備隊の司令部に対して、
今後、参謀本部からの命令は委員会が副署したものだけが有効であると通告した。
23日、各陣営は時間をかせごうと、いくつもの威嚇的な声明を発表したり、最後通牒を出したりした。

24日の朝、あいかわらずボリシェヴィキの脅威を軽く見ていた上に、守備隊の協力をほとんどあてにできなかった政府は、
街の戦略上の拠点に士官候補生からなる部隊を配置した。
数十人のコサック兵と「女性決死大隊」(140人の女性志願兵からなる部隊)も冬宮の警備を強化するためにやってきた。

政府はネヴァ川にかかる橋を引きあげる命令を出したが、これは労働者街からのデモ隊が
街の中心部にやってくるのを防ぐための、一般的な措置にすぎなかった。
この日、政府が行なったただひとつの「攻撃的」な措置は、ボリシェヴィキ派の新聞発行所を閉鎖したことだった。


268 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 18:31:47 ID:???

けれどもこの新聞発行所の閉鎖をきっかけに、ボリシェヴィキは武装蜂起を開始した。
ペトログラード軍事革命委員会の分遣隊は、橋、郵便局、電信局、銀行、駅など、街の戦略上の中枢を難なく手に入れた。
10月25日の夜明けには、1発の銃声も聞こえなかった。
ケレンスキーは夜を徹して前線の指揮官たちに援軍を送ってくれるよう求めたが、無駄だった。

昼近く、彼は冬宮を抜けだし、アメリカ人外交官から車を借りて、
援軍を探すためにペトログラードを脱出した(望みが薄いことはわかっていたが)。
ケレンスキーは『回想録』のなかで、最後にペトログラードで目にした光景のひとつは、
「ユダヤ人のケレンスキーを殺せ! トロツキー万歳!」という壁の落書きだったと語っている。

ケレンスキーが冬宮を去ったとき、ペトログラードの別の場所で、レーニンは軍事革命委員会の名のもと、
臨時政府が権力を失ったという宣言を作成した。
その宣言は、朝9時45分に新聞者へ伝えられた。
「臨時政府は廃止された。
 国家権力はペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトの機関、
 つまりペトログラードのプロレタリアと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会の手に移った。
 民衆が戦ってきた目的、つまり民主的平和の即時提案、土地に対する地主の所有権の廃止、
 労働者による生産の統制、ソヴィエト政府の樹立は、いずれも達成された」


269 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:31:33 ID:???

このときレーニンが主導権を握ったことには、非常に大きな意味があった。
用心深い彼は、こうした宣言を行なうことで、ソヴィエト大会(彼はソヴィエト大会の「革命的合法主義」を恐れていた)に
まったく支配されない軍事革命委員会(ボリシェヴィキ党中央委員会以外は誰も、この組織を決定機関として認めていなかった)
に全権力を移そうとしたのである。

10月25日は、不思議な1日だった。
街は静かで、会社や商店はいつもどおり開いており、人びとは普段と同じく日常生活を送っていた。
11時に開いた証券取引所でも特別な動きはなく、相場も安定していた。
ルーブル(ロシアの貨幣単位)は前日までと同じ、1ドルあたり6.2ルーブルだった。
誰ひとりとして、起きたばかりのことをまだなにも知らなかった。

ケレンスキーを失った政府が占拠している建物は、すでに冬宮だけになっていた。
大臣たちはそこに集まり、なかばあきらめ顔で、援軍が到着することを待っていた。
スモーリヌイ学院では、600人以上の代表が、開会時刻がどんどんのびていく
第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開かれるのを、大混乱のなかで待っていた。

18時30分、軍事革命委員会は臨時政府に、降伏しなければ巡洋艦オーロラ号からの射撃と
ペトロパブロフスク要塞からの砲撃が行なわれるという最後通牒を送った。


270 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:32:12 ID:???

21時、巡洋艦オーロラ号が砲撃を開始した。
しかし船には実は弾薬は積まれておらず、1発の空砲が撃たれただけだった。
2時間後、ペトロパブロフスク要塞からも数発の砲弾が発射されたが、ねらいが正確ではなかったため、
冬宮にはわずかな損害しかあたえることができなかった。

しかし、ついに援軍が来なかったことに落胆して、宮殿を守っていたコサック兵や士官候補生が、次々に持ち場を離れはじめた。
真夜中になってもまだ任務を放棄していなかったのは、女性大隊とわずかばかりの士官だけだった。
そして最初に到着したパヴロフスキー連隊の水兵と兵士たちが、宮殿のドアや窓をこじ開けていったのである。

エイゼンシュテイン監督の映画『十月』の勇壮な映像に反して、冬宮は襲撃によって占領されたのではない。
抵抗をやめた冬宮に、ただいくつかの分遣隊が侵入しただけだったのである。
そして1917年10月26日午前2時10分、ついに臨時政府の大臣たちが逮捕され、
きびしい監視のもとでペトロパブロフスク要塞へ連行された。

その3時間前、第2回全ロシア・ソヴィエト大会がようやく開かれた。
この大会は、全国のソヴィエトを代表するものとはいえなかった。
事実、労働者が住む大都市のソヴィエトや兵士委員会の代表者は大勢いたのに、
農村のソヴィエトの代表者はあまりにも少なかったのである。


271 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:34:03 ID:???

メンシェヴィキとエス・エル党は、「ソヴィエトに隠れて軍事的陰謀を企てた」とボリシェヴィキを非難して、退場した。
それに対してトロツキーは、
「きみたちは、挫折した気の毒な人間だ。きみたちの役割は、もう終わった。歴史のごみ箱へ行くべきだ」と非難したという。

この時点でエス・エル党の左派を味方につけていたボリシェヴィキは、数の上で圧倒的な優位を誇っており、
自分たちが行なった武装蜂起を大会で承認させた。
その後大会は、レーニンが作成した「全権力をソヴィエトへ移す」という内容の文書を採決した。
このまったくうわべだけの決議によって、ボリシェヴィキは疑うことを知らない人びとに、
彼らが民衆を代表して「ソヴィエトの国」を統治するのだと信じさせることに成功したのである。

数時間後、大会はボリシェヴィキの新しい政府、つまりレーニンを議長とする「人民委員会議」の創設を認め、
新政府の最初の施策である「平和」と「土地」についてのふたつの布告を採択したのち、閉会した。


272 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:39:59 ID:???

10月25日の記念すべき日に、レーニンはトロツキーに「すばらしい! 目まいがするほどだ」と告げたという。
のちに彼は、はっきりとこういっている。
「ロシアで世界革命を開始したのは、羽を拾うのと同じくらい簡単なことだった」。

当時のヨーロッパ諸国では、第1次世界大戦がなかなか終わらず社会が混乱していたため、
ボリシェヴィキによるクーデターもあまり人びとの関心を引かなかった。
また、すでに1年近くロシアの状況は安定していなかったので、
今度の騒ぎも一連の革命騒動におけるひとつの出来事にすぎないとみなされていたのである。

レーニンにとっても、ペトログラードで権力を握ったことはひとつの段階にすぎず、
彼はこれをきっかけとして世界革命が起こると考えていた。
しかし、実際にはヨーロッパ・ロシアの諸都市がペトログラードに続いただけで、世界革命は起こらなかった。
逆に1917年2月までロシア帝国の一部だったウクライナ、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、
南カフカス、ポーランドは、いずれもロシアから離れていったのである。


273 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 20:03:48 ID:???

ボリシェヴィキは交戦中の大国に対して、「無併合・無賠償による和平」に向けた話し合いを
即座に行なうようにとの呼びかけを行なった。
この非現実的な「平和についての布告」には、ボリシェヴィキの指導者の大半がいだいていた信念が表われていた。
彼らは、ペトログラードにおける10月革命はそれ自体で完結するものではなく、一種の起爆剤だと考えていた。
つまり10月革命の結果、帝国主義戦争で疲弊したヨーロッパの民衆が、
まずはじめに立ちあがるであろうドイツのプロレタリアート(労働者)に続いて、
次々と革命を起こすことになると予想していたのである。

しかし数週間のうちに、ボリシェヴィキは現実を直視せざるをえなくなった。
まず、戦争を終わらせることは1917年の革命運動を通じて中心的な問題だったため、
それまでロシアが経験したことのないほど屈辱的な条件のブレスト・リトフスク条約を結び、
和平を手に入れなければならなかった。

続いて、「土地についての布告」の発令である、これはそれほど非現実的なものではなかったが、
それでも大きな誤算だったことはまちがいない。
ボリシェヴィキはたえず土地の国有化を主張していたが、結局はエス・エル党の政策要綱をとりいれ、
農民に土地を配分することになったのである。
「地主の土地私有を無償で廃止する。すべての土地は、再配分のために、土地委員会の管理にゆだねられる」。


274 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 20:04:20 ID:???

とはいえこの布告は、1917年の夏以来、多くの農村共同体がすでに開始していた、
地主の領地や豊かな農民の土地を農民たちの間で分割して手に入れる動きを、合法化するだけのものだった。

農民たちが起こしていた「自主的な革命」は、ボリシェヴィキが権力を握るために大きな役割を果たした。
その事実を、一時的とはいえ、ボリシェヴィキは尊重せざるをえなかった。
結果として、ボリシェヴィキの当初の土地政策が実現するのは、約10年後のことになる。
10月革命によって誕生した新体制と農民たちの対立が最高潮に達した1929年から30年に、
農村ではボリシェヴィキが望んでいた農業集団化が強制されるようになった。
こうして、1917年の誤算が埋め合わされることになったのである。

ふたつめの誤算は、工場委員会、地区委員会、労働組合、赤衛隊、そしてとくにソヴィエトといった、
ボリシェヴィキと共に伝統的な制度を破壊し、自分たちの権限を確立・発展させるために闘ってきたあらゆる組織と、
ボリシェヴィキとの関係である。

数週間のうちに、これらの組織は権力を奪われ、ボリシェヴィキの党に従属させられるか排除された。
1917年10月のロシアでは「権力をソヴィエトへ!」というスローガンがもっともよく聞かれたが、
またたくまに、ボリシェヴィキの権力がソヴィエトを凌駕するようになった。


275 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 20:05:55 ID:???

ペトログラードやそのほかの大工業都市の労働者の最大の要求であり、彼らをボリシェヴィキに同調させていた
「労働者統制」という方針は、またたくまに退けられ、企業や労働者は国家によって統制されるようになった。
失業、引き続く購買力の低下、飢え、経済効率しか考えない国家などにおびえた労働者は、たがいに無関心になっていった。
その結果、早くも1917年12月から新政府は、高まりを見せる労働者たちの
さまざまな権利要求やストライキの波に直面することになった。
こうして10月革命からわずか数週間で、ボリシェヴィキは1917年を通して築きあげてきた
一部の労働者たちの信頼を失ってしまったのである。

3つめの誤算は、新政府と旧ロシア帝国内の各民族との関係である。
ボリシェヴィキのクーデターは各地の民族運動を加速したが、新政府は当初、そうした動きを支持していたように思われる。
旧ロシア帝国内の各民族の平等と主権、民族自決権、連邦権、離脱権を認めることで、
ボリシェヴィキは彼らを中央集権の監視下から解放しようとした。


276 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 20:06:40 ID:???

その結果、数ヵ月のうちに、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、
ウクライナ、アルメニアが次々と独立を宣言した。
予想外の事態にあわてたレーニンは、「分離する権利があっても、分離しなければならないわけではない」とのべて、
方針を転換せざるをえなくなってしまった。
そしてボリシェヴィキは、各民族の権利の尊重よりも、ウクライナの小麦やカフカスの石油や鉱石を保ち続けることを選んだ。
ようするに新しいソヴィエト国家の死活の利益、とくに旧ロシア帝国から受けついだ領土を守ることが大切だと考えたのである。
1918年からはじまった内戦は、ロシア人中心で、もっぱらボリシェヴィキが支配する中央政府が、
1917年に解放された民族を再征服するための戦いでもあったといえるだろう。

「われわれはいったん権力を握ったら、それを手放すことはないだろう」とレーニンは語っていた。
1916年の末には、はっきりとこうのべている。
「階級間の闘争も認めるものは誰であっても、内戦を認めなければならない。
 内戦は階級間の争いを前提として、それを延長したものであり、発展させたものであり、強化したものであるからだ」

暴力、内戦、農民戦争、圧政、飢饉の連続だった1918年から22年は、
1914年にはじまった危機的状況の「延長の時期」だったといえるだろう。
幻想とあいまいさと誤算をもたらした1917年の革命は、そのあいだのひとつの道しるべにすぎなかったのである。


277 :私事ですが名無しです:2006/12/18(月) 17:40:53 ID:???

「ロシアはどこへ向かうのだろうか」。
これはロシア革命時にペトログラードにいたフランスの若き知識人で、
1916年から27年までの11年間の様子をつづった『ロシアの日記』の著者であるピエール・パスカルの言葉である。
彼は1917年12月26日付の記述で、「共産主義の時代」に突入した人びとの大いなる幻想を見抜いている。
彼らにとって「理論上の」ボリシェヴィズムは、自由と正義を求める気持ちという、より大きく深いものの象徴だった。
こうして、10月革命の神話がはじまったのである。

「ボリシェヴィキは理論家である。
 しかし、社会主義者でもなくボリシェヴィキでもないロシアの民衆も、彼らのあとについていく。
 なぜなら民衆もまた、未来に生きているからだ。
 彼らは、この世に存在する不正と不幸が終わることを望んでいる。
 不器用で悲しげに、苦しみながら、それでも彼らはこの未来をつくっている。
 どのような反応が起ころうとも、ロシア革命は1789年のフランス革命と同じくらい、
 あるいはそれ以上に大きな結果をもたらすだろう。
 これはひとつの出来事ではなく、ひとつの時代であり、ボシュエ(17世紀のフランスの歴史家)ならば、
 ここから新たな『世界史叙説』の1章を書きはじめるにちがいない」


278 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 14:43:52 ID:???

以下は、すべてが急激に変化した革命の年の、3つの段階を示す3つの文書、
つまりペトログラード・ソヴィエトが出した「命令第1号」と「全世界の人びとへの呼びかけ」、
そしてレーニンの文書「蜂起の技術」である。
最初のふたつは、思いつきや非現実的な性格が強く、最後の文書では、
権力をソヴィエトへ移す方法を説明することが武装蜂起であるというレーニンの思想が勝利し、
新しい時代が幕を開けることが予告されている。


279 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 14:44:29 ID:???

ペトログラード地区守備隊、近衛兵、軍隊、砲兵隊、艦隊のすべての兵士たちは、即時厳格な実行のために。
ペトログラードの労働者たちへは、参考のために。

労働者・兵士代表ソヴィエトは以下のことを決定した。

1.すべての中隊、大隊、連隊、軍用品集積施設、砲兵中隊、戦車中隊、そのほかあらゆる種類の軍の機関、
海軍艦隊において、ただちに、選挙によって、上記の部隊の一般兵士代表者による委員会を選出すること。

2.代表ソヴィエトの代表者をまだ出していないすべての部隊は、中隊ごとにひとりの代表者を選び、
その代表者は証明書を持って、3月2日午前10時に国家ドゥーマに来ること。

3.すべての政治行為において、部隊は労働者・兵士代表ソヴィエトと委員会に従うこと。

4.国家ドゥーマ軍事委員会の命令は、労働者・兵士代表ソヴィエトの命令と決定に反しない場合にのみ実施される。

5.小銃、機関銃、装甲車など、あらゆる種類の武器は中隊および大隊の委員会の裁量と監視のもとに置かれるべきで、
いかなる場合でも、たとえ要求されても士官に引きわたしてはならない。

6.隊列のなかにいるとき、および勤務中、兵士たちはきわめて厳格な軍規を守らなければならない。
しかし勤務外と隊列を離れた場所では、政治生活、市民生活、私生活において、
兵士たちはすべての市民が享受する権利を侵害されることはない。
とくに、上官が通りかかったときの気をつけと強制的な軍隊式の敬礼は、勤務外では廃止される。

7.同じく、士官に対する「閣下」「殿」などの呼称も廃止される。
それらは「将軍」「大佐」などにかえられる。


280 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 14:45:02 ID:???

あらゆる階級の下士官が兵士に対して適切でないとりあつかいをすること、とくにおまえと呼ぶことは禁止される。
兵士には、この命令に対するすべての違反と、士官と兵士のあいだのあらゆる食い違いを中隊委員会に報告する義務がある。

この命令を、すべての中隊、大隊、連隊、海兵隊、砲兵中隊、そのほかの部隊および補助部隊で読みあげること。


281 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 21:34:26 ID:???

――ペトログラード・ソヴィエトの作成した「全世界の人びとへの呼びかけ」

1917年3月14日付のこの文書には、2月革命後の革命家たちがいだいていた壮大な理想がよく表われている。
しかしその一方、勝利をおさめるまで戦争を続行することと、革命を続行することの両立。
さらには、「革命的防衛主義」の意味を明快に定義することの難しさも示されている。


282 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 21:35:01 ID:???

同志であるプロレタリア、すべての国の労働者たち!

われわれ、労働者・兵士代表ソヴィエトのもとに集まったロシアの兵士と労働者たちは、
あなたがたに熱烈なあいさつを送り、大事件について知らせる。
ロシアの民主主義はツァーリの専制政治を倒し、完全にほかの国家の仲間入りをし、
ほかの国家と対等なメンバーとなり、共通したわれわれの解放のための戦いにおいて強い勢力となった。
われわれの勝利は、自由と民主主義にとって大きな勝利である。
世界的な反動派の支柱、ヨーロッパの憲兵は、もう存在しない。

そのようなものは、永遠に葬り去られてしまえ! 自由、万歳!
プロレタリアの国際的連帯万歳。
最終的勝利のための戦い万歳!

われわれの仕事は終わっていない。
旧体制の亡霊のすべてが消え去ったわけではなく、その多くがロシア革命を粉砕するために武器を磨いている敵なのだ。
しかし、われわれはすでに大成功を収めている。
ロシア国民は、直接・平等・秘密の普通選挙によってまもなく召集される憲法制定会議で自分たちの意思を示すだろう。
われわれはすでに、ロシアに民主的な共和国ができることを、自信を持って予想することができる。
いまやロシア国民は、完全な政治的自由を持っている。
内政に関しても外交に関しても、絶大な権力があることが断言できる。

そういうわけで、この極悪非道の戦争によって破壊され傷ついている全世界の人びとへ呼びかけながら、
われわれは、すべての国が持つ併合政策の野望に対して断固とした戦いをするときが来たことを告げる。
平和と戦争の問題に関する決定を人びとの手で行なうときが来たことを告げる。


283 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 21:37:02 ID:???

革命の力を自覚しているロシアの民主主義は、支配者階級のあらゆる手段による征服政策に反対し、
平和のために共同で断固とした行動をとるようヨーロッパの人びとに働きかけることを宣言する。

またわれわれは、兄弟であるオーストリア・ドイツ同盟のプロレタリアと、とくにドイツのプロレタリアに訴える。
開戦直後から、あなたがたは武器をとり、アジアの専制政治の脅威にさらされたヨーロッパの文明を守る役割を引き受けてきた。
あなたがたの多くは、戦争を支持する理由として、それを正当化してきた。
しかしいまや、それを正当化する価値はない。
民主主義のロシアは、自由と文明の脅威とはなりえないからだ。

われわれは断固として、われわれの自由を内外のあらゆる反動の試みから守るつもりである。
ロシア革命は征服者たちの銃剣を前にしても後退せず、外国の軍隊に打ち負かされるままになりはしない。

しかし、われわれはあなたがたに訴える。
ロシア国民がツァーリによる専制政治を一掃したように、あなたがたも自分たちの国の反独裁的な政府の束縛からのがれよ。
君主、地主、銀行家の手中にある征服と暴力の道具となることを拒め。
さあ、われわれは力を合わせて、人種の恥でありロシアの自由が誕生した偉大な時代をかげらせる恐ろしい殺戮を阻止しよう。

すべての国の労働者、われわれの死者たちの死体の山の上に、愚かしく流された血と涙の川の上に、
いまだに煙を立てている町や村の廃墟の上に、破壊された宝の山の上に、われわれは兄弟のように手をさしのべ、
国際的な統一を復活させることをあなたがたに訴える。
そうすることで、われわれの未来の勝利と人類の完全な解放が保証されるのだ。

すべての国のプロレタリア、団結せよ!


284 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:32:18 ID:???

――「蜂起の技術」

「ある欠席者」という署名のあることレーニンの文書には、蜂起の技術の大原則が記されている。
そこには、民衆が「自然発生的」に革命を起こす可能性は少しも想定されていない。
1917年10月25日のクーデターは、なにひとつとしてなりゆきまかせのものはなかった。
それは「蜂起の技術」の帰着点だったのである。


285 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:33:01 ID:???

私はこれらの手紙を10月8日に書いているが、これらが早くも9日にペトログラードの同志たちの手にわたることは
それほど期待していない。
あまりにも遅く到着して、10月10日に予定されている北部地方ソヴィエト大会に間に合わないかもしれない。
それでも私は、ペトログラードとすべての「界隈」で起こりそうな労働者と兵士たちの行動が、
まだ実現してはいないがまもなく実行に移されるときのために、この「ある欠席者の助言」をしようと思う。

あきらかに、すべての権力はソヴィエトへ移らなければならない。
同じくボリシェヴィキ全体にとって好ましいことに、プロレタリアの革命権力が労働者や世界中、なかでも交戦中の
すべての国の被搾取者や、とくにロシアの農民からの非常に大きな共感と全面的な支持を得ていることにも議論の余地はない。
これらの事実は誰もが知りすぎていることであり、はるか以前から認められてきたことなので、
これ以上語る必要はないだろう。

しかし、おそらくすべての同志にとってあきらかではないひとつの点について、ここで語っておかなければならない。
それは、ソヴィエトへの権力の移行は、現時点では事実上、武装蜂起を意味するということである。
このことはまさに自明の理であるように思われるが、誰もがこの点をつきつめて考えたわけではなかったし、
いまも考えているわけではない。
いまこのとき武装蜂起をあきらめることは、ボリシェヴィキの重要なスローガン(「全権力をソヴィエトへ!」)と
プロレタリア全体としての革命的国際主義を放棄することを意味するのではないか。

ところで、武装蜂起は政治闘争の特殊な形である。
武装蜂起は注意深く検討する必要のある特殊な法則のもとに置かれている。
この事実について、カール・マルクスは、「武装蜂起は戦争と同じく、ひとつの技術である」と記した上で、
きわめて見事にいい表わしている。


286 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:33:38 ID:???

以下が、マルクスがのべているおもな法則である。

1.決していいかげんな蜂起をしてはならない。
蜂起をはじめるときは、それをやりとげるのだと強く確信している状態であること。

2.決定的な場所、決定的な瞬間に、数においてはるかに優勢な兵力を、いかなる手段をもちいても集中させること。
そうしなければ、より準備が整い組織化された敵は、反徒たちを全滅させるだろう。

3.いったん蜂起がはじまったら、この上なく決然と行動し、是が非でも攻勢に移らなければならない。
「守勢は武装蜂起の破滅である」

4.不意をついて敵を捕らえ、さらに敵の部隊が分散した好機をつかもうとしなければならない。

5.たとえわずかでも、毎日(都市の場合、毎時間)成功を獲得し、
いかなる手段をもちいても「精神的な優位」を保たなければならない。

マルクスは、軍事蜂起に関するあらゆる革命の教訓を、歴史上もっとも偉大なる革命戦術家ダントン
(フランス革命期の政治家)の言葉、「大胆であれ、さらに大胆であれ、つねに大胆であれ」で要約している。


287 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:35:10 ID:???

1917年10月のロシアにあてはめると、これらの原則は次のことを意味する。

ペトログラードとその内外、つまり労働者街、フィンランド、レーヴェリ、クロンシタットで、
同時に、できるだけすばやく、不意の攻勢をかける。
艦隊全体の攻勢をかける。
われわれの「ブルジョアジーの衛兵」(士官候補生)と「ふくろう党員の軍隊」(コサック兵の部隊)など
1万5000人から2万人(あるいはそれ以上)の人員をはるかに超える兵力を集めること。

以下のもの(a.電話、b.電信、c.駅、d.橋)を是が非でも奪い保持するために、
われわれが持つ3つのおもな兵力、つまり艦隊、労働者、軍隊を組み合わせる。

非常に毅然としたメンバー(われわれの「特攻隊」、青年労働者、すぐれた水兵)を選び、小分遣隊にわけ、
彼らにすべての主要拠点を奪わせ、いたるところですべての重要な作戦に参加させる。
それらの作戦は、たとえばペトログラードを包囲して孤立させ、艦隊と労働者と軍隊の計画的な攻撃によって
ペトログラードを奪うという、この上なく大胆な技術を必要とする任務である。

敵の「中枢」(兵学校・電話・電信など)を攻撃し、包囲し、「最後のひとりまで死んでも、敵を通すな」
というスローガンを持つ、小銃と爆弾で武装したすぐれた労働者たちによる分遣隊をつくること。

蜂起が決まったら、指導者たちが首尾よくダントンとマルクスの大原則を適用することを期待しよう。

ロシアの革命と世界の革命の成功は、わずか2〜3日の戦いしだいなのだ。


288 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:25:13 ID:V3dY2/BP


289 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:26:49 ID:yP/6yQRA



290 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 00:44:29 ID:MrBvZnpJ


291 :私事ですが名無しです:2006/12/28(木) 16:06:45 ID:???



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