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バンダイ ヤマト新モデル

1 :私事ですが名無しです:2006/12/04(月) 19:48:00 ID:A+hn1mj5
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20061204/124915/

http://www.bandai.co.jp/releases/J2006120401.html


2 :私事ですが名無しです:2006/12/04(月) 20:49:22 ID:???
糞スレ一番乗り

3 :私事ですが名無しです:2006/12/06(水) 13:51:38 ID:???
板違いー

4 :私事ですが名無しです:2006/12/08(金) 22:40:13 ID:???
ラブポーション

5 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:05:37 ID:???

歴史には「出来事」のほかに「問い」がある

 悪い政治があり、あれこれの妾がいて、いく人かがパリで本を書けば、人々は殺し合っ
て互いに川に投げ込む、などと教科書の書き手たちが信じていたとは到底思えませんが、
要約すればたしかに、これと同様のことを結果的には述べているといわざるをえない概説
書も、教科書もありそうです。つまり、深いところで人々を突き動かした力は何だったの
かについて、説明していない点に不満がのこるのです。
 吉野やトルストイが発したような、歴史に埋没した「問い」を発掘するためには、精力
的な史料発掘と、それを精緻に読みこむ努力が絶対に必要ですが、ここにも難しい問題が
あります。E・H・カーはその点につき、三十年も前に次のように指摘していました。史
料というものは、「深いところで作用して、おおくの混乱やら妥協やらを生みだすもとにな
った、さまざまな力についてはなにも語ってくれないばかりか、かえってこれをみえにく
くする。ところが、煎じつめたところ、歴史家が最終的にもっとも関心をもつのは、こう
した深部の力なのである」(『ナポレオンからスターリンへ』)
 史料はそれ自体では、歴史を動かす深部の力について何も答えてくれないと、カーは述
べています。にもかかわらず、歴史を動かす深部の力について、史料を用いて考えなけれ
ばならないのが、歴史の研究であるともいっています。


6 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:08:49 ID:???

歴史を学ぶ意味

 歴史には「出来事=事件」だけではなく「問題=問い」があり、そのような「問い」の
かなりの部分は、時代の推移とともに人々の認識や知の型が、がらりと変わるのはなぜな
のか、あるいは、人々の複雑な行動を生み出すもととなった深部の力は何なのか、この二
つの問題を考える点に集中する、とまとめられそうです。
 では、こういった問いに気づくことは、大学で学ぶ学生や社会に生きるわたくしたちに
とって、どのような意味があるのでしょうか。また将来、歴史学を専門とする者や、歴史
愛好家だけではなく、なぜ一般的にも歴史を教養として学ぶ意味があるのでしょうか。
 フーコーは医学書を取りあげて分析しましたが、これと同じように、ある特定の時期に
ある特定の学問の領域で、急激な認識の変化が起こるのはなぜなのかと問いかけてみるこ
とは、ある研究領域の過去の研究史をまじめに考えたい人間にとって、また、たとえば、
ある領域で生産されてきた過去の製品開発の過程をまじめに考えたい人間にとっては、不
可欠の作業となるでしょう。社会のなかで生きる人間、その人間の認識の変化に「明白な
差をつくりうるのは、どのような根本的経験なのであろうか」(『臨床医学の誕生』)。フーコー
が発したこの「問い」について考えることは、後進の者が新たな研究領域に参入したり、
新製品の開発に参加したり、新製品の営業に従事したりする際に、自己の研究・新製品・
販売戦略のオリジナリティを見出すための、また見出す契機がどこに隠されているのかを
知るための、羅針盤を手に入れることを意味します。


7 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:12:20 ID:???

「語るものと、語られるものとの間の、位置と姿勢の関係が変った」(同書)時期について
フーコーが興味をかきたてられたのは、なぜでしょうか。それはおそらく、ある学問に従
事する人間が、その学問対象を先人たちがどのようにとらえ、どのように叙述してきたの
かという問題を考えることによって、逆にこれまで「考えられてこなかった」学問の対象
領域が何だったのかが明白になり、さらには、考えられてこなかったものがなぜ急に考え
られるようになったのか、そしてそれは何を契機としたのかが、はっきりとわかるからで
しょう。ここでいう「学問」の部分を、「職種」や「製品開発」などの単語に置き換えて読
んでみれば、フーコーのおこなった作業が実は珍しいことではなく、社会を構成するほと
んどの人々が、日常的に無意識にやっている作業だと気づかれるはずです。
 このようにみてくると、歴史学というのは、社会を構成する人間の、ある時期における
認識の変化をもたらす要因について、かなり総合的にとらえうる学問だといえるのではな
いでしょうか。歴史学の手法や考え方が、社会に生きる我々に提供するものはかなり大き
いはずだと、自信をもって見通せそうです。


8 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:14:24 ID:???

近代の戦争

 では、戦争にいたる過程で、為政者や国民が、世界情勢と日本の関係をどのようにとら
え、どのような論理の筋道で戦争を受けとめていくようになったのかという問いから近代
をみるという視角に、なぜ意味があるといえるのか、その点に絞って話を進めていきまし
ょう。
 冒頭に掲げてあるシラバス=講義要目において、わたくしは、戦前期の日本が、あたか
も十年おきに戦争をしてきたような国であると書きました。たしかに、日清・日露両戦争
の開戦日と第一次世界大戦の宣戦布告の日、講和条約調印の日で戦争期間をくぎって示せ
ば、次のようになります(なお、日清戦争の宣戦布告は八月一日、日露戦争は二月十日でした。一九〇
七年の第二回ハーグ平和会議で「陸戦に関する協約」が採択されるまでは、宣戦布告をもって戦争開始とす
る考えはなかったので、開戦日と宣戦布告の日は一致しないことも多くありました)。
  日清戦争     一八九四年(明治二十七)年七月二十五日〜一八九五年四月十七日
  日露戦争     一九〇四年(明治三十七)年二月六日〜一九〇五年九月五日
  第一次世界大戦  一九一四年(大正三)年八月二十三日〜一九一九年六月二十八日


9 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:18:20 ID:???

 開戦の年でみれば、たしかに十年おきに戦争が起きていることがわかります。この後
満州事変までしばらく平穏に過ぎますが、一九三一(昭和六)年九月十八日に起きた満州事
変と、四一年十二月八日に勃発した太平洋戦争は、やはり不幸にも十年ごとになっていま
す。
 ここで強調しておきたいのは、十年という数字ではなく、この時代が戦争につぐ戦争の
時代であったという事実の重みについてです。しかも戦争技術の発達、兵役義務の負担
増、戦時特別税などの負担増によって、国民はますます巨大な犠牲を強いられてゆきまし
た。ただこの過酷な時代は、同時に、経済の発達、初等教育の普及、衆議院議員選挙権者
の拡大などにともない、国民の政治意識や権利意識もしだいに成長をとげつつあった時期
でもありました。戦争に関する負担が増大する一方で、犠牲を強いられる国民の内面に
は、国家や社会に対するさまざまな批判精神が育っていったという構図が描けます。戦争
と国民のあいだの摩擦係数は、しだいに高くなってゆくはずでした。


10 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:26:05 ID:???

P018-

戦争を受けとめる論理

 入江昭は『日本の外交」において、近代日本の外交思潮の特徴を二つ挙げています。一
つめは、「政府の現実主義」と「民間の理想主義」(この理想主義は、ときに冒険的ともいえる対外
硬論となります)と表現されるべき外交思潮のパターンが、日露戦争の時期までにほぼでき
あがったということです。二つめは、こうしたパターンが日露戦争後の国際情勢の激変に
よってくずれてゆき、日本人の外交観念にはしだいに、現実の国際政治とのずれが生じて
いったということです。人々の、世界情勢と日本の関係のとらえ方に最も関係する外交思
潮にも、時代によって大きなうねりのあったことを、ここでおさえておきましょう。
 さらに、戦争そのものの意味や定義も、時代とともに変化しました。第一次世界大戦
後、「政治におけるとは異なる手段をもってする、政治の継続にほかならない」とクラウ
ゼヴィッツが定義した意味での古典的な戦争は許されなくなり、自衛か制裁目的以外の戦
争は、しだいに違法化されてゆく傾向となりました。しかし一方で、第一次世界大戦は、
まぎれもなく総力戦時代の到来をも告げた戦争でした。そうであれば、次の戦争は、軍
事・経済・思想など、国家のあらゆる力を動員した激烈な総合戦をその実態としながらも、
その形態としては、自衛のための戦争か、制裁のための戦争、という様式を装おうように
なることが予想されました。
 そして現実に、外交思潮の変化と戦争の意味づけの変化という、少なくとも二つの変化
を背景に置きならが、巨大な犠牲を、国民、そして交戦国の国民に強いる戦争が、何度も
遂行されてきたのです。このような流れのなかで、為政者や国民は、世界の諸問題をどの
ようにとらえていたのか、あるいは、ある国家と日本のあいだに緊張感が高まり、戦争に
いたる過程で、どのような論理の筋道で、それぞれの戦争を受けとめていったのか。これ
は興味深い「問い」となると、わたくしは考えています。


11 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:29:45 ID:???

 ある一つの戦争が、講和条約の締結によって人々の記憶から忘れられたり、次の戦争が
またゼロの地点から始まったりする、などということは、およそ日本においては考えられ
ないことでした。一つの戦争は、次の戦争とさまざまなかたちで結びつけられました。戦
場と事変の勃発地点が重なり合うということで、日露戦争の記憶と満州事変の意義が重ね
合わされて語られる一方で、日露戦争の戦死者の遺児が日中戦争に出征して負傷兵になっ
たという家族を顕彰して、士気が緩みがちな日中戦争に日露戦争の栄光をすべりこませた
りすることは、常態的になされていたことでした。
 いわば、戦争で戦争を語る、戦争で戦争を説明するという行為が、自然に日常的になさ
れていたのが、戦前期までの日本社会であったといえるでしょう。このような社会を前提
とするとき、太平洋戦争だけを取りあげて、「なぜ、日本は負ける戦争をしたのか」との
問いを掲げてみても、「正しい問い方」をしたことにはならないのではないでしょうか。
近代の歴史のなかで、何度も繰り返されてきた一つひとつの戦争に対して、「なぜ、戦争に
なったのか」との問いを反復的に設定して初めて、戦争の相互性のなかで、戦争をとらえ
ることが可能になると思われるからです。そして、「なぜ、日本は負ける戦争をしたの
か」「なぜ、日本は無謀な戦争に踏みきったのか」といったような問いが、なぜ「正しい
問い方」をした問いでないかといえば、そうした問いは、もし日本が戦争に勝利していた
としたら問われることのない地点から発せられている問いだと思われるからです。このよ
うな問いに期待される答えは、誰もが納得しそうなことですが、天皇・軍部・国民(世
論)の三要素のいずれかにその責任を帰するか、三要素のうちの二つを取りあげて、その
関係の日本的特殊生にその責任を帰するか、の選択肢のなかにしか存在しないからです。


12 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:34:04 ID:???

 帝国日本に関する著作である『植民地』のなかで、マーク・ピーティーは、「近代植民地
帝国の中で、これほどはっきりと戦略的な思考に導かれ、また当局者の間に〔島国としての
安全保障観に関する〕これほど慎重な考察と広範な見解の一致が見られた例はない」国とし
て、第一次世界大戦期までの日本を特徴づけました。安全保障の観点からの戦略的かつ慎
重な考察、当局者のあいだでの広範な見解の一致が、日本の特徴であると仮に認めるなら
ば、次のような「問い」が浮かんできます。すなわち、国民が誰しも抱くような疑問――
なぜ軍事費を出し惜しみしてはいけないのか、なぜ清国を敵としなければならないのか、
なぜロシアと戦わなければならないのか、なぜ中国と長い戦争をしているのか――に対す
る答えとなるようなさまざまな論理が、為政者あるいは国民自身の手によって、周到にもし
くは急速に形成され、準備されていったはずではなかったか、と。
 本書が最終的に描こうとしているのは、為政者や国民が、「だから戦争にうったえなけれ
ばならない」「だから戦争をしていいのだ」という感覚をもつようになり、政策文書や手
紙や日記などに書きとめるようになるのは、いかなる論理の筋道を手にしたときなのかと
いう、その歴史的経緯についてです。人間として生まれた以上、喜んで戦争を始めたり、
喜んで戦場に赴いたりする者は少ないはずです。また、戦争には相手国が必要ですから、
相手国と日本の戦力差に対する冷静な認識も、当然のことながらあったでしょう。しか
し、国民の認識のレベルにある変化が生じていき、戦争を主体的に受けとめるようになっ
ていく瞬間というものが、個々の戦争の過程には、たしかにあったようにみえます。それ
はどのような歴史的過程と論理から起こったのか、その問いによって日本の近代を振り返
ってみたいのです。
 人々の認識に劇的な変化が生まれる瞬間、そして変化を生み出すもととなった深部の力
をきちんと描くことは、新しい戦争の萌芽に対する敏感な目や耳を養うことにつながると
考えています。


13 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:46:17 ID:???

攘夷論が新政府にもたらした負の遺産

 天下の大政に容喙してはならないと教えこまれてきた人々が、なぜ短期間で「政治をも
つてわれら自身の仕事なり」と認識するまでになったのかという問いに対して吉野が出し
た答えを、未だ検討しておりませんでした。
 吉野の答えをみようとするのは、本講義のライトモチーフであります、戦争を受けとめ
る論理が歴史的に形成されてゆく最初の部分を、明らかにしうるからです。第一講でふれ
た吉野の論文「我国近代史に於ける政治意識の発生」をみていくことにしましょう。吉野
は例によって切れ味鋭い論理を展開しており、近代的政治意識の発生を促した第一の原因
を、当時の政府が率先して「政道」=政府のめざす政治方針を民間に隠さず解放した点に
求めていました。
 では政府は、なぜ急に「政道」を民間に解放したのでしょうか。吉野の説明ぶりは奇抜
ですが、たしかに説得的になされています。周知のように討幕派は徳川幕府を攻撃するた
め、「鎖港攘夷を一枚看板にして」、民間の志士の攘夷熱をおおいに煽ってきた側面があり
ました。しかし彼らが政権についたときの国際情勢は、諸外国と和親の方向で進むしか選
択の余地のないものでした。そうであれば、みずから煽った攘夷熱の始末をどうつけるか
が、新政府の真っ先に対処すべき問題となります。少し前まで攘夷の実行を幕府にせま
り、公武合体で事態を乗りきろうとした幕府を「私心」のあるものとして糾弾し、「公儀」
としての幕府の権威、正統性を効果的に奪ってきたのは、新政府を担う人々にほかなりま
せんでした。


14 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:47:23 ID:???

 そのため、現政府の当局者は単に幕府を倒す口実として攘夷を唱えていただけだったの
ではないかとの非難が、在野に生じます。このような情勢に対して、新政府の正統性への
疑念を封ずるため、新政府は「公道」の観念を援引して、みずからの新しい政治方針を説
明せざるをえなかったのだと吉野は解説しています。

   我々は外人を夷狄禽獣と思つてゐた、だから之等の者と交るのを快しとしなかつた
  のだ、然るによく聞いて見ると、彼等にも宇内の公義の理解があると云ふ、而して我々
  に対つては天地の公道を以て交らうと云うて居るさうだ、然らば我々も亦彼等を待つ
  にその所謂公法を以てすべきではないか、猥りに之を排斥するは古来の仁義の道に背
  くのみならず、又恐らくは彼等の悔を受くることにもならう。    (前出論文)

 ここで新政府の説く「公道」とは、万国公法すなわち国際法のことでした、しかし今
後、政府は国際法を遵守しますとアピールするだけでは、世間の疑念はそれほど容易に晴
れなかったはずです。そこで政府は大胆にも、攘夷は「古来の仁義の道に背く」のだとま
でいいきって、国際法というものに対しては、あたかも道の教えに従うのと同じ敬虔な態
度で従うべしと国民に説明した、というのが吉野の分析です。
 この分析で面白いのは、明治初年の人々があれほど急に近代的政治意識を身につけられ
た理由として、窮地に立たされた政府が、みずからの置かれている状況について国民に率
直に披露したからだと喝破した点です。またその反面、政府が国民を説得する際、いわば
新しい思想を古い皮袋に入れて提示してみせたがゆえに、迅速に新思想が国民に浸透して
いったというパラドックスをも同時に語ってみせました。政府の巧緻と政治意識の進歩の
関係を公平に書くところが、吉野の分析に深みを与えたといえるでしょう。


15 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:49:33 ID:???

 吉野の論文は、万国公法の日本への普及伝播の過程を分析した実証部分に真骨頂があ
り、ここで紹介した部分は一番奇抜な論理展開の部分ではあります。むろん、近代的政治
意識の発達について、この論点だけから説明した吉野を批判することは、現在の研究水準
からいえば容易なことです。近代以前においても、地域共同体の運営を通じた政治的才覚
が民衆の側に育っていたことや、日本近海への列強の接近に対する危機感が、幕府や大名
のみならず、市井の人々にも高かったことが明らかになっているからです。
 たとえば、一八〇六(文化三)年から翌年にかけては、日本との通商を拒否されたロシア
による樺太・択捉などへの襲撃事件が相次いでいました。とくに択捉事件のときには、南
部・津軽藩兵とロシア側が交戦し、日本側が退却を余儀なくされており、幕府はその簡単
な経緯を諸大名に報じていました。ロシア船蝦夷地襲撃の噂はまたたくまに広がり、風
聞・流言も全国的にみられたため、蝦夷地での騒動の噂を禁じた町触も出されています。
支配階級以外の書状などにも、「日本国の大恥」「異国之物笑」などと、幕府の軍事面での
失点を非難する言葉がみられるようになっていました。
 しかし、たしかに吉野のいうように、新政府内の明敏な者は、かつての攘夷論と新政府
の正統性が天秤にかけられている点に自覚的であり、そのこちに危機感をもっていまし
た。この点は史料からも確認できます。


16 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:50:37 ID:???

 一八六九(明治二)年二月の岩倉具視意見書「外交之事」からは、当時、議定兼輔相であ
った岩倉が、おおよそ次のような判断をしていたことがわかります。――朝廷に政権が移
れば天下の人は、必ず攘夷の令が下ると考えただろう。しかし、どうしたことか、政府
は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの公使を参朝させている。これでは人
人が、朝廷が先に攘夷を主張したのは「畢竟幕府を倒さんが為の謀略なり」とみてもしか
たがないではないか。今日、政府がなぜ外国と交際を開かざるをえないのか、その理由を
了解する者は天下にほとんどいないはずである。これは問題ではないか――。
 このような危機感を抱いて政府は、国民と対外関係の両方をリアルにみつめて、改革を
スタートさせたのでした。攘夷論といういわば負の遺産が、一方では新政府に大胆な施策
をとらせ、他方ではその施策の実施段階での工夫によって、人々のあいだに対外的危機に
敏感な近代的政治意識を急速に浸透させていったということでしょう。


17 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 15:59:13 ID:???

当局者のロシア観

 明治初年のころ、各省ではさまざまな制度や政策を構想していましたが、その際、構想
実現のためには、太政官へ上申し、その案を採用してもらうことが不可欠でした。それで
は、そのような建白書の類は、四囲の列強の動きを、いったいどのような切り口から語っ
ていたのでしょうか。
 一八七〇(明治三)年五月、兵部省のおこなった建白「至急大に海軍を創立し、善く陸軍
を整備して護国の体勢を立べきの論」には、次のような切り口がみられます。要約してお
きましょう。――最近、各国交際の道が開けて、国々は外面では「公議」を唱えている
が、内面では「私心」を逞しくして、他国を併呑したり貿易港を力によって開かせたりし
ている。よって各国においては陸海軍を増強してこれに備えている。このような動きは、
つまるところ万国公法の「自護の権」を大きくしようとしている行為なのである――。
 この時期、自衛権という言葉は、未だ翻訳語としては定着しておらず、「自護の権」と表
現されていましたが、自衛権が万国公法で認められているのだから、陸海軍を拡張するこ
とは独立国家の権利であるとする主張がすでにみられる点に、ひとまず注目したいと思い
ます。


18 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:01:51 ID:???

 この建白書と同じ時期に、太政官に提出された建白書「大に海軍を創立すべきの議」に
は、具体的に日本が最も警戒すべき相手国として、ロシアの名前が挙げられておりました。
建白書の内容は、だいたい次のようなものです。――ロシアは、ヨーロッパとアジア、二
つの大陸ににらみを利かせようとしている。ロシアは、太平天国の乱と、アロー号事件の
対応に清朝が苦しんでいた一八五八年、清にせまって愛琿条約を締結させ、黒龍江(アムー
ル川)以北の満洲の地を割取してしまった。このような歴史的事実から、ロシアは「実に皇
国に於て戒心すべきの第一」の国である――。
 一八〇七(文化四)年のロシアによる択捉襲撃を知った平田篤胤が、『千島の白波』で早
くもロシア問題を提起していたことからもわかりますように、文化年間からの五十年は、
日本の対外関係がロシアの来航をきっかけとして、イギリス、中国、アメリカへと拡大し
ていった時期でした。一八六一(文久元)年四月(旧暦二月)には、ロシア艦ポサドニック号
が対馬芋崎浦を一時占拠するという事件が現実に起きていました。幕府は外国奉行小栗忠
順を派遣して、ロシア側との交渉をおこないましたが、ロシア艦を退去させることはでき
ませんでした。結局、イギリス艦隊が対馬に急行して強硬に抗議した結果、イギリスの武
威に屈したロシアが九月に退去したために、実際に占領されることにはなりませんでし
た。しかし、日本側にとってロシアは、樺太から南下して朝鮮半島に侵入するのではない
かとの危惧とともに想起されるようになります。このようにロシア問題というのは、明治
初年にあっては最も近い危機として記憶されるものでした。


19 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:03:37 ID:???

 しかし、ここでは注意すべき点があります。そもそもロシアが対馬を占拠しようとした
理由は、一八五九年にイギリスが対馬沿岸の測量をおこなったことに対し、ロシア側が危
機感をつのらせたからでした。イギリスに後れをとるまいとするロシアの態度だけが日本
側に警戒されてゆくのですが、そこにはイギリス公使パークスのもたらしたイギリス寄り
の情報や世界観が、日本に為政者や国民に影響を与えていたという背景もありました。
 対ロシア観の最後として、一八七一(明治四)年十二月二十四日付、兵部大輔山県有朋・
少輔河村純義・少輔西郷従道の三名連署による建議に記された四囲の情勢認識をみておき
ましょう。ここでもロシアは「驕傲猖獗」であるとか、「北門の強敵」などと表現されて
おり、すでに恐れられる存在でした。驕傲猖獗というのは、ほしいままにふるまい、勢い
が盛んなさまをいいます。驕傲というのは具体的には、クリミア戦争(一八五三〜五六年)
で、イギリス・フランス・トルコなどの連合軍に敗北した結果、黒海を武装化する権限を
失った(一八五六年のパリ講和条約、黒海中立化条項)にもかかわらず、普仏戦争でヨーロッパ
が混乱していた一八七〇年十月、黒海中立化条項の破棄を一方的に宣言したようなロシア
の振る舞いを指しているようです。また、清国の混乱の渦中に、愛琿条約により黒龍江以
北の満洲を奪った行為も念頭に置き、このように表現したものでしょう。
 ここに記されたロシアの対外態度については、オーストリアで開催された博覧会に出席
した佐野常民の文章のなかにも、まったく同様の記述を見つけることができます。日本は
四囲を海に囲まれているから、ヨーロッパ諸国のような兵備を必要とするわけではないの
で、軍事費を無駄に使うのは理不尽であるとする議論をあらかじめ想定し、それに対する
反論として書かれた部分に次のような記述があります。


20 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:06:53 ID:???

  北境を魯〔ロシアのこと〕大国に接するは、尤も憂ふべきなり。魯の近ろ海軍を東海に
  開くは人の知る所にして、又鉄路を亜細亜に通架するの業も既に着手すと聞けり。〔中
  略〕清英交兵の会に乗じて、黒龍江近傍の地を取り、全く該江通航の利を占めて、以
  て威を東海に張り、孛仏争戦〔普仏戦争のこと〕の際に投じて兵艦を黒海に置くの権を復
  し〔後略〕。

 これまで、当局者ののこした文書から判明する限りで、日本の置かれた国際環境に対す
る認識をみてきました。そこからは、過去二十年のあいだに隣国ロシアが展開した外交方
策や対外態度について、詳しく軌跡を追おうとする姿勢が顕著にみられます。ロシアの外
交実態を史実として語るだけで、充分に危機感を醸成させることは可能だとの判断があっ
たからでしょう。そしてそのような文書の最後には、次のような結論が導かれるのが常で
した。――兵備を盛んにするというのは、国力を顧みずにいたずらに大兵を置いて戦争に
走ることをいうのではなく、国力の許す範囲で兵備を整え、理を守って屈せず、義を忘れ
ることのないようにすることをいうのである。一朝事が起これば、正々堂々と内外に臨め
るように「国家の権利を護するに足るの力」を養っておくことをいうのである、と。


21 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:09:32 ID:???

プロイセンの例

 西欧列強に対して独立を維持する、という大目標が達せられるまでは、軍拡は国内のほ
とんどの政治勢力にとって、基本的に同意せざるをえない政策でした。しかしその際、油
断することなく準備にいそしむ必要があるとの意識を不断に喚起させ続けるのは、なかな
か容易ではなかったでしょう。そこで、普仏戦争(一八七〇〜七一)を勝利で飾ったプロイ
センの例が、さかんに引用されました。たとえば、ドイツ帝国議会における一八七四年二
月十六日のモルトケ元帥の演説が、早くも七六(明治九)年の『内外兵事新聞』第二号・
第三号に紹介されています。『内外兵事新聞』は同年創刊の、軍事に関する一般的情報と
言説のメディアでした。
 さて、演説に関する情報は早いはずで、この演説原稿はもともと、先に言及しました佐
野常民が、オーストリア博覧会に出席した際に、日本に持ち帰ったものでした。

  即、千八百八年より十二年迄の戦の如き、我国の不幸にして其費す所幾多ぞや。彼の
  時に当り常備兵少く、兵役の期限も亦短く、軍費も亦僅少なり。而して拿破侖帝、此
  機に乗じ、小且貧なる普魯斯より一億萬の償金を奪ひたり。是即自国の兵備を節約
  し、其十倍を他国の兵備に資するものと謂ふべし。(「独逸大元帥モルトケ氏兵制の議」)


22 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:11:25 ID:???

 つまり、普仏戦争でフランスに勝利したプロイセンでしたが、過去の敗北を噛みしめ、
そのときのプロイセンの無念さを改めて思い出せと、モルトケは議会人にうったえていま
した。一八〇八年までのプロイセンが、軍事費を出し惜しみした結果フランスに敗北し、
それだけではなく、その出し惜しみした十倍にもあたる一億二〇〇〇万フランもの賠償金
を支払わされ、さらにその賠償金はといえば、のちにフランス軍の軍備を充実させるため
に使われたというのです。自国の賠償金が、敵国の防備を強くするために使われるとはな
んたることであったのか、との歎きでした。
 問題は、この演説のなされたのが一八七四年のドイツ帝国議会の席上だということで、
軍事予算を議決する議会人を前に、祖国の英雄モルトケが大演説をふるって、少しでも軍
事予算の削減を防ぎ、将来の軍事費の確保を図ろうとする構図がみえます。また、モルト
ケは当時のフランスの情勢にもふれて、フランスがドイツを模範として兵制改革をおこな
い、全国から兵を徴集するシステムを構築し、兵役期間もドイツの十二年よりも長い、二
十年と設定している様子を述べています。普仏戦争に勝てたのだから、もう軍事費は必要
ない、と主張しがちな議会人をさかんに牽制していまいした。


23 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:17:31 ID:???

征韓論の意味

 これまでわたくしは、当時の朝鮮(正式名称は大朝鮮国)や台湾について論ずることなく、
ロシアやプロイセン、フランスについて論じてきました。しかし、ここで立ち止まって考
えてみれば、明治政府の為政者たちやそれに近い識者たちの言論が、日本とは地理的に遠
い事例から兵備完整の必要を冷静に説いていたのは奇妙なことなのではないでしょうか。
目前の征韓や征台を軍拡の論理に用いれば、簡単に兵備完整を主張することができたはず
です。しかし、これは自覚的に意図的になされていたことでした。坂野潤治が明らかにし
たように、政府は、いわば遠い軍拡を説くことで東アジアへの冒険的な膨張論に一貫して
冷水を浴びせ、また一方でどうしても反論できない軍拡の根拠を過去から引用すること
で、人々に緊縮財政への支持の念を自然に植えつけることができました。
 この時期の征韓論(日本にとって「韓」という文字は、地名あるいは民族名として認識されていたた
め、「征朝論」ではなく「征韓論」と呼んだものとみられる)は、政府からは最終的に抑えこまれ、
士族層を除く市井の人々には関心のない問題でした。しかし、征韓論など東アジアへの膨
張論それ自体のもった意味については、検討を加えておく必要があるでしょう。征韓論の
底流にある考え方の一つは、太平洋戦争まで一貫してみられる、対外膨張論の重要な要素
であるからです。


24 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:19:33 ID:???

 幕末からの流れでいえば、まず、朝鮮に対する認識が、王政復古と密接な関係をもって
語られていたことを理解する必要があります。ペリー来航後の吉田松陰の朝鮮論や、一八
六八(明治元)年十二月十四日の木戸孝允日記にみられる征韓論などは、その代表的なもの
です。松陰は、列強との交易で失った損害を朝鮮や満洲で償うべきであると論じつつ、国
体の優秀性を皇統の永続性に見出し、天皇親政がおこなわれていた古代における三韓朝貢
という理想のイメージに基づいて、朝鮮服属を日本本来のあるべき姿として描き出しまし
た。木戸は日記のなかで、「速に天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣し、彼無礼を問
ひ、彼若不服ときは、鳴罪攻撃、其土大に神州の威を伸張せんことを願ふ」と述べていま
す。
 この場合、木戸が朝鮮を無礼といっているのは、従来使用してきた印を廃して新たに皇
や勅の文字を入れた印を用いた日本側の国書を、朝鮮側が受けとらなかったからではあり
ません。これまでの朝鮮と日本との関係、すなわち、朝鮮が対馬藩を通じて幕府など武家
政権と関係を築いてきたこと、いわば「私交」を結んで天皇への朝貢を怠った点を無礼だ
といっているのです。天皇親政に復したからには、朝鮮はこれに服属するのが本来の姿で
あるとの感覚が生じています。日本と朝鮮の関係を正すことは、木戸にとっては「御一新
之御注意」を明確にし、再確認するためにも必要なことだと認識されていました。


25 :私事ですが名無しです:2006/12/09(土) 16:20:21 ID:???

 こうした考え方は、日本の近代史上一貫して流れるアジア主義の一つの源流をなすもの
なので注目されます。アジア主義の定義としては「日本近代史上に隠顕する一つの思想的
傾向、すなわち西洋列強の抑圧に抗して、日本を盟主にアジアの結集をうったえたもの」
という平石直昭による定義が妥当でしょうが、わたくしが今ここで用いるのはもう少し広
く、日本と地理的に近接したアジア地域への日本の姿勢、といった意味で使います。
 よって次に、一八七三(明治六)年の征韓論と参議西郷隆盛の関係について、教科書的な
知識をおさらいしておくと、以下のようになります。不平士族の反乱を未然に防ぐため西
郷は、自身が、朝鮮への使節に命ぜられるよう廟議を動かし、使節となって朝鮮に渡り、
そこで相手側から「暴殺」されるように仕組んで開戦の名目を得ようとした、しかし、そ
こに内地派が現れ、西郷のもくろみを阻止したという解釈です。つまり、岩倉使節団から
もどってきた大久保利通・木戸孝允らを、日本国内の整備を優先して征韓に反対した内地
派とし、西郷やのちの下野する参議たちを、武力行使をも辞さない強硬派と描く図式で
す。これに対して、教科書的な解釈は誤りで、西郷は征韓論者ではなく、使節派遣を願っ
たのは平和的な交渉をする自信と見込みがあったからであるとする毛利敏彦の解釈もあり
ます。


26 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:29:05 ID:???

国家の元気を回復するために

 ここにわたくしたちは、日本近代の一つの特徴であるといえる、「内にデモクラシー、
外に帝国主義」といわれるものの一つの源流をみることができるのではないでしょうか。
明治六年の政変時の西郷と、『評論新聞』に共通しているのは、「国家の元気」という観点
です。維新当時のような国家の元気を取りもどし、国家の覆滅を回避する道としての、立
憲と征韓という組み合わせです。
 ですから、国内改革と対外侵略を密接不可分として考える態度は、教科書的な説明にみ
られるような、士族の内乱を防ぐために対外侵略をガス抜きとして使おうとしたという態
度とは、まったく違うものです。正理真道から遠く離れてしまった日本を、名分論によっ
てどうにか救うにはどうしたらよいかという、むしろ、自己本位な動機からきていまし
た。
 このような日本人の感覚は、近隣の諸国にとっては非常にありがたくないものであり、
それがのちに、実に甚大な被害を近隣諸国に与えたことについては議論の余地はありませ
ん。しかし、征韓論にみえる論理は、日本人の目からみて文明開化を肯定しない国家――
この場合は朝鮮が想定されていますが――に対する優越感に満ちた侮蔑の感覚から生じて
いるのではないという点は確かでしょう。侮蔑するか、しないかという感覚よりも、より
せっぱつまった感覚、みずからが救われるかどうかという感覚、これに突き動かされて征
韓論は主張されたと思われます。


27 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:30:43 ID:???

 第二講では、だいたい明治十年までの時期について、近代的政治意識発生の理由、普仏
戦争の教訓、征韓論の意味などを検討しました。政府の側は、攘夷から和親への転換を説
得するため、対外関係に特化した近代的政治意識を国民に植えつけることに躊躇しません
でした。幕府の掌握できる「国力」と動員できる「弱兵」では、列強と戦争すれば勝利は
おぼつかなく、それではかえって武威・御威光は消滅してしまいます。なんとか衝突せず
に体面を維持しようとして、無為にすごしたために幕府は倒れたのだというイメージが広
く社会に共有されているとき、列強と対峙するための軍拡を説くのは、さほど困難なこと
ではありません。
 ただ問題は、政府にとって、東アジアへの膨張論と政府批判とが連動しないように留意
することでした。ロシアの脅威、普仏戦争における軍事費と賠償金の話などをうまく援用
して、いわば、遠い事例から、兵備完整の必要が冷静に説かれている様態についてお話し
しました。


28 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:33:33 ID:???

自由民権論者の対外認識

 ここで、日本の自由民権運動と、ヨーロッパにおけるデモクラシー運動を、簡単に比較
してみましょう。ヨーロッパのデモクラシーの理論と実際には、個人主義思想の強い影響
を確認できますが、日本の自由民権運動には、天賦人権説などの援用はみられるものの、
むしろ、国家主義的色彩が濃厚です。その違いはどこからくるのでしょうか。一つには、
明治初期の民権論者が民権論を主張するにあたって、国家の独立を維持し国権を伸張させ
るためには、自由民権の理想の実現が不可欠だと説いて、国家から支持を獲得しようとし
ていた点に求められます。
 国権を伸張させるための民権というロジックは、民権論者の対外意識を分析することで
確認できます。民権論者が当時の極東情勢をどうみていたのかを、民権の指導的役割を担
っていた四つの新聞、『朝野』、『郵便報知』、『東京曙』、『東京横浜毎日』の論調を分析する
ことで、初めて明らかにしたのは岡義武でした。まず、当時の民権派と新聞との関係につ
いては、ほぼ次のような関係が確認できます。成島柳北・末広鉄腸らの『朝野新聞』は自
由党系、矢野文雄・箕浦勝人らの『郵便報知新聞』は改進党系、島田三郎・肥塚竜・沼間
守一らの『東京横浜毎日新聞』は政治結社嚶鳴社(のちに改進党へ)系、という具合です。
 たとえば、七九年四月八日付『郵便報知新聞』には箕浦勝人が「琉球人民の幸福」とい
う論説で「一国の独立を維持せんと欲するもの、兵力に依らずして、復た何をか待たん」
とはっきりと述べています。国家の独立には兵備が必要だといった、実にシンプルな主張
でした。八〇年三月二十四日付『東京横浜毎日新聞』論説は、列強がせまりつつある東ア
ジアで、独立を保てる国は日本と中国くらいしかないだろう、との暗い見通しを危機感と
ともに述べています。


29 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:35:30 ID:???

  僅かに独立の位置を存し、欧洲強国に力を抗せんとするの勢ある者は、支那・朝鮮・
  日本あるのみ。而して朝鮮とても版図狭隘人心振はず、若し鄂羅〔ロシアのこと〕一たび
  南向の志を起さば、朝鮮の独立も一朝の間にして覆滅するなる可し。故に東方諸国
  中、支那・日本を除かば、他に独立国なしと云ふも可なる者あり。欧洲強国が東方辺
  海を横行するも、偶然にあらずと云ふ可し。


30 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:37:58 ID:???

 第二講でもふれましたが、民権派諸新聞がこのような論説を展開していた時期は、イギ
リス・フランスによるアフリカ再分割が本格化した一八八〇年代に入ったころでした。帝
国主義研究の概念でいえば、一八七〇年代から八〇年代以降にみられた変化とは、列強の
統治方式が、植民地と考える対象地域の既存の政治体制に依存した上で、「通商の自由」
を標榜しつつ経済的利益の獲得をめざす「非公式の帝国」方式から、世界的規模で直接統
治、すなわち「公式帝国」の形成に乗り出すようになったという変化でした。当時の新聞
を読んでいますと、現在がまさしく帝国主義の時代であり、アジア諸地域がヨーロッパの
帝国主義国家によって現実に蚕食されつつあるとのリアルな認識を、記事の書き手たちが
もっていたことに気づかされます。
 このような極東情勢についてのリアルな認識を民権派が抱いていたとすれば、日本の独
立を維持し国権を拡張するにはどうしたらよいか、という点に彼らの問題関心が集中した
のは、ある意味で当然です。つまり、ある時期、自由民権論者が民権論から国権論へとそ
の論調を変えるのではなく、比較政治史的にみると日本の自由民権運動は、最初から国権
論的な動機づけをもっていたがゆえに、広く支持を獲得できたといえるでしょう。


31 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:40:08 ID:???

福沢諭吉『通俗民権論』

 ここで同時代の言論ということでいえば、福沢諭吉を逸することはできません。民権と
国権の関係について、例によってきわめて明快に述べています。福沢諭吉の文章のテンポ
を味わうために、ちょっと読みあげておきましょう。

  抑も民権の伸びざる原因は、必竟、人民の無智無徳に由るものにして、之を要するに、
  政府は智にして人民は愚なるが為に、自から智者の圧制を受るの訳なれども、今、試
  に官民の別なく、全国の人を一様に見渡して、一体に愚なる国人なれば、其国に於て
  政府に在る人のみ別段に智力ある可きの理なし。人民愚なれば政府も亦愚ならん。人
  民智なれば政府も亦智ならん。


32 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:44:36 ID:???

 民権が伸張しない理由は、政府が圧制するからではなく、人民の知力が未だ不十分だか
らである。人民と政府の二つながらの発展は、二つともになされるべきであり、なされな
ければならないという発想と覚悟は、先に引用した大久保利通の「立憲政体に関する意見
書」にみられる議論と大差のないものとなっています。ここで大久保と福沢が同じような
考え方をもっていたと書きますと、官(国家)と民(国民)との抗争を回避させるような論
を、福沢が展開していたように聞こえるかもしれません。しかし、福沢のいう官民調和論
は、権力をめぐる、官と民との激しい対立・競争と表裏一体となった概念であって、無原
則な妥協をよしとするものではありませんでした。対立と競争があるから、双方が発展で
きるという発想です。


33 :私事ですが名無しです:2006/12/10(日) 11:47:21 ID:???

 第二講でみたように、過去の攘夷論のくびきからみずからを解放するために、明治政府
は国際法に対して、「道」の教えに従うごとく従順であれと国民に説いて、近代的政治意
識の種子を植えつけました。そうであれば、近代的政治意識は、自国と外国との国際関係
についての省察から生み出されたといっても過言ではありません。このような意識をもっ
て誕生した国民は、不平等条約など、国際関係の不正常な状態に対しては敏感であったは
ずです。そして、すでにふれたように民権派のナショナル・インタレストの概念は、明治
政府のそれときわめて近いものであったといえるでしょう。
 これまで述べてきたことは、列強に対峙するための軍拡については、為政者と民権派の
あいだに、基本的な対立は生じようはなかったはずだということです。


34 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:30:14 ID:???

 朝鮮がロシアに占領される事態を清国がつくり出すのではないか、と山県や西が憂慮し
た背景には、これまで述べてきたような事情があったのです。清国が弱体かどうかという
認識ではなく、むしろ、深まりつつあった英露対立のなかで、清国による宗主権の主張が
一定の地歩を占めるような事態が生じれば、イギリスやロシアに朝鮮侵入の契機を与える
ことになる、だからだめだという論理になります。事実、清国は、伝統的な国際秩序の再
編成を自覚的に進めておりまして、清仏戦争に際しては海防の観点から、台湾への実質的
支配の確立を図るため一八八五年十月、台湾省建省に踏みきりました。さらに、甲申事変
(八四年十二月、朝鮮の開化党要人らが、清国の影響下にある閔氏政権打倒のために起こしたクーデター)
後は、袁世凱を駐箚朝鮮総理交渉通商事宜として派遣し、朝鮮国王のアドバイザーとして
います。伝統的な宗属関係を、権力的な関係に再編強化したものといえるでしょう。


35 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:30:56 ID:???

 清国がみずからの伝統的な国際秩序の積極的改編に乗り出す過程と、一方で深まりつつ
あった英露対立が、朝鮮という場を巻きこんで激化するのではないかとのイメージが、日
本のなかで蓄積されてゆきます。ただ、甲申事変後、八五年四月十八日、日清間に調印さ
れた天津条約は、日清両立論を公式に認めたものであったために、日本に有利なものでし
た。このため、天津条約を維持していく限り、日本はあえて清国と全面的な軍事衝突を起
こす必要性はなかったことにはなります。朝鮮との関係で、清国が日本に与える影響関係
を以上のようにとらえるとき、朝鮮半島に対する清国の影響力を排除していくべきだとす
る考え方と、天津条約体制を維持すればいいのではないかという主張の二つが両立しうる
ことがわかります。


36 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 00:31:49 ID:???

 第三講では、国会開設前までの時期において、民権派と軍事当局者にとって、国家の独
立を維持する上で東アジア情勢をどう認識するかという点では、ほとんど差がなかったこ
とをみてきました。民権派は、条約改正を実現し、共同体の結束力を培う軍事力・国力を
つけるためにこそ、国会を開かなければならないと考えていた人々であったからです。し
かし、この時点で政府は、朝鮮の独立を武力によって清国に認めさせようとする道を選択
していたわけではありません。清国の影響力を朝鮮からいかに排除するのかという方策
を、さまざまに模索している段階でした。
 さて、ここで皆さんは、清国が朝鮮に影響力を強めることを日本側が問題だとみなした
理由と経緯については理解できた、しかし、それでは、朝鮮が第三国の占領下に置かれる
という事態が、なぜ日本にとって堪えがたいものと認識されたのかについて、まだ十分な
説明を聞いていないと思われたのではないでしょうか。この問いについて大四講では、山
県有朋の利益線論を、それがだれの議論から生じた視角なのかという観点から分析してい
くことにしましょう。


37 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 11:21:47 ID:???

軍事的観点から国際関係をみる

 第三講で述べた軍事当局者の議論は、日本一国の独立だけを考慮したきわめて独善的な
議論でした。山県の意見書からは、不平等条約であった日朝修好条規のさまざまな条項(領
事裁判権を認めさせ、さらに往復文書のかたちで関税自主権を奪い無関税を強制した条項、また、釜山のほ
か二港の開港、日本人の通商活動許可と朝鮮沿海の自由な測量を許した条項などを含む)が、朝鮮社会
を混乱させ、朝鮮みずからの手による国内改革を困難にしていった様相への認識は、伝わ
ってきません。
 軍事的観点から国際関係をみる場合の問題点はここにあります。日本の独立を守るため
に必要だと観念されたことが、軍事当局者の手によって、たんたんと実行されてゆく過程
として独善的に論じられやすいのです。ですから、朝鮮に対する侵略という点を、読み手
や聞き手に自覚させないままで論理を展開することも可能になります。当時の言説が民権
派のものを含めて、ほとんど安全保障上の観点からなされていたことを考えれば、おそら
く多くの国民が、基本的に、山県なり軍事当局者なりの意見を説得的だと感じたであろう
と推測されます。


38 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 11:22:22 ID:???

 山県の主権線・利益線論は、朝鮮の中立が日本の独立に不可欠だと、きわめて簡単明瞭
な言葉で表現しきったという意味で、換言すれば、東アジアを日本の独善的な観点から論
じきる典型を形成したという意味で、注目にあたいするものです。第四講では、山県の主
権線・利益線論をみながら、日本と朝鮮の関係、すなわち当時の文脈で、朝鮮の独立、朝
鮮の中立といった場合に含意されていた問題について考えたいと思います。
 朝鮮はそれまで国号を大朝鮮国としていましたが、一八九七(明治三十)年十月十二日、
大韓帝国と改めました。日清戦争後、朝鮮が大韓帝国と改称したことは、高宗が皇帝に即
位し、清国と対等な「帝国」として万国公法体制に参入することを試みたと解釈できま
す。朝鮮政府は、すでに一八八八年から、欧米や日本に対しては、自国の君主尊称として
「陛下」を使用していましたが、宗属関係に立つ清国にだけは、「国王殿下」を使ってい
ました。皇帝即位によってそれを改め、すべての国に対して、君主尊称を「皇帝」と呼称
するようになった意義は大きなものでした。


39 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 13:59:10 ID:???

山県有朋の主権線・利益線論

 一八九〇(明治二十三)年三月、当時首相の地位にあった山県はその意見書「外交政略論」
のなかで、日本の独立自衛のためには主権線の守禦とともに、利益線の防護が必要だと論
じていました。これが有名な主権線・利益線論です。ここでいう主権線とは、国土すなわ
ち日本の領土のことでありまして、利益線とは、主
権線の安全に密接な関係のある隣接地域のことだと
山県は説明しています。そして、利益線を防衛する
方法は何かと問われれば、それは日本に対して各国
のとる政策が不利な場合、責任をもってこれを排除
し、やむをえない場合は「強力を用いて」日本の意
思を達すること、つまり武力行使であると述べてい
ます。「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」という
有名なフレーズが使われたのも、この意見書においてでした。


40 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 13:59:49 ID:???

 山県はこの議論を発展させ、同年十二月六日、第一回帝国議会での施政方針演説に臨み
ます。その内容はよく知られていますが、だいたい次のようなものでした。――国家の急
務とするところは、行政・司法制度を整備し、農業・工業・通商を振興して国の実力をつ
け、国家の独立を維持し、国権の拡張を図ることである。列国のあいだにあって一国の独
立を維持するには、単に主権線を守護するにとどまらず、進んで利益線を保護しなければ
ならない。明治二十四年度予算中、歳出のかなりの部分を占めるのは陸海軍の経費である
が、巨大な金額をさいたのはそのためである――。
 ここで論じたいことは、山県の主権線・利益線という言葉や発想がどこからきたのかと
いう点です。これまで、この問題については論じられてきませんでした。朝鮮問題を危機
ととらえ、あたかも「狼少年」のよに兵備完整をいつも唱えていた観のある山県であれ
ば、松岡洋右が満蒙を生命線と呼んだくらいのことは(よく考えてみれば、因果関係の前後は逆
ですが)山県も思いついたはずだという思い込みが、我々の側にあったのかもしれません。
あわせて、なぜ朝鮮が日本にとって利益線となるのかについても、その論理をきちんと説
明しておきましょう。近代日本法政史料センター原資料部(東京大学法学部)所蔵の中山寛
六郎文書に収められている文書が、それを解き明かしてくれます。なお中山寛六郎という
人物は、山県の当時の秘書官でした。


41 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:00:20 ID:???

ローレンツ・フォン・シュタイン

 文書から明らかになるのは、山県に主権線・利益線という概念を明示的に教えたのは、
ローレンツ・フォン・シュタインだったということです。シュタインといえば、我々はた
だちに、伊藤博文が一八八二(明治十五)年、憲法起草準備のためヨーロッパに出向いた際
に親しく教えを受けた、当時ウィーン大学政治経済学教授としてのシュタインを思い出し
ます。シュタインが、明治政府の指導者、なかでも伊藤に与えた大きな影響を三点にまと
めれば、@ヘーゲルの法哲学から出発しつつも、パリに赴いてフランス社会主義者と直接
交流をもつことによって社会問題の重要性を知り、最も早い時期に、ヘーゲル法哲学とフ
ランス社会主義の総合を試み、それを伊藤らに伝えたこと、A明治憲法の柱となる権力分
立の基本構造を伝えたこと、B国家による社会政策の必要性までも伝えていたこと、とな
ります。


42 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:02:36 ID:???

 山県は、八八年十一月十六日、地方制度調査のためとして欧州派遣を命ぜられ、十二月
二日に横浜を出発しました。随員としては、内務省から古市公威、荒川邦蔵、秘書官とし
て中山寛六郎、陸軍省から中村雄次郎、軍医として賀古鶴所などが同行していました。一
行は、翌八九年一月十一日マルセイユに着き、パリ、ベルリンを歴訪したあと、シュタイ
ンの待つウィーンに、同年六月に入っています。直接面談の上か、あるいは使者を遣わし
た上での会見なのかは判然としませんが、山県はシュタインに、ある問題についての意見
を求め、そのシュタインの回答が「斯丁氏意見書 千八百八十九年六月於維也納府」と題
された史料となって、中山寛六郎文書にのこされたとみられます。シュタインはコメント
を求められた意見書について、会談のなかでそれを「国防論」と呼んでいますが、その意
見書が山県の「軍事意見書」であることはほぼ間違いないといえるでしょう。これは山県
が、八六年から起草し始め、八八年一月成稿したものの、当時は発表されず、九〇年三
月、山県内閣の閣僚に「外交政略論」とともに回覧されたものです。ただしシュタインに
渡されたものは、現存する「軍事意見書」そのままの構成をとっていたのではなく、同異
のあることは史料から推測できます。
 さてシュタインは、山県の「軍事意見書」をどう読み、どのようなコメントを出してい
たのでしょうか。


43 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:05:15 ID:???

「斯丁氏意見書」

 シュタインは全体として山県の分析に対して「実に明晰」「正確」との評価を与えていま
すが、批判的なコメントもしておりまして、その主な内容は三点にまとめられます。
 @シベリア鉄道は、ウラジオストックまで全通することがあったとしても、山県が恐れ
 るほどには、日本の脅威にならない。その理由は、東アジアに到達する部分でシベリア
 鉄道は、中国の領土を通過しなければならないからである。これはロシアにとって一つ
 の制約要因となる。また、日本に侵攻するロシア軍を仮に三万人とすれば、その兵員を
 客車で運ぶと九〇〇輛を要する。シベリア鉄道は、荒寞たる土地に一線路を敷いたもの
 に過ぎないので、全線路を保全しつつ三万の兵員をアジアまで移動させることは難しい
 だろう。そして、ユーラシア大陸の東に出れば、日本海を渡るために多くの輸送船を必
 要とする。しかも港は結氷する。シベリア鉄道によって、ロシアが日本を蹂躪すること
 はほとんど無理である。
 Aむしろシベリア鉄道は、「朝鮮の占領に関して必要あるを知るべし」。ロシアはこれに
 よって、東亜に海軍を起こすことができる。このような意味で、シベリア鉄道の着工は
 日本にとって大問題となるのである。
 Bイギリスの東アジアへの干渉の度合いが、カナダ鉄道の北米大陸横断によって高まっ
 たと山県はみているが、それは違う。イギリス陸軍は、組織が完全ではないので、太平
 洋には送れないしろものである。また、イギリスがカナダ陸軍を使おうとすれば、カナ
 ダ国会の議決が必要となり、そうそう簡単にはいかない。


44 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:16:51 ID:???

 北太平洋の危機について山県が、シベリア鉄道の着工(一八九一年)や、カナダ鉄道の北米
大陸横断によって各段に高まったとの判断を下していたのに対して、シュタインは、シベ
リア鉄道竣工が日本にとって死活的に重大になるのは、ロシアが朝鮮の占領を考慮したと
きだけであると論点を整理しています。
 次に、シュタインのコメントを、とくに主権線・利益線論に関連づけて読みあげておき
ましょう。この史料は珍しいものなので、難しい言葉はありますが大事な部分を読んでお
きます。

  凡そ何れの国を論ぜず又理由の如何を問はず、兵力を以て外敵を防ぎ、以て保護する
  所の主権の区域を権勢疆域と謂ふ、又権勢疆域の存亡に関する外国の政事及軍事上の
  景状を指して利益疆域と云ふ。

 主権の及ぶ国土の範囲を権勢疆域といい、その国土の存亡に関係する外国の状態を利益
疆域と呼ぶといっています。ここでは、主権線ではなく、主権疆域でもなく、権勢疆域と
いう言葉を用いて訳されています。また利益線ではなく、利益疆域という言葉が使われて
おります。とにかく、権勢疆域と利益疆域という二つの概念を提出して説明を加えている
のが、シュタインの側であることに注目してください。


45 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:17:53 ID:???

  故に軍事の組織は二個の基礎に根拠せずんばある可らず。即ち第一、自国の独立を保
  護し、自己の権勢疆域内に於て他人の襲撃を排除せざる可らず。第二、危急存亡の秋
  に際し、萬已むを得ざるときは兵力を以て自己の利益疆域を防護すべき準備なかる可
  らず。

 ここでシュタインは、軍事の基礎は、権勢疆域を守るためのものと、危急存亡のときに
あたって利益疆域を守るためのものとから成っていなければならないと述べているのです。
 さて、もう一ヵ所みておきましょう。

  自己の権勢疆域を有し、守防の地位を占め、全力を以て之を防護するに止まらず、猶
  各国相互の和戦を論ぜず、苟も我に不利なる挙動あるときは、我れ責任を帯びて之を
  排除するの覚悟なかる可らざるなり。又之を略言すれば、権勢疆域と相並び、又は其
  外に渉りて利益疆域を造成せざる可らず。


46 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:19:54 ID:???

 権勢疆域を守るだけではなく、外国が自国に不利なおこないをしたときには、責任をも
ってそれを排除しに行かなければならないような区域、つまり利益疆域を積極的につくっ
ていかなければならない、といっています。以上、シュタインの述べるところを簡潔にま
とめれば、何があっても外敵を防ぎ保護する主権の区域を意味する権勢疆域と、その存亡
に密接にかかわる、外国の政事軍事上の景状を指す利益疆域という概念を導入して、国際
政治の要諦についてアドバイスを与えていたわけです。
 シュタインは意見書の末尾で、日本の政治家に向かって、朝鮮の独立と主権が緊要だと
説くことくらい蛇足の甚だしいものはないといいながらも、次のように続けています。

  日本に於て、朝鮮を占領するにあらずして、各海陸戦闘国に対し、朝鮮の中立を保つ
  を必要とす。蓋し朝鮮の中立は、日本の権勢疆域を保全するが為めに生ずる所の、総
  ての利益を満たすものなり。若し一朝、朝鮮にして他国の占有に皈するときは日本の
  危険言ふ可らず。


47 :私事ですが名無しです:2006/12/11(月) 14:23:39 ID:???

 日本の利益疆域は朝鮮の中立にあるのだから、これを妨害しようとする者がいたら、「力
を極めて之に干渉」しなければならず、「日本の利益疆域を保護する大主義は、現今及将来
とも朝鮮の現状を保存するにあるなり」と論をまとめていました。またシュタインは明確
に、「露国清国又は英国たるを論ぜず、苟も朝鮮を占領せんとする者は日本の敵国と視做さ
ざる可らず」といって、山県の考え方にお墨付きを与えていました。
 しかしながら、朝鮮をめぐって日本がただちに戦争にうったえることを奨めていたわけ
ではなく、たとえば朝鮮半島周辺で英露間に戦争が勃発した場合でも、英露双方から朝鮮
の中立を認めるとの言質を得られれば、日本は局外中立のままでいいと述べています。基
本的には、@外交上の手段によって、朝鮮と各国間に広範な内容をもつ条約を締結させ
て、各国が朝鮮の独立を認める方向にもっていく、Aスイス・ベルギー・スエズ運河など
と同じく、朝鮮を「萬国共同会」の問題としてしまう、などの具体的方法があると助言し
ていました。


48 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 12:52:18 ID:???

山県への影響関係

 わたくしのみるところでは、山県の「軍事意見書」(一八八八年一月)に、シュタインの「斯
丁氏意見書」(一八八八年六月)の趣旨が加わって、さらに複数の手が入って用語の洗練がな
された上に、山県の「外交政略論」(一八九〇年三月)が成立したと思われます。先ほどのシ
ュタインの意見書で、軍事の組織は、権勢疆域と利益疆域の二つの基礎に根拠を置かなけ
ればならないと述べていた部分と、外国が日本に不当なことをした場合に排除しなければ
ならないと述べていた部分の二つを引用しておきましたが、山県の「外交政略論」ではそ
の部分は、次のようになっています。


49 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 12:54:08 ID:???

  外交及兵備の要訣は、専ら此の二線の基礎に存立する者なり。方今列国の際に立て、
  国家の独立を維持せんとせば、独り主権線を守禦するを以て足れりとせず、必や進で
  利益線を防護し常に形勝の位置に立たざる可らず。利益線を防護するの道如何。各国
  の為す所、苟も我に不利なる者あるときは、我れ責任を帯びて之を排除し、已むを得
  ざるときは、強力を用いて我が意志を達するに在り。

 先に引用しましたシュタインの二つの言葉(89、90ページ参照)と読み比べてください。用
語と論理が似ているのはいうまでもないことですが、利益疆域という言葉が利益線という
言葉に、権勢疆域という言葉が主権線と言い換えられてゆく過程で、東アジア情勢の危機
がよりリアルに伝わるよう工夫されています。


50 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 12:58:40 ID:???

 もちろん、シュタインに指摘されるまでもなく、基本的に山県は、シベリア鉄道竣工の
意味するものに、すでに自覚的だったはずでした。「軍事意見書」の段階で山県は、次のよ
うに主張しています。――シベリア鉄道がウラジオストックまで全通したとき、ロシアは
ジレンマに直面するだろう。ウラジオストックまで行けば、北太平洋に直接出られること
になるが、この港は冬季に結氷する。鉄道の輸送能力を軍事的に完全に活かすにはどうし
たらいいのだろうか。良港はどこにあるのかと地図をみれば、それは朝鮮半島に存在する
ということになろう――。
 このような判断を前提として、「外交政略論」で山県は、より明確に、朝鮮の独立はシベ
リア鉄道竣工とともに危うくなると指摘しています。そして、朝鮮が独立を保てず、安南
と同様の運命をたどれば、東アジア北方はロシアの占有するところになってしまう。この
とき具体的な被害をこうむるのは日清両国であって、とくに日本の対馬は、「頭上に刃を
掛くるの勢」(ダモクレスの剣の故事にちなむ。非常に危うい状態に置かれていることのたとえ)をこ
うむるような危機に瀕すると述べています。
 シュタインや山県の予想した東アジア情勢の危機は、シベリア鉄道の竣工後、ロシアが
朝鮮半島東海岸の港を占領して、極東艦隊の根拠地にしてしまうというシナリオでした。
具体的には、半島の東側、日本海に面した元山沖の永興湾をロシアが占領する事態を想定
しています。


51 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 11:10:49 ID:???

第一回帝国議会

 第三講と第四講においては、自由民権論者、軍事当局者、シュタインの目をとおしてみ
た東アジア情勢についてお話ししましたが、この視角からいえば、朝鮮半島を利益線と認
識した山県らの軍事当局者が、朝鮮半島から清国の勢力を排除するために日清戦争を起こ
したと、すっきりと説明することができます。しかし、主権線は日本の国土を意味し、利
益線は朝鮮半島を意味するといわれても、また清国の勢力を朝鮮半島から排除しなければ
ならないといわれても、国権の確立をことのほか重要であると考えていた民権派のような
人々でもない限り、普通の国民にはなかなか理解し難かったのではないでしょうか。民権
派は、国民が「敢為の気」に乏しく、政治や外交のことは自分たちに関係ないという客分
意識のなかに安住しているといって国民を批判していました。
 しかし、国民としては主権線・利益線に関するシュタインの定義も知らされず、清国と
朝鮮の宗属関係の再編が国際関係に与える死活的な影響といわれても、その線からの理解
は当時はなされていなかったはずです。それでは帝国議会開設後、日清戦争にいたる過程
で、国民は、戦争をどのような論理の筋道で受けとめていくのでしょうか。これが第五講
の主題となります。


52 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 11:11:35 ID:???

 第一回総選挙にあたって選挙権をもっていたのは、当時の人口約三九三八万人の約一・
一四パーセント、約四五万人でしたから、かなり限られた観点からではありますが、まず
は帝国議会を舞台とした陸海軍予算の審議状況からみていきましょう。このような選挙人
の投票で選ばれた三〇〇名の衆議院議員は、昔日の民権派であった人々を多く含んでいた
ので、たしかに国民とはかけ離れた存在だったかもしれません。しかし、立憲自由党や立
憲改進党などの民党は、政費節減・民力休養をうたって政府と対立するはずの勢力でし
た。民党の候補者は、第一回帝国議会の選挙に向けて長い時間をかけて、地域の民権結社
の支持を基盤に選挙活動をおこなって当選してきた人物たちでした。ですから、議員たち
は、数字の上だけの選挙権者よりもずっと広い範囲の聴衆を政治的に育てながら、衆議院
で活躍していたと考えてよいでしょう。
 一八九〇(明治二十三)年十一月二十九日、第一回帝国議会開院式がとりおこなわれ、同
年十二月六日、当時内閣総理大臣であった山県有朋は、衆議院において施政方針演説をお
こないました。第四講でもふれたように山県はこの演説で、歳出予算案の相当部分を占め
るものが陸海軍経費であることを率直に認め、その理由として、主権線の守護と利益線の
防護を挙げていました。そして実際、陸海軍予算は、一般会計歳出総額約八〇〇〇万円の
うち、実に二六・三パーセントを占める膨大なものでした。


53 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 11:12:22 ID:???

衆議院における陸海軍経費の削減

 内外の注目を集めた第一議会で予算案をぜひとも通過させようとの意識は、政府側にも
民党の側にも強くあったために、結局、妥協が成立し、衆議院側の査定案のうち若干を復
活させたかたちで、予算案は衆議院・貴族院の両院で可決されることになりました。軍事
費削減について民党側が消極的であったのは、第二講で論じたように、民党側が民権派の
対外認識を継承する人々であったからだと判断できそうです。国家の完全な独立を実現す
るためには、軍事力をつけるのは当然であろうという発想です。


54 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 12:44:41 ID:???

和協への道

 以上、第一議会の状況をみてきましたが、第二議会以降、一八九二(明治二十五)年十一月
二十九日に開会する第四議会にいたるまでは、衆議院予算委員会は、内閣の計上する軍艦
建造費に対して一貫して全額削除する挙に出ています。いったいこれは、どのような事情
によるものでしょうか。島海靖が明らかにしたところに従ってみていきましょう。
 政府は九一年、デモンストレーションのため日本に寄航した、清国北洋艦隊の旗艦定
遠、姉妹艦鎮遠の海軍力に対抗するため、軍艦建造費を明治二十六年度予算に計上しまし
た。七ヵ月にわたって総額一六八〇万円余を投入し、三〇センチ砲を装備した一万一〇〇
〇トン級の甲鉄艦二隻を建造しようとの計画です。しかし九三年一月十二日、衆議院は軍
艦建造費を全額削除し、その他の官吏俸給・官庁経費などを含めて、全体で八七一万円の
削減を決定しました。こののち、政府の不同意、衆議院における内閣弾劾上奏案可決、休
会、天皇の詔書による局面打開、という一連の流れとなりますが、ここで注目すべきこと
は、衆議院予算委員長の河野広中(自由党)が次のように述べて、衆議院として反対せざる
をえない理由を明確にしていたことです。


55 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 12:45:56 ID:???

  此れ軍艦の建造を不急とするに非らず。方今国防の具備を要するは多言を待たざる
  も、唯海軍部内の積弊未だ洗除せず。未だ大業を託するに足らずとするを以て協賛
  を為さざるなり。

 つまり、軍艦製造が重要なことはよくわかっているけれども、海軍部内の問題が解決さ
れていないから、反対するのだと述べていました。これは第二議会で、いわゆる「蛮勇演
説」(海軍予算削減に怒った可場山資紀海相が、今日の日本の安寧を保った功は薩長にありと力説)をおこ
なって、議員たちの神経を逆なでした海相に対する不快感を依然として表したものでし
た。過去二回にわたって衆議院側が軍事費を削減してきたのも、これが原因だったので
す。もっとも、このときの河野の口ぶりからは、政府側からの何らかの妥協を期待するニ
ュアンスも読みとれます。


56 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 12:47:12 ID:???

 ただしここでは、建艦計画の必要性を認めるにやぶさかではないとの、河野の認識に、
まずは注目しておきたいと思います。事実、自由党の板垣退助などは、第四議会を前にし
て、毎年平均五〇〇万円、十年間で五〇〇〇万円を投入して一〇万トンの大海軍を建造す
るという計画を発表していたくらいです。
 結局、伊藤博文首相は、天皇を登場させる局面打開策を選択し、九三年二月十日に詔書
(「和衷協同の詔勅」)が出されました。それは議会に対しては、「大業を翼賛せしめしむこと」
を求め、政府に対しては、行政整理を求め、懸案の軍艦建造費については、今後六ヵ年に
わたり毎年三〇万円を内廷費から下附し、不足分は官吏の俸給の一割をあてて補うことを
命じたものでした。
 以上、衆議院における軍事予算をめぐる攻防からは、利益線の守護が独立自衛への道だ
と明言した山県の施政方針演説の内容と議員たちの考え方に、軍事費そのものをめぐる部
分では、基本的な対立がなかったとみなせます。このようにして、日清戦争を軍事的に可
能とする軍事予算は、着実に獲得されてゆきました。


57 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 16:49:05 ID:???

内政改革の提案

 九四年六月十六日の、陸奥外相から清国側に伝えられた「朝鮮に関する日清共同内政改
革提案」が、「戦争の意義づけ」作業の第一歩となってゆきます。まず、公使館・居留民
保護を名目とした日本の派兵は、農民運動の終息とともにすでに根拠を失っていました。
しかし、清国軍撤退前に日本軍だけがなすすべもなく撤退することは、国内世論を考慮し
ても問題であるとされ、派兵の必要性を説明する新たな論理が求められてゆきます。それ
は、朝鮮の内政を改良するために日清両国が常設委員を置いて必要事項を調査した上で改
革に着手すべきだとの提案をおこない、その内政改革を保障するためには駐兵が不可欠だ
と主張する、というものでした。改革の項目として挙げられていたのは、財政の調査、中
央政府・地方官吏の淘汰、必要な警備兵の設置、財政の確立と国債の募集などでした。
 しかし、清国側はこの提案を拒絶します。在東京清国特命全権公使汪鳳藻は、清国側が
日本側の提案を受け入れられない理由を三点にわたって述べましたが、どれも説得力のあ
るものでした。


58 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 16:49:53 ID:???

 @朝鮮の内乱はすでに鎮圧されたので、日清両国の軍隊が朝鮮にいる必要はない。
 A日本政府の朝鮮政府に対する善後策の内容は結構だが、朝鮮の改革はみずからおこな
 うべきであり、清国でさえそれについて干渉していないのに、まして日本側は朝鮮を自
 主の邦といってきた国であり、他国の内政に干渉できないのではないか。
 B内乱が平定されれば軍隊を撤退するのは、天津条約の規定するところである。


59 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 16:52:58 ID:???

 清国側の反論に対して日本側は、内乱から公使館・居留民を保護するという、派兵当初
の大義名分が完全に消滅したことを改めて自覚せずにはいられなかったでしょう。また実
をいえば、日清協同による内政改革論にしても、このとき日本側においてもこの論理の矛
盾についてはある程度自覚されていたのです。たとえば、この時点で伊藤内閣の構成員で
はなかった松方正義(当時の蔵相は渡辺国武)は、伝記史料の伝えるところによれば、「我既に
朝鮮を以て独立国と為す、而して其内政を改良せんと欲す、是干渉なり独立を傷るものな
り、言行相反す」と述べて、内政改革論に賛成でなかったことがわかります。


60 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 16:57:44 ID:???

 しかし、清国側の拒絶回答は、日本側にとってはむしろ「好ましい」事態を現出させま
した。朝鮮の内政改革を推進する日本、これを拒絶する清国というストーリーを対比的に
語りうるようになったのです。これまで、シュタインや山県らがかなり軍事的観点から語
っていた論理、即ち日本の独立自衛のために朝鮮の独立(中立)を確保しなければならず、
その独立(中立)を阻害すべき清韓の宗属関係をなくすためには清国を朝鮮半島から排除す
るという論理に、内政改革に熱心な日本、それを拒絶する清国という、きわめて単純な対
比の論理が加わりました。これは、国民が戦争を理解する上で、軍事戦略論から説く利益
線論よりは、有力な論理の筋道を提供していったはずです。
 この論理がいかに急速に国民のなかに浸透していったかについては、新聞論調を分析す
ることで明らかになります。


61 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 17:50:39 ID:???

開戦前夜の新聞論調

 一八九四(明治二十七)年六月二十三日、日本側は単独で朝鮮の内政改革にあたるという絶
交書を清国に送り、両国の軍事的衝突はしだいに時間の問題とみられるようになりまし
た。清国はイギリスの調停を拒否し、日本はそのイギリスとのあいだに、七月十六日、領
事裁判権廃止、関税率引上げをその主な内容とする、日英通商航海条約の調印に成功しま
した。
 では、開戦前夜の新聞論調はどのようになっていたのでしょうか。陸奥外相による新た
な「戦争の意義づけ」は、国民のなかに充分浸透していったのでしょうか。
 千葉県下で対外硬派の新聞として知られていた『千葉民報』を例にみてみましょう。た
とえば、九四年七月二十六日付の論説「一大快事」は、おおよそ次のような論を展開して
います。日本は「東洋前途の平和を維持」するために、朝鮮を厳然たる独立国とする必要
があると考え、「国政に一大革新をなさしめんとの勧告」をおこなったが、清国はこれに
反してあくまで「朝鮮を属邦視して、傍若無人の干渉政略」をおこない革新政策妨害して
いる、よって開戦すべきだというわけです。清国側が陸奥外相による内政改革提案を拒絶
した一件が、この新聞論調に早くも投影されているのがわかります。


62 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 17:51:14 ID:???

 また同じ時期に、自由党の機関紙『自由党報』は、日清戦争を「開化と保守との戦争」
と位置づけ、日本軍は「文明節度の師」、清国軍は「腐敗怯懦の兵」といって、国民が心の
底から清国側の態度を憤激できるような、わかりやすい構図を描いたのでした。改革を推
進する日本、拒絶する清国、という対比で彼我をとらえる論説が続出するようになってき
ます。
 またこのような傾向とあいまって、朝鮮に対する要求自体もしだいに大きくなっていき
ました。『千葉民報』七月二十日付論説「朝鮮を日本の属国とするの利害」では、朝鮮の併
呑までもが論ぜられるようになっています。その内容としては、独立の担保のため多くの
兵隊と金が必要となるのならば、むしろ朝鮮を日本の属国としてしまったほうがよい、し
かしすぐに朝鮮を征服すべきだといっているのではないと論じて、次のような結論に導い
ています。

  徒らに朝鮮の独立を担保するが如きは、我責大にして利之に合はず、而して彼が独立
  を百年の後に継続せんことは殆んど望なきに似たり。

 改革を推進する日本、拒絶する清国という対比の論理を得て、新聞などが、積極的に経
済上の利害にうったえる論調をとり始めたことがわかります。


63 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 17:51:46 ID:???

文明と野蛮の戦争

 当初の利益線論から、朝鮮の内政改革を推進する国、拒絶する国という論理へ、さらに
開化と保守の戦いといった論理の変遷の最後を締めくくったのはやはり福沢諭吉でした。
福沢は、一八八二年(明治十五)年にみずから創刊した『時事新報』の九四年七月二十九日の
論説において、よりはっきりと日清戦争を、「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げん
とするものとの戦」であると位置づけました。非常に有名な文章ですので、一部分だけご
紹介しておきたいと思います。

  彼等〔清国人を指す〕は頑迷不霊にして普通の道理を解せず、文明開化の進歩を見て之
  を悦ばざるのみか、反対に其進歩を妨げんとして無法にも我に反対の意を表したるが
  故に、止むを得ずして事の茲に及びたるのみ。〔中略〕幾千の清兵は何れも無辜の人民
  にして之を鏖にするは憐れむ可きが如くなれども、世界の文明進歩の為めに其妨害
  物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、彼等も不幸
  にして清国の如き腐敗政府の下に生れたる其運命の拙なきを自から諦むるの外なかる
  可し。                   (「日清の戦争は文野の戦争なり」)


64 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 17:56:23 ID:???

 おおよそ、進歩を妨げるようなことを清国側がおこなったのだから、清国兵士には何の
罪もないが、日本は文明の進歩のために清国と戦争をしなければならないのだと述べてい
るわけです。この福沢の議論と、八月一日に出された宣戦の詔勅の論理構成は、つまると
ころ同じです。伊東巳代治が草案を書いた詔勅の文言は、清国と戦わなければならない理
由を、清国側の非に帰していました。すなわち「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍
伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ」て事実
上の内政干渉を加え、また日本による協同内政改革提案も断わり、朝鮮の治安を清国に依
存させるようにしている、と述べていたのです。


65 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:05:29 ID:???

義勇兵組織熱

 文明と野蛮の戦争という、非常にわかりやすい構図を明示された国民は、近代となって
初めての本格的な対外戦争を熱心に受け入れました。戦争の実態は、陸奥外相自身、のち
の回想である『蹇蹇録』に「朝鮮内政の改革といい清韓宗属の問題というも、畢竟その本
源に溯れば日清両国が朝鮮における権力競争の結果」と述べていたように、世界史的な帝
国主義戦争の一環にほかなりませんでした。


66 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:06:38 ID:???

 しかし、日清開戦直前の時期には、さまざまな背景をもつ人々が、戦争に参加するため
の義勇団体を結成するようになります。第二講で述べましたが、日本の現状を救うために
対外侵略にうったえる回路をもつアジア主義的な発想とも、この義勇団体組織運動は関係
をもっていました。『大阪毎日新聞』九四年六月二十五日付には、広島県人五〇〇名が陸軍
省に従軍願いを出したとの記事が報じられていますし、『東海新報』同年七月ニ十二日の記
事は、熊本県下、自由・国権両党協同して結成された報国義団について報じていました。
 この場合、士族層・対外硬派だけでなく侠客までもが義勇兵として参加しようとしたも
ので、文明対野蛮の戦争を意気に感じたというよりは、日清戦争を、朝鮮の「独立」確保
のための義挙としてとらえていたことがわかります。征韓論以来、政府によって抑えられ
てきた民間のアジア主義的対外膨張熱が、遅まきながら小規模に暴発したようなものでし
た。政府側としては、往年の征韓論を髣髴とさせるような対外膨張熱が無軌道に拡大する
ことを恐れ、全国的な広がりをみせた義勇兵応募に歯止めをかけています。


67 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:07:41 ID:???

国民の戦争

 一八九五(明治二十八)年四月十七日、日清講和条約が調印されて、戦争は終結しまし
た。戦争の経過については、地図をご覧く
ださい。
 さて、戦勝を国民がどのように受けと
め、またどのように祝ったのかという点で
も、日清戦争は、のちの前例となるべき興
味深い例をのこしています。
 たとえば、未だ戦争が終結する前、第二
軍の旅順口占領を祝した祝捷会についてみ
てみましょう。九四年十二月二十六日、山
梨県甲府市で開催された甲府市第一祝捷会
の様相を伝えた『山梨日日新聞』は、清国
の人民が日本の「王師を迎へ、我王化に
服する」ようになり、「其れ邪は以て正に勝たず、蛮野の兵は以て文明の師に敵するこ
と」ができないのは理の当然であると書くとともに、軍需物資がよく供給され、軍人の家
族を扶助し、軍隊をして後顧の患をなからしめたのは、ひとえに国民の「愛国殉公」の結
果であると称えていました。つまり、野蛮な国の軍隊が文明国の軍隊に勝てないのは道理
であり、戦争がうまく遂行されたのは、国への国民の献身があったからだと書いていまし
た。


68 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:08:33 ID:???

 祝捷会への参加を人々が心待ちにしていた様子については、山崎源之弼の日記「黙示
録」九四年十二月九日の条に出てきます。山崎は、一八七四(明治七)年、千葉県香取郡植
房村(現神崎町)の生まれで、この日清戦争勃発の年に明治法律学校を卒業していました。
父山崎源左衛門は民権期から活躍していた自由党員でした。

  百万の子女、百万の老幼、百万の紳士、百万の田舎者が待ちに待ちたる祝捷大会なる
  もの、乃ち今日なり。場所は上野、会員は五万〔中略〕見世物は寧ろ祝捷会よりも花見
  会として朝来より夜に至る迄上野、下舎、本郷、日本橋を撼動せり。

 玄武門をかたどったアーチが建ち、花火、楽曲などの余興も多数催され、上野という場
所で、五万人規模の人々を集めて祝捷会がなされていたことがわかります。


69 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:10:23 ID:???

 新しい土地の獲得と賠償金の獲得は、第二講でお話ししました普仏戦争の事例を用いた
歴史的教訓の正しかったことを人々に想起させたと思われます。ここから、戦争は儲かる
はずであるという感覚まではもう一歩のところにありました。山梨県などでは、戦時中、
軍事公債を買うことを県民に勧める際に、公債に応募することは国威の宣揚に資するだけ
ではなく、「各自の為めにも最も安全の貯蓄法」であるとして勧誘していたほどです。
 日清戦争は、かなり観念的な軍事戦略上の問題から要請されて長らく準備されてはいま
したが、政府全体のレベルでは、伊東博文などの政治指導によって、武力対立にいたる道
は周到に回避されてきました。しかし、実際に戦争を起こす段階になってからは、軍事戦
略上の問題とは次元を異にする論理が用いられるようになり、最終盤では、いくつもの論
理が援用されて一挙に戦われたということです。内政改革を推進する国と拒絶する国との
あいだの戦争、開化と保守のあいだの戦争、文明と野蛮のあいだの戦争、朝鮮独立確保の
ための義挙など、戦争の意味づけはさまざまに変化していきました。現実の問題として
は、開戦後は国民も国家もともに、戦争によって得られる現実的な利益への期待感を隠さ
ず語るようになることで、戦争を受けとめる構造が形成されていったといえるでしょう。


70 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:11:18 ID:???

戦後の課題

 日清戦争に勝利した日本は、一八九五年四月十七日、清国と日清講和条約(下関条約)を
締結しました。条約の内容は次の四点にまとめられます。
 @清国は朝鮮国が完全無欠な独立自主の国であることを確認し、朝鮮国の独立を侵すよ
 うな清国に対する貢献典礼を全廃する。
 A遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲。
 B軍費賠償金として庫平銀二億両の支払い(邦貨三億一〇〇〇万円、のちに三国干渉で遼東半島
 を還付したことに伴う補償金四五〇〇万円が加わる)。
 C新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の四港を開くこと。
 しかし周知のごとく、遼東半島の割譲はロシアを刺激し、三国干渉の結果、遼東半島は
清国に返還されることになります。ただ、日本にとって真に問題となる事態は、この三国
干渉ではありませんでした。問題は、晴れて清国の宗属関係を離れた朝鮮が日本とどのよ
うな関係に立つのか、その将来像が終戦の時点で皆目明らかになってはいなかったことで
す。


71 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:13:33 ID:???

 陸奥外相は、日清戦争にいたるまでの清韓宗属関係についての見方を『蹇蹇録』に記し
ていました。その見方で特徴的なのは、清国の朝鮮への影響力行使の仕方が、国際法にい
う宗属関係ではないという点からの批判でした。「清韓の関係は普通公法上に確定せる宗
国と属邦との関係に必要なる原素を欠く」「国際公法上普通の見解に拠るいわゆる宗国と属
国との関係」にないにもかかわらず、朝鮮を属邦として扱うのはおかしいという指摘で
す。「必要なる原素を欠く」という部分に、とくに目をひかれます。このような指摘を自覚
的におこなってきた日本であれば、日清戦争後、朝鮮にさらなる影響力行使を図ろうとし
た場合、どのような論理が必要となるのでしょうか。日本は、国際公法にいう完全なる宗
属関係の「必要なる原素」を獲得しようとするのでしょうか。この問いについては、次回
の講義でお話ししたいと思います。


72 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:16:52 ID:???

「国民国家システム」の国際秩序

 日本は、戦争の結果締結された日清講和条約によって、朝鮮国が「完全無欠の独立自
主」の国であると、清国に認めさせました。清国の影響力が朝鮮半島から排除されたこと
で、少なくとも軍事戦略論=利益線論に基づく戦争目的は、これによって達成されまし
た。のみならず、国際秩序の観点からいえば、日清講和条約は東アジアの国際関係を、宗
属関係の強化再編をめざす清国を中心とした国際秩序から、「国民国家システム」の国際秩
序へと、最終的に移行させるはたらきをしました。それについて少し説明を加えておきま
しょう。
 まず、ここでいう国民国家の定義に関しては、さしあたりA・ギデンズによる説明を採
っておきます。国民国家とは、「他の国民国家と形づくる複合体のなかに存在し、画定され
た境界(国境)をともなう領土に対して独占的管理権を保有する一連の統治制度形態であ
り、この国民国家による支配は、法と、さらに国内的および対外的暴力手段に対する直接
の統制によって正統化」される状態を指しています。国民国家は、他の国民国家とのシス
テム的関係においてのみ存在すると考えられますので、普通それは「国民国家システム」
と呼ばれています。


73 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:19:42 ID:???

 これまでは、清韓宗属関係が軍事戦略上障碍となるから、日本はそれを変えようとした
のだと説明してきたわけですが、これを少し「国民国家システム」の観点からも説明して
おきましょう。つまり、歴史をあとからながめた場合、最終的に「併合」という名辞を考
え出し、韓国(一八九七年から大韓帝国を国号としていた)を植民地とした日本が、日清講和条
約締結時においては、朝鮮を「完全無欠の独立自主」の国であると定義したことなど、手
の込んだ欺瞞としか映らないでしょう。しかしそれは、国民国家システムを前提として国
際秩序をみる現在の見方であって、日清講和条約締結以前においては、たとえば、「朝鮮は
清国の封土ではない」という、現在の観点からすれば自明な問題自体が、実は論証困難な
問題だったかもしれないと想起する必要があります。つまり、国民国家システムにすでに
組みこまれた国家が(この場合は日本)、そうではない国家(この場合は大韓帝国)と関係をもつ
際には、「完全無欠の独立自主」の国としてみずからが規定した国を、次の段階では「併
合」する事態も起こりうるものなのではないかと考える観点です。


74 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:22:27 ID:???

 少し時期はさかのぼりますが、一八七五(明治八)年の江華島条約を機に、日本は朝鮮に
せまって、翌年、日朝修好条規を締結します。その際、日本は清国駐箚(北京)公使森有礼
に李鴻章と談判させていました。朝鮮に開国をせまるにあたって、清国の干渉可能性をは
かりつつ、一方で、朝鮮に開国せよと清国が説得してくれるのではないかと期待してなさ
れた談判でした。このとき清国は、日朝間の事態に干渉の意思ははいとの態度をとりまし
たが、森の書いた外務卿宛て機密電信には、非常に興味深いやりとりがあります。
 朝鮮の他は清国の属領ではなく、よって清国は朝鮮の内政に関与できないと李鴻章が主
張し、また外交のことも朝鮮の自主にまかせていると明言したのに対して、森は、それで
は清国と朝鮮が宗属関係にあるとする清国の主張と矛盾すると決めつけています。ほぼ二
十年後に、陸奥が、「清韓の関係は普通公法上に確定せる宗国と属邦との関係に必要なる原
素を欠く」と、述べていたことと、つまるところ同じことを森は指摘していたのです。


75 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 18:41:27 ID:???

「夫れ内政外交の権利を全有するの国は、其政体勢力等の如何に拘らず、之を独立自在の
国と云うふ。是れ公法諸家の皆其説を同する所」(一八七六年一月二十日付)である。つまり朝鮮
政府が内政外交の決定権をもっているとすれば、それは万国公法にいうところの独立の形
態にほかならず、こういうことは、『万国公法』の第二編第一章第六三条に書いてあること
である、として森は、李鴻章の議論は理解不能だと反駁しています。森と李のやりとりは、
華夷秩序による中華帝国システムと国民国家システムの、まさに境界部分で実際に起こっ
ていた問題が何だったのか、を知る手がかりとして読めるものです。
 いずれにしても、日清講和条約によって、朝鮮が「完全無欠の独立自主」の国と定義さ
れたことは、東アジアの国際関係が、中華帝国システムではなく国民国家システムで律せ
られる構造に変わったことを示した点で、象徴的な事件であったわけです。日本の軍事
的、政治的圧力のもとで、朝鮮は一元的な万国公法体制、国民国家システムに編入されて
ゆきました。これによって清国自体も、国民国家システムのなかで帝国主義列強との新し
い関係に入ってゆくことになります。


76 :私事ですが名無しです:2006/12/14(木) 00:02:17 ID:???

大朝鮮国から大韓帝国へ

 三国干渉の結果、当然のことながら、日本とロシアのあいだの緊張は高まりました。そ
もそもロシアは、七五年の樺太千島交換条約で北千島を日本に譲っていましたから、極東
の制海権に関係の深い、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡の三海峡のうち、宗谷海峡を事実
上失っていたことになります。また、津軽海峡の海流は非常に速く、しかも北海道と津軽
半島のあいだにありますので、ロシアにとってはその通行に非常な危険を伴います。す
ると、残るは対馬海峡となるわけで、日清戦争の結果、朝鮮半島南端への日本の影響力が
強まることになれば、ロシア海軍が太平洋に出るすべての海峡を、日本にコントロールさ
れるという事態が起こりうるようになりました。
 しかし、日清戦争の結果、朝鮮への日本の影響力が単線的に強まったわけではありませ
んでした。朝鮮国内では、九五年七月から、高宗と閔氏一族によって親露政策が採られる
ようになります。朝鮮王室がこのような政策に転じたのはなぜでしょうか。一言でいえば
それは、前年十月、特命全権公使として着任した井上馨のおこなった内政改革(甲午改革)
があまりに急進的なものであり、王室の権力基盤をくずすものであると認識されたためで
した。井上による改革の骨子は、@宮中・府中の区別の導入、A近代的官僚制採用と地方
自治制導入、B財政一元化、租税金納化、新式貨幣発行などの財政改革、C諸身分廃止、
嫡庶子差別撤廃などの社会的改革、D甲申事変後中断されていた留学生海外派遣を復活す
ることなど、の五点からなっていました。全体として、日本人顧問の監督下に近代的法治
国家を創出すること、借款供与と利権獲得による朝鮮経済の日本への従属化を推進する改
革であったといえるでしょう。


77 :私事ですが名無しです:2006/12/14(木) 00:03:37 ID:???

 ところが、このような改革プランがまさに実施されようとしたとき三国干渉が起こ
り、朝鮮国内における日本の威信は減退してゆくことになりました。このような形勢を挽
回するために、九五年十月、朝鮮特派公使三浦梧楼らは、大院君をかついで、高宗の妃閔
妃(明成皇后)とその一族をクーデターによって排除しようとしました。これが閔妃暗殺事
件、あるいは乙未政変といわれるものです。閔妃が親露派政権を樹立したことに脅威を感
じた日本が、このような暴挙に出たものでした。しかしこの事件によって、近代化をめざ
す内政改革に本来反対ではなかった朝鮮国内の諸政治勢力のあいだに、内政改革はしょせ
ん日本を利するだけであると警戒する感覚が生じることになりました。高宗らによる、列
強の勢力角逐を利用した勢力均衡策が選択されてゆく背景には、このような事態の進展が
ありました。
 高宗らはロシアの力で独立を維持しようと考え、ロシア軍の派遣を求めます。ロシア公
使館も本国へその旨要請しましたが、日本を挑発するような行為を避けたいロシア外務省
は、これに応じませんでした。そこで九六年二月、高宗らは王宮を出て、ロシア水平の護
衛でロシア公使館に居を移し(俄館播遷)、それにともない、改革派と目された政治勢力も一
掃されてゆきます。高宗は翌九七年二月、ロシア公使館から慶運宮に還御し、十月、皇帝
に即位するとともに、国号を「大韓」と改めます。皇帝即位の必要性は、日本および清と
の対等性の確保にあったものとみられ、ロシアやフランスは、これに積極的な支持を与え
ていました。事実、最初に公式の承認と祝賀を伝達したのは、ロシアでした。日英米はロ
シアの影響力増大を警戒したものの、即位礼式翌日の謁見式に公使を出席させ、国書の交
換のおりなどに「大韓国皇帝陛下」の尊称を用いることで、承認の実を示しました。


78 :私事ですが名無しです:2006/12/14(木) 19:27:24 ID:???

ロシアの流儀

 外交史上決定的に重要な事件が同じ年に起こることはよくありますが、一八九八年を頂
点とする東アジアの変動は、そのなかでも特筆されるべきことでしょう。第一の動きはロ
シアによってもたらされました。一八九五年七月、ロシアはフランスとともに、清国が対
日賠償金支払いのために必要とする四億フランの共同借款供与を決定しました。イギリス
やドイツが清国とのあいだで賠償金のための借款を成立させるのは、翌年九六年三月です
から(一六〇〇万ポンド)、ロシア側の対応の早さがわかります。
 九六年六月、ロシアは、ニコライ二世の戴冠式に出席した李鴻章に莫大な賄賂を贈っ
て、露清防敵相互援助条約(対日秘密条約、李・ロバノフ密約)を締結しました。これは、黒龍
江・吉林両省を通ってウラジオストックに通じる中東鉄道(東清鉄道)敷設権を、ロシアと
フランスの実質的資本に支えられた銀行に与えるものでした。さらに同年十月には、東清
鉄道に関する条約が改定され、黒龍江省・吉林省・盛京省の東三省鉄道とシベリア鉄道の
接続が認められることとなりました。九七年十二月、ロシアは旅順に軍艦を入港させた上
で、借款供与の条件として、満蒙(満洲と内モンゴル=蒙古=地方の総称)の鉄道敷設、工業の
独占権、黄海沿岸の一港の租借を、清国に要求するまでになりました。


79 :私事ですが名無しです:2006/12/14(木) 19:29:46 ID:???

 ここで、第四講で述べましたシュタインの意見書を思い出してください。シュタインは、
九一年に起工された(竣工は一九〇四年)シベリア鉄道を、日本が山県のいうほどには恐れな
くてよい理由として、@中部ロシアなどの膨大な線路をロシア側が維持するのは困難、A
南下ということを考えれば、朝鮮半島北部や遼東半島に出るためには、ロシアは清国領土
を通過しなければならず、この制約は大きい、という二つの理由を掲げていました。しか
し、シュタインの文脈では、朝鮮がロシアに占領された場合は話は別で、日本にとってゆ
ゆしい事態の発生であり、朝鮮の中立維持は、まさに日本の利益線となるはずでした。
 そしてここに、ロシアが東清鉄道敷設権を清国から獲得し、さらに東三省鉄道とシベリ
ア鉄道との接続が認められるという事態に進展します。事態はまさに、シュタインの付し
た条件のAを吹き飛ばすことになっていくわけです。決定的だったのは、ロシアが九八年
五月、清国国内における排外主義運動の責任と、清国の対日賠償金を援助した担保とし
て、旅順・大連の二十五ヵ年間の租借を要求し、満洲を横断する東清鉄道から旅順・大連
までの南支線の敷設権をも獲得したことでした。ロシアは旅順まで南下できるようになっ
たのです。それは、渤海湾周辺へのロシアの制海権を決定的なものとし、渤海湾に面した
天津から北京にいたる死活的に重要な経路へのアプローチを容易にしました。
 さらに、すでに述べたように、韓国の高宗が親露政策をとっていたことも、あわせて考
えなければなりません。ロシアは韓国に軍人を派遣し、軍事教官の派遣と国王警備隊の編
制について協議しています。ロシア人アレクセーエフが韓国の財政顧問、関税長に任命さ
れ、露韓銀行も開設されました。シュタインや山県の発想からいえば、ここに日本の命運
は尽きるといえる程の危機的状況が生まれます。


80 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 00:48:00 ID:???

一八九八年 イギリスの政策転換

 ロシアが極東情勢を一変させるような挙に出た一八九八年は、イギリスの政策にとって
も大きな変化がみられた年でした。まず、極東情勢全般の変化について、最初におさえて
おきます。日清戦争の影響についていえば、第一のインパクトは、清韓宗属関係を最終的
に否定したことで、東アジア世界が国民国家システムへと移行する構図が決定的になった
ことです。第二のインパクトは、戦争の結果、対日賠償金支払い義務を負った清国に対
し、諸列強が、借款供与の担保として利権を獲得していく道を開いたことでした。
 そしてその際にロシアは、清国に対していち早く借款供与の提議をおこない、借款供与
の担保条約交渉のなかで、鉱山採掘権・鉄道の敷設権・港湾の租借を、他国への均霑(利
益の平等な配分)を許さないかたち、つまり排他的なかたちで要求を突きつけてきました。この
ロシアの流儀に最も敏感に反応したのが、イギリスです。圧倒的な対清貿易の支配力をも
っていたイギリスはそれまで、対清政策の基本を清国官憲の制約から自国民の経済活動を
擁護することに置いており、そのほかの清国に対する要求といえば門戸解放維持を声高に
唱えるくらいのものでした。しかし、ロシアの出方はイギリスをいたく刺激し、イギリス
外務省はロシア政府に対して、率直にその危惧を表明して、ロシア牽制に乗り出します。


81 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 00:48:49 ID:???

  北京に最も近接している地域も含めて中国の陸境と四千マイル以上にもわたって隣接
  している一大陸軍国が、中国の政府に対してそれ相応の影響力をもたないことはあり
  得ないことである。イギリス政府は、ロシアがこれに加えて渤海湾の一港を支配する
  必要を認めたことを最も遺憾なことと思考するものである。ロシアによる同港の支配
  は、渤海湾の他の部分が現在の中国政府のごとき弱体政府の手にあるかぎり、中国の
  首都への海上要路を制圧することとなり、それによりロシアは、すでに十二分に陸上
  において確保している戦略的優位を、同じく海上においてももつこととなるであろう。
                       (ケナン 『アメリカ外交50年』)

 イギリスの論じているのは、清国に対して陸上における戦略的優位をすでにもっている
ロシアが、海上においても戦略的優位をもつようになるのは、イギリスとして黙視できな
いということです。


82 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 00:49:29 ID:???

 ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を前にして、イギリスも対清政策見直し
を余儀なくされ、貿易や商業における門戸開放原則の維持から、勢力範囲の排他的確保と
いう方向へ動きます。ジョージ・ケナンが五十年も前にその名著『アメリカ外交50年』に
おいてわかりやすく述べていたように、列強の経済活動の内容自体が、これまでの商業・
貿易上のものから、借款担保としての鉄道敷設・鉱山開発へと移行したことで、他国が獲
得したそのような権利をイギリスも等しく得ようとするなら、門戸開放原則を唱えている
だけでは不可能になっていったわけです。
 九八年一月、イギリスは一二〇〇万ポンドの借款に対する条件を清国に提示しました。
それは、ビルマから長江にいたる鉄道の敷設権・長江流域の他国への不割譲などでした。
これを合図に、ドイツは同年三月、膠州湾・青島の九十九年間の租借、膠済鉄道敷設権・
沿線の鉱山採掘権を獲得(膠州湾租借条約)し、ロシアも先に述べましたように、同年三
月、旅順・大連の二十五年間の租借、東清鉄道南支線の敷設権を獲得(旅順・大連租借条約)
しました。イギリスはさらにロシアへの対抗措置として九八年五月、渤海湾の反対側に威
海衛を軍港として租借する挙に出ます。また六月には、すでに王領植民地としていた香港
島の対岸、つまり中国本土の側の九竜半島を九十九年の設定で租借するのです。


83 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:59:12 ID:???

一八九九年 アメリカの門戸開放宣言

 このイギリスの意味深い措置に対して出されたのが、一八九九年九月六日付のアメリカ
国務長官ジョン・ヘイの門戸開放宣言(正式には「商業上の門戸開放政策に関する宣言」、第一次
通牒。その内容は、各国は清国におけるその勢力範囲または租借地域内において条約港または既得の権益に
は干渉しないこと、また関税や港税、鉄道運賃面で他国に対し不利益な待遇を与えないこと、の二点)で
した。背景には、イギリスによる公平な海関運営を機軸とした自由貿易体制維持を死活的
だと考える人々や、中国海関で主要な地位にいたイギリス人たちの影響がありました。こ
の宣言に対して、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・イタリア・フランスの各国は、さま
ざまな留保をつけた上で、これに原則的には同意を与えています。
 ここで注意しなければならないことは、次に引くような、門戸開放宣言についての一般
的な解釈が、二回目の門戸開放宣言(一九〇〇年七月三日付の第二次通牒で、中国の領土保全をおこ
なうことが加えられた)の内容に引きずられたものとなっていることです。すなわち、門戸開
放宣言は、東アジアへの勢力範囲分割競争に出遅れたアメリカが、勢力範囲を否定するこ
とで中国の領土保全をうたい、しかし結果的には自らの経済的影響力を列強の勢力圏全体
に浸透させようとする目的でなされたものであった、と。


84 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 03:00:42 ID:???

 しかし、中国の領土保全についてアメリカが言及したのは第二次通牒においてです。当
面ここで大切なのは、門戸開放宣言の発想自体がアメリカ固有の考え方から発したもので
はなかったということです。海関にかかわるイギリス人たちは、自国政府が九竜半島を租
借して、そこを拠点に香港を迂回し、清国の海関を無視して事実上の密貿易をおこなう先
例をつくれば(イギリスが当初、九竜を租借した意図はまさにそこにありました)、そしてこの先例が
他国に真似されれば、各地の海関自体の崩壊を招き、清国政府の財政的破綻を招くと考え
ていました。彼らは手を尽くして、アメリカが何らかの宣言を出すような素地をつくり、
その結果、清国駐在のイギリス人たちは、「アメリカ政府にその音頭をとらせることによっ
て、中国における海関の利益をあまり阻害しないように行動するよう、イギリス政府に圧
力を加える便利な迂回的方法を発見した」(ケナン前掲書)というわけです。
 このように、極東の一大陸軍国ロシアが、渤海湾の要港旅順・大連を手にしたことによ
って、海上においても戦略的優位を確保した事態を憂慮したイギリスは、これまでの帝国
の運営方針の変更を意味する政策の転換をおこないました。一方、その方向を憂慮する清
国海関を管理するイギリス勢力は、本国イギリスの方針転換に歯止めをかけるために、ア
メリカという裏口を利用して、アメリカに門戸開放宣言を出させることに成功しました。
ロシア、イギリス、アメリカという順番で衝撃の連鎖反応が起こったのです。


85 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 03:02:13 ID:???

 こうして最終的には、門戸開放宣言として知られるようになる宣言が発せられたわけで
すが、この宣言は日本にとってどのような意味をもったのでしょうか。
 一九〇〇年、ロシアが義和団事件(列強による山東半島租借などに危機感を抱いた民衆が「扶清滅
洋」のスローガンを掲げて武装集団化し、一八九九年に蜂起。翌一九〇〇年には天津を占領し、北京も掌握し
たが、同年八月十四日、英・米・ロシア・日本などの列強八ヵ国連合軍によって制圧された)に乗じて南満
州を占領したことから、日本のみならず世界の注目は、いつ彼らが撤兵するのかという点に
集まりました。一九〇二年四月に締結された「満洲還付に関する露清条約」では、条約調
印後六ヵ月以内に盛京省西南部地方の軍隊を撤退させること(第一期)、次の六ヵ月以内に盛
京省残部および吉林省の軍隊を撤退させ(第二期)、またその次の六ヵ月以内に黒龍江省の
軍隊を撤退させる(第三期)ことが、ロシアと清国とのあいだで確認されていたはずでし
た。
 長城に一番近い地域からの撤兵、すなわち第一期の撤兵はつつがなくなされたものの、
第二期以降の撤兵にロシアは応じませんでした。そして、一九〇三年四月十八日、撤兵の
見返り条件として、ロシアは清国に対し七項目の要求をおこなったのです。この間の一連
の事態について『萬朝報』は、ロシア側の撤兵方針について詳細に報道していました。


86 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 03:05:07 ID:???

『萬朝報』にみるロシアの撤兵問題

 一九〇三(明治三十六)年一月十三日付の記事は、つぎのようなものでした。

  露国自ら満洲より撤兵すといひ、既に其の第一回撤兵を終えりと曰ふも、是れ全然事
  実に非ずして彼は依然満洲の占領を継続しつゝあり、現に其の撤兵したりと称する軍
  隊は僅かに服装を更たるのみ。

 ロシアの軍人が軍服を脱いでいるだけで、実態として本当に撤兵がなされているのでは
ないと報じているのです。同年二月十六日の「満洲重要都市開放の要求」では、より直接
的に門戸開放について、「均霑」という用語を使って語っています。すなわち記事の前半
部分で、近づきつつある第二次撤兵期限に際して、ロシアは表面上撤兵するだろう、しか
しおそらく第一回の例と同じく、東清鉄道敷地圏内に移入したり、兵装を解いて人夫に擬
装したりして、駐屯軍の大部分は最終的に撤兵しないのではないかとの解説を加えていま
す。そして、記事の後半部分では、日本政府が対清通商条約改正談判において、満洲開放
の主義を清国側に認めさせようとしている旨を報じていました。日本政府の主たる要求
は、清国が満州において通商貿易上ロシアに与えた特権を、最恵国条款を適用して日本に
も均霑させるべきだというものでありました。『萬朝報』の記事は、中国、とくに満洲地域
への門戸開放要求の線で、撤兵を要求していたわけです。
 この時期の『萬朝報』には、未だ幸徳秋水なども籍を置いていました。東京市の中下層
階級を読者層としていた『報知新聞』などが、日露の関係や韓国問題について、この時期
ほとんど論じていないことを考えれば、『萬朝報』が二面で継続的に、同問題を報じていた
ことは特筆にあたいするでしょう。


87 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 03:07:10 ID:???

吉野作造の征韓論

 アメリカの「門戸開放宣言」の文脈から、南満洲を門戸閉鎖するロシアは文明国ではな
いとのテーゼを、決定的なかたちで導いたのは吉野作造でした。義和団事件に端を発して
満洲地域に軍政をしき、貿易について門戸閉鎖をするロシアという文脈で、吉野はロシア
を批判していました。吉野は「征露の目的」と題する論文(『新人』一九〇四年三月号)で、「吾
人は露国の領土拡張それ自身には反対すべき理由なく、只其領土拡張の政策は常に必ず尤
も非文明的なる外国貿易の排斥を伴ふが故に、猛然として自衛の権利を対抗せざるべから
ざる也」と述べています。吉野の論理では、貿易が自由におこなわれない状態を、非文明
と呼んでいたわけです。
 吉野の議論は、事実上、日露戦争開戦(一九〇四年二月十日宣戦布告)とほぼ同時に書かれ
たものでありますので、その目的は国民世論を開戦論に導くということではなく、この戦
争がどのような戦争なのかを明晰に語るという点で意味があったものです。貿易に関する
門戸開放を認めない国が非文明国であるという非難は、門戸開放宣言後に初めて可能とな
る概念でしたが、対外貿易が日本経済に占める比重そのものも、この時期画期的に上昇し
ていた点にも注意を払う必要があります。


88 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 03:09:05 ID:???

 一八八五年から九〇年の経済成長の要因は、企業による設備投資や建設投資であり、九
〇年から一九〇〇年のそれは、政府による設備投資や政府経営支出によるものでした。こ
れに対して、一九〇〇年から一〇年にかけての成長の要因としては、輸出の寄与率が高い
ことが経済史の研究で明らかにされています。総需要のなかで輸出の占める割合は、一八
八五年の四・九パーセントから一九一〇年の一二・八パーセントに上昇しており、資本制
確立期の経済成長が、輸出拡大によって加速されていたことがわかるのです。そして、輸
出相手地域は、韓国と満洲でした。このような時期であれば、通常にも増して、貿易に関
する門戸開放を満洲で認めないロシアという国に、非文明というレッテルを貼ることは説
得力をもったでしょう。
 臥薪嘗胆という、十年も前の三国干渉時に唱えられたスローガンで、為政者や国民が戦
争を準備したり受けとめたりできたというのはおそらく無理があるでしょう。シュタイン
に教えられた構図どおりの危機が目前に迫り、そこにアメリカの「門戸開放」というスロ
ーガンが十分に浸透し、経済指標もそのスローガンの死活的重要性を支持したとき、ロシ
アは「文明の敵」と名指しされていったのだと考えられます。


89 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 14:53:37 ID:???

有効な反戦論とは

 ここまで論じてきたことを振り返ると、危機的な東アジア情勢と、文明の敵ロシアとい
う論理で、人々が戦争を自然に受け入れていったのは確かなことですが、開戦までの過程
においてはいくつかの紆余曲折があり、反戦論も展開されていました。日露戦争にいたる
時期において、最も有効な戦争反対の論理を編み出していたのは、幸徳秋水でした。
 なぜ秋水の反戦論が有効といえるのか、少し回り道をしながら考えてみましょう。日本
の場合、ムラの共同体的な生活様式が青年の行動様式に与える影響には非常に大きなもの
がありました。横並び意識が強いムラでは、徴兵検査は、同年代の若者が共に男として一
人前の証をうる機会として考えられていました。よって、たとえば農村青年に徴兵を忌避
せよとか、反戦の意志を表明せよといった場合、彼らの頭に第一に去来したのは、そのよ
うな忌避や反戦の思想が、ムラの同朋への裏切り、一緒に一人前になった仲間への裏切り
にほかならないという罪の意識だったのではないでしょうか。秋水の反戦論というのは、
以上の点への対応をある意味で踏まえたものでした。農村青年に国を裏切れといったり、
愛国心を捨てろといったりすることによって成り立つ反戦ではなく、国家の側がある意味
で戦争を説得する論理として使ってきた、その論理構造そのものに対して斬りこんでいく
ことによって、反戦論を展開していた点で異色なのです。


90 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 14:55:53 ID:???

幸徳秋水『廿世紀之怪物 帝国主義』

 秋水の書『廿世紀之怪物 帝国主義』をみてみましょう。一九〇一(明治三十四)年に出版
されたこの本の中心となる第三章「軍国主義を論ず」の部分で、秋水はモルトケとマハン
を批判しています。モルトケの名前は、すでに第二講で出しておきました。そこで、プロ
イセン軍参謀総長のモルトケ元帥は、国家が産業や経済を考慮して軍事費を出し惜しみし
た場合、結局は戦争に負けて、払わされる賠償金はその出し惜しみした金額よりずっと多
いのだ、との論理を過去の対仏戦争の事例から主張していたこと、そしてその論理を『内
外兵事新聞』などがしきりに論じていたことを説明しました。そのモルトケをつかまえ
て、秋水は次のような論点を出してきます。

  将軍が仏国に捷て五十億フランの償金とアルサス、ローレンの二州を割取せるにも拘
  らず、而も仏国の商工の却て駸々として繁栄し、独逸の市場の俄に一大頓挫敗を招け
  るを見て、怫然赫然として怒れるの一事は、是れ将軍が美しき夢の結果なりき。美し
  き夢の結果は甚だ醜ならずや。


91 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 14:59:21 ID:???

 意味するところは、ドイツはフランスに勝って賠償金を得たけれども、結果をよくみる
と、敗北したフランスのほうが繁栄しドイツは不況に陥っているではないかということ
で、モルトケの夢は醜悪な結果しかドイツにもたらさなかったと指摘しているのです。
 日本においては、普仏戦争の戦費と賠償金が話題にされることはあっても、戦勝の結果
がドイツ経済に及ぼした長期的な影響を論ずるという視角には乏しかったといえるわけ
で、この点を秋水はついたのでした。現在の研究では、普仏戦争後のドイツの不況は別に
モルトケの目算がはずれたからではなく、一八七三年から九五年における農業不況(北アメ
リカの小麦が中部ヨーロッパ市場を圧倒した結果による)と、工業成長の停滞(過剰な生産設備の拡充
による)によってもたらされたことが明らかにされています。今ではこうした要因が明ら
かになっていますが、秋水としては、戦争による賠償金と領土の拡充がなんら国民経済を
豊かにしない事例として、ほかならぬモルトケのドイツの例を引いたのでした。モルトケ
が日本の政治世界でどのように語られてきたかを考えれば、秋水はその英雄的史話を断ち
切ったといえるでしょう。


92 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:01:01 ID:???

 返す刀で秋水は、アメリカ海軍大学校の戦史および戦略の教官で、『海上権力史論』の著
書でも著名なマハンを批判していました。マハンの本は一八九七(明治三十)年に水交社の
手により邦訳されて、秋山真之(日露戦争時の東郷平八郎連合艦隊司令長官の作戦参謀)、佐藤鉄太
郎(一九〇七年から海軍大学校教官)らによって広められていましたので、制海権と通商支配の
保持が海上権力の目標であるとする思想、艦隊決戦を制海権の柱とみる見方などは、すで
によく知られていました。そのマハンを秋水は批判の対象に選んだのです。陸軍について
はモルトケを、海軍についてはマハンを選んでいるわけです。秋水は、マハンについて、
軍備が国家にもたらす利益と徴兵が青年層にもたらす良好な効果(綱紀がゆるまない)を語る
など、軍備と徴兵の功徳を説くのに巧みであると評した上で、次のように批判しています。

  米国独立の戦に赴援せる仏国軍人は、大革命に於ける秩序破壊に与つて有力なる動機
  たりしに非ずや、巴里に侵入せる独逸軍人は、独逸諸邦に於ける革命思想の有力なる
  伝播者たりしに非ずや、現時欧州大陸の徴兵制を採用せる諸国の兵営が、常に社会主
  義の一大学校として現社会に対する不平の養成所たるは、較著なる現象に非ずや。

 アメリカ独立戦争やフランス革命など、実際の市民革命の歴史を振り返って、軍隊がい
かに革命思想の影響を受けやすいものであるか、綱紀の維持などとは関係がなく、むしろ
「害」を及ぼす場所ではないかと、批判したものであります。


93 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:07:03 ID:???

一兵卒への眼差し

 資本家の利欲のために起こされる戦争に反対していた秋水は、以上のような文脈から軍
国主義に批判を加えていました。しかし一方で彼は、戦争を底辺で支えていた一人ひとり
の兵士には温かい眼差しを向けています。

  団匪の乱〔義和団事件のこと〕、太沽より天津に至るの道路険悪にして我軍甚だ艱む、一
  兵卒泣て曰く、我皇上の為めにあらずんば、此艱苦に堪へんよりは寧ろ死するに如か
  ずと。聞く者涙を堕さゞるなし。我亦之が為めに泣く。可憐の兵士、我は我が皇上の
  為めと言ふて、正義の為めに、人道の為めに、同胞国民の為めにと言はざるを責めざ
  るべし。


94 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:07:50 ID:???

 秋水は、天皇のためでなかったらこのような苦痛は到底忍べないといって泣く兵士に対
する同情を示しています。また、この兵士が国民のために人道のために忍ぶといわなかっ
た点について、後れた考えをもつものだとの批判の目を向けることはありませんでした。
要は、日本の陸海軍の国防思想に多大な影響を与えたとみられる英雄を俎上に載せて、軍
国主義がいかに醜悪なものであるかを説得的に論じた点に、秋水の反戦論が日本にあって
有効な論になっている理由がありました。
 秋水は日露戦争勃発後の一九〇四(明治三十七)年三月、『週刊 平民新聞』に「露国社会
党に与ふるの書」を著して、諸君と我らとは同志であり、兄弟であり、姉妹である。断じ
て戦うべき理由などない、遠い場所から満腔の同情をこめて「諸君の健在と成功とを祈
れる」との言葉を送っていました。では、この言葉を受けとめるべきロシアの社会民主労
働党は、日露戦争をどうみていたのでしょうか。彼らは両国の労働者にとって共通の敵で
ある、軍国主義者や資本家への戦いに挑んでいたのでしょうか。


95 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:19:41 ID:???

レーニンの日露戦争観

 社会民主労働党は、一九〇三年夏、実質的な結党大会にあたる第二回大会をブリュッセ
ルとロンドンで開催しましたが、その時点で、レーニン率いる多数派(ボリシェヴィッキ)
とマルトフ率いる少数派(メンシェヴィッキ)が、党組織理論をめぐって対立していました。
このマルトフ派の機関紙『イスクラ』は、ロシア官僚が満洲を文明開化するのにも反対だ
が、ブルジョア日本が韓国を文明開化するのにも反対だという立場から、平和万歳を叫ぶ
べきであるとして、その立場から先の「露国社会党に与ふるの書」を紹介していました。
 のちの第一次世界大戦のさなかにロシア革命を成功させるレーニンは、日露戦争を最も
注意深く観察していた人物の一人でした。しかしレーニンは、秋水やマルトフのように軍
国主義者や資本家に対する戦いを論じ、日露が戦うべき理由などないと結論づけていたの
ではありません。レーニンの糾弾の矛先は当然のことながら、ロシア政府、彼の言葉でい
えば、ツァーリ政府に向けられます。他国人が住み、遠く離れた他国の新しい土地を奪う
ための、破滅的で無意味な戦争に、貧しく飢えた人民を引きずりこんだとして、レーニン
はツァーリ政府を糾弾しますが、その後の論の展開はやや予想を裏切るものです。たとえ
ば、次のような言葉が続きます。


96 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:20:13 ID:???

  文化的で自由な日本との困難な戦争は、ロシアにとっては巨大な力の緊張を必要とす
  る。                   (「メーデー リーフレット草案」)
  この犯罪的な恥ずべき戦争は、これらの大衆にこのようなはてしない犠牲を要求して
  いるのである。専制国ロシアは立憲国日本にすでに打ちやぶられている。
                         (「専制とプロレタリアート」)
  戦争は、いまでは国民によって行なわれる。〔中略〕国の軍事組織と、国の経済体制およ
  び文化制度とのあいだの関連が、現在ほど緊密であったことはかつてない。
                               (「旅順の陥落」)


97 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:21:34 ID:???

 レーニンがここで述べているのは、戦争一般に反対すべき労働者の態度についてではな
く、現代の戦争は国民の軍隊によって戦われるものであって、そこでは当然のことなが
ら、その国の政治、経済、文化などの状態と密接な関連のもとに戦われるものなのである
との判断でした。「文化的で自由な日本」という表現に、我々は当惑しますが、たしかに
当時の日本は条約改正の重荷を背負ってきたこともあり、立憲的な諸制度の外形的整備と
いう点では、一定の進歩があったとみるべきでしょう。それに比べてロシアは、議会制度
をもたず、内閣制度もないという意味で低い政治的状態にあり、それが、ツァーリ政府軍
の、士気のふるわぬ戦いぶりを規定しているのだとレーニンは判断していました。はっき
りしているのは、旅順の陥落を知ったレーニンが、日本とロシアの戦争を、「すすんだ国と
おくれた国との戦争」ととらえて、その戦争が「革命的役割」を演じたのだと認識してい
たことです。専制を壊滅させる、あるいは決定的に弱める働きをした日露戦争というもの
に、レーニンは注目していました。
 政府を倒そうとしている側の政府評がことのほか厳しくなるのは当然であり、その評価
から何かをみつけようとする態度は、公平ではないと思われた方もいるでしょう。しか
し、わたくしがここで注目したいのは、後れた国、悪い政治制度をもった国という、ロシ
ア政府へ下された評価それ自体についてです。


98 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:21:29 ID:???

ふたたび吉野作造

 自国の国民を幸せにできないロシアの専制政府という評価は、日本のなかでも広範に支
持されていた見方でした。先にふれた、門戸開放をしないロシアは非文明という論理に加
えて、もう一つ別のバージョンとしてここに、専制政府を敗北させるのは相手国の国民の
ためであるという論理が導き出されてきます。ここでもその観点を明確な言葉にしたのは
吉野作造でした。

  露国は実に文明の敵なり。今若し露国日本に勝たん乎、政府の権力一層強く圧制益甚
  しからん。幸にして日本に敗れんか、或は自由民権論の勢力を増す所以とならん。故
  に吾人は文明のために又露国人民の安福のために切に露国の敗北を祈るもの也。
                       (「露国の敗北は世界平和の其也」)


99 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:22:09 ID:???

 ロシアが勝てば彼らはますます国内の圧
制を強めることになるが、敗ければ自由民
権論が国内に勢力を占めてゆくことになっ
て、専制に代わって立憲となり、その対外
政策も当局者の野心ではなく、国民一般の
輿論に支配されることになるので、ロシア
は平和的な国家になる、そのような展望の
もとに、「露国を膺懲するは或は日本国民の
天授の使命ならん」と語れたわけです。
 そして、たしかに日露戦争最終盤の日本
海海戦(ロシアでは、「ツシマ」と呼ばれた)の衝
撃は、ツァーリ政府に国家代議院(ドゥーマ)
開設を決意させ、一九〇六年春に第一回ドゥーマ選挙を実施させることになってゆきまし
た。日清戦争を文明と野蛮の戦争と意味づけたのが福沢諭吉であったとすれば、日露戦争
に関していえば、それと同じ役割を吉野作造が果たしたことになりそうです。


100 :私事ですが名無しです:2006/12/18(月) 17:45:08 ID:???

大国との戦争準備

 ロシアが立憲的な諸制度整備の点で日本に後れをとっていたことは事実でしょうが、こ
の時代の戦争のやり方を考えた場合に、軍事的に日本がロシアに勝利できるかどうかはま
ったく未知数でした。レーニンが診断してみせたように、国民の軍隊が成立していない
国、国会も憲法もない国、政治・経済・文化が軍事組織を密接に支持できていない国がロ
シアであるといっても、だからといって軍事的にロシアが日本に勝利できないといはいえ
ません。
 日清戦争後から日露戦争開戦にいたるまでの時期において、日本政府の側が日露開戦へ
とキャンペーンのごときものを張って、国民を積極的に開戦へと導いたあとはみられませ
ん。その一つめの理由としては、これまで論じてきたような、東アジアにおける英米の政
策が明確に変化したこと、満洲占領にいたるまでのロシアの行動が真に日本の死活的な危
機として受けとめられていたことなど、国際的な環境が、戦争への道を自然に導くもので
あったことが指摘できます。二つめの理由としては、ロシアとの戦争を支持できるような
論理が広く社会にゆきわたっていたことが挙げられます。門戸閉鎖をする非文明国ロシア
という論理、自国民に専制をしくロシアという論理がそれでした。


101 :私事ですが名無しです:2006/12/18(月) 17:46:21 ID:???

 しかし最も根本的な理由は、戦争を可能とする軍備拡張計画の完整時期、また戦費の安
定的な確保が可能になる時点を見極めなければならないという厳然たる戦略的制約があっ
たからでした。そのために、むしろ政府はある時期まで民間の対露強硬論を抑制するよう
に動く必要があったのです。日清戦争開戦時の日本は、軍艦ニ八隻・五万七六〇〇トン
と、水雷艇ニ四隻・一四七五トンを保有していたものの、その主力軍艦の一隻たりとて世
界的な水準でいえば主力艦というレベルの艦ではありませんでした。しかしその日本も、
十年後の日露開戦時には、一五二隻・二六万四六〇〇トンの艦艇を保有するまでになって
いました。それが可能となったのは、一八九六(明治二十九)年度から十年間の、世界水準
の戦艦六隻(富士、八島、敷島、初瀬、朝日、三笠)、装甲巡洋艦(浅間、常盤、八雲、吾妻、出
雲、磐手)を基幹とする一〇三隻・一五万三〇〇〇トンの艦艇を建造する建艦計画に海軍が
着手し、それを達成させたからでした。
 一方、日清戦争を八個師団(近衛、第一〜第七師団)で戦った陸軍は、九八年には第八〜第
十二師団(弘前、金沢、姫路、丸亀、小倉)の五個師団を一挙に新設し、さらに日露開戦の前後
に、第十三〜第十八師団(高田、宇都宮、豊橋、京都、岡山、久留米)を増設して、近衛師団を
含め十九師団態勢を最終的には築くまでになりました。


102 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 14:47:57 ID:???

いつ戦争を始めるのか

 このように書いてきますと、ひたすら軍備完整まで時間をかけて戦争準備をしたほうが
よいほうにもみえますが、そうではありません。時間はむしろロシアに味方していまし
た。シベリア鉄道(一八九一年起工、チェリャビンスク―ウラジオストック間を結ぶ七四一六キロの鉄
道。一九〇四年九月全通)の全線開通が目前に迫っていたからです。つまり日本は、適切な軍
備が整い、戦費調達のめどがついたならば、できるだけ早く戦争を始めなければならない
状況にあったわけです。実際にシベリア鉄道は、日露開戦の時点では、バイカル湖の湖岸
沿いの部分は未完成でしたが、同年九月に全線が開通しています。
 ですから、一九〇三(明治三十六)年の時点での参謀本部は、シベリア鉄道が未完成で、
日本の艦隊がロシア太平洋艦隊に優勢にある時点で開戦すべきだと判断していました。も
ちろん一九〇二年に締結された日英同盟にともなって、同年七月七日からロンドンで開催
された日英陸海軍代表者会議の結果締結された日英軍事協定(一九〇三年一月十六日発効)は、
日本を開戦へ後押しすることになりました。この会議では、日英共同作戦の大方針とし
て、@敵海軍および地上部隊の壊滅、A主力艦隊の集中配備と機動艦艇郡によるシーレー
ン防衛、B制海権を確保した後の地上作戦、が確認されたほか、信号法、電信用暗号、諜
報活動、戦時石炭供給、輸送船援助などの後方支援についての協議がなされていました。
 この会議の席上、参謀本部第二部長福島安正は、日本は三週間で精兵ニ八万の野戦軍の
動員を実行しうること、それに対してロシアは六週間以内に満洲に一二万の野戦軍を集中
しうるとし、その後の輸送はロシアに有利となる、そのため、制海権を得たあと、ただち
に英国軍一軍団の満洲派遣をお願いしたいと述べています。しかしこの提案は、イギリス
陸軍の代表者であった諜報局長ニコルソンによって拒絶され、陸軍兵数に不安を感じてい
た日本側は、日英軍事協定締結後もなお、みずからの力で軍備完整に励まなければなりま
せんでした。


103 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 16:44:51 ID:???

戦費はどのように調達されたのか

 最後に、戦費はどのようにして調達されたのかを確認しておきましょう。日露戦争の戦
費総額は、一八億ニ六ニ九万円に達しました。内外国債を除けば、戦費は増税によってま
かなわれ、地租、営業税、所得税という三種の国税をはじめ、増徴可能と考えられたすべ
ての税目につき増徴がなされました。所得税でいえば、第一次非常特別税法により、一律
に税額の七〇パーセントが増徴され、さらに第二次非常特別税法により、各所得階層にお
いて累進的に三〇パーセントから二〇〇パーセントが加えられることになりました。これ
らの法律は本来日露戦争中に適用されるべき臨時のものでしたが、のちに非常特別税法に
よるこの増税は、恒久税とされてしまいます。増税以外は国債によってまかなわれたので
すが、これは総計一四億七二〇〇万円に達し、そのうち内国債六億七二〇〇万円、外国債
八億円と見積もられています。
 マーク・ピーティーは、近代植民地帝国のなかで、日本ほどはっきりと戦略的な思考に
導かれ、また当局者のあいだにこれほど慎重な考察と広範な見解の一致が見られた例はな
いと述べていますが、たしかに日露戦争をいつ始めるかという決定は、軍備完整の状況、
戦費調達の見込み、国際環境などから周到になされていたことがわかります。


104 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 21:38:45 ID:???

参謀総長山県有朋の憂鬱

 一九〇五(明治三十八)年九月五日、小村寿太郎とウィッテとのあいだに調印された日露講
和条約の内容は、次の五点でした。@韓国における日本の政治的、軍事的、経済的優越の
承認、A日露両軍の満洲からの撤兵、B旅順口・大連と、その付近の領土および領水の租
借権、長春―旅順口間の東清鉄道支線の日本への譲渡、C北緯五〇度以南の樺太の日本へ
の譲渡、D日本海・オホーツク海・ベーリング海など、ロシア沿岸漁業権の日本への許与。
 講和会議の開催される前から、当時の新聞などは、賠償金三〇億円を要求すべきだと書
きたててきましたので、当時の社会が、賠償金を含まない条約案に大きな失望を感じたの
は、確かなことでした。
 しかし、日露戦争を参謀総長の地位で戦った山県有朋は、開戦七ヵ月後、バイカル湖周
辺の工事を完成させて全線完通したあとのシベリア鉄道による、ロシア軍の着々たる兵員
輸送能力と、それに比した場合の日本側の兵員不足を、最もよく知る位置にいました。で
すから山県は講和の内容、とくに、韓国に対して国防・財政の実権を日本側が握り、外交
を日本の監督下に置けるようになったことを、「近来の一大成功にして当局者の苦心は想
察するに余りあり」と「戦後経営意見書」で述べて、満足の意を表していました。ここに
は、ロシア全土に致命傷を与えられなかった戦争の講和としては、今回の講和は「外交の
成功」というべきものだとの判断がみられます。この項の見出しに書いた山県の憂鬱と
は、講和に対する不満からくる憂鬱ではなく、今後の日本の状況についての山県の予想
が、憂慮に満ちたものであったという意味です。


105 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 21:39:37 ID:???

 日露戦争は、一八七一年にプロイセンがフランスに勝利した普仏戦争のときのような甚
大なる打撃をロシアに与えるでもなく、はたまた六六年に、プロイセンがオーストリアに
勝利したときのような、戦後の友好関係を確信させる良好な関係で終わったわけでもあり
ませんでした。このような場合、相手方は早晩、復讐戦争に打って出ると山県はみており、
ロシアの復讐戦にどうやって備えたらよいのかという問題に、頭を悩ませていました。
 さらに山県は、それでも日露戦争の時点では、たしかに存在した「国家の元気」という
ものが、今後は続かなくなるであろうと悲観しています。――今回の戦争で、日本側は現
役兵だけでは到底足りずに、その欠員を、軍隊生活から遠ざかって市井の職業にもどって
いた予後備の兵士たちを動員して埋めた。しかし、正直なところ、当初は期待していなか
ったこの予後備兵のなかには、現役兵に勝るとも劣らない活躍をしたものが少なくなかっ
た。これは日露戦争までの日本には未だ「維新中興の偉業によりて養成せられたる国家の
元気」があったからである――。山県はこう総括していました。山県の憂慮の核心には、
ロシアの復讐戦に備えなければならない大変な時代を、「国家の元気」をもはや期待する
ことができない状況で迎えなければならないという見通しがありました。


106 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:02:57 ID:???

国家の元気

 軍の最高権力者として戦争を指導した山県は、辛勝だったとはいえ日露戦争に勝利をも
たらしてくれたものを「国家の元気」と表現しましたが、同じく戦争を戦い、戦争に耐え
た国民は、何を考えていたのでしょうか。バルチック艦隊に勝利した連合艦隊をこしら
え、約九四万人の将兵を出征させ、日本海や南満洲を戦場として戦うことのできる軍事力
を日本がもてたのは、納税と兵役の義務を積極的に担った国民の奮闘のたまものであった
と、国民が感じていたのはいうまでもありませんでした。戦争の期間を通じて、「国民の元
気」が十分に発揮されることによって戦争に勝っているのだという感覚は、満洲の戦場で
はなく、そこから遠く離れた日本国内で、しだいに国民のあいだに蓄積されていくように
なります。国民の主体的な感覚が醸成されたと考えられる場所の一つとして、戦争中、頻
繁に開かれていた祝捷会に注目してみましょう。
 たとえば、東京市においては、個々の戦勝のたびごとに市内各地で祝捷会が開かれ、提
灯行列・旗行列・花火・剣術試合などが催されました。各地の商業組合・学校・会社・地
域団体などが参加し、さまざまな開催団体の寄付による、ふんだんな食べ物も準備されて
いました。人々は行列に参加したり、見物に加わったりすることで、戦争中の数少ない娯
楽とし、一方ではお祭り気分のなかとはいえ、戦争にかかわっているという、みずからの
主体性を確認していたと思われます。


107 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:05:06 ID:???

 さらに、祭りのような興奮をもたらしてくれる祝捷会のほかに、非常特別税の重加、恤
兵救護費の徴収、地域で目標額が競われた義捐金の募集、国庫債券への応募など、日々の
生活のなかで、国民が戦費負担をしていることを実感する材料には事欠きませんでした。
講和条約において賠償金が獲得できなかったことがわかると、九月五日、日比谷焼打事件
が起こります。これは、戦争で疲弊した都市下層民の不満が、賠償なしの講和の報によっ
て爆発したものと、これまで解釈されてきました。
 しかし、別の見方もできます。日露戦争の前年に開園されていた日比谷公園という場所
は、たとえば東京近郊の人々にとって、日常的な祝捷会の場所としてすでに馴染み深いも
のであったと思われます。そうであれば、自分たちがこれまで主体的に戦争にかかわって
得た成果を、政府と全権委員が台無しにしたことに対して、国民が呆然とした感覚を味わ
い、「国民の元気」で勝てた戦争はいったいどこへ行ってしまったのか、と失望感に襲われ
たために起こしたとみることもできるでしょう。


108 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:06:25 ID:???

 千葉県平郡平郡村(現安房郡富山村)出身で、自由党系の代議士であった加藤淳造が記した
「日露講和反対建言書」は、このような失望感をよく表すものです。戦争に勝てたのは
「大元帥陛下の御威稜」と「皇軍の精鋭」と「国民後援の功」の三つのおかげなのに、「閣
臣と全権委員」が「深く之を顧みず遂に屈辱不当」の講和を結んでしまった、と慷慨して
います。政府や講和委員は、「戦死者に対し、又遺族者に対し、而て又五千万臣民に対し、
何等の顔を以て接せんとする乎」とつめより、彼らの無分別によって戦功が外交交渉の場
で「滅却」されてしまい、五〇〇〇万同胞は巨億の戦費に苦しむことになってしまったの
だと憤慨していたのです。
 日露戦後の社会は大きく変容したといわれてきましたが、そうした変化の根本には、端
的にいわば、維新以来の「国家の元気」がもう日本には期待できなくなったという政府の
側の喪失感と、「国民の元気」による戦勝を政府が踏みにじったという国民の側の失望感
が、広く深く社会に根ざしたことがありました。


109 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:07:39 ID:???

日露戦後の日本が直面していた問題

 これまで、日露戦後の社会の亀裂について述べてきましたが、日露戦争から辛亥革命(一
九一一年に勃発し、清朝を倒した中国の革命。翌年一月、孫文が臨時大総統に就任し、中華民国が成立。し
かし革命勢力の基盤は弱く、まもなく清朝の開明的軍人政治家であった袁世凱が初代大総統となった)を
経て第一世界大戦にいたる時期において、日本の直面していた問題が何であったのかを次
にみてゆきましょう。それは三点にまとめられます。
 第一には、膨大な戦費負担のために、急速に苦しくなった国家予算をめぐって、各政治
集団間の競争が激しくなったことです。官僚閥・政党・軍閥などが、それぞれの思い描
く、あるべき帝国日本のイメージをめぐって対立するようになります。陸軍と海軍のあい
だでは、次の戦争のイメージを想定して自己に有利な予算を獲得しようとしての競争が生
じました。
 こうした競合状態のなかで、原敬に率いられた政友会のほかに、もう一つの政党が生ま
れてきます。桂太郎が準備し、一九一三(大正ニ)年十二月、桂の死後まもなく発足した立
憲同志会です。辛亥革命という緊張した事態に直面した桂は、これまでの部分的な政治勢
力の利害を代表するような従来の政党ではだめで、帝国の有力者を網羅することによっ
て、国民諸勢力を結集して、主に対外関係の抜本的解決をめざそうと考えていました。こ
の同志会には、日比谷焼打事件などに関係した、都市民衆運動のリーダーたちも参加し
ていました。


110 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:10:11 ID:???

 第二には、戦争の結果獲得された、大陸進出への足場となる特殊権益を、どのような方
策で守っていったらよいかという問題が浮上しました。日露講和条約で日本が獲得した関
東州租借地は、一八九八年にロシアが清国から二十五年の期限で獲得した租借権を譲渡さ
れたものでした。そのため予定では、一九ニ三(大正十二)年に中国に対して返還されなけ
ればならず、満洲における日本の権益をどう維持するかという問題が出てきたのです。南
満州鉄道の使用期限については、一九四〇年が予定されていました。
 旅順口・大連を含む関東州の租借によって、日本は黄海への制海権を保持し、大陸国家
としての布石を打つことができたのですから、将来的に関東州を返還するのは非常に困難
だと理解されていました。事実、第二次桂内閣は一九〇八(明治四十一)年九月二十五日の閣
議で対外政策方針を議し、満洲の現状を永遠に持続させるとの方針を決定しています。
 これに応ずるように山県は、翌年の意見書「第二対清政策」で、租借期限が満了したら
清国は返還を要求するだろうが、「二十億の資財と二十余万の死傷を以て獲得したる所の
戦利品」を返還することはできないので、日露の協力で清国の利権回収熱を抑えつつ満洲
経営の実績をあげておき、返還要求が生じた場合には、巨額の賠償金を要求しうるような
根拠をつくっておくべきだと述べていました。同時に、租借期限延長のための交渉もせ
ず、問答無用で満洲を併合するなどは、理にそむくともいっています。山県に代表され
る、このような考え方は、満洲の門戸を開放した上で南満洲鉄道株式会社を設立し、日露
協約を継続的に締結することによって、満洲権益を擁護するという路線につながっていき
ます。


111 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 07:10:57 ID:???

 さて、日本の直面していた三つめの問題にもどりましょう。第三の問題は、辛亥革命後
の中国(正式名称は中華民国)に対する日本政府の関係のとり方であり、北京の袁世凱を支持
するのか、一九一三年七月の第二革命で袁打倒を図った孫文など、南方の革命勢力を支持
するのか、という問題でした。中国の南北分立状況に対しては、日本が満洲権益を守るた
めに中国の分裂を策しているとの、列強からの批判を避けるためにも、政府はおおむね中
立の立場をとることで合意していました。第二革命失敗後の南北分裂状態の中国に対して
は、英仏独米露日六ヵ国が圧力をかけ、上海で南北講和会議を開かせ、列国は同年十月中
華民国を承認することになりました(アメリカは五月)。
 しかしこのような政府の態度に対して、元老山県などは不満でした。一四年八月の意見
書「対支政策意見書」では、日本政府の、この両論併記的な中立の態度が「袁世凱否な中
華民国に対して信を破る」ものであると批判し、袁世凱に財政援助を通じた支持を与える
べきであるといっています。山県がここで批判していたのは、第二次西園寺内閣から第二
次大隈内閣までの対中国政策でした。さらに、このような南北両論併記の態度は政府の内
部はもちろん、民間団体からも激しい批判を浴びることになります。
 第一次世界大戦の第一報を聞くまでの日本においては、以上のように、予算をめぐる各
政治集団間の競合、満洲の特殊権益の守り方、中国への対応という三つの懸案がありまし
た。このように、社会には深い亀裂をかかえ、国家の前には三つの重要な問題があるとい
う状況が、大戦前の日本の様相であったといえるでしょう。ですから、第一次世界大戦へ
の参戦は、これらの諸懸案と結びつけて論じられることになります。


112 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 18:21:53 ID:???
緊急浮上

113 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:24:03 ID:???

大戦中の満洲問題・中国問題の帰趨

 第一義的には、中国問題解決を有利に転じるために参戦した日本は、戦争中、大きく分
けて二つの方法によって、その目的を達成しようとします。一つは、連合国側への戦争協
力への見返りに、膠州湾や南洋諸島をはじめとするドイツ根拠地への実質的支配権の獲得
を、列国に認めさせておくことでした。一九一七年二月四日、イギリスが、駆逐艦の地中
海派遣を求めてきたのを機に、それは達成されます。同年二月十六日、イギリスは、「講和
会議の際、山東に於ける独逸の諸権利竝赤道以北の諸島に於ける独逸の諸島に関し、日
本の提出する要求を支持すべき旨の保証を得んとする日本政府の冀望に対し、茲に欣然応
諾の意を表す」旨を日本政府に通知しています。同様の措置により、日本は仏露伊からも
極秘覚書というかたちで、来るべき講和会議のときに獲得される権益の相互保障の文書を
交換しています。


114 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:26:58 ID:???

 もう一つは、袁世凱の北京政府と南方の革命派が対立していた中国に対して、日本側の
包括的な要求を認めさせてゆくものでした。これが、のちに、「対華二十一ヵ条の要求」
と呼ばれたものです。外交交渉の常識からいえば、加藤外相の交渉ぶりは批判するにあた
いするものではありましたが、第一号から第五号までの内容は、たしかに、元老・外務
省・陸軍省などの政府、そして在野の要求の最大公約数であり、閣議決定、元老の内諾、
天皇の裁可など、正式の手続きを経て起草されたものでした。基本的には、確信をもっ
て、みずからの欲するところを率直に表明した文書であったと位置づけられます。
 この要求は、青島攻略が成功したあとの、一九一五年一月十八日に中国側に伝達されま
した。第一号は、山東の処分問題であり、山東省に関して、日本政府が将来的にドイツ政
府と協定すべき内容について、中国は承認を与えなければならないとの事項を含んでいま
した。第二号は、南満洲と東部内蒙古に関する日本の利権の拡張であり、旅順・大連の租
借期限(本来は一九ニ三年まで)と南満洲鉄道(本来は一九四〇年まで)、安泰鉄道(本来は一九ニ三
年まで)の期限を九十九年間延長する事項を含んでいました。この日中間の交渉は紛糾
し、その数二十五回にわたって会合を繰り返しましたがまとまらず、結局日本は五月七
日、第五号(日本人政治顧問・警察顧問の招聘、福建省開発の独占、日本からの一定の数量以上の兵器
供給)を撤回した上で、最後通牒をもって中国側に要求をのませました。中国側は受諾し
た五月九日を「国恥記念日」としています。


115 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:30:10 ID:???

二十一ヵ条問題の孕んだ火種

 元老の山県などは、一連の交渉を批判し「対支関係に付各国の情況を取調べず、訳の分
らぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策なり」と、加藤外交に対する不満を述べ
ています(『原敬日記』一九一五年七月八日の条)。政府、ことに加藤外相が各国の情況に無知で
あったと山県がいっているのは、具体的には、アメリカからの干渉を惹起したことです。
それを次にみてみましょう。
 この間、日中交渉の経過をみていたアメリカは、三月十三日、まず、「日華交渉に対する
米国覚書」を発して、第一号、第二号については、「米国は領土の隣接により、日本と右地
方間に、特殊の関係の存することを率直に認め」るので、この際問題を提起しない旨を述
べるとともに、第五号の第四項(日本からの兵器の一定量以上の購入)と同第六項(福建省に関す
る開発の独占)は、他国の商工業に対する機会均等主義に反する、との判断を明らかにして
日本を牽制していました。ただ、重要な点は、この時点においてはアメリカも、山東省の
権益問題と南満洲に関する権益の強化については領土の隣接による特殊関係にあたるとし
て、日本側の主張をやむをえないものと認めていたことです。


116 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:33:49 ID:???

 しかし、アメリカは、日本が中国に最後通牒つきで日華条約を締結させたのをみて、五
月十三日、改めて日華両国に通告をおこない、中国の領土保全と門戸開放に違反すれば、
不承認であると伝えてきています。この干渉を直接的に招いた条項は、第三号第二項(漢冶
萍公司に属する諸鉱山付近における、他国の鉱山開発制限)と、第五号第三項(地方における警察を日
中合同にし、中国の警察官庁に多数の日本人を雇用する)であるといわれております。ここで重要
なのは、アメリカが問題としていた条項が、ともに日本政府や出先によってすでに撤回済
みの条項だったことです。外務省とアメリカとのあいだに意思疎通の欠如があったことは
確かでした。
 こうして、「対華二十一ヵ条の要求」は、二つの条約と若干の交換公文となって成立しま
した。条約の一つは、一九一五年五月二十五日に調印された「山東省に関する条約」であ
り、二つめの条約は同日調印された「南満洲及東部内蒙古に関する条約」でした。これら
の条約によって中国側は、今後締結されるべき山東省に関するドイツと日本の協定の一切
を認めなければならなくなりました。つまり日本側は、ニ三年に予想される権益回収を拒
絶できる根拠を得たことになります。日露戦争後の諸懸案のうち、満洲権益の永続的確保
と、中国への支配を強化するためのドイツ権益の継承については、以上みてきたような、
大戦中の活発な帝国主義外交によって、すなわち、列強からの承認確保と中国自体への圧
迫策によって、達成されたかにみえました。


117 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:43:09 ID:???

 しかしこの後、一七年八月十四日、中国がドイツに宣戦布告したことで、独中間の諸条
約などが一切廃棄される事態になり、中国などは、山東省におけるドイツ権益そのものが
すでに消滅したとみなされるとの立場をとるようになります。講和会議での火種が、ここ
に胚胎されてゆきます。ただ日本側の解釈では、先の一五年の「山東省に関する条約」に
よって、日独間の山東省に関する協定を中国側はすべて認めなければならないとの制約を
すでに課していたことで、中国の対独参戦による権益消滅論には対抗できると考えられて
いました。
 さらに大戦終結までの期間に、日本側はもう一つの周到な秘密外交の「成果」を挙げて
います。寺内内閣の時期には、中国の正統政府である段祺瑞への財政援助をおこなう方針
がとられ、いわゆる西原借款の下で、さまざまな交換公文が積み重ねられるようになりま
した。その一つが、一九一八(大正七)年九月二十四日の「山東省に於ける諸問題処理に関
する交換公文」で、膠済鉄道沿線の警備にあたる巡警隊指揮のための日本人招聘を認めさ
せ、膠済鉄道沿線の日本軍隊を済南と青島に置くことなどを認めさせていました。この日
中間の交換公文が公表されたのは、実に一九年一月十八日のパリ講和会議の審議開始か
ら、かなり時間のたった四月九日であり、山東問題で日本を厳しく追求していたウィルソ
ンなどは、会議の席上、初めてこの文書の存在を知り、衝撃を受けることになります。


118 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 02:35:36 ID:???

当時の認識

 日本は、一九一四年十月十四日、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し、同年十一月七
日には青島占領に成功しました。現在の感覚で考えれば、日本がドイツへの最後通牒で、
膠州湾租借地全部を「支那国に還付するの目的を以て」日本に交付するよう求めているこ
と自体、租借地に対する主権を有する中国に、なぜ直接還付すると述べないのだろうかと
の疑問が生じます。
 しかし、当時の社会にあっては、たとえば吉野作造が「対華二十一ヵ条」を、「帝国の立
場」からみて「大体において最小限度の要求」であり、「支那にたいする帝国の将来の地歩
を進むる上から見て、極めて機宜に適した処置」とみていたことからも察せられるように、
日本の手に一旦は保有すべきであるという感覚は、珍しいものではありませんでした。ニ
十一ヵ条交渉の際、山東を還付する旨の日本側声明を条約文中に残すように中国側が主張
したのに対して、加藤外相は、還付声明はドイツが無抵抗のまま明け渡す事態の場合を想
定していたのだから、現実に日独間に戦闘がおこなわれ、日本とイギリスの勝利に帰した
今や、容易に還付できるものではないと回答しています。ただ、とにかく還付することに
ついては、四月二十二日の日本側最終譲歩案の段階で明示されることになりました。軍事
力を発動し、ドイツ軍を敗退させたのは日本なのだという認識が、生じていたのです。


119 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 02:37:08 ID:???

 パリ講和会議に海軍代表随員として参加したことで知られる竹下勇は、大戦勃発時には
海軍軍令部第四班長でした。その竹下は、青島攻略作戦期の中国側の態度について、「支那
政府は今尚我軍の山東鉄道占領に抗議しつゝあり。頑迷の徒、済度し難し」(一九一四年十月
九日の条)であるとか「日置公使の電によれば、支那政府は又復我軍山東鉄道占領に抗議を
呈出す。袁の芝居驚くの外なし」(同年十月十三日の条)と日記に書き留めています。
 中国側が中立侵犯について抗議しうることは、先にみたように、山県なども自覚してい
たことでした。竹下がそれを知らなかったとは思えません。おそらく竹下には、このほぼ
半年後に外務省政務局長室に参集し、対中国政策を協議策定した外務省幹部・参謀本部
員・軍令部員などと同様に、袁世凱に反対する心情があったためでしょう。第二次大隈内
閣において、第三革命(袁世凱の帝政阻止のために立ち上がったもの)で立った南方の護国軍を援
助する政策が閣議決定されるのは、一九一六(大正五)年三月七日のことでした。


120 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 02:38:31 ID:???

パリ講和会議での人種問題

 一九一八年十一月十一日、ドイツが連合国と休戦条約に調印したことで、四年の長きに
わたった大戦が終結しました。戦争の結果、日本は債務国から債権国に劇的に転換できま
した。連合国の軍需品・食料品需要、アジア諸国などの日本製品需要、大戦景気にわくア
メリカの生糸需要、の三つの要因によって、輸出が急速に拡大したからです。まさに元老
井上馨が表現したように、大戦は国際収支の危機に悩む日本にとっては天佑でした。
 講和会議で日本が提出した要求は三点ありました。@北太平洋の旧ドイツ領南洋諸島処
分問題、A山東省利権継承問題、B人種差別撤廃問題です。@とAについては、第一次世
界大戦に参戦してゆく際の目的に直接関係する案件でしたので、理解しやすいですが、注
目したいのは三つめの問題、日本が国際連盟規約のなかに人種差別撤廃に関する条項を入
れようとしたことです。なぜ、唐突に人種問題が講和会議で主張されなければならないの
でしょうか。


121 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 02:47:43 ID:???

 この問題は、深いところで日米対立の淵源となってゆく問題ですので、次に考えてみま
しょう。ランシング国務長官の回想などでは、日本が人種問題を提起したのは、日米間に
対立があった山東問題を、日本側に有利に解決させるための「取引」材料とするためだっ
たとの解釈が書かれています。
 たしかにこれまで、民間には、国龍会、東亜同文会などの活動を通じた、アジア主義的
な人種連帯論がありましたが、日本政府レベルでみれば、その植民地政策に典型的であっ
たように、むしろ差別する側に立ってきた国でありますから、多くの国が日本の提案に当
惑したことは想像にかたくありません。なぜ政府内でこのような人種問題への措置を、連
盟規約に盛りこまねばならないとの機運が生じたのでしょうか。
 一つの経路は、連合国として戦争協力をなす際に、日本はその見返りとして、移民排斥
についての善処を期待するという構造ができあがりつつあったことです。たとえば、一六
年二月、イギリスからシンガポール方面への日本艦隊の派遣(巡洋艦四隻、駆逐艦四隻)を要
請された際、石井菊次郎外相は英国大使に対して、次のような「交換条件」を示していま
した。すなわち、@オーストラリアとニュージーランドにおける日本移民の排斥、Aオー
ストラリア政府が日英通商条約に加盟拒絶している問題(通商条約を締結すると、条約上の最恵
国待遇と移民法の関係が問題となるため、オーストラリアは加盟していない)、などの点について善処
を求めたのです。「帝国海軍が頗る大なる犠牲も吝まざる」のに対して、考慮を願うとの
文脈でありました。


122 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 02:57:17 ID:???

 同様の要求はアメリカに対してもなされました。たとえば外務省は、アメリカの対独参
戦に敬意を表するために派遣した、遣米特派石井大使宛ての一七年七月二十四日付の訓令
で、「在米帝国臣民に対する偏頗不正の待遇問題」改善に向けた折衝を指示しています。
外務省は不動産に関する権利の取得などにつき、日米両国は互いに最恵国待遇を与えるこ
となどを内容とする協約を締結すべきであると考えており、その訓令は「合衆国憲法の規定
する国際条約の効力を以て、各州の行動を掣肘する」方法をめざせと、明確に述べていました。
 一九〇七年の連邦移民法には、初めて日本人移民に関する条項(ハワイ、メキシコ、カナダ
など、米国本土以外を経由した日本人移民を排斥する条項)が挿入され、一三年八月からは、カリフ
ォルニア州において外国人土地法(帰化能力のない外国人の土地所有と借地を禁止する)が州法と
して実施されていました。さらに十七年の連邦移民法は、日本人以外の他のアジア諸国か
らの移民についてほぼ全面的に禁止するものであったので、日本側の憂慮は当然大きかっ
たはずでした。
 二つの事例からわかるのは、戦争をともに戦う見返りとしてある種の国際条約を締結す
ることで、日本が、いわば外の力によって、相手国の国内問題を牽制しようとする方式を
選択しようとしていたことです。


123 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 03:07:58 ID:???

講和会議に向けた訓令案準備の段階

 一九一八年十二月二十二日、原内閣のもとで、パリ講和会議に向けた人種差別撤廃問題
に関する訓令案が決定されました。そこでは、二つの論点から問題がとらえられておりま
す。一つは移民問題の解決としてであり、もう一つは、予想される国際連盟が反黄色人種
的政治同盟にならないように、「人種的偏見より生ずることあるべき帝国の不利を除去せ
んが為、事情の許す限り適当なる保障の方法を講ずるに努むべし」というものでした。
 後者の理由をよくみれば、人種的差別撤廃が、肌の色の違いによる人間の差別としてで
はなく、国家の差別という観点から要求されていることがわかります。また、前項でみた
ように、連合国として共同の行動をとった見返りとして移民問題の解決を図る、しかも、
ある種の国際的協定によって相手国の国内問題だとされる移民問題を抑えていくという姿
勢からも、国家の差別撤廃という観点が透けてみえます。


124 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 03:21:30 ID:???

 一方で、パリ講和会議に臨む日本側の全般的な外交姿勢には、大きく分けて二つの流れ
がありました。一つは、全権牧野伸顕と首相原敬などに抱かれていた観点で、欧米との協
調主義的な外交、新式外交を日本は今後採っていくべきであるとの考え方でした。もう一
つは、同じ外交調査会のメンバーのなかでも、とりわけ重要な位置を占めていた伊東巳代
治(枢密顧問官)や後藤新平(寺内内閣の内相・外相)などによって抱かれていた観点です。伊
東らは、国際連盟は机上の理想論に過ぎず、欧米の一等国が現状維持を目的として二等国
以下の将来の台頭発展を抑えるための機関であり、公義人道をまとった偽善的一大怪物で
ある、と認識しておりました。
 次に、牧野の新外交方針をみてみましょう。牧野は、出発前の一九一八年十二月八日、
外交調査会で発言し、まずはこれまでの外交について、厳しく批判していました。

  帝国従来の国際歴史上に於ける行動を見るに、或は正義公正を標榜し、或は機会均等
  門戸開放を声明し、又は内政不干渉日支親善を唱道するも、実際に於ては此等帝国政
  府の方針及至意思として表はるゝ所と日本の施設とは、往々にして一致を欠き、為め
  に列国をして帝国を目するに表裏多き不信の国を以てせしむるに至りたるは蔽ふべか
  らざる事実なり。                 (「外交調査会会議筆記」)


125 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 03:31:52 ID:???

 これまでの日本の外交は言行不一致であり、日本は世界から信を失っているのだという
厳しい自己評価でした。この牧野発言の原案は、外務省政務局一課長小村欣一が書いたも
のであり、格調高い文書でした。小村の主要な提言の一つは、中国問題でした。中国問題
は必ず今回の会議の中心的な問題の一つになるので、日本は各国に率先して、「日支の真実
なる諒解親善の実を挙げ得る共益公正の方途」を示すべきであり、そのためにも中国に対
して、治外法権撤廃、外国軍隊の撤退、団匪賠償金(義和団事件の際、中国側が負ったもの)放
棄などを、率先して実行すべきだというものでした。
 小村のもう一つの提言は、次のようなものでした。日本が講和で第一に考慮すべきは、
自由均等・正義に基づく平和保持の組織(国際連盟のこと)が、「真に人種宗教歴史国力等の
別によらざる完全平等の待遇」を、異人種異宗教国において実現できるかどうかの点であ
るとし、そのためにも中国問題で、以上のような公明正大な態度をとっていれば、この問
題もうまくゆくはずだとの判断でした。つまり、小村の考えによれば、中国問題に関する
公明正大な対処と、国際連盟における完全平等要求の貫徹は、相互補完的なものであると
とらえられていたのです。ですから、日本側が人種差別撤廃案を作成していく意図として
は、以下のような観点があったといえます。@各国が自国の国内問題であるといって逃げ
てきた移民問題を、国際的協定、具体的には連盟規約によって解決を図る、A予想される
国際連盟が反黄色人種的同盟にならないよう、予想される不利への保障を図る、B中国問
題などを公明正大に解決する日本の新外交方針を保障する、の三点です。


126 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 03:40:49 ID:???

パリで

 パリに到着した牧野は、ウィルソン米大統領とその参謀格であったハウスへの根回しを
経て、一九一九(大正八)年二月十三日、連盟規約案第二一条の宗教に関する規定のあと
に、人種的差別待遇撤廃の一項を挿入しようと連盟委員会に提案しました。訳文は「締約
国は成るべく速に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し均等公正の待遇を与へ、人種
或は国籍如何に依り法律上或は事実上何等差別を設けざることを約す」というものです。
明らかにこれは、日本の移民保護を念頭に置き、連盟規約上から法律上・事実上の差別を
撤廃しようとしたものでした。
 委員会では議長代理セシルによって、日本の要求は高潔な動機による案であることは認
められるものの、英帝国内において最も困難な問題を惹起する問題であるとの理由で、規
約案第二一条全体を削除する方向で処理されました。
 牧野が委員会に提出した案は、元来、二月五日、ウィルソンとハウスの手で修正を施さ
れた上ので文言でした。しかしこの後、ウィルソン自身、この規約案に対する寛容な態度
を変えざるをえない状況に追い込まれます。ウィルソンは、米国内の連盟反対論を説得す
るためにアメリカへ一時帰国します。しかし、帰米したウィルソンを悩ませていたのは、
上院の三分の一以上が国際連盟に反対しているという現状でした。事態は悪化しており、
その悪化要因の中心にあったのが、まさに日本全権の提起した人種差別撤廃案でした。


127 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 03:44:56 ID:???

 たとえば、二月二十八日、上院共和党(マサチューセッツ州選出)議員へのヘンリー・カボッ
ト・ロッジは、「連盟は一切の国際紛争を裁決する権限がある。したがって、移民問題も連
盟に付議されるだろう。しかし、移民や帰化の問題を、外国の決定に委ねるのは、まさに
国家主権の最も貴重な作用を放棄するものである。どの国も、国境のなかに入れたくない
人間の入国を拒む権利がある。このような規定はアメリカの主権を侵すものであり、内政
干渉もはなはだしい」と演説し、全体として、連盟規約案に対して、@モンロー主義に関
する留保、A移民・帰化問題の除外、B平和的脱退規定挿入などを要求し、批判を加えま
した。ウィルソンはこれに対して、アメリカの政治に関する内政干渉にあたる条項の削除
を約し、そのなかには日本の人種差別撤廃案も含まれていたのです。
 アメリカが最終的に連盟に加入しなかった経緯において、日本人の移民や帰化の問題が、
かくも大きな比重を占めていたことは、改めて強調されていいことでしょう。人種差別撤
廃案を考案していく際、国際条約の網をかぶせて、アメリカの国内問題を規制していこう
とする思考様式が、日本の当局者のなかにたしかに存在したことを想起すれば、アメリカ
上院の危惧も根拠のない問題ではありませんでした。こうして牧野は、規約を議する四月
十一日の最終委員会において、人種差別撤廃案を移民保護を含意しないかたちの文言に改
めた上で、連盟規約の「前文」に入れる後退を余儀なくされました。その結果、この文言
は、人種差別撤廃の一般的理念を語る、「各国民均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに
依り、締約国は連盟員たる国家の全ての国民に対し、平等且つ公正なる待遇の原則を付与
すべきを確認すべし」というものになりました。


128 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 03:51:55 ID:???

 本来は、移民に対する法律上・事実上の差別を撤廃すべきであるとの案であったもの
が、ここで連盟構成員たる国家の平等と、国民に対する公正な待遇を、漠然と要求するも
のに変化しています。裁決の結果、出席者一六名中一一名の賛成を得ましたが、五名は反
対しました。重要事項の裁決には多数決ではなく、全会一致が望ましいとしたウィルソン
の判断により、この修正案も前文に載せられることはなく、牧野の修正意見が議事録に留
められただけに終わりました。当初から最も強い反対が予想されたイギリス連邦諸国との
折衝もおこないつつ、しかし基本的に、まずはアメリカ大統領の理解を得ようとした牧野
の方策は、ウィルソン自身が上院からの強い反発を受けたことで、成功しませんでした。
移民や帰化は、国家主権の重要な要素であり、この国内問題が国際連盟規約で律せられる
ことを嫌う、アメリカ上院の意向が強くはたらいた結果でした。


129 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:02:40 ID:???

日米両国における移民問題

 アメリカが移民法という、ごく限られたチャンネルのなかで、日本を「低く位置づけ
る」態度がなぜ問題なのかといえば、それは単なる体面の問題ではなく、「武威の減少」
を意味するからだ、とも述べています。アメリカが日本を帰化不能外人として扱うこと
は、諸外国(端的にいえば、中国が想定されていると思われます)の日本に対する国力の過小評価
につながり、それは中国の日本に対する軽侮につながるので、かえって戦争の機会を増す
のだといっています。このような考察を展開していた参謀本部の一文書が、どのような対
処法を掲げているのか、次にみてみましょう。

  米国に対しては正義人道を以て主張の根本とし、徹頭徹尾国際条約違反を以て法律の
  無効を要求すべし。〔中略〕此事実は天下に宣明し国際法の威厳に関する世界の問題た
  らしむべし、要すれば国際連盟等に付議を試むるも可なり。

 大戦終結後と、一九ニ四年の違いはあれ、国際条約という観点からアメリカの国内問題
としての人種差別に歯止めをかけさせ、必要であれば、国際連盟に付議してでも、国際法
の威厳を守れと、述べているわけです。


130 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:07:36 ID:???

 参謀本部の、ある一つの文書が展開している考え方を、日本全体に敷延させるのは無理
があります。しかし、ここで注目していただきたいのは次の点です。つまり、この移民法
によって新たに禁止される日本人移民の数が問題だったのではまったくなく、新たな排日
移民法は日本の武威についての、とくに中国が日本をみる際の評価にかかわることが問題
だとして、深刻に受けとめられていたという事実です。先にみたように、移民や帰化とい
うアメリカ特有の国内問題を、外からの国際条約の権威によって抑圧していくべきであ
り、抑圧してよいのだという参謀本部の発想は、アメリカの上院などが最も嫌うものでし
た。移民の法律上の差別を連盟規約で撤廃しようとするのは、内政干渉そのものだったか
らです。国家の主権にかかわることについては他国の干渉を受けたくないというアメリカ
の意思は、その連盟参加を左右するほど重いものであったことを想起する必要があるでし
ょう。


131 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:13:09 ID:???

真の衝撃とは何か

 第一次世界大戦は、日本が主導的に始めた戦争ではありませんでした。日本は、徹頭徹
尾、中国問題の「解決」と、ドイツの極東権益の継承をめざして参戦し、大戦中の水も漏
らさぬ典型的な帝国主義外交の蓄積を背景に講和会議に臨み、アメリカや中国の抗議はあ
ったものの、望みのものを手にすることができました。しかし、長い戦争が終結し、初め
ての国際会議において、北太平洋の旧ドイツ領南洋諸島、山東省利権継承という、二つの
懸案が承認され、五大国の一員として迎えられても、日本は安心感に満たされた戦後をス
タートさせることができませんでした。
 講和会議中の外交調査会の会議筆記には、伊東巳代治などが、外務省公電よりも早い情
報を、パリに特派員を派遣して報道合戦を繰り広げていた日本の新聞から入手して、外務
省や全権を攻撃している情景が何度も出てきます。この事例からは、伊東よりは情報の入
手は遅かったかもしれませんが、少なくとも新聞を読んでいる国民もまた、連盟に集った
国々、とくにアメリカや中国がいかなる意見を議場で展開していたのかを知る位置にあっ
たといえるでしょう。日本の全権団が秘密とする問題でも、他の全権団がその国の新聞に
伝えれば、その情報はパリにおいて新聞記者団には周知の事実となっていったと思われま
す。そのような環境にあって、対華二十一ヵ条を「最小限度の要求」であると考えるよう
な、戦前までの「当時の認識」は、国民のなかで支持され続けることができるでしょう
か。


132 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:33:40 ID:???

 全権随員として牧野に同行し、パリで日本の情報宣伝工作に従事していた松岡洋右は、
英米仏の記者たちが、日本の対支政策をどうみているのかを牧野に報じた文章のなかで、
次のように松岡自身の対華二十一ヵ条観を率直に述べています。

  所詮我に於て之れを弁疏せんとすることすら実は野暮なり。我言う所多くは special
  pleading にして、他人も強盗を働けることありとて、自己の所為の必ずしも咎むべか
  らざるを主張せんとするは、畢竟窮余の弁なり。真に人をして首肯せしむるや疑問。

 後年、ジュネーブの国際連盟総会会場から退場してゆく松岡の姿からはなかなか想像し
にくいことですが、素直に史料を読めば、松岡は二十一ヵ条や山東問題をめぐる、日本政
府の方針を批判しているのです。 special pleading と松岡がいっているのは、「特別訴答」
と呼ばれる法律用語ですが、ここでは、自己に有利なことだけを述べる一方的な議論であ
るという口語的な意味で使われています。つまり、松岡は、二十一ヵ条についての日本側
の弁明が、一方的な議論で、人々を心から説得する力がないといっているのです。苦学し
つつもオレゴン州立大学を卒業した松岡でしたから、アメリカの法律用語で、日本の態度
を諷するのは容易なことであったでしょう。また、「実は野暮」という表現も、没落したも
のの、元は名だたる廻船問屋に生まれた出自や個性を感じさせるものとなっています。


133 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:52:09 ID:???

 そして、日本に対する国際的信用の程度が低いので、結局日本は山東省の権益を返還し
ないか、できるだけ遷延させるに違いないとする見方が、米人記者の間で圧倒的であると
報じています。中国に租借地を返還するというのであれば、なぜ今ドイツから中国に直接
引き渡さないのか、というわかりやすい疑問が記者の間には支配的でした。
 また、日本全権が人種問題を提起したのは、山東問題解決との駆け引きに使うためだと
の誣言(松岡はこれを中国側から出たものとしています)が広く信じられていることについてもふ
れています。「一つは、亦山東問題は、斯かる術数を弄するにあらざれば、到底成功し得ざ
る程に非道なる問題なりとの観」を日本自身がもっているから、その困難を予期した日本
が山東問題解決のために人種差別撤廃案を用意したのだとの憶測を生んでいると、松岡は
報じていました。
 ここで大切なのは、次のことです。分裂しているとはいえ、正統政府と認められていた
当時の中国政府と日本とのあいだで、手続き上は疑問の余地のない形式で締結された山東
省の利権継承のための一連の条約(一九一五年の「山東省に関する条約」、一九一八年の「山東省に於
ける諸問題処理に関する交換公文」)が、パリにいる松岡の感覚では、すでに special pleading
と感じざるをえないものとして映っていたということです。つまり、これまで日本にとっ
て疑念の余地のなかった要求が、講和会議をめぐる各国の詳細な外交・報道合戦のなか
で、実は正当性に疑問がある要求なのではないかと認識されるようになっていたわけ
です。


134 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:56:21 ID:???

 一方、山東問題とはまったく別の経緯と目的をもって案出された人種差別撤廃案が、山
東問題解決の駆け引き材料であると世界に誤解されたこと、さらにはアメリカ上院の反対
のために、移民に対する法律上の差別待遇を論ずる道を閉ざされて、何の成果もあげられ
なかったことは、日本にとって重大な失策であると認識されるようになりました。会議の
過程では、日本側もアメリカ側も、お互いに最も避けたい方式でしか対話ができない、厳
しい関係に立つ場面もありました。
 そして、人種差別撤廃案について連盟がとった態度は日本に対して不当なものだったと
いう感情が、戦後、国民のあいだに生ずることは大方の予想したことでした。大阪毎日新
聞記者で国際問題に通暁していた高石真五郎は、一九一九年三月二十四日付の牧野に宛て
た書翰で「国民の平等承認の件は、帝国に取り極めて重大なる事態なるは、申上ぐる迄も
無之候。殊に賢明なる閣下の既に察知せられし如し、日本国民は所謂プラウド・ピープル
に有之、又国家的ヴァニチーを有し候」と書き、人種問題撤廃に関する正しい交渉経過
を国民に詳しく知らせることが、「誇り高い」国民を自重させ、他日の捲土重来を図らせる
ことになると、強く勧めていました。国民の暴発を高石は案じていたのです。この問題
は、二十年ほどは歴史の舞台から消えますが、第一次大戦後の日本社会のなかに深く孕ま
れる問題となり、次の戦争の際に、それは鮮やかに蘇ることになります。
 つまるところ、講和会議が日本に与えた真の衝撃とは、次の二つに集約できます。一つ
は、松岡の言葉でいえば、権益を旧来の帝国主義的な外交で獲得する方策は special plead-
ing であり、もう「野暮」なのだとの認識が生じていたことです。そしてもう一つは、少
し後の参謀本部の認識からもわかるように、移民法などに対しては徹頭徹尾国際条約違反
であると主張して、その点からアメリカの非理を暴いていこうとする原理的な対決姿勢
が、日本軍のなかに生まれたということでした。


135 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 04:59:35 ID:???

大戦の教訓――経済封鎖と総力戦

 一九一九(大正八)年六月二十八日、パリ講和会議において、ヴェルサイユ条約が無事に
調印されたとの報を受けたとき、市井の人々はどう感じたのでしょうか。千葉県山武郡源
村(現東金市・山武町)の村長をつとめていた並木一郎は、同年七月一日の日記に「自分は幾
多の人命、苦心、資財を以て購ひ得たる平和をして、無意義に終わしむること無きを祈る
と共に、今后の思想の戦、経済の戦に、勝利を得んことをも祈るものなり」との感慨を書
き留めています。
 戦争の惨禍をくぐって、ようやく獲得された平和を大切にしてゆきたいという気持ち
と、一方では、大戦によって、戦争の段階が思想戦、経済戦に移行したことへの自覚がみ
られ、それに日本が後れをとるべきではないとの意欲もみられます。並木一郎の反応をこ
こで引用したのは、こういった反応が、当時の社会において広くみられた典型的なものだ
ったからです。平和思想を積極的に受容する一方で、戦争が総力戦段階に達したことへの
冷静な自覚もありました。


136 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 05:03:47 ID:???

 そして、大戦初頭にあたって、元老の山県などがイギリスの最終的な勝利、ドイツの最
終的な敗北について確信をもてなかったことからもわかるように、日本側にとっては、な
ぜ連合国が勝利したのかということよりは、なぜドイツが負けたのかが、研究の対象とな
りました。フランス勤王党の指導者レオン・ドーデが、ドイツの敗戦が濃厚になりつつあ
った一九一八年四月に刊行した「総力戦論」を日本側が翻訳したものによれば、ドイツ敗
北の要因は経済封鎖であり、封鎖が完全であれば、ドイツは二年以上戦争に耐えることは
不可能であったのに、封鎖線が不完全なので、三年半ももちこたえていると分析していま
す。ちなみにドーデによれば、総力戦という用語は、一七年七月二十二日にフランス首相
クレマンソーが、議会における質問演説中に唱えたという説をとっています。
 それでは、総力戦とは、どのように要約されるべき戦争形態だったのでしょうか。経済
学者土屋喬雄が、太平洋戦争中に書いた著作『国家総力戦論』から、その定義を紹介して
おきます。それは、武力を中心とする戦争であることはもちろんですが、軍事・経済・思
想など、国家の全面的総力をあげての激烈な総合戦で、かつ比較的長期にわたり、また、
国家の経済力が思想的・政治的団結力とともに異常に重要性をもっている戦争形態、とさ
れるものでした。


137 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 05:07:09 ID:???

 ともあれ、ドイツの敗北については、三四年二月に書かれたポール・アインチッヒの『再
軍備経済観』でも指摘されているように、「その財源の薄弱のためではなく、連合軍の包囲、
殊に海上封鎖のために原料は消耗し尽し、益々食料品は欠乏するに到り、遂に潰滅するに
到ったのである」との判断がみられ、封鎖が決定的な要因となったことがわかります。
 ポケットに最後の一シリングを持っている側の勝利、あるいは外債を他国の銀行から最
後まで買ってもらえる側の勝利という、これまでの戦争の常識はくつがえって、極言すれ
ば、戦費調達に必要な財源の限度というものはないということが、長期化する大戦で明ら
かになりました。このような認識の変化によって、たとえば日本海軍などでは、「次の戦争」
を考察する際の基準に、ドラスティックな変化がみられるようになります。
 一九一一(明治四十四)年作成と推定される「経済上より見る国防」という書類は、海軍主
計少監佐伯敬一郎が、帝国議会に対する海軍予算獲得の説得材料の一つとして、斎藤実海
軍大臣のために作成したものです。この史料からみたいのは日露戦後の感覚です。次の戦
争を予想する場合に、何が問題とされていたのでしょうか。ここで、佐伯は、今後予想さ
れる戦争の戦費という問題を立て、@ロシアと戦争する場合と、A欧米と戦争する場合、と
いうように分けて問題を考察しています。


138 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 05:11:26 ID:???

 @の場合、もはやロシア海軍はないも同然なので、陸戦で勝敗が決せられることになり、
戦費は陸軍の二五億五〇〇〇万円、海軍の五〇〇〇万円、合計ニ六億円と推定し、Aの場
合、海戦で勝敗が決せられることになり、その戦費は海軍の五億円、陸軍の二億円、合計
七億円と推定できる、よって@に比べてAは、「国家経済上何等の苦痛を感ずるものにあら
ずして、而して戦場の結果得る国力の発展に比すれば、実に安価なりと言う可し」と判断
されることになります。ロシアと戦争するよりは、欧米との戦争のほうが安上がりである
と論じて、最終的には、だから海軍軍拡は予算上も合理的だとの文脈で書かれているわけ
ですが、端的にいって、欧米との戦争を安価といえる感覚が日露戦後には未だあったとい
うことに、注目したいのです。あくまで問題は戦費であって、外債をどれくらいの規模で
抑えられるかという問題でした。
 それに対して、第一次世界大戦の終末が連合国側の勝利に帰すだろうとの見通しが出て
きたころの、一九一八(大正七)年一月、海軍では、臨時海軍軍事調査会(海軍大臣の下に一五
年十月組織される)が「欧洲戦争海軍関係諸表」を作成し、来るべき講和会議に備えていまし
た。この史料から、海軍の「次の戦争」を考える際の見方の変化についてみておきましょ
う。列国海軍力の比較や船舶の亡失などの表が多数作成されていることは当然ですが、こ
こでは、海軍と海運貿易、戦時工業についての項目が立てられ、最重要視されていたこと
がわかります。貿易については、とくに次のような点を指摘していました。


139 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 05:18:15 ID:???

  自給自足は本戦争の国防上に与へたる一大教訓にして、之に堪へざる国家の基礎は甚
  だ安定を欠くに至れり。〔中略〕万一戦時に際し、第二区〔香港以南から、インドにいたるフ
  ィリピン、オランダ領東インド、オーストラリア〕の貿易迄も杜絶するに至れば、綿花・羊
  毛・護謨・石油・砂糖などの輸入、殆んど絶へて、我が国民の苦痛と国家の危険と
  は、実に甚大なるものあらん、若し夫れ更に、第一区〔香港以北の中国、関東州、シベリア、
  ロシア〕の貿易にして絶へんか、最早や我が国の国外よりの一噸の物資を得る能はず、
  戦時大需要ある鉄石炭の如きすら補給の途全く絶へて、国家は滅亡の外なきに至らん。
                          (「欧洲戦争海軍関係諸表」)

 ここで海軍が、詳細な図表をあげて主張していたのは、戦時にあって、日本海、シナ海、
南洋およびインド洋の海上権力を海軍が掌握してさえいれば、輸出入物資の約半分を、南
方や中国から、戦時でも輸送できるとの見通しでした。次の戦争を考える際、輸入杜絶と
いう事態と制海権とが密接不可分なものとして考察されており、単純な戦費の問題から封
鎖への対応というように、力点が移動していることがわかります。


140 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 20:01:37 ID:???

二回の国防方針改定と、そこに表現された中国観

「次の戦争」を想定する場合に、最も重要な鍵を握るのが帝国国防方針であることはいう
までもなく、大戦の影響は、ここに端的に表現されることになります。一九〇七(明治四
十)年に成立した帝国国防方針(想定敵国の第一をロシアとし、アメリカ、ドイツ、フランスをこれ
に次ぐとしたもの、想定敵国は一国)は、一八年六月二十九日に、まずは第一次改定がなされま
した。よって次に、改定の背景にどのような認識の変化があったのかをみてゆくことにし
ましょう。一見すると、第一次世界大戦後の状況を見通した改定にみえますが、一応の成
案がすでに一六年にできていたことを考えれば、直接的な改定の理由は、大戦中になされ
た対華二十一ヵ条要求と、それにともなう、中国による排日運動(日本側には袁世凱政府が教
唆しているとの判断がありました)に対処するためでした。


141 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 20:03:21 ID:???

 一八年の第一次改定は、アメリカ、ロシア、中国の三国を仮想敵国としたものでした
が、陸海軍共同の中国への干渉政策も練られており、陸海軍に共通する唯一の仮想敵国と
して、中国が帝国国防方針に盛りこまれた点に画期性がありました。また、成案ができた
のちに、陸海軍の軍事調査委員会が研究した大戦の教訓も加味された結果、一九〇七年の
国防方針にみられた短期決戦思想は、開戦初頭の決戦に続く長期の総力戦構想に変化して
いました。いずれにしても、この第一次改定のキーワードは、「中国」と「総力戦」の二つ
にあったといえるでしょう。
 しかし、大戦も終結し、アメリカだけでなくソビエト=ロシアも、できたばかりの国際
連盟と無関係な位置に立つことが明らかになり、また、経済封鎖と総力戦の全貌も判明し
た戦後の地平から、改めて国防方針の第二次改定がなされるであろうことは容易に予想で
きることでした。さらに、一九ニ一年十一月から開催されたワシントン会議によって日英
同盟が廃棄され、主力艦の対英米比率が六割に制限されたという新しい事態に応ずる必要
が出てきました。こうして、第一次改定から五年めのニ三年二月二十八日、早くも第二次
改定がなされます。第二次改定にみられる情勢判断には、どのような新しい要素が加えら
れたのでしょうか。それを次にみてみましょう。


142 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 20:12:42 ID:???

 新しい国防方針の第三項には世界の大勢についての判断が述べられており、注目にあた
いします。国際連盟はできたけれども、アメリカが参加を拒否したのでその効力は疑わし
く、また新たに、太平洋や極東に関する諸条約(九ヵ国条約や四ヵ国条約)がワシントン会議
で締結されたが、それらの条約によっても未だ東亜の全局に存在する禍根はなくなって
いない、と分析した上で、次のように続きます。

  禍機?醸の起因は主として経済問題に在り、惟ふに大戦の創痍癒ゆると共に、列強経
  済戦の焦点たるべきは東亜大陸なるべし。蓋し東亜大陸は地域広大資源豊富にして他
  国の開発に俟つべきもの多きのみならず、巨億の人口を擁する世界の一大市場なれば
  なり。是に於て帝国と他国との間に利害の背馳を来し、勢の趨くところ遂に干戈相見
  ゆるに至るの虞なしとせず。而して帝国と衝突の機会最多きを米国とす。
                              (「帝国国防方針」)


143 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 20:16:40 ID:???

 最初の国防方針や第一次改定と異なり、陸海軍共通の仮想敵として、第一にアメリカの
名前が挙げられており、中国をめぐる経済問題と人種的偏見を原因とする長年の対立か
ら、日米戦争となる公算が高いとみなされていました。もちろん、国防方針における敵国
というのは、対外的にすぐさまその国と戦争を始めるほどの緊張を前提として作成される
わけではありません。国家の戦略を遂行していく途上で、遭遇すると思われる妨害を排除
するための国防力を、建設・維持・運営するための計画が国家には不可欠ですが、そのた
めに、ある具体的な国を想定敵国として決めて計画を整備するという関係です。
 この時期の軍関係者の作成した史料をみていると、経済封鎖を避け、総力戦に勝ちぬく
ための資源の供給地として、第一に、中国が想定されていました。中国から資源をとるの
だという発想が確実にめばえています。国防方針作成の過程で準備された史料の一つが、
ニ二年五月の、参謀本部第二部第六課(「支那情報」を担当する課)の「支那資源利用に関する
観察」です。その文書には、戦時になった場合、日本がその資源を自給自足できないこと
は周知の事実である、こうした資源は、制海権がなくなった場合には、「支那・西伯利等
の大陸」に求めなければならないが、シベリアの軍需資源は貧弱なので、「戦時帝国の絶対
不足資源は支那より之を求ざるべからず」との判断が示されています。ただ、この場合の
中国に対する兵力使用は、物資の供給地に対する軍事占領を、その主な実態と想定してい
たものでした。いずれにしても、一九ニ三年の第二次改定では、中国をめぐる日米対立が
禍乱の起因として想定されていることにご注目ください。


144 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:28:20 ID:???

中国の財政を国際共同管理に置かないためにはどうするか

 第一次世界大戦後なされた、二度にわたる国防方針の改定に共通していたのは、中国の
重要性が、日本にとって各段に上昇したとの認識でした。そして、その重要性という意味
には、二つの方向性が内包されていました。一つは、これまで述べてきましたように、日
本が経済封鎖と総力戦に備えるためには、中国の資源が必要であるとの点からの重要性で
す。もう一つは、アメリカをはじめとする諸列強が東アジアに干渉を強める焦点としての
中国、との観点からの重要性でした。国防方針の第三項として、世界の大勢を述べた部分
を先に引用しておきましたが、その言葉を用いて表現すれば、「禍機?醸の起因」として
の中国という意味です。
 二つめの意味での重要性について、少し説明を加えておく必要があるでしょう。このこ
ろの中国は、内戦と財政難により、政治的経済的に疲弊していました。一九ニ三年末ごろ
から翌年春にかけての状況でいえば、呉佩孚を中心とする直隷派が北京政界を支配してい
ましたが、それに対して、@段祺瑞、A張作霖を中心とする奉天派、Bソビエト=ロシア
と接近しつつあった孫文、の三者が盟約を結び、直隷派と対抗するという構造になってい
ました。そして中国の財政状況は、まさにいつ国際管理下に入るかわからない状況にあり
ました。


145 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:30:12 ID:???

 歳入が四億五〇〇〇万元なのに対して歳出は六億五〇〇〇万元、そして、内外債は三〇
億元を突破した、との観測が日本側、とくに参謀本部(編制・動員、戦争計画を管掌するととも
に、外国情報、とくに中国の情報については、現地の駐在武官や軍事顧問など、実に広範な情報収集組織を
もっていました)などによってなされていた時期です。外債の主な内容は、@賠償金、A鉄
道収入・鉱山権を担保とする中央政府の借款、B実業収入を担保とする各省の借款、など
でした。歳入の大きな部分を占める関税や塩税については、すでに英米などの実質的監督
下に置かれて、その収入は借款の担保としての元利払いに充当され、使途についても厳密
に指定を受けている状態でした。
 このような中国の財政危機について、当時の参謀本部は次のような危惧を抱いていまし
た。つまり、財政危機を終息させうる強力な政治主体の登場が当面は期待できない以上、
列強は投下した資金をみずからの実力で回収しようとして、関税や塩税に関する管理をも
っと拡大したバージョンである、列国による国際的共同管理が、中国に出現するのではな
いか、と。


146 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:32:45 ID:???

 この危惧を加速させる直接的な契機となったのが、一九ニ三年五月六日に起こった臨城
事件でした。津浦鉄道の第二特急が、浦口から天津に向かう途中、臨城の付近で私兵集団
による襲撃を受け、イギリス人一人が射殺され十六人の外国人が捕虜となった事件です。
これをきっかけとしてイギリスは北京政府に、賠償や責任者の処罰、津浦線にイギリス人
の運転主任・会計主任を任用することなどを求めるとともに、列国による共同の鉄道管理
案、漢口・上海への共同出兵と海軍による示威行動を、北京にいる列国外交団に提案して
きたのです。
 参謀本部では、まさにその問題を、当時、張作霖の軍事顧問であった本庄繁などに諮問
していました。満州事変勃発時には、関東軍司令官の地位に就いていた本庄ですが、この
ときには、次のような意見を参謀本部に送っています。


147 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:34:52 ID:???

 ――税関、塩税、郵政などの部分管理にすでに成功している列国は、中国の政争が続く
に従って、徐々にその力を鉄道その他の部分の管理にも及ぼしつつある。これが一挙に中
国財政への一般的な国際管理にまで進行するとは思えないが、中国の財政破綻が免れなけ
れば、列国は国際管理に踏みきるだろう。国際管理が実施されれば、イギリスは必ず関税
管理のときのようなやり方や、鉄道管理案からもわかるように、既得権に比例した最大多
数委員を出して、管理の中心的指導者の地位を占めるようになるだろう。アメリカは、列
国の勢力圏を打破して、その既得権を侵害しようと図ってくるだろう。それは、アメリカ
が、無線問題やバス路線の整備などでみせたやり方で、多大の資本によって、実質上の権
威者の地位を占めようと図ってくるだろう――。
 このような英米の出方を予想するときに、本庄は、列国による中国国際管理という方向
が、「帝国の存立上至大の危険」であると判断していました。よって、国際管理に進まな
いようにするにはどうしたらよいか、という「問い」を本庄は立てます。そして、アメリ
カがワシントン会議を開催したようなやり方、つまりアメリカのペースで、アメリカの利
益を最大限に生かせるような軍縮案を他の海軍国にのませるように仕向けるやり方をとっ
てくる前に、日本側が中国の統一のための国際会議を開催し、列国代表列席の下に、中央
政府の首脳、各地の督軍、各政派代表、商務代表を網羅した権威ある統一会議を招集する
構想について述べています。日本のこのような行動は誰がみても、猜疑心を抱かずにはい
られないであろうことは、本庄も自覚的でありまして、そうならないために、「最も周到に
して公平なる計画を樹て、親日を要求するが如き自我的意思を一切除去」し、「支那自体の
統一達成を主眼とすべきなり」と書いています。


148 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:37:38 ID:???

 期待される統一政権が親日的である必要はなく、まったく公平な立場で中国統一に助力
する日本という自己イメージは、にわかには信じがたいところです。しかし、イギリスや
アメリカの絶大な影響力が固定化される可能性のある国際管理を回避するには、満洲を除
いた長城以南の中国政府について、それがいかなるかたちであれ、とにかくその統一安定
を心から支持するという考え方自体は、理解できるのではないでしょうか。
 現実の中国の歴史は、日本主導の「公平な」統一勧告という路線も、また、英米主導の
国際管理という路線もとることはありませんでした。国民党がソビエト=ロシアと提携
し、その指導のもとに組織や体制をボルシェビッキ的なものに改変させていく過程が、こ
のあとに生じた現実の歴史でした。にもかかわらず、本庄の構想をみてきた理由は、中国
の財政破綻についての予測が非常に深刻なものであったということをみるためでした。国
防方針の第二次改定でみられた、中国は重要である、との認識についての説明は以上です。


149 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:44:34 ID:???

アメリカにおけるオレンジ・プラン

 これまで述べてきましたように、中国をめぐる対立から日米戦争になるとの想定をもつ
国防方針は、一九ニ三年に策定されています。実は、これとほぼ時期を同じくする二四
年、アメリカにおいても対日作戦計画であるオレンジ・プランが、正式な作戦計画として
大統領の承認を受け、採択されています。もちろんアメリカにおいても、日本だけを対象
としたプランが作成されていたわけではなく、イギリスやドイツを対象としたプランも同
時に立てられていました。オレンジ・プランという名称は、大統領の諮問機関である陸海
軍統合会議が、アメリカをブルー、日本をオレンジ、イギリスをレッド、ドイツをブラッ
クなどと、色で示したことからつけられたものです。
 しかし、興味深いのは、太平洋戦争勃発までに作成されたすべてのオレンジ・プランに
共通していた構想として、@第一段階は、日本による攻勢的攻撃の過程、A第二段階は、
アメリカがさまざまな方法で日本近海に迫ってゆく過程、B第三段階は、大陸によって生
存しようとする日本の力を、空と海からのアメリカの力で封鎖し、包囲して降伏させる過
程、としてとらえられていたことです。日本側がニ三年に改定した国防方針とも、呼応す
るものになっていることも、注目されるでしょう。


150 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:47:20 ID:???

戦争はできるという議論――海軍の場合

 ここまで読んできますと、日本はどうやら第一次世界大戦から経済封鎖や総力戦という
概念を学んだ結果、ニ〇年代の早くから、アメリカを主たる仮想敵国として、長期にわた
る総力戦に耐えなければならないとの構想を抱いていたのかと思われたかもしれません。
中国をめぐる問題から日米戦争にいたるという構図は、実際に日中戦争から太平洋戦争へ
と戦争が拡大していった、あの長い過程とちょうど符合しているようにみえるからです。
 しかし、ニ〇年代というのは、パリ講和会議、ワシントン会議を経て軍縮の機運が高ま
り、さまざまなデモクラシー状況が進展していた時期であり、また、現実には日米の経済
関係が非常に良好な発展をとげていた時期でもあります。ですから、陸海軍の次なる戦争
に対する発想が、長期にわたる総力戦を単に要請するものであったとは考えられません。
将来予想される、長い戦争に勝利するための自給自足体制の確立をうったえるだけでは、
国民の支持を獲得していくのは難しかったでしょう。


151 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:51:43 ID:???

 大切なことは、ニ〇年代から満州事変へ向かう時期における、具体的な戦争の方法につ
いての構想が、かえって、短期決戦を望むものになっていったことでした。事実、国防方
針の第二次改定では、第一次改定のときにみられた、長期の総力戦に対応するとの構想は
後退していました。次の戦争が総力戦になることは避けられないにしろ、第一次世界大戦
ほど長くかかることはないのではないか、ある変数を調整してうまくやれば、大戦の長期
化も避けることができたはずだし、今後はその教訓を活かして、長期化を避けるべきなの
ではないかとの発想です。
 総力戦の時代ではあるが、うまくやれば速戦即決にもちこめる、大丈夫、戦争は資源の
ない日本でもできるのだ、という論法は、実は、当時の国際協調によってもたらされた軍
縮・軍備整理の思想ともうまく共存しうるものでした。軍縮は、軍の効率化に底の部分で
つながっているからです。また、長い戦争はもうこりごりだという感覚は、世界にみなぎ
っていたはずでした。


152 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:54:48 ID:???

 たとえばこの時期、欧米で有力となった陸軍の軍隊組織についての理論には、次の二つ
のパターンがありました。@長期戦のための予備兵招集や原材料・資財の準備をおこなう
時間をかせぐために、敵からの第一波の攻撃をうまく吸収できるような、小規模だけれど
も近代化された常備軍をもつ、A敵が防衛線を準備する前に決定的な打撃を与えるため
に、完成され近代化された多数の予備兵を保有しておく、というものです。ただ、どちら
も長期戦を避けるという考えで発想されているという点では同じものでした。
 欧米での構想と日本のそれは異なる部分もありますが、@は宇垣一成に代表される軍近
代化構想と近く、Aは上原勇作などに代表される、現役多数師団保有構想に近いといえる
でしょう。@は戦力の質を向上させて短期決戦を図り、Aは戦力の量による短期決戦をめ
ざしたものであり、従来は対立ばかりが強調されてきましたが、実は、ともに短期決戦を
めざしている点では同じだったとみることもできます。


153 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:58:55 ID:???

 第一次世界大戦があれほど長期戦になったのには理由があって、本来はもっと早く終わ
らせることもできたという観点からなされる、同時代の証言もみておきましょう。穂積陣
重と歌子の息子で、東京帝大法学部教授であった重遠は、大戦勃発時にイギリスに在外研
究中であり、大戦中のイギリス国内の対応を詳細にその日記に記していました。一九一四
(大正三)年十一月二十四日、ロンドンの日本人会での講演において、のちの満州事変のと
きに参謀次長となる二宮治重が次のように述べているのを、穂積は書きとっています。

  英国が平生の準備を欠きたる上に、動員出兵に立ち遅れたるは甚だ不手際にて、さも
  なくば戦局は大いに変化し、あるいは戦争は起こらざりしやも知れず。
                              (『欧米留学日記』)

 二宮はここで、敵からの第一波の攻撃をうまく吸収できるような小規模な近代化された
常備軍をイギリス軍がもたず、望ましい陸軍動員をイギリスが実行できなかったために、
一四年九月のマルヌの会戦を契機とする西部戦線の膠着が始まったのだ、との非難をイギ
リスに向けていたのでした。


154 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:03:06 ID:???

 これまで、戦後に生じた短期決戦論について、陸軍を中心にみてきましたので、次に海
軍についてみてみましょう。斎藤実文書には、ロンドン海軍軍縮会議が開会された一九三
〇(昭和五)年一月の日付のある「軍縮所見」という文書があります。これは、海軍の長老
山本権兵衛、牧野伸顕内大臣、一木喜徳郎宮内大臣、国務大臣、枢密顧問官などが首相官
邸に会合した場合に、最新の情勢に基づいた軍縮問題を、加藤寛治海軍軍令部長などが説
明するための資料として作成されたものです。文書は、@補助艦七割の由来、A米国海軍
政策、B帝国主張の三要点、C諸言、という構成で書かれていますが、注目すべきはAで
す。この史料は、あくまで加藤の観点に基づいて書かれていますが、米国海軍が大戦で学
んだことについて、まず、次のようにまとめています。
 ――アメリカが大戦によって学んだ最大の教訓の一つは、速戦即決の必要である。積極
的攻勢に出なければ、戦争は長引く。その結果どちらが勝利しても共倒れになる。速戦即
決は決戦に限る。大戦が長くなってしまったのは、英国大艦隊の安全第一主義のためであ
った。過度の自重と無策とが主因の一であるから、アメリカ海軍としては、いかにして劣
勢艦隊に決戦を強いるべきかを専心研究せねばならない――。


155 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:05:55 ID:???

 加藤の言葉でアメリカの方針が語られると、アメリカの方針は本当にそのようなもので
あったのか、真偽が疑わしく思えますが、オレンジ・プランを詳細に分析した軍事史家ミ
ラーの War Plan Orange によれば、アメリカ海軍のなかには、アメリカの国富が戦争を
果てしなく続けさせうることも、従順な日本人が指導者の命ずるままにいつまでも戦うこ
とも、どちらも疑念の余地がないならば、問題となるのは、アメリカ国民の忍耐であり、
それは時間的に限られているとの認識が深く刻まれていたといいます。
 事実、アメリカにおける作戦計画のプランナーたちは、一九二四年の文書では、「政府お
よび産業界は、長期戦の準備をすべきであるが、動員は短期決戦の必要ある場合に限り行
うものとする」という、両論併記的な、ある意味で混乱した判断を記し、ニ八年の文書で
も、「我々は長期戦を覚悟しなければならない。しかし、できるだけ短期間に勝利を獲得で
きるよう作戦行動をとるべきである」と書いていました。そして、非常に面白い点は、彼
らが想定していた動員可能な短期決戦の期間が、動員日から二年という設定であったこと
です(ニ八年一月に策定された「対日全面戦争の作戦進捗予想」表による)。アメリカにとっても戦争
は、せいぜい二年と予想されていたわけです。


156 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:10:16 ID:???

 我々はよく、日本海軍の考えていた短期決戦構想に対して批判を加えて、資源に乏しい
日本が、長期持久戦を強いられないための自己中心的な願望から、短期決戦論が出されて
きたかのように考えることが多いのです。しかし、これまで述べてきたように、短期決戦
論というのは、アメリカ海軍においても同様に唱えられていたことに注意していただきた
いと思います。二年という数字も同様で、日本海軍の対米作戦構想は、本土近海で米太平
洋艦隊を迎え撃つ邀撃思想(渡洋する米国艦隊を補助艦隊で漸減し、本土近海で主力艦による艦隊決
戦をするとの発想)であり、新しい軍艦造艦に少なくとも二年以上かかることから、開戦前
にストックされていた戦力で二年以内に勝負を決すべきだとする短期決戦思想でした。ア
メリカ海軍の二年という数字も、造艦に必要な年数から導き出されていたわけです。
 海軍軍令部長の加藤も、さきほどの文書のなかで、次のような、不敵ともとれる発言を
残しています。

  最重要なるは、日米用兵上の研究が恰も符節を合する如く一致する点である。然し之
  は、何等不思議とするに足らぬ。国防用兵と云ひ、軍事機密と云ふも、要するに常識
  の問題であるから、正確なる資料に基き真剣なる研究を積めば、結局同一結論に到達
  するのが当然。                       (「軍縮所見」)

 日米両国とも、世界大戦の経験から多くを学んだのだから、その作戦構想は相似形とな
り、似通ったプランで向き合うことになると、加藤は判断していました。


157 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:14:42 ID:???

ロンドン海軍軍縮条約

 第一次世界大戦で日本側の得た教訓の第一は、経済封鎖と総力戦の重要性についてであ
りましたが、国際協調と軍縮に比重をおく戦後の社会的思潮は、無視するにはあまりに大
きなものでした。それは日本のみならず、アメリカでも同様でした。そこで、経済封鎖と
総力戦の重要性についての認識は、軍の近代化によって短期決戦が可能であるとする展望
とともに語られることによって、はじめて存在し続けることができたという構造になりま
す。これは、そのように作為されたというよりは、長い戦争をくぐりぬけてきた人間の願
望がそうさせたといえるでしょう。
 近代戦争を遂行するにあたって、長期にわたる自給自足が可能な理想的な国が地球上に
存在するとしたら、それがアメリカであったことは、同時代の人々にも十分わかっていま
した。それにひきかえ、鉄鋼や石油などの基幹物資でさえ他国に大きく依存しなければな
らない資源小国が日本であるということも、十分自覚されていました。しかし、そうであ
るならば、なぜ日本側は、長期の自給自足が可能な国との戦争を、計画としてではあって
も、この時期、構想することができたのか、という問いが生ずるのは当然のことです。


158 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:17:14 ID:???

 この時代の平和思想や軍縮思想は、戦争の短期決戦化や効率化を支持するものでした。
交戦国が新しい軍艦を建造するのに必要な年限二年以内に勝敗を決する、つまり、中国の
重要な資源地域を軍事占領しながら、アメリカとのあいだでは二年以内の短期決戦を戦う
という、加藤などに代表される構想は、ある一定の条件を日本がクリアすれば戦争はでき
るのだ、という感覚を国民に生じさせてゆきます。
 ある一定の条件というのは、先ほどの斎藤文書中にありました「軍縮所見」の@の部分
で、渡洋するアメリカ艦隊を補助艦隊で漸減しておき、本土近海でおこなわれる主力艦に
よる艦隊決戦を想定する場合、補助艦の対米比率が七割以上確保できていれば、可能性が
あるとの前提を指しています。


159 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:20:42 ID:???

 しかし、日本海軍の対米戦争計画にリアリティを与えていた、この前提に変更がもたら
されるような事態が生じます。それが、一九三〇(昭和五)年四月二十二日、五大海軍国
(英米日仏伊)間に調印された補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量制限などに関する条
約、ロンドン海軍軍縮条約でした。ワシントン会議で決定された主力艦の比率と同じ比率
(アメリカ五、イギリス五、日本三)で補助艦(とくに八インチ砲搭載一万トン級大型巡洋艦)の保有量
を制限しようとしたアメリカ側に対して、対米七割を主張する海軍、なかでも海軍軍令部
と、七割を欠いても交渉妥結を図ろうとする浜口雄幸内閣が、鋭く対立した話はよく知ら
れています。
 ただ、ここで注目したいのは、次のことです。会議で日本の獲得すべき原則として、ニ
九年十一月二十六日、浜口内閣が閣議決定した三原則とは、@補助艦兵力量の総括的対米
七割、A八インチ砲搭載大型巡洋艦の対米七割、B潜水艦の現有量保持(三一年度末現在)と
いうもので、基本的に海軍軍令部長加藤らが論じてきた要求項目に従ったものだったとい
うことです。つまり、加藤らの主張は、軍縮会議に臨む政府の方針として採用されていた
ものでした。


160 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:23:49 ID:???

 よって、キャッスル駐日アメリカ大使が、軍事的かつ専門的見地からみて、なぜ日本は
対米七割の大型巡洋艦を必要とするのか、その理由をスティムソン国務長官やアメリカ側
全権に納得できるように説明したらよいではないか、と迫ったのに対して、幣原喜重郎外
相が、おおよそ次のように発言したことの意味が理解できるでしょう。
 ――七割要求の専門的な理由を討議するときには、どうしても日米戦争を仮想した上で
の論議となってしまい、会議場を小戦場化する危険がある。しかし、キャッスル大使との
あいだであるから率直に申し上げるが、日本の軍人は、日本が七割以下の場合にアメリカ
が日本を攻撃すれば日本は絶対に勝算がない、七割ならば日本がアメリカを攻撃すること
はもとより不可能だけれども、アメリカから攻撃された場合、日本には多少の「チャン
ス」があると考えている。したがって政府としては、絶対に勝算がなくてもいいという案
を提唱することはできない――。


161 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:26:52 ID:???

 対米七割要求について、幣原が、日本には島嶼や水道が多く、また海岸線が南北に長く
伸びており、極東方面の海洋の安寧を維持する必要がある、などといった表向きの説明で
逃げていない点が面白いのです。同様のことは、三〇年二月十七日におこなわれた、イギ
リス・アメリカ・日本の全権による会議の席上、若槻礼次郎全権が述べている論点にも通
じます。二月五日、アメリカ全権団の一人、上院議員リードから米国側の試案が提示さ
れ、それに応じて日本側も二月十二日、日本側試案を提出したものの、双方の妥協が困難
なことが判明した時点の発言は、次のようなものでした。

  此種の談合にては虚心坦懐の必要を信ずるを以て、我方よりも最も率直に申上げん
  か、日本国民は日本は七割の兵力にては米国を攻撃し得ざる事明白なるに反し、真の
  仮定なるが、米国は理論上日本を攻撃し得べく、従て米が七割を拒み六割を主張する
  は、其の場合攻撃に便ならしめんとするが為に外ならずとの結論に到達するの外な
  く、此の感想を覆すことは絶対に不可能にして、従て我々は七割以下の比率に依る条
  約には到底調印し能はざる、困難なる立場に在ることを充分諒得せられたし。
                              (『日本外交文書』)


162 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:30:49 ID:???

 アメリカが日本に六割比率を要求するのは、そ
れが日米戦争の際に、アメリカを優位に置くため
の作戦上の要請からくるものではないかとの疑念
が日本国民のなかに深くあり、七割以下の条約で
は、その国民の疑念を払拭することはできないの
だと、若槻は論じていたのです。
 幣原や若槻が、閣議決定であった三原則を、自
身の理念がどうであれ、英米側に対して貫徹しな
ければならないのは、優れた外交官であれば当然
のことと思われますが、英米側に説得にかかる際
の論理が、基本的に加藤らの論理に乗っていると
いう点が重要でした。


163 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:35:11 ID:???

 若槻全権らの粘り強い交渉の結果、最終的な日米妥協案では、日本の兵力量は、具体的
な建造計画を調整することによって、総括的な比率で対米六割九分七厘五毛を獲得できる
ことになりました。そこで、閣議決定を経た三原則と、実際の軍縮会議での決定事項を比
較して、軍縮会議の結果を確認しておきましょう。閣議決定の三原則中、@はほぼ達成さ
れ、、Bの潜水艦については、日本の要求の約八万トンは認められなかったものの、当初、
潜水艦全廃を要求していた英米が、日仏の廃止反対論により、英米日同量の五万二七〇〇
トンに落ち着いたとみれば、双方の妥協の産物と評価できます。しかし、Aの大型巡洋艦
の対米比率を七割とする、加藤らの主張のなかで最も重要な原則は認められず、アメリカ
の主張のまま六割という比率で押しきられています。


164 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 22:37:50 ID:???

 これは、加藤らの海軍軍令部にしてみれば、日米戦争を短期決戦で構想しうる前提の重
要な核を失ったことを意味していましたので、彼は会議の結果を打撃的なものと受けとめ
ました。また、海軍はワシントン会議以降、次に開かれるべき軍縮会議に向けて、周到な
情報宣伝活動をおこなってきましたので、国民のあいだには、ロンドン軍縮会議において
大型巡洋艦の対米七割要求が破れたことは、国家の安全に対する重大な脅威であるとの感
覚が生じました。まして、英米日とともにワシントン海軍軍縮条約には調印していたフラ
ンスとイタリアが、このロンドン海軍軍縮条約には部分的に参加するにとどまり、一番大
切な補助艦の保有量についての協定に参加しなかったことは、日本側のある部分に、なぜ
日本も仏伊と同様にしなかったのかの思いを起こさせました。
 ヴェルサイユ体制、ワシントン体制確立後の世界情勢において、中国問題を契機に引き
起こされると想定されていた日米戦争に一定程度の勝算を与えていたのが、補助艦比率で
した。その重大な要の部分に変更が加えられたとの認識がここに生じてきたのです。


165 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 22:53:44 ID:???

軍縮会議に対する二つの観点

 ロンドン海軍軍縮会議に対しては、これまで書いてきたような海軍軍令部のような権力
政治的なとらえ方だけでなく、あるいは、国家安全の危機としてのとらえ方だけではな
く、ある意味で、現実的な力をもった理想主義が実現したとのとらえ方もなされていまし
た。相対立する二つ観点がありえたのです。後者の考え方、現実的な力をもった理想主義
の実現とは、日本において吉野作造が一九一九年一月の時点で論じていた、次のような内
容を意味するものでした。

  万国平和論、国際会議は必ず真面目に討究さるべき問題であるが、憾むらくはこの問
  題の提唱者はこれまで常に弱国の政治家であつたので、その価値を低下されたのは誠
  に残念である。〔中略〕ところがこの度の大戦争の結果、弱国の政治家がその独立安全
  を保たんが為に利用し来つた問題は、強国の政治家に依りて真面目に論議されたので
  ある。                      (「国際連盟は可能なり」)


166 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 22:54:17 ID:???

 ユートピアに属するとみなされてきた種類の構想に、アメリカという大国が率先して保
証を与えたという事態の意義の大きさは、イギリスの外交官であり外交史家でもあった
H・ニコルソンが、吉野の論説とときを同じくして、「ウィルソン主義が当時あれほどまで
に世人の情熱的な関心事になったのは、一つに全く、長い夢であったものが突如として世
界の最強国の圧倒的な資源によって裏づけられるにいたったためである」と判断していた
ことからもわかります。
 ロンドン会議が、なぜ、現実的な力をもった理想主義の実現という側面をもつのでしょ
うか。それは、イギリスの第二次マクドナルド内閣がアメリカに対して、不戦条約を英米
間の緊密かつ支配的事実と考えて、この条約を軍備縮小に関する交渉の出発点として用い
たいとの意向を一九ニ九年七月に示し、フーバー大統領とスティムソン国務長官がそれに
同意したからでした。いうまでもなく不戦条約とは、前年のニ八年八月二十七日、パリに
おいて一五ヵ国間に調印されたもので、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし
て、国家の政策の手段としての戦争を放棄するとの内容をもっていました。これを裏側か
らいえば、自衛戦争と制裁のための戦争という、二つのカテゴリーの戦争については、依
然として否定されていなかったことになります。


167 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 22:55:24 ID:???

 英米の動きをみて日本もまた、一九ニ九(昭和四)年十月十五日の閣議決定で、戦争放棄
に関する条約を軍備縮小に関する一切の討議の出発点とする原則を支持する旨を述べ、不
戦条約を出発点とした軍縮会議に全幅の同意を与えていました。このような文脈の上に、
元老西園寺公望の英米協調論や、昭和天皇の浜口首相への激励がなされてもいたのです。
 三〇年三月の時点で西園寺は、「国際平和の促進に誠意を以て努力するといふことを列国
に認めさせて、即ち日本がリードしてこの会議を成功に導かせるということが、将来の日
本の国際的地位をますヽヽ高める所以であつて〔中略〕現在日本は英米と共に采配の柄を
もつことができる立場にあるのではないか。〔中略〕フランスやイタリーと同じやうな側に
附くといふことが、国家の将来のために果たして利益であるかといふことは、判りきつた
話ではないか」と述べています。


168 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 22:56:14 ID:???

 西園寺の話の主旨は、大型巡洋艦の対米七割をあくまで主張することの非を論じて、五
大海軍国中の劣勢国である仏伊などとは与せずに、英米との強調による条約の成立を図る
べきだというものでした。また昭和天皇は、浜口首相に対して三月二十七日、「世界の平和
の為め早く纏める様努力せよ」と激励していました。若き昭和天皇、その最大の援護者で
あった元老西園寺、内大臣牧野伸顕、侍従長鈴木貫太郎、宮内大臣一木喜徳郎などの宮中
グループは、これまで述べてきたような、理想主義的な軍縮会議観の持ち主でした。
 一方では、海軍軍令部の加藤に代表されるような英米観も、たしかに整合性をもつもの
でした。たとえば、E・H・カーはその著書『危機の二十年』で、国際連盟の軍備縮小委
員会の様子を、リアリストの観点から冷ややかに描いてみせています。「自国に不可欠な軍
備は防禦のためであり善行であるとし、他国のそれは攻撃のためであり悪行であるとする
着想は、特に効果を示した。その十年の後に、軍縮会議の三つの委員会が、軍備を『攻撃
的』と『防御的』とに分類しようという無駄な努力に数週間も費やしたことがあった。各
国の代表は、自国が依存する軍備は防禦のためであり潜在的相手国のそれは本質的に攻撃
のためのそれであることを立証すべく、純粋に客観的な理論にもとづくという建前をとっ
て、きわめて巧妙な論議を展開した」。


169 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 22:56:51 ID:???

 ロンドンの場においても、潜水艦の全廃が人道的見地と軍縮の本義からして望ましいと
イギリス側が述べれば、アメリカ側も、潜水艦の濫用がアメリカを大戦に参加させる直接
の原因となったのだから、そのような兵器の存続を許容することは、不戦条約の下に召集
された会議にふさわしくない、と応じていました。しかし、当然のことながら、これに最
も反発したのはフランスでした。フランスは、ワシントン会議の際にフランスが主力艦に
ついての比率を受諾したのは、他の防御的な艦種について建造の自由をもつことを条件と
していたことを英米側に思い出させようとしていました。また、潜水艦は防御的な武器で
あって、主力艦や補助艦の比率が劣る国にとっては、沿岸防備や海外植民地との連絡保全
上必要なのだから全廃には反対であると、フランスの新聞などは論じていました。
「純粋に客観的な理論にもとづくという建前をとって、きわめて巧妙な議論を展開した」
とカーが評した軍縮論議のやり方でいえば、英米側の主張も巧妙でありましたが、加藤寛
治らの反論も、たしかに巧妙なものでした。加藤は次のように述べます。

  要するに軍縮は平時戦略の一種であって、彼〔アメリカ〕は之〔日本の戦備を対米六割とす
  る〕に依り不戦屈敵の実を挙げんとし、我〔日本〕は之〔同七割とする〕に依りて外侮を禦
  ぎ、戦争誘発の危険を避けんとする〔のであるから、どちらの主張が理にかなっており、どち
  らの主張が非であるか〕孰れが軍縮本来の精神と不戦条約の精神に合するか問はずして明
  である。                          (「軍縮所見」)

 加藤の論理では、対米七割の戦備をもつことで外国の軽侮を防ぎ、戦争誘発の危険を避
けられるのだから、日本の主張は軍縮と不戦条約の精神にかなうものであると説明したの
です。

170 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 22:59:29 ID:???

 カー流のリアリストの視点からみれば、国際問題において理想主義的な主張のなされる
のは、その主張をする国が最優位に立った瞬間ということになります。カーは、「国際的団
結とか世界連合の主張は、結合した世界を統制することを望んでの支配的国家から出され
る」、またいわく「国際的秩序とか国際的結合というのは、つねに、これらを他の国家に
押しつけるだけの強みを感じとっている国家の唱えるスローガンであろう」。
 日露戦争のおりの日本海海戦で劇的な勝利をおさめ、その後はカリスマ的な存在となっ
ていた東郷平八郎が、加藤寛治に対して、一九ニ九年十一月十三日に語った言葉は、まさ
にカーのいうところと通ずるものがありました。

  英米が口に不戦を唱え国際連盟を云ふなら、布哇や新嘉坡(韮島と云はれたるも此意
  ならん)此防備や兵力之集中は何之為かと云え。〔中略〕世界平和は結構、且つ万人之
  声なること幣原の「ラジオ」之如くなれど表と裏がある。幣原はアヽ云わなければな
  らんかも知れんが、吾々は其裏を考へ用心堅固にせねばならぬ。(「東郷元帥之御答え」)

 世界平和を外交官が説くことはよいけれども、不戦条約や国際連盟の裡面には、権力政
治的側面があることを忘れてはならないと、東郷は述べていたのです。


171 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 09:53:47 ID:???

主観的危機意識のめばえ

 これまで述べてきたように、ロンドン軍縮会議をめぐって相反する二つの観点からの議
論が国民の前で展開されているという状況がありました。そしてそこに、最低限の要求で
あると海軍側によって喧伝されてきた大型巡洋艦の対米七割要求が、どうも達成されなか
ったという事態が加わったとき、国民の対外的な危機意識は、主観的なものであったかも
しれませんが、たしかにここで胚胎されたというべきでしょう。この対外的危機意識が、
国民一体感や国家の統合を進展させてゆくという構造が生まれてきます。
 軍の青年将校などが、このころから、「昭和維新」「第二の維新」などをスローガンとし
て唱え出すのは、基本的には、明治国家がなによりも対外的な危機に対する対応から生ま
れたのだとの記憶が呼びさまされたからでした。国家の安全感が脅かされたときに、昭和
の時代に、明治維新が引用されるという事態が生じます。
 明治維新のときのような国民的一体感を再度高めなければならない事態、つまり対外的
な危機がふたたびそこにやってきている、という認識です。第二講の「西郷の名分論」の
項で論じましたが、西郷などは、旧幕府の倒れた理由を、ひたすら攘夷の戦争を避けて
「無事」を追求したこと、いいかえれば、外侮を受けて、武威が保てなくなった点に求め
ていました。このような認識は、第七講の「日米両国における移民問題」の項で示した、
参謀本部による議論――アメリカが移民法で日本を低く位置づけると、中国などが日本の
国力を低く評価することになるので、武威の低下につながり、それは、戦争の機会を増す
という論――と同一の認識です。


172 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 09:54:57 ID:???

戦争はできるという議論――陸軍の場合

 ここまで長らく、大戦の教訓――経済封鎖と総力戦への備えの重要性、さらには長期戦
への覚悟の必要性――が日本に根づきながら、なぜ海軍のなかで、日米戦争は可能である
と考える加藤寛治のような議論が生じえたのかについて、そしてその議論が、ロンドン海
軍軍縮会議の結果、成立しえなくなった経緯につい
てみてきました。そこで今度は、陸軍において加藤
と同様の役割を果たした、石原莞爾の議論をみてゆ
きましょう。
 少し時間はさかのぼります。一九ニ七(昭和ニ)
年、参謀本部作戦課員の鈴木貞一と要塞課員の深山
亀三郎が中心となって、軍の装備改善のためにつく
っていた研究会に、二葉会(陸軍士官学校十六期の永田
鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らが中心となり、反長州閥の方向での人事刷新、満洲問題の解決を図るための
同志的結合)のメンバーが合流するかたちで、木曜会という研究団体が組織されていまし
た。


173 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 09:56:13 ID:???

 ニ八年一月十九日に開催された木曜会第三回の会合で、当時、陸軍大学校教官であった
石原は「我が国防方針」との題で話をしています。ここで石原は、「日米が両横綱とな
り、末輩之に従ひ、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」と述べ、の
ちの最終戦論に結びつくような発言をすでにおこなっております。しかし、注目されるの
は、この日米戦争論ではなくて、むしろ、日本から「一厘も金を出させない」という方針
の下に戦争しなければならないといい、「全支那を根拠として遺憾なく之を利用せば、ニ
十年でも三十年」でも戦争を継続できると述べていた部分です。
 石原の論は大勢の聴衆を前にした、空虚な大言壮語のようにみえますが、石原の報告の
場には、永田鉄山(陸軍省整備局動員課長)、東条英機(陸軍省軍務局軍事課員)、鈴木貞一(参謀本
部作戦課員)、根本博(陸軍省軍務局課員)などの出席が確認されますから、真面目になされた
ものであると、まずは判断すべきです。石原の、この謎のような構想は、同時期に石原に
よってなされていた陸大の講義録にも反映されていますので、それによって、一厘も金の
いらない戦争構想について、補っておきましょう。
 貧弱な日本が、もし百万人規模の最新式の軍隊を出征させ、膨大な軍需品を補給しなけ
ればならないとしたら日本は破産するので、これは避けなければならない、といったあと
に、石原の講義は次のように続きます。

  我等の戦争は、「ナポレオン」の為したるが如く、戦争により戦争を養ふを本旨とせざ
  るべからず。即ち占領地の徴税物資兵器により、出征軍は自活するを要す。支那軍閥
  を掃蕩、土匪を一掃して其治安を維持せば、我精鋭にして廉潔なる軍隊は忽ち土民の
  信服を得て、優に以上の目的を達するを得べし。     (「欧州古戦史講義」)


174 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:00:52 ID:???

 石原は、ニ三年の国防方針における戦争の想定に従って、中国をめぐるアメリカとの対
立から戦争になることを予期していますが、そのアメリカとの戦いにおいては、中国全体
を根拠地として戦争を続ければ、戦争によって戦争を養えると、こう論じています。一厘
も金を出させないというのは、軍閥の支配に苦しむ中国へ、あたかも解放軍として日本軍
が乗りこんでいけばよい、との構想でした。
 なぜ、このような構想を抱けたのかといえば、後年の石原の回想によれば、ニ八年から
ニ九年にかけては、大戦によるロシアの崩壊、その後の混乱が未だ「天与の好機」だと考
えられていたためで、日本の大陸経営を妨げるものは、主としてアメリカだけであると思
われていたからだといいます。ソビエト=ロシアに対する危機感が強まるのは、もう少し
あとのことです。
 中国はといえば、一九ニ六年四月、北では、段祺瑞の下野後、奉天派の張作霖が呉佩孚
とともに北京政府を支配し、南では、同年七月、国民革命軍総司令に就任した蒋介石が北
伐を開始するという緊迫した情勢が続いており、ニ七年末には、南京の国民政府がソビエ
ト=ロシアとの国交断絶に踏みきります。ソビエト=ロシアは中国からも後退してゆくこ
ろでありました。


175 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:02:46 ID:???

 もちろん、このような石原の見通しは、満州事変後の、ソ連の軍事的強大化という新事
態によって狂いますが、中国の資源でアメリカと戦争を続けるという発想は、対日経済封
鎖をおこなえば日本側がとるであろうとアメリカ海軍が想定していたシナリオと、まさに
合致していました。二九年の時点で石原は、こう述べています。

  露国の崩壊は天与の好機なり。日本は目下の状態に於ては世界を相手とし東亜の天地
  に於て持久戦争を行ない、戦争を以て戦争を養う主義により、長年月の戦争により、
  良く工業の独立を完うし、国力を充実して、次いで来たるべき殲滅戦争を迎うるを得
  べし。                          (「戦争史大観)」

 ロシアが弱体のうちに、日中戦争を持久的に戦い、国力を充実させて、アメリカとの最
終的な戦争に向かうというイメージを述べています。これを荒唐無稽であるということは
たやすいのですが、歴史は、たしかに日本の工業が日中戦争のさなかに重化学工業化への
転換をとげたことを告げています。また、第一次世界大戦が終結した時点では、日本陸軍
はどこからみても三流の軍隊に落ちぶれていましたが、それも日中戦争によって大きく変
わります。ソビエト赤軍第四部の国際スパイ、ゾルゲが評したように、「日本陸軍は、中国
戦争のあいだに、ニ三万名に満たない小陸軍から、ドイツや赤軍規模の大陸軍に発展し
た。そのうえ、中国戦争までは技術上全く遅れていると見なされたのであったが、今では
すべての近代兵器を擁し、技術上も高度な歴戦の陸軍」といえるほどに変貌をとげること
になりました。


176 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:32:55 ID:???

満州事変へ

 基本的に、満州事変を起こさせた動機は、ソ連の弱体なうちに満蒙をとっておき、北満
洲までとっておけば、ソ連はしばらくは出てこられないという、石原の非常に楽観的な見
通しでした。石原が、ナポレオンの対英戦争のイメージで、「戦争を以て戦争を養う」「一
厘も金を出させない」方針で戦争ができるのだと語ったとき、これは、説得の論理とし
て、為政者や国民の意識のなかに入ってゆきやすいものだったのではないでしょうか。
 作戦行動としての満州事変は周到に計画されました。マーク・ピーティーが述べたよう
に、北満秘密偵察旅行などの知見に基づいて準備された周到な軍事計画というだけではあ
りませんでした。台湾の中央研究院近代史研究所の黄自進が明らかにしたところによれ
ば、事変の勃発時、関内の華北の第一三路軍を買収して反乱を起こさせ、満洲に駐留して
いた張学良の軍隊ニ〇万人のうち一三万人を関内におびき出して満洲を手薄な状態にする
という工作も実行されました。そして、その上で、一九三一(昭和六)年九月十八日、中国
東北遼寧省瀋陽(奉天)北方の柳条湖で、満鉄の軌条を中国軍が爆破したとの口実のもと
に、満州事変は起こされたのです。


177 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:33:58 ID:???

満州事変――計画者たちの主観

 為政者や国民が、いかなる論理を媒介にしたとき、戦争をやむをえないと受けとめた
り、あるいは積極的に求めたりするようになるのか、また、そうさせる論理というものは
どのような回路で生まれてくるのか、について考えるのが、本書のライトモチーフでし
た。それについていえば、この満州事変の前後ほど、国民全体の事変への受けとめ方が、
関東軍の発する言葉と一体化していた時期はなかったように思います。どのような論理を
媒介として、関東軍の事変への意義づけが国民に受けとめられてゆくのか、これを分析す
ることにしましょう。そのためには、まず、満州事変計画者たちの主観的な意図を検討す
る必要がありそうです。


178 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:35:09 ID:???

 事変勃発時に関東軍参謀の地位にあった石原莞爾にとって、事変による獲得目標は明快
でした。それは、@ソ連が未だ軍事的に弱体なうちに、しかもA中国とソ連の関係が最悪
なときをねらって、日本とソ連が対峙する防衛ラインを短縮させる方向で東北四省(黒龍江
省・吉林省・遼寧省・熱河省)、すなわち長城線以北の地域を軍事占領し包括的に支配すること
でした。この地域をなぜ支配しなければならないかといえば、先にみたように、アメリカ
との戦争の際に必要だったからです。一見すると満州事変は、ソ連の軍事的脅威、中国の
ナショナリズムによる脅威という、目の前の事態に対処するために起こされたようにみえ
ますが、それはむしろ付随的な問題であり、実際の当事者の主観では、将来的な国防上の
必要から起こされたという点を、まずはご理解ください。
 では、日本とソ連が対峙するラインを短縮させる方向での防衛拠点の形成というのは、
具体的には何を意味していたのでしょうか。それは、日本側が南満洲に加えて北満洲ま
で、すなわち東北四省をすみからすみまで占領してしまうことで、それまでソ連(北満洲)
と日本(南満洲)との勢力範囲を画していた境界線を、一挙に実際の中ソ境線まで押しあ
げてしまうことを意味していました。


179 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:35:56 ID:???

 そもそも、日本とロシアの勢力範囲を画した境界線は、一九〇七(明治四十)年の第一回
日露協約の追加約款で決められていたものです(前ページの地図を参照)。南北の満洲を分ける
境界線は、まさに満洲の見通しのよい平原を東西に横切る線でしたので、日本にとって
は、地形的に苦戦を強いられる不利なものでした。そこで、東北四省全体を軍事的支配下
に置くことをめざし、北は小興安嶺山脈という天然の要害と黒龍江で、西は大興安嶺で画
された中ソ国境線まで進出し、西南は松嶺・七老頭・陰山などの諸山で中国本土と境を隔
てる、という方策が選択されます。この場合、天然の要害部分を利用することで、実質上
の防衛ラインを短縮しうるとの軍事的判断がありました。


180 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:37:14 ID:???

 さて、これらの膨大な地域を軍事的に占領するには、当然のことながら、ソ連と中国の
現状に対する分析が事前になされていたはずです。先に、「@ソ連が未だ軍事的に弱体なう
ちに」と書きましたのは、内戦末期に五五〇万人に達したといわれている赤軍兵力が、一
九ニ八(昭和三)年の時点において、六三万人、戦車九ニ輛に縮小されていたとの判断が関
東軍にあったことを指しています。
 また「A中国とソ連の関係が最悪なときをねらって」というのは、ニ八年十二月の易幟
(東北政権が国民政府の支配下に入ること)後、張学良がソ連に対して強硬な姿勢をとったことに
起因する中ソ紛争が勃発していたことを指します。そして、国民政府の蒋介石はといえ
ば、江西中共軍に対する掃共戦を戦っている最中で、三一年七月ニ十三日、安内攘外(国
内の敵を倒してから外国に立ち向かう)方針を通電で全国に明らかにしている状況にありまし
た。総じて、ソ連も中国も、事変勃発に対して実効的な対抗措置はとれないだろうとの見
通しのもとに、事変が計画されたのです。


181 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:38:24 ID:???

事変への意義づけ@ 九ヵ国条約、不戦条約をどう乗りきるか

 これまで述べてきましたように、満州事変は、ある軍事的目的のために周到な計画のも
とになされた謀略的軍事作戦でした。石原や板垣征四郎などの関東軍参謀や、かねて彼ら
と密接に協力してきた満鉄調査課法制係主任の松木侠(事変後は関東軍国際法顧問として活動)
などは、一九ニ〇年の連盟規約、ニ二年の九ヵ国条約(中国の主権・独立・領土的行政的保全を
尊重する)、ニ八年の不戦条約(国家の政策の手段としては戦争にうったえない)などを、おそらく
根拠としてくる連盟やアメリカの介入を防ぎつつ、どのようにしたら東三省全体、あるい
は東北四省全体を国民政府の支配から切りはなせるかについて、事変の発現形態をデザイ
ンしていました。満洲全体を奪取する究極の目的は、対米戦にあるわけですが、それは国
民の前には伏せられています。この点を伏せつつ、満洲を切りはなすための、さまざまな
説明が内外への説得の論理として、準備されるようになります。


182 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:40:16 ID:???

 まず、連盟規約と九ヵ国条約に対しては、これらの条約は日本が東北を中国本部(東北以
外の部分)から分離するような直接行動を許さないけれども、「満蒙新政権の樹立は表面支那
自体の分裂作用の結果なり」(「昭和六年秋末に於ける情勢判断同対策」)という線で説明するこ
とが可能であるとの認識をもっていました。さらに、「支那人自身が内部的に分離するは、
右条約の精神に背馳せず」(「一九三二年一月 板垣参謀携行案」)との考え方が普通になされて
いたことは、さまざまな文書からも確認できます。
 現在の地点からみれば、いかに荒唐無稽な論理にみえようとも、こういった方法によっ
て、連盟規約と九ヵ国条約を乗りきろうとする方針は、実際に、陸軍・海軍・外務三省課
長間での合意になってゆきました。「満蒙政権問題に関する施措は九国条約などの関係
上、できうる限り支那側の自主的発意にもとづくが如き形式によるを可」とする旨が、三
二年一月の時点で、決定されていました。第一次世界大戦後の民族自決の論で説明してし
まおうとするものです。


183 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:42:45 ID:???

 もう一つ、不戦条約を根拠とする、予想される批判についてはどうでしょうか。日本に
よる軍事行動が、国策の手段としての戦争を禁じた不戦条約に抵触しないと、本気で考え
られていたのでしょうか。先に名前の出てきた満鉄調査課の松木が起草した文書は、不戦
条約の締結に際してイギリスが、「世界の或地方に於ける治安は、英国の利益に緊切なる関
係を有するに付、其地方に於ける英国の自由行動を認められ度き」旨の留保をつけたこ
と、その際日本もまた、自衛権の発動が不戦条約の規定に拘束されない旨の留保をなした
ことを述べていました(「昭和六年十一月 満蒙自由国設立案大綱」)。自国の安全に関係ある、特
定の地域に対する自衛行動については、不戦条約締結時に留保してあるのだ、との認識が
みられます。
 ここに、第八講で述べた石原構想――張学良による中国東北部の支配を匪賊並みの軍閥
支配であるとみなし、軍閥・匪賊の収奪から住民を守れば、関東軍は現地で自活できると
の考え――が加わるわけです。関東軍の作戦の最中に、張学良の支配に苦しむ満洲の人々
が、圧政に耐えかねて独立をはかったのだという筋書きなのでしょう。


184 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:56:10 ID:???

 こういった文書を読みますと、満洲の独立国家化は九ヵ国条約や不戦条約に抵触しない
方法で達成できるし、そうしなければならないとの、ある意味で不敵な気迫が伝わってき
ます。アメリカや連盟による、一連の条約を理由とした干渉の余地がないように、国民政
府からの東北全部の離脱というかたちをとって九ヵ国条約を乗りきる決意を、関東軍参謀
などが事変勃発後早い時期にかためていた様子がうかがわれるのです。
 そうであれば、張景恵、熙洽、于?山などの満洲に生活基盤をもつ政客が、国民政府か
らの離脱を表明する決起宣言を「自主的」におこなう気になるような状況が整備されてい
なければならないことになり、そのためには、張学良の力を支えていたその軍を、東北か
ら駆逐する必要性が生じます。張学良軍の精鋭が、奉天から南下して集結していたのが錦
州ですから、関東軍にとって錦州をおさえておくことは絶対に必要だと考えられました。


185 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:57:29 ID:???

 関東軍が、連盟注視のもとで、満鉄沿線からはるかに離れた南北にわたる満洲全域での
作戦行動(もちろん表面上は鉄橋の修復などといった理由をもうけて)をやめようとしなかったの
は、東北全体の要地を軍事的に制圧し、張学良軍の勢力を南に追いやることなくしては、
のちに満州国に参加してくるような政治家たちが国家建設に乗り出してくるわけがない、
との判断によると思われます。軍事的作戦によって全体性が担保されることで、東北の全
部の省での、国民政府からの離脱宣言が可能となるとの因果関係です。
 関東軍は、事変勃発から数ヶ月間、連盟における日本代表や幣原外相の努力を愚弄し、
陸軍中央の停止命令を無視する態度をとりました。しかしそれは、みずからの力を政府や
連盟に対してみせつけるための無軌道な挑発というよりは、九ヵ国条約違反という予想さ
れる足かせを、張一族の「悪」政からの独立という、民族自決の論法で説明しきるための
条件を整える作業と考えたほうが実態に近いでしょう。関東軍は、この路線での説明に自
信さえもっていたのです。


186 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:58:36 ID:???

 連盟がリットン調査団を派遣して、調査団が実際に調査をおこなっていた時期にあたる
三二(昭和七)年五月一日、橋本虎之助関東軍参謀長が小磯国昭陸軍次官に宛て、連盟を敵
視するような日本国内の新聞論調に不快感を示し、注意を促した電報からも、それは察せ
られます。

  内地新聞等に、連盟を敵視する如き傾向あるは満洲問題に関する限り面白からず。寧
  ろ之を脅威するよりも、納得せしむるを可なりと思惟す。

 関東軍が、連盟調査員を納得させる自信があり、納得させなければならないと考えてい
た点を注目してください。少なくとも、関東軍参謀や満鉄調査課の松木などは、日本の行
動が、実のところ、連盟規約・九ヵ国条約・不戦条約違反であると自覚していたことにつ
いては、「表面」中国の自壊自体の結果とするようにみせるという言葉づかいや、「自発的
発意に基づくが如き形式」、という表現からもわかります。しかし、彼らは、関東軍の行動
は自衛のためであり、満蒙の独立国家化は張一族の「悪」政から満洲の人々が逃れるた
めの中国人自身の自壊作用なのだと、自国民に対しても、また世界に対しても、断固と
して説明し続けました。
 関東軍のこうした行動と説明に、国民が心から一体化できた背景としては、九ヵ国条約
違反でも、不戦条約違反でもない手法で、満蒙の既得権益を守れる途を関東軍が示したこ
とへの評価があったからでしょう。それでは、関東軍参謀や満鉄調査課員たちのみなら
ず、国民もまた、なぜこれほどまでに、条約に違反しない日本、という前提の確保に固執
したのでしょうか。それを次に考えてみましょう。


187 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 22:59:27 ID:???

事変への意義づけA 中国への非難

 日本側は事変勃発のかなり以前から、条約を守らない中国、条約を遵守する日本という
図式に立つ論法を再三にわたって展開していました。その当否については、あとで詳しく
検討しますが、条約を守らない中国といって日本が中国を非難する場合に、含意されてい
たのは、大きくわけて二つの問題についてでした。
 第一の非難は、条約に基づいて日本が正当に取得した権益を、背信または不法行為によ
って中国側が阻害しているという主張でした。その阻害に対して、実力をもって権利を自
衛したのだという論理になります。とくに重大であるとみなされた、条約上の権利侵害に
は二つありました。


188 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:00:32 ID:???

 具体的には、@南満州鉄道付近にそれと併行する幹線および、利益を害すべき支線を敷
設しないという、一九〇五年の取極(「満洲に関する日清条約附属取極」)があるにもかかわら
ず、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと、A南満洲において、各種
商工業上の建物を建設するための土地あるいは、農業を経営するための土地を商租する権
利が、一九一五年の「南満洲及東部内蒙古に関する条約」によって認められているにも
かかわらず、たとえば、間島における朝鮮の農民が土地を商租する権利が中国側官憲の不
誠意によって実現されていないこと、の二点でした。
 第二の非難は、満洲の都市部・華中・華南で広くみられた排日貨、対日ボイコットが中
国側の組織的な指導によってなされているとの主張でした。ボイコットがなぜ条約違反と
なるのでしょうか。それについて、一つの事例をみてみましょう。


189 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:01:03 ID:???

 三一年十月十七日、満州事変に関して、フランスが日本に対して、不戦条約との整合性
に注意を喚起した通牒を送って日本に圧力をかけたことがありました。その際、日本政府
は、十月二十二日付で回答を発し、それまで何度も中国各地で展開されていた組織的排日
運動を取りあげ、「中国政府が其の自国民の法律無視の行為を容認するは、パリ条約〔不戦
条約のこと〕第二条の明文又は其の精神に合致するものと認むる能はざる」と切り返してい
たのです。
 つまり、不戦条約第二条(「条約国は相互間に起ることあるべき一切の紛争又は紛議は、其の性質又
は起因の如何を問はず、平和的手段に依るの外、之が処理又は解決を求めざることを約す」)の条文から
すれば、中国がたとえば日本の山東出兵などに対する復仇措置としてボイコットをしたと
主張しても、それは、平和的手段によって解決されなければならなかったと反論していた
のです。この事例からは、対日ボイコットを取り締まらなかったという点で、中国政府の
行為こそが不戦条約違反にあたるとの日本側の考え方がわかります。


190 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:02:16 ID:???

 日本側が展開していた論理は、満鉄併行線問題にしろ、商租権問題にしろ、ボイコット
問題にしろ、徹頭徹尾、条約で規定された守られるべき日本の権利が蹂躪された以上、そ
れを実力で守ってどこが悪いのかというものでした。日本を正とし、中国を悪とする、二
分法の論理です。わたくしはここに、先ほどみた、関東軍参謀や満鉄調査課員松木、のみ
ならず、国民の世論が、事変の適法性にこだわった理由があるのだと考えています。中国
は条約違反の国家であると、心からの怒りをもって日本国民が中国を糾弾するためには、
日本の行動がいかなる意味でも違法であってはならないかったわけでしょう。
 リットン報告書の附属書には、大阪商業会議所に属する経済人たちと、リットン調査団
の面々が会った際に、同会議所によって手交された文書が引用されています。そこには、
対外戦争に対しては懐疑的であってもいいはずの経済人の言葉としては、かなり激しい調
子の、次のような言葉が連ねられていました。


191 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:03:37 ID:???

  世上ボイコット運動を目して、支那の蒙りたりと自称する不法行為に対する復仇措置
  として、支那側の採用せる手段なりと為すものあり。又現下のボイコットに付満洲に
  於ける紛争が其の原因なりと為すものあり。斯かる論法は全然誤謬にして決して正当
  なるものに非ず。満洲の変乱を惹起せるは〔中略〕支那が条約に依り日本に認められた
  る権利を尊重せず、日本をして其の権利を確保する為正当防衛の行動に出づるの外な
  からしめたるに依る。

 経済的に不当な差別を受けたという感情は、重要です。満蒙問題の解決を掲げていた、
木曜会という陸軍中堅幕僚たちの組織については第八講でふれましたが、一九ニ八年二月
十六日に開催された第四回の会合で、幹事役の参謀本部作戦課員鈴木貞一は、注目すべき
発言をしています。「現代の国家は何物なるか」と問いかけて、それは「自由を獲得せんが
為めのもの」であると定義し、そのなかで最も大切な自由が、経済的自由であるというの
です。経済的自由を獲得するのが、現代の国家の役割であると参謀本部の軍人までが述べ
るようになる雰囲気が、この時代には、たしかにありました。


192 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:04:10 ID:???

 これまでみてきた、中国に対する非難をまとめれば、@条約上で認められた日本の満洲
既得権益への侵害、A不戦条約違反の行為である反日ボイコットを、国民党が組織してい
ること、の二点になります。この二点について、条約を守る日本、条約を守らない中国と
いう見事なまでに徹底した立場が貫かれています。しかし、国際関係というものは、それ
ほど明確に黒白がつけられるものなのでしょうか。条約で認められた日本の権利を中国側
が守らないといった場合、それは、中国が革命外交的なアプローチ、すなわち、自由意思
によって締結された条約でないから遵守しないとの論理を展開して、中国側が守らなかっ
たのか、あるいは、中国国民のナショナリズムが、日本の度重なる侵略的行為で刺激され
た結果、中国側も日本の条約上の権利を力で蹂躪するようになったのでしょうか。それと
も、長いあいだにわたって蓄積され獲得されてきた、条約や規定の解釈自体に、もともと
グレーゾーンがあったのでしょうか。それを次に検討してみましょう。


193 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 00:56:58 ID:???

条約解釈上の問題@ 商租権問題

 これまで、日本側が主張していた論点を追ってきましたが、満洲や中国で起こっていた
事態は、日本側が主張するほどに自明なものだったかという点について、次に考えたいの
です。ことに、満洲における権益は、長い時間をかけて日本の歴代内閣が、そのときどき
の中国政府の権力者とのあいだに締結してきた条約によって守られてきました。そうであ
れば、その間、条約締結の時点では想定できなかった問題からくる、日中双方の意見のず
れも出てくるのではないでしょうか。
 その間も顕著な例が、商租権(当事者商議による自由契約の土地貸借)問題です。これは、ニ
十一ヵ条要求のうち、日中間に締結された「南満洲及東部内蒙古に関する条約」第二条に
関係しています。第二条は、「日本国臣民は南満洲に於て、各種商工業上の建物を建設する
為、又は農業を経営する為必要なる土地を商租することを得」との条項であり、最後通牒
の圧力によって、当初の日本案どおりに決定されたものですが、中国側の抵抗の最も激し
かった条文でもありました。


194 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 01:02:36 ID:???

 外国人の内地雑居は領事裁判権と密接な関係があります。そのため中国側は、外国人が
開港地以外の内地に雑居し、かつ中国の法律に服さないというのでは、中国の主権の破壊
になると主張し、領事裁判権を日本側が依然として持つ以上は、内地雑居を許可できない
との反論を展開しています。日本においても、不平等条約下におかれて治外法権を回復で
きなかったときには、外国人に内地雑居や内地貿易を許していなかったではないか、と中
国側は反論していました。
 実際、日本の姿勢も以前とは変わっていました。かつては、外国人が中国において治外
法権を享有するのは、開港市居住者もしくは内地遊歴者に限り、広大な未開拓地に雑居す
る人民に裁判権を保有することは、外交上前例がないとの立場でした。しかし日本は、ロ
シアが外蒙古において土地商租権を獲得した事例(一九一三年十一月の中露協定、露蒙通商約定)
を前例として、同様の特権を要求したのです。外交上前例がないと日本自身が認めていた
商租権を、中国の行省に対して行使しようというのです。ロシアの事例である外蒙古は、
中国にとって行省ではなく、周辺地域である藩部でした。どの列強も条約上獲得したこと
のない、強力な権利を日本側が獲得しようとしたこと、この点にまずはご注目ください。


195 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 01:04:20 ID:???

 次に、中国は結局この条文を認めるのですが、実はここに、解釈上の矛盾が生じること
になりました。外交史家臼井勝美の優れた論稿が明らかにしているように、一九〇九(明治
四十二)年、日清間(中華民国成立は一九一二年)に締結された間島協約で、日本側はすでに、
清韓国境である豆満江北部の雑居地域間島(吉林省延吉、和龍、汪清の三県からなる地域。慣例と
して琿春県も包含する)内の韓国(大韓帝国)籍住民が関係する、民事・刑事いっさいの訴訟事
件を、清国側の管轄に置くことを承認していました。しかし、その後の韓国併合という事
態、さらには一九一五年の「南満洲及東部内蒙古に関する条約」第二条の成立により、雑
居する日本人に対しては、土地訴訟以外、日本の法律が施行され、領事裁判権が雑居地ま
で拡大され、その際に間島在住の朝鮮人(もちろん併合後は日本臣民となっていました)の地位が
変更されるか否かが問題となってきました。


196 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 01:07:28 ID:???

 一五年の条約は第八条で、満洲に関する日中間の現行条約は、本条約に別に規定するも
のを除き、いっさいこれまでどおりに実行すると規定していたからです。日本側が一九〇
九年の間島協約を一五年の条約によって、確実に無効とするつもりであったのならば、一
五年の条約あるいは交換公文において、「別に規定」しておくべきでありました。
 しかし、それはなされませんでした。事実、外務省は当初、間島協約は特別の地方に関
する条約なので、従来どおり効力を有すると解釈するのが公平であると判断していまし
た。こうした外務省の見解は、一五年の条約は間島協約の効力になんら影響を及ぼさない
との、中国側の解釈と同じものでした。このような方針に対しては、さっそく、朝鮮総督
府などから強い反対がよせられます。その圧力もあり、日本政府は、一五年八月十三日の
閣議決定で、南満洲及東部内蒙古に関する条約によって、間島協約は消滅したとの立場を
とることとし、朝鮮人を被告とする民事訴訟事件は、一律に日本領事が審理するとの方針
を中国側に伝えます。


197 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 01:08:40 ID:???

 この決定は重要です。なぜなら、中国側としては、日本の領事裁判権に服する朝鮮人を
多数、雑居地に抱えることになるからです。間島在住朝鮮人の司法的処遇をめぐって、日
本側と中国側の条約解釈は当然のことながら、対立するでしょう。間島協約には、そもそ
も土地貸借についての規定はありませんでした。しかし、当事者商議による自由契約の土
地貸借をめぐる問題が生じた場合、当事者間の司法的処遇が明確になっていなければ、問
題は実態をともなわないことになります。そのため、司法的処遇をめぐる条約解釈が、商
租権問題の実行に大きく影響することになったわけです。
 問題をより深刻化させたのは、満洲にいる朝鮮人の数の多さと、その彼らが日本臣民と
して土地商租権を中国側に行使するときに予想される事態でした。一九ニ七年時点の満鉄
による数字によれば、在満朝鮮人の数は八一万一五八〇人に達し、その半数が間島地域に
存在すると見積もられています。間島協約と南満洲及東部内蒙古に関する条約という、二
つの条約の整合性が、日中間の解釈上の対立を引き起こす根源にあったのです。


198 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 01:10:03 ID:???

 これまで、条約解釈上の、ある意味では煩瑣な問題を述べてきたのは、次のことを実証
するためでした。日本の条約上の権利であった商租権の執行が中国官憲によって阻止され
た理由は、一九一五年の南満洲及東部内蒙古に関する条約を、中国側が自国の急進的なナ
ショナリズムゆえに認めなかったからだ、あるいは、自由意思に基づいて締結された条約
ではないといって認めなかったからだと、簡単に決めつけることはできないということで
す。
 もちろん、朝鮮人の満洲定住に対しては、日本の政治的、経済的侵略の危険な先駆であ
るとの見方が中国官憲にはあり、朝鮮農民に対する措置に反日的なナショナリズムの影響
があったこともまちがいないところです。しかし、日中両国の主張の差異は、基本的に
は、帝国主義外交の時代でも現代でも同様にみられる、条約解釈上のグレーゾーンから生
じていたといえるでしょう。


199 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 17:49:47 ID:???

条約解釈上の問題A 満鉄併行線禁止問題

 中国側の条約違反といった場合、第一に言及されるのが、満鉄併行線禁止条項にからむ
問題でした。石原・板垣とともに満州事変にかかわった満鉄調査課法制係主任松木侠が、
事変の一年前、一九三〇年九月に執筆した「満蒙の東洋に於ける経済的地位」という文書
のなかの「満蒙の国際関係」から、その問題をみておきましょう。
 まず松木は、吉海鉄道(一九二九年八月竣工)を敷設することで、中国側が二つの「条約」
(松木は条約と表現していますが、これはのちに述べるように、通常の意味での条約ではないので、括弧を
ふしてあります)に違反していると述べています。一つめの「条約」は、一九〇五年十二月ニ
十二日の「満洲に関する日清条約附属取極」第三条です。わたくしはこの規定について、
『日本外交年表竝主要文書』に従い、このような呼び方をしましたが、松木はこれを条約と
し、「日清満洲善後条約に関する秘密協定」と呼んでいます。条文は以下のとおりです。

  清国政府は南満洲鉄道の利益を保護するの目的を以て、該鉄道を未だ回収せざる以前
  に於ては、該鉄道付近に之と併行する幹線又は該鉄道の利益を害すべき枝線を敷設せ
  ざることを承諾す。


200 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 17:57:10 ID:???

 二つめの「条約」は、一八年九月二十四日、日中間になされた「満蒙四鉄道に関する交
換公文」です。日本の資本家からの借款により、四つの路線を建設するとの中国政府声明
を、日本側が了承したというかたちで交わされた取極でした。四つの計画線とは、@開原
海龍―吉林間、A長春―?南間、B?南―熱河間、C?南―熱河間の一地点より海港にい
たる線をさします。このニ「条約」があるにもかかわらず、中国側は、併行線を日本の借
款によらず敷設したので条約違反であると、松木は述べていたのです。
 松木が問題にしていた条約違反の鉄道例の二つめは、打通鉄道(一九ニ七年十月開通)につ
いてでした。京奉鉄道打虎山駅から分岐し、黒山、八道溝、新立屯、彰武を経て四?鉄道
鄭通枝線の終点である通遼にいたる鉄道です。この鉄道が開通して、四?および?昴両鉄
道と連絡するときは、満洲を南北に縦断する鉄道が完成することになり、一九〇五年の、
「満洲に関する日清条約附属取極」第三条に違反している、といいます。こういった主張
は、この時期の日本側の主張に共通してみられた論点でした。競争線を禁じた一九〇五年
の取極に違反するだけではなく、条約上獲得された満鉄を死滅させるとの主張でした。


201 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 18:00:57 ID:???

 ここで、まず、この一九〇五年の取極が条約と呼べるものであるかどうかについての議
論を紹介しておきましょう。たとえば、リットン報告書には、日本側が条約と呼んでいる
取極が、「千九百五年十二月四日北京会議の第十一日目の会議録中に発見せらるる」こと
を指摘していました。つまり、条約ではなく、議事録中の文言であるけれども、たしかに
存在するとの立場をリットン報告書ではとっています。
 もちろん日本側は、リットンへ提出した一連の資料のなかで、これが、カーネギー国際
平和財団によって出版された、ジョン・マクマリー執筆の『中国に関する条約集』にも記
載されている条約であると反論しています。取極が条約と異なるのは、一般的に、調印、
批准、批准書交換、公布などの手続きがなされない点にあります。調印の日時、全権の記
名・捺印もなされないことが多いので、様式上は区別されます。
 興味深い点は、日本側がこの権利を獲得してほどない一九〇八(明治四十一)年九月二十
五日の閣議決定の文書などでは、併行線を禁ずるこの取極について、「日清会議録の正文
及精神」と呼んでいたことです。同様に、翌年七月十三日の閣議決定の文書でも、「北京
会議録中に存する明文」と呼んでいました。締結当時の感覚では、リットン報告書の指摘
と同様、北京会議録中の約束であるとの、現実に即した認識が日本側にもあったのです。


202 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 18:01:41 ID:???

 さて問題は、取極か条約かどうかということよりも、この規定文中の「付近に之と併行
する幹線」「利益を害すべき枝線」の定義をめぐって生じうるのではないでしょうか。「付
近」「併行線」「利益を害すべき枝線」は、何をもって定義されるべきものでしょうか。中
国側は、まず「付近」の定義について、欧米における慣行、つまり約一ニマイルから三〇
マイル以内の鉄道を、「付近」とするとの定義を採用していました。間隔を狭くとること
で、たとえば、三〇マイル以上離れた地であれば敷設できるとの立場をとったわけです。
 しかし、たとえば、一八九八年、露清銀行と中国当局が、正太鉄道に関して交わした契
約によれば、該鉄道の両側各約三八マイル以内の競争線が禁止された例がありました。ま
た、一九〇二年、北京山海関鉄道に関して、中国とイギリス間に交わされた協定第五項で
は、八〇マイル以内の鉄道の建設が禁じられるべきことが決められていました。こういっ
た例をあげて、欧米における慣行に従うという中国側の主張が一貫したものではないと、
日本側などは一九〇八年の時点から反論していました。三〇マイルが「付近」の慣例とな
ることを不断に阻止していたわけです。


203 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 18:13:27 ID:???

 一方で、日本側においても解釈が揺れていました。たとえば、翌年七月十三日の閣議決
定の文書中には、その解釈のゆれについて、率直に記されています。それは、中国当局が
敷設を予定していると思われた錦州―チチハル間を結ぶ錦齊鉄道に対して、日本側のとる
べき措置について考察した部分です。同鉄道が、満鉄の併行幹線にあたるのは間違いない
けれども、「付近の」鉄道であるかどうかは、疑問だとしています。最短の部分で約一〇〇
マイルあったからです。この時点では、一〇〇マイル離れた鉄道を「付近」と呼ぶ議論は
成立しないとの自覚が日本側にありました。このように、「付近」「併行線」「利益を害すべ
き」という言葉は、曖昧なものでしたので、そのときどきの両国政府の力、借款の条件な
どによって、繊細な外交技術をもって再定義されていたというのが実情でした。
 また、満鉄の利益を死滅させるための満鉄包囲網が形成されたという非難についても、
それほど自明なものではありませんでした。日中両国の通貨の下落は、運賃体系と割引率
という面で、満鉄と中国系鉄道との競争に、当然のことながら影響を与えていたでしょ
う。さらに、たとえば、ソ連に対する北満洲での軍事作戦上の必要性から、日本側が中国
による北向きの鉄道敷設を積極的に許可していた時期がありました。ソ連侵攻に対抗する
ための鉄道敷設という、軍事的な観点によってみずから選択した政策が、結果的に満鉄と
の併行線の一部分を形成していたという因果関係です。


204 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:31:02 ID:???

戦争をおこなうエネルギー

 これまで、商租権の問題と、満鉄併行線禁止問題をとりあげて、やや細かく検討してき
ました。そもそもの問題となった条約あるいは取極が最初に日中間に締結されたときには
未だ生きていたリアルな認識が、論争の過程で失われていったこと、そしてきわめて原理
的な対立として、不退転の決意で問題化されてしまったことがわかります。満州事変が起
こされる以前にすでに、完全な二分法による、絶対的な怒りのエネルギーが蓄積されてい
た様相がうかがえるのです。戦争をおこなうためのエネルギーの供給源は、まさに国際法
にのっとって正しく行動してきた者が不当な扱いを受けたという、きわめて強い怒りの感
情でした。
 条約=法を守る日本、法を守らない中国という、日本側の深い確信は、潜在的には一九
ニ〇年代を通じて蓄積されてきたものでした。たとえば、北京政府と国民党の対立、北京
政府内部の奉天派と直隷派の対立の際に、それぞれの勢力は往々にして当初の意図よりも
過激な排外的ナショナリズムにうったえる傾向にありました。すなわち、中国国内の世論
や勢力を味方にひきいれることを目的として、条約関係の廃棄合戦がしばしばおこなわれ
ていたのです。また国民党内部の左右対立は、北伐の過程で、どちらがより反帝国主義的
であるかを競い合いながら進行してゆきました。


205 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:31:43 ID:???

 しかし、九ヵ国条約がワシントン体制の中核的条約として評価できる点は、不平等条約
の最たる内容であった関税率の改定と治外法権について、再検討する仕組みをあらかじめ
設定してあったことです。中国もその条件に同意していました。中国に対する不平等条約
は、交渉によって段階的に廃棄されるという事態が、ニ〇年代初頭には予想されていたの
です。もちろん、既得権益をもつ列強は、同時に九ヵ国条約第一条第四項で、「友好国の臣
民または人民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため、中国における情勢
を利用すること、およびこれら友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えるこ
と」という「安全条項」などに、その既得権益を侵されない保障を見出していました。
 ワシントン会議の席上、中国側は「事情変更の原則」(条約や法律は、その原点となる状況が変
化しない場合のみ有効であるとする考え方)を掲げて、ともすれば、現行の外国人特権と、その
特権を保障している条約を骨抜きにしようとしたため、さまざまな場面で、さまざまな列
強から牽制されました。事実、ワシントン会議全権幣原喜重郎は、一九ニ二年二月二日、
極東総委員会において、次のような陳述をおこなっています。


206 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:32:43 ID:???

  支那が自由なる主権国として締結したる国際的約定を廃棄せがむ為、現に執らむとす
  る手段に付ては、同意を表するを得ざるものなり〔中略〕何国と雖も、領土権其他重大
  なる権利の譲渡を容易に承諾するものに非ざることは言を俟たず。若し条約に依り厳
  然許与せられたる権利が、許与者の自由意思に出でざりしとの理由を以て、何時にて
  も之を廃棄し得べきものとするの原則一旦承認せられむか、是れ亜細亜、欧羅巴其他
  到る処に於ける現存国際関係の安定に、重大なる影響を及ぼすべき極めて危険なる先
  例を開くものなり。

 ある条約が、強要された状況で締結されたから廃棄してよいとの論拠を認めれば、たと
えば、ドイツに巨額の賠償金を課したヴェルサイユ条約なども、ドイツ側によって廃棄さ
れることになってしまうという論法で、幣原は、一九一五年の南満洲及東部内蒙古に関す
る条約の廃棄を求めた中国側の要求を明確に拒絶していたのです。こうして、三〇年代の
日本人の感覚のなかに、中国=条約を遵守しない国とする認識が定着していきます。中国
のそうした態度は、実は二〇年代からあったことなのだ、いやむしろ悪化したのだ、ワシ
ントン体制維持に最も忠実であった幣原でさえ、すでに中国を批判していたのであるか
ら、といった回路が生じるのです。自分たちは従来と同じことをやっているのに、相手の
態度が変わって迷惑をこうむった、けしからんという認識の枠組は、原理的な対立をより
深めることになるはずです。


207 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:33:50 ID:???

 条約上の解釈からいって当然ありうるグレーゾーンを無視して、ある国にとにかく条約
を守らせようとする日本側の姿勢を述べてきましたが、この姿勢について、どこかでみた
ことがあると思われた方もいるでしょう。この姿勢は、すでに第七講に出てきています。
排日移民法を、国際法の威厳にかかわる問題として、国際連盟などに付議していこうと参
謀本部が息巻いた、あの一件です。ニ四年の時点で参謀本部が予想していたような事態、
つまり日本からみて不当な国の非を国際的に暴こうとする姿勢が、満州事変後、現実とな
ったわけです。もちろんその発端は、日本による満鉄線爆破という謀略によって作為され
たものでしたが。
 こうして国民のなかに、連盟における調査と調査団の報告を、あたかも国際法の威厳が
試される場として、黒白の審判が下される場として、非常に大きな期待をもって注視して
ゆくという感情がめばえます。しかし、リットン調査団が有能であればあるほど、先に述
べたような、条約解釈上のグレーゾーンが浮かびあがってこざるをえません。実際、リッ
トン報告書は日本の主張と中国の主張の双方を認めた内容だったのです。ところが、日本
国民のなかに定着した中国に対する不信感と国際法への過剰な期待ゆえに、リットン報告
書は日本への全面的な糾弾だとみなされることになりました。


208 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:52:43 ID:???

リットン報告書の立場

 リットン卿を委員長とするリットン調査団は、一九三一年十二月十日の連盟理事会決議
によって組織されたものでした。調査団が判断を下している部分は、膨大な報告書のなか
でも三ヵ所しかない、とリットンはある講演のなかで述べています。それをまずみておき
ましょう。一つめは、九月十八日の関東軍の行動は自衛行動ではないが、関東軍将校たち
が自衛と考えて行動した可能性については否定しないとの判断です。二つめは、満州国独
立は、中国の主権の尊重と行政的統一を図る九ヵ国条約に抵触するとの判断です。三つめ
の判断は、前段で、日本の経済的権益擁護の必要性について述べ、後段で、満洲を中国の
国民性と切りはなすことはできないとの認識を示した部分にありました。
 報告書は、張学良政権の満洲復帰も、満州国の存続も、ともに認めないものでした。連
盟理事会が中国と日本を招請し、東北についての行政組織を考えるための諮問委員会を組
織する、そして、国民政府から広範な自治権を付与された政権をつくるため、日中双方と、
日中おのおのが推薦する満洲地域の現地代表者を加えた、三者による直接交渉によって最
終的解決を図るべきである、と提言していました。


209 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:53:18 ID:???

 注目すべきは、報告書や附属書が、日本側の主張していた経済的権益の侵害について、
ほぼ認める記述をしていたことです。いわく、@
日本は、ここに記述されているような中国の無政
府状態により最も苦しんだこと、A現在の状態で、
中国の法律・裁判・課税に服従させられるとした
ら、これによって最も苦しむのは日本であること、
B外国品と国産品に対する、中国側鉄道の差別的
運賃体系が不当なこと、C東北政権による大豆買
付手段による通貨の操縦が、地域民衆の収奪につ
ながる恥ずべきものであること、D近代国家およ
び近代的国際関係の見地からみて、反日ボイコッ
トの方法が不当かつ違法なものであり、にもかか
わらず中国官憲・法廷が適切な抑圧措置をとらな
かったという点で、国民政府には責任がある、と認めたものでした。
 しかし、中国への国際法的な審判が下されることを期待していた国民が、この非常によ
くできた報告書に非難の言葉をぶつけるのは、ある意味では必然的なことでした。このよ
うに、国際法の威力によって他国の日本に対する姿勢を改変させようとする、日本側の原
理主義的な姿勢は、一九ニ〇年代にはすでに生まれていたものですが、三〇年代の満州事
変によって、巨大なエネルギーを新たに供給されて、太平洋戦争を準備してゆく国民的な
心性を形成したといえるでしょう。


210 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:54:09 ID:???

アメリカの新しい法体系の恩恵と拘束力

 たしかに、満州事変は、日中戦争、太平洋戦争へとつながってゆく最も大きなターニン
グポイントでした。しかし、満州国が熱河省までをその支配領域におさめ、一九三三
(昭和八)年五月三十一日、関東軍と中国軍のあいだに塘沽停戦協定が締結されると、長城
線が実質的に満州国と中国の「国」境となり、日中間に一定の安定がもたらされます。同
年三月二十七日に連盟を脱退した日本は、満州国と条約を締結することで、これまでの日
中間の懸案を解決し、それ以降は連盟による多国間協調方式ではなく、日ソ、日中、日英、
日米といったような、二国間の協調を個別に積み重ねる外交方針をとりました。
 ヴェルサイユ・ワシントン体制の本質が、経済的協調をバックボーンとするものであっ
たとすれば、世界恐慌を直接的な起因として、英仏の対米戦債問題(アメリカが英仏などの戦
債支払い延期に理解を示そうとしなかったことからとくに米仏が対立)や、各国の国家主義的な貿易
再編の方向(帝国内の特恵関税などで自国だけが不況から回復しようとする姿勢)で経済的な協調が
困難になったとき、体制そのものの存続も困難になっていくはずでした。


211 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:54:48 ID:???

 しかし、世界恐慌から回復に向かいつつあったアメリカで、さすがに、この傾向に歯止
めをかけ、アメリカを中心とする世界の再建を意図した改革が始まります。三三年三月に
成立したローズヴェルト政権は、自国の利害をヨーロッパから切りはなしておくという孤
立主義的な方策をとり続ける一方で、互恵通商協定・中立法などを通じた、アメリカのヘ
ゲモニー確立のための政策にとりくむようになったのです。
 三四年六月に制定された互恵通商協定法は、アメリカと相手国とのあいだに通商協定を
次々に結ぶことで関税障壁を低くし、世界恐慌以降、各国が採用した二国間の清算制度
や、自国と植民地間だけで貿易をおこなう経済的国家主義的風潮を、アメリカの力でなく
そうとするものでした。経済的に良好な関係を築けないところでは、政治的に良好な関係
を築けないとの信念を抱いていたハル国務長官は、アメリカが相手国とのあいだに獲得し
た最恵国条款を他国にも均霑させることで、世界貿易を恐慌前の活気ある状態に復そうと
したのです。


212 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:56:42 ID:???

 しかし、これは当然のことながら、アメリカの経済的な世界戦略に合致するものでもあ
りました。イギリス帝国内へのアメリカ経済の浸透と、南米への影響力を強めていたドイ
ツの影響力をそごうとするねらいがあったのです。また、他国に差別的な貿易をおこなっ
ているとして、アメリカによってブラックリストに載せられた国々とは協定を結ばないと
いう威嚇的な側面ももっており、実際に、ドイツなどはブラックリストに載せられてしま
います。日本は、多くの資金や原材料をアメリカに依存していたため、両国の経済関係
は、決して悪いものではなく、三〇年代を通じて日本は、原則的に、このアメリカの世界
経済回復プログラムが日本にとっても有効であることを認めていました。
 一方アメリカは、孤立主義政策を維持しながらも、条約の義務を侵犯するような国に戦
争を思いとどまらせるための、ある程度、対外的にも強制力のある法を、国内法として整
備します。これが、一九三五年八月に制定された中立法です。中立法は、内容を充実させ
る方向で何度か改正され、三九年十一月の改定でそのかたちを整えました。その主な内容
は、@交戦国双方への兵器類の禁輸(三九年の改正で禁輸は解かれ、交戦国自身の負担による現金・
自国船輸送とされた)、A交戦国船舶によるアメリカ国民の旅行の制限、B交戦国の公債・有
価証券について、金融上の取引制限、資金供与の禁止、C兵器生産に関係のある物資・原
材料の輸出制限又は禁止の権限を大統領に付与する、D兵器・軍用資材などの原料以外の
物資・原材料についても、現金・自国船輸送、というものでした。


213 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 07:57:59 ID:???

 アメリカが戦争に巻きこまれる可能性を極力少なくしておきながら、アメリカの絶大な
資金力、無尽蔵の原材料、ニューヨークの金融市場の価値を逆手にとって、戦争を起こそ
うとする国を牽制しようとする戦略的な法でした。公債発行や為替取引をアメリカ金融市
場に依存している国、軍需品の生産に必要な工作機械や軍需品そのものをアメリカにあお
いでいる国は、アメリカ中立法の適用を避けようとするでしょう。中立を標榜するアメリ
カを敵としなければならないのであれば、たいていの国は戦争について再考するだろうと
予想されました。軍需物資の輸入や金融市場への依存ということで、アメリカに多くを負
っていた日本は、まさに、このアメリカ中立法によって、最もよく牽制されるはずの国だ
ったことがわかります。実際、アメリカのこの戦略は、のちに、日中戦争の進行状況に大
きな影響を与えてゆくことになりました。
 ここまでの記述で明らかにしたかったことは、次の点です。満州事変後、日本はただち
に世界的に孤立していったのではない、ということ。そして、互恵通商法と中立法とい
う、国内法でありながら対外関係を律することのできるアメリカの新しい法体系に、日本
がみずからのメリットを見出しているあいだは、また、アメリカが日本をこの法体系の下
に置き、有効に牽制できているあいだは、日米関係に急激な変化は起こりえない状態にあ
ったということです。


214 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 14:57:32 ID:???

ソ連の軍事的脅威と石原の再登場

 一九ニ八年に始まったソ連の五ヵ年計画が成功裏に終わり、第二次五ヵ年計画も半ばを
すぎた三五年には、ソ連の軍事力は驚異的なレベルにまで強化されていました。同年末に
は、ソ連が極東に配備できる飛行機が九五〇機であったのに対して、日本のそれはニ二〇
機にしかなりませんでした。なによりも日本側を驚かせたのは、ソ連が、日本全土をカバ
ーできるTB5型長距離爆撃機の極東配備を決定していたことでした。
 満州事変の計画者であった石原莞爾は、このころ、参謀本部作戦課長の地位についてい
ました。三五年ごろになると石原は、満州事変時にみずからが構想していた対米戦争の構
想を、あまりに旧式の自由主義思想に毒された発想であったと深く悔いるようになってい
ました。


215 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 14:58:25 ID:???

 恐慌下における農村問題の解決は政党政治によってではなしえない、農民の味方は陸軍
であるとのスローガンが、陸軍の政治的資源になることを十分自覚していた石原でありま
したが、ソ連に対抗する必要上、農村を救済できる可能性ももっていたそれまでの陸軍の
経済改革路線をかなぐり捨てて、財閥や経済界との密接な連携に走ります。五年間、どこ
の国とも戦争をしないことで、日満両国の重工業化を成しとげてしまおうとするものでし
た。対ソ戦への危機感こそが、石原をして金融界の重鎮結城豊太郎や、財閥の大御所池田
成彬らとの共闘を選択させた要因であり、林銑十郎内閣が結城を蔵相として、池田を日銀
総裁として迎えた大きな理由でした。
 華北(河北省・察哈爾省・山東省・山西省・綏遠省)の経済支配が、北支那開発会社によって、
満鉄や興中公司を排除して実質的に財閥主導でなされていったのは、対ソ連を可能とする
国防態勢の確立が急がれたからでした。ここに、華北への経済的支配を強化しようとする
日本と、それを防ごうとする中国との対立が、ふたたび胚胎されてゆくことになります。


216 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 15:00:01 ID:???

日中戦争の勃発とアメリカ中立法

 満洲を切りはなした中国本部に対して、日本は、貿易と企業の市場とする方向で臨みま
したが、関東州と満洲を除いた中国本部と日本の貿易は、三一年から三七年で半減します。
関東州と満洲での増加分を加えてもなお、補いきれないものでした。原因は、満州国を傀
儡国家化した日本に対しての、ある意味、当然の対抗的ボイコットと、完全に関税自主権
を回復した中国が保護主義的関税政策をとったことによる日本製品の不振にありました。
 重化学工業化を進めていた日本にとって、中国貿易の後退は深刻に受けとめられまし
た。そこで、関東軍や支那駐屯軍(義和団事件の北京議定書によって駐兵権を獲得)は、蒋介石の
全国統一に妨害を加えることで、国民政府の対日政策を新日的なものに変えようと圧力を
かけるようになりました。こうして、華北から、国民党、国民政府中央軍、東北軍(張学良
軍)が、まずは日本の軍事力によって駆逐されました。
 日中戦争の発端は、一九三七(昭和十二)年七月七日、北平(北京)にほど近い、永定河に
かかる蘆溝橋河畔における、支那駐屯軍と中国第二九軍間の偶発的な軍事衝突事件にあり
ました。中国で勃発した戦争に対して、アメリカは中立法の適用を宣言することで、日本
に戦争の拡大を思いとどまらせようとします。ところが、アメリカの戦争抑止プランに、
大きな問題が生じます。アメリカが中立を宣言すれば、@日本に対する戦争を戦う中国国
民の士気を低下させるだけでなく、A弾薬や軍用器材の供給を外国に依存し、船舶も外貨
も少ない中国が、アメリカ市場から物資を購入できない事態となり、Bアメリカ人の飛行
操縦教官などが中国に渡航できない事態が生じます。そのため中国政府が、アメリカに中
立法を適用しないよう要請したのです。

217 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 15:01:07 ID:???

 また、アメリカにとっても、戦争状態の宣言をともなう中立法の適用が、問題の多いこ
ともわかってきました。日中間の戦争を、アメリカが戦争と認定し中立法を適用すると、
日本は交戦国の権利として、アメリカ船の臨検、戦時禁制品の捕獲を実行できるようにな
ります。三五年十月、イタリア・エチオピア間の戦争には中立法を適用したアメリカでし
たが、今度は躊躇せざるをえませんでした。なぜなら、アメリカとエチオピアの貿易品
で、イタリアに拿捕されて困るようなものはなかったのですが、アメリカと中国の貿易品
は、それとは比較にならないくらい重要だったからです。中国との貿易量を拡大しつつあ
ったアメリカは、中立法適用に慎重にならざるをえませんでした。
 そして日本にとっても、この中立法は実は深甚なる影響をもたらしたのです。中国に宣
戦布告をすれば、アメリカも中立法を適用せざるをえなくなります。しかし、五年は戦争
をおこなわず、重化学工業化に邁進しようとしていた矢先に戦争が勃発したので、日本と
しては、物資と資金の最大の供給国アメリカとのあいだの経済的絆を切ってしまうことに
なる中立法適用は何よりも避けなければならないことでした。日本側は、中立法適用の可
否について慎重に検討した結果、宣戦布告をおこなわないことに決定しました。それでは、
宣戦布告をしないことで、いったいどのような影響が生じてくるのでしょうか。


218 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 20:48:12 ID:???

宣戦布告の可否についての判断

 宣戦布告の有利な点は、@日本の艦隊によって中立国船舶の臨検、戦時禁制品の輸送防
遏、戦時封鎖が可能となるので、載貨押収などにより、中国の戦闘力を減殺できること、
A軍事占領・軍政施行など交戦権の行使ができる、B賠償を適法に請求できる、との三点
に集約できます。不利な点は、@中立法の発動により、貿易・金融・海運・保険に及ぼす
影響大、A中国に有する治外法権・租界などの条約上の権利を喪失する、B不戦条約、九
ヵ国条約違反を非難される、の三点でした。
 宣戦布告しないとの政府決定に、出先の軍は批判的でした。たとえば、寺内寿一(北支那
方面軍司令官)は三七年九月の時点で、「速やかに宣戦して、南京を攻略し、徹底的に膺懲」
すべきだと主張しています。宣戦布告すれば、先に述べた三つの点で、中国を軍事的に有
効に圧迫できるからです。寺内の反対の骨子は、宣戦布告、中国の首都南京の制圧、賠償
請求、華北に傀儡政権をつくらず、という伝統的な戦争観によるものでした。


219 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 20:49:10 ID:???

 しかし、中立法の適用を避け、不戦条約違反との批判を避けるためには、宣戦布告はで
きず、交戦国に認められた権限も行使できず、軍政も施行できません。そこで、それなら
ば、中国人を表面に立てて、傀儡政権を樹立し、それを通じた占領地工作による事態収拾
を選択するグループも出てきます。日中戦争の早い段階で、閣議でさしたる議論もないま
まに現地政権(華北の臨時政府、華中の維新政府)形成へ向けて動き出す背景には、以上のよう
な経緯がありました。現地で、このような政治指導にあたるのは、出先の軍の命令系統に
よる部署ではなく、陸軍中央と直接結びついた、特務機関の軍人たちです。彼らは、新し
い時代に応じた、新しい戦争形態を支持する戦争観に立っていました。しかし、伝統的な
戦争観をもつ軍人たちからすれば、特務機関主導の傀儡政権樹立工作などは、戦争を長期
化させるだけだと考えられました。彼らは、中国に宣戦布告し、首都を攻撃し、南北の大
規模な作戦の連結によって、決定的なダメージを国民政府中央軍に与えるような戦争指導
を要求するのでした。あるべき戦争観をめぐる両者の対立は激しく、その結果、現実の日
中戦争の全過程は、双方の戦争観を混在させた戦争指導によってもたらされてゆくことに
なります。


220 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 20:52:04 ID:???

 宣戦布告なしの戦争は、戦後の感覚からすれば、卑怯、不道義しか意味しません。しか
し、宣戦布告のない戦争の形態は、不戦条約によって戦争が違法化された時代、また、中
立法によって宣戦布告の意味が従来とは異なってくる事態となった時代にあって、ある意
味、必然的に生じてくるはずの戦争形態であったのです。こうして、不戦条約と中立法と
によって規定され、日本、中国、アメリカのいずれの国もがそれを戦争と呼ばないことに
利益を見出す、実に奇妙な戦争が、太平洋戦争勃発まで四年以上も戦われることになりま
した。
 一九四〇年初頭の数字によれば、このとき中国にいた支那派遣軍は八五万人の規模にふ
くらんでいたことがわかります。そして太平洋戦争の前までに、すでに二〇万人ほどの戦
死者を出していました。満洲における既得権益問題が、満州国建設によって解決されてし
まった以上、条約を守らない中国への憎しみの感情のみで、これだけの規模の軍隊を動員
し、これだけの死者を出し続けることは不可能です。
 なぜ戦わなければならないのか、戦争目的の設定が急がれました。しかし、ここでも中
立法が邪魔をします。宣戦布告をしていないので、賠償金も、新たな土地の割譲も望めな
い戦争に、どうやって国民の士気を集中させればよいのでしょうか。政府はここで深いジ
レンマに立たされることになります。


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