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TOTO社員「我が社を志望された動機は?」

1 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 21:26:12 ID:dxy/vHFI
俺「はい、小さい頃から便器に興味があって」

2 :私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 21:33:10 ID:???
2

3 :私事ですが名無しです:2006/12/13(水) 12:24:52 ID:???
Z武「はい、小さい頃からドゥクドゥーンに興味があって」

4 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:53:33 ID:???

「大安吉日」とは

 ところで結婚関係の吉日といえば、読者にとってすぐに思い浮かべられるのが六曜の「大安」であ
ろう。アメリカ文化の影響を多く受けている昨今では、「ジューン・ブライド」という六月の結婚式も
また人気であり、六月の大安の土・日曜日など、結婚式場は軒並み予約で満杯の状態がここしばらく
続いている。ところが、ジューン・ブライドの件はともかくとして、「大安」や「仏滅」などの六曜が
生活の中に入ってきたのはそう遠いことではない。六曜というのはもともと中国で日の数え方として
成立したもののようであるが、これが日本に伝来したのは鎌倉時代頃(十二世紀末期〜十四世紀前期)の
ことである。ただし、各日の名称や順序は現在と違っており、中国宋代(十世紀中期〜十三世紀中期)の
『郡斎読書志』には「小吉」「空亡」「大安」「留連」「速喜」「赤口」とあったのが、日本でいくたびか
の変化をへて江戸時代末期(十九世紀)には「先勝(=速喜)」「友引(=留連)」「先負(=小吉)」「仏
滅(=空亡)」「大安」「赤口」と現在の名称・順序になったのである。そしてこれが日常生活のなかで
使われはじめたのが、せいぜい江戸時代の終わり、十九世紀の半ばからのことであった。


5 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 02:54:38 ID:???

一門を守るための選択

 呪詛がされたかどうかということは、当事者の関係する場所などで「怪異」があったかづかによ
って判断される。そして判断を求められた陰陽師がそれを呪詛によるものだとしたとき、呪詛された
当事者は難を避けるために「物忌」という行為を行なった。政敵の多かった道長の『御堂関白記』に
は、当然のことながら怪異や物忌の記録が多く見られる。
 そのような状況にあれば、いっそう不吉につながる要素を排除したいと道長が思ったと推定するの
は難しくないだろう。入内の日時を選定した陰陽師にとっても、そのあたりのことを気遣うことに
よって道長のおぼえをよくし、その結果として道長一門の繁栄につながれば自分の立場がよくなる。
 このようなさまざまな理由が、行事をおこなう日の選定にあたって、暦注を基礎としながらも厳密
にそれにしたがうのではなく、いささか原則にはずれたような結論を導き出したのであり、それが歴
史に記録されたのである。
 なお、彰子と一条天皇との関係はそれなりのものだったようで、二人の間に何人かの子が生まれた。
そのうち、この九年後の寛弘五年(一〇〇八)に生まれた敦成親王はのちに後一条天皇となり、その
翌年の寛弘六年に生まれた敦良親王はのちに後朱雀天皇となった。また朝廷の重職である摂政・関白
と藤原氏の氏長者は、これ以降明治にいたるまで道長の家系がになっていった。
「気」の状態をたくみにとらえ滅門日を避けた彰子の結婚は、道長一門にとってまさに「滅門」を導
くことなく、繁栄をもたらしたのであった。


6 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:03:29 ID:???

神か、仏か、それとも天意か

 ここで誤解のないようにひとこと触れておくと、「仏が天意よりも格下」などと記した場合、後で宗
教上の物議を醸し出しそうであるが、先に示したような「気」と「天意」、そして「神仏」の考え方か
らすればそのようなことになるのである。つまり天も神仏も「気」のなかの意志的存在であるが、天
意は「天気」という「気」そのものの意思であるのに対して、神仏は「気」によって創られた二次的
存在と言えるのである。
 筆者はとりあえず僧籍をもっているので、宗教観念上は仏こそ最高位の存在としなければならず、
仏と天意との関係をこのように記すことには躊躇がないわけではない(というよりは、本当は口がさけ
てもそのようなことを言ってはならないのである!)。
 平安時代においてもこの問題はなくはなかった。つまり、この世を左右する存在は「気」の意思で
ある天意か、宇宙の中心にあって衆生を見守る仏か、はたまたこの国土を創り天皇や人々の祖先とし
て日本や人々を護る神かということである。当然、
陰陽師は天意を、僧侶は仏を、神官は神をそれぞ
れこの世のすべての意思の帰結する存在としてい
た。
この関係は、それぞれの宗教者たちの間におい
ては、朝廷や貴族に対する宗教的主導権の問題と
なっていた。しかし、顧客としての朝廷や貴族た
ちにとっては、宗教者のようにそれぞれの意志的
存在に執着する必要もなく、それぞれを適当に振
り分けて扱っていた。むしろ「天意のあらわれ」と
言われれば天意のようだし、「仏のみわざ」と言わ
れれば仏のようだし、「神のおぼしめし」と言われ
れば神のようだしと判断しあぐねていたであろう。


7 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 15:08:46 ID:???

 とにかく効力のあるものであれば何でもよかっ
たのである。
 そして判断しあぐねた結果、一つの物事に二つ
の意思が関わるなどということも起きた。
 たとえば天皇や国家に対する怪異が起きた場合、
その内容を知るために朝廷では、内裏の正殿である紫宸殿のわきにある「軒廊」という場所で「軒廊
御卜」という占いをおこなったが、それは日本の神々の祭りを扱う神祗官の担当者が「亀卜」によっ
て神意を、方術を扱う陰陽寮の担当者が第五章で触れる「六壬式占」によって天意をそれぞれ判断す
るというものであった。
 あるいは身辺に怪異があって自分の身辺に何かが起きそうだと判断されたときには、密教僧に加持
をさせて仏の力によって護ってもらったり、陰陽師に祈祷をさせて「気」のあらわれ方を変えてもら
ったりした。これなどは、片方だけでは不安であったり、効果がなかったりすれば両方してもらった
りしていた。さきほど触れた属星の祭りを陰陽道系の本命星祭として行なうか、密教系の本命星供と
して行なうかという違いも、どちらが効果があるかというところの違いであった。それは星を天気の
精とするのか、仏教の諸神の一つとするのかという原理の違いを含んではいたけれども、願う方にす
ればどちらでもよかったのである。


「六壬式占〈りくじんちょくせん〉」,「属星〈ぞくしょう〉」,
「本命星祭〈ほんみょうしょうさい〉」,「本命星供〈ほんみょうしょうぐ〉」


8 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 18:29:21 ID:???

神意を問う

 政治のことを「まつりごと」と言い、その意味するところは、かつて集団の長が人々を治めるのに
神に対する「まつり」を行なったところにある、ということは読者も御存知であろう。
 ではなぜ「まつり」を行なったのかと言えば、それは「まつり」が神との交流をする行為であり、「ま
つり」をすることによって神の意思すなわち「神意」を知ることができたからである。「科学の時代」
と言われ、非科学的なものを否定する傾向が強かった二十世紀でさえ、人々は神を頼んでいたのであ
る。現在よりもっと神との密接な関係を持っていた古代の人々にとって、神意を知るというのは政治
的に重要なことであった。ましてや、それが高天原に住まわってこの世の行く末を常に見ている天照
大神と、祖先・子孫の関係を持つ天皇が治めているとなればなおさらのことであった。
 であるから、日本で朝廷という中国的な政府機構が作られ始めた七世紀、その朝廷の機関の中に「神
祗官」と呼ばれる神々へのまつりを担当する官庁が設置された。
「陰陽寮」は神祗官が政のために「神意」を問うことを目的とした官庁であるのに対し、「天意」を
問う官庁として朝廷の機関の中に設置された。
 朝廷とは律令体制に基づく政府組織であるが、日本をその律令体制の国家にしようとした政治改革
が大化元年(六四五)に始まる大化改新であるということを、読者も学校で習っただろう。その大化
改新の中心人物が中大兄皇子、のちの天智天皇であり、日本最初の律令はこの天智天皇が即位した
六六八年に施行した『近江令』とされている(律は成立しなかった)。


「神祗官〈じんぎかん〉」


9 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 18:41:23 ID:???

「陰陽」概念の伝来

 さて、陰陽寮が天皇・国家のために天意を判断することを中心業務とした官庁であったことを見た。
 では「陰陽寮」と「陰陽道」との関係はいったいどうなっているのか、次に見ていきたい。本章冒
頭のクイズの詳解である。
 ここでまず問題にしなければならないのが「陰陽」という言葉である。これもまた扱いづらい言葉
で、「陰陽」という言葉に大方はすぐ「陰陽説」を連想してしまい、「陰陽寮」も「陰陽道」もみんな
「陰陽説」または「陰陽五行説」をもとにしたものだと考えてしまいがちである。
 ところが実はそうではない。この「陰陽」というのは、中国民間思想の総称として使われているの
であり、それに基づく技術を「方術」と呼んだり「陰陽の術」と言った。つまり「陰陽寮」というの
は、中国民間思想つまり「陰陽」の思想と、それに基づく諸技術つまり「方術」「陰陽の術」を扱う官
庁だったのである。ただし、方術や「陰陽の術」というのは広く医術までを含んでしまうのであるが、
陰陽寮ではその方面のことは扱っておらず、医療的な技術については後述するように「典薬寮」とい
う役所が中心となっていた。そして「陰陽の道」とは、方術や「陰陽の術」のうち、陰陽寮で扱われ
ていた諸技術の技術体系のことを指している。そしてこれが「陰陽道」となると、さらに精神的なも
のや宗教的性格が加わったニュアンスを帯びてくるのである。
 それは「茶道」が単にお茶を点てて入れる技術体系だけではなく、そこに精神的なものを含めた総
称として使われているのと同様である。


10 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 18:46:26 ID:???

 この「陰陽の思想」や技術がいつ日本に入ってきたのかということは、正確にはわからない。なぜ
ならば、日本で古墳の造営がさかんに行なわれ始めた三世紀以来、中国・朝鮮からの渡来人の数は急
増するからである。彼らは土木や建築を始めとするさまざまな技術を日本に伝えたが、それとともに
民間思想さえも伝えているのである。たとえばかつて「日本独自」とされた前方後円墳の形などそう
である。つまりあの円と四角の組み合わせは、中国の「天円地方説」すなわち天は円く地は四角いと
いう説を、墓という造形物に応用したのである。
 天と地を対にして考えるというのは、別段、中国に特徴的なことではないのだが、「陰陽の思想」
では店は気が上昇して行き着く所、地は気が下降して行き着く所と考えられ、その上昇する気は「陽
の気」すなわち陽気、下降する気は「陰の気」すなわち陰気とされている。つまり天が円く地が四角
いという世界の姿は、天をかたちづくる「陽気」と、地をかたちづくる「陰気」がそれぞれとりうる
姿、という解釈が成立するのである。
 そういえば最近、前方後円墳と同形の古墳が韓国南西部で発見されたと報じられた。この古墳が発
見される以前には、前方後円墳のあの形は、韓国南部に多く見られる双円墳というフタコブラクダの
こぶのような古墳の変形だと言われていたのであるが、それが変わりつつあるのである。韓国南西部
は、日本の古墳時代の頃には朝鮮三国の一つ百済があった。つまり、前方後円墳が「日本独自」のも
のではなく、百済の影響を受けているということが判明したのである。よけいに古墳時代における「陰
陽の思想」の影響がはっきりしてきた。


11 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 18:51:33 ID:???

呪文や呪符の使われ方

 ただし、陰陽寮が設置されたとき、「陰陽の術」のうち呪文や呪符については陰陽寮だけではなく、
「典薬寮」に設けられた「呪禁」という邪気を祓う治療の部門でもさかんに扱われた。典薬寮というの
は官人の病気を治療するための役所で、今で言うなら国立病院にあたり、「養老職員令」では呪禁の部
門に、呪禁博士一名、呪禁生十名が配置されたとある。陰陽寮における呪文や呪符は、主として陰陽
道祭の折に、神々への呼びかけや、邪気を祓うために扱われていた。ただ、同じ「邪気を祓うために
扱」ったと言っても、その内容は違っていた。つまり、典薬寮の方が個人に取り憑く邪気を祓ったの
に対して、陰陽寮の方は国家や都に侵入しようとする邪気を祓ったのである。
 安倍晴明のマンガなどで呪符が描かれるとき、多くの場合、晴明が真言を唱えながらそれを投げる
と悪霊や妖怪変化が退治されるというような場面が設定されている。だから、呪符というのはすべて
悪霊や妖怪変化を退治したりするものだとイメージされているようである。ところが、呪符には二つ
の大きな種類があって、すべての呪符が悪霊や妖怪の退治の効果を持っていたのではない。


12 :私事ですが名無しです:2006/12/16(土) 19:00:06 ID:???

 では、その呪符の二つの種類とはどのようなものかと言えば、一つは中国民間信仰のなかの神をあ
らわす呪符、もう一つは気や霊を操作する呪符である。厳密に言えば、神をあらわす符は「神符」と
いうことになる。陰陽道祭で神々への呼びかけに使われた呪符はこの神符であった。また、典薬寮で
病気治療のために扱った呪符は、気や霊を操作する呪符であった。それは、病気というのが体を作っ
ている「気」(元気)の異常や不調、また神の御業や怨霊の復讐はては邪気の悪戯などなにか霊的な存
在のはたらきによって起こされるものだと考えられていたからである。だからその霊的な存在を操作
して、鎮魂させたり、病人に取り憑くのをやめさせたりして、病気を治すということのために呪符が
使われ、また呪文が称えられた。「急々如律令」という呪文は、そのような場でもさかんに用いられた。
そしてその治療は、病人にしがみつこうとする霊的な存在を力ずくで取り除こうとする、激しいもの
だったようである。これに対して陰陽道祭の方は激しくはなかった。
 つまり、一般にイメージされるような陰陽師の呪符や呪文の激しい使い方は、陰陽道での使い方で
はなく、典薬寮での使い方だったのである。


「呪禁〈じゅごん〉」


13 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:22:13 ID:???

「陰陽五行説」の誤り

 陰陽道の理論とは何か、ちまたに溢れている陰陽道の本を見ると、多くのものが「陰陽五行説」
から説き始めている。それは、それらの書物の書き手が、陰陽道の「陰陽」という言葉に引っかかっ
て解釈をしているからである。
 この「陰陽道は中国で生まれた陰陽五行説を」云々、というような説明は、実は二つの重大な誤り
を含んでいると言ったら、読者はどう感じるだろうか?
 ここから読み始めた読者は、おそらく「嘘だぁ」と思われるであろう。
 そこで、ちょっとこのことに触れておきたい。
 まず、第一点目だが、「陰陽五行説」という言葉自体が誤りなのである。
 もう少し言うのならば、「陰陽五行説」などという観念が、本家であるはずの中国には存在しない。
 それが証拠に、「陰陽五行思想」を扱うとされる中国の思想家は、歴史的に「陰陽家」「五行家」と
いうグループに区別されており、「陰陽五行家」などというグループは成立していない。つまり、さま
ざまなもので中国民間思想の代名詞として言われている「陰陽五行説」に相当するのは、陰陽家が扱
う「陰陽説」と五行家が扱う「五行説」という二つの思想なのであり、それぞれが互いにもう片方の
思想を取り込んでいる――それが「陰陽五行説」の正体なのである。だから正しくは「陰陽・五行説」
としなければならない。


14 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 14:22:50 ID:???

 この本は別に中国思想の概説書ではないから、「陰陽五行説」だろうと「陰陽・五行説」だろうと関
係ないように読者は思うかもしれない。しかし、「陰陽道」を解説する人たちが、陰陽道の基礎的理論
として「陰陽五行説」を開陳している現状をながめると、まず基礎的理論の事実誤認があることを指
摘せずにはいられない。
 第二点目に、陰陽道の「陰陽」を「陰陽五行説」や「陰陽説」と捉えていることが誤っている。
 このことについては、前章を読んでいただいた読者には理解してもらえるだろう。
つまり、陰陽道とは「陰陽の道」のことであり、そこで言われる「陰陽」とは中国民間思想のこと
を総称した言葉なのである。それは、「陰陽寮」が「陰陽五行説」に基づく術ばかりを行なっていたの
ではなく、さまざまな中国系の祭をしたり、天文の様子をながめたり、時刻を測ったりとあることか
らも一目瞭然である。それらの(技術の)もととなる中国民間思想がつまり「陰陽」なのであり、
陰陽寮で扱っていた諸技術が「陰陽の術」と呼ばれていたこともすでに前章で示した。
 大体、「陰陽五行説」から陰陽道を説き始めてしまうと、オカルトブームの一つとしての陰陽道ブー
ムや安倍晴明ブームを支えてきている「式神」について、説明できなくなってしまう。「式神」は「陰
陽五行説」とは直接の関連がないところに出現しているのだ。
 このように見てみると、陰陽道への理解を深めるためには「陰陽五行説」で第一歩を踏み出すので
はなく、別に一歩目を刻み始めなければならないということになる。
 そこで、「陰陽五行説」ではないところから、陰陽道の理論をながめていきたい。


15 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 18:34:48 ID:???

日本に入った「気」中心の世界解釈

 そしてこの説をもとに、世界のすべてのものごとを「気」と関連付けて一元的に考える思想が、
後漢(二五〜二二〇)の頃にはほぼできあがった。その結果、この後の中国では、すべてのものごとは
「気」によって成立しているという思想が、世界観として支配的になった。このような世界観は、老子・
荘子の説を中心とした思想の系統である道家によって主として展開されたが、四・五世紀頃になると
老子が中国の民間信仰である道教の開祖と言われるようになる。「道教」という漢民族の自然観を中心
として成立した民間信仰・自然宗教には、本来開祖などという存在はあり得なかったのであるが、後
漢末期の混乱期からでき始めたいくつかの道教の教団において、老子は開祖として扱われるようにな
った。そして、いつの間にか老子は道教の開祖とされるようになったのである。それは、素朴な自然
と神への信仰であった道教というものを、老子に始まるさまざまな道家の思想によって理論化するこ
とにつながった。
 その流れの中で、道家の思想が道教教団を通じて民間に浸透し、「気」がすべてのものごとの根本的
な力であるということが、人々の間に意識されたのである。
 もともとが、「気」だとか「陰陽」だとか「五行」というのは、人々の経験によって生み出された素
朴な自然の原理であったのだが、紀元前八世紀に始まる春秋・戦国時代に多くの思想家が高度に思想
化して先に見たような「元気」にまで発展したのである。その高度に思想化した「気」のあり方が、
道教教団を通じて人々の間に戻ったのである。たとえそれが思想家の手を経て理論化されていたとし
ても、「気」の思想・世界観は中国民間思想の枠の中から飛び出るものではなかった。


16 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 18:35:20 ID:???

かつての暦では「十干」が中心的

 ところが、もともとは十干が日を示す名称であった。これは、今から三千四百年前の殷の甲骨文か
らもはっきりしている。殷の甲骨文字を見る限り、当時、日付を「一日」「二日」な
どと序数で示すことはなく、初日は「甲」、二日目は「乙」というように十干で示
していたのである。読者はある月の漠然とした時期を示すのに、「上旬」「中旬」「下
旬」など「旬」という言葉を使うことがあるだろう。あの「旬」というのは十日
間のことであるが、もう少し言えば十干を一巡することなのである。
 この十干で日を示すことこそが中国式の暦の原型なのである。
 成績や法律などで「甲」「乙」などと示されるあれは、甲が第一日目、乙が第二
日目という十干と日にちとの関係から、「第一」「第二」という序数のはたらきを
十干が持ったことの結果である。
 馴染みのない十干がもともと暦の中心的な存在であったのに対して、十二支は
十干の添え物として暦の上に登場してくる。
 殷の甲骨文では十干と十二支との組み合わせ、たとえば「甲子」「乙丑」など干
支で日を表すこともあるが、十二支が単独で日を示すということはない。十二支
が示されるときには十干とセットになっている。つまりは干支でしか十二支は使
われなかったのである。


17 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 18:36:40 ID:???

 現在のところ十二支は、十干では十日しか数えられずに不便なので、もっと長い日を数えるた
めに付け足されたのだという説が有力である。そして、十二支が暦の上で単独の意味を持ち始めるの
は、前漢の頃に、十二支を月の名称として使い始めてからのことだとされている。


18 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:09:18 ID:???

「太陰暦」「陰暦」は不正確な表現

 ところで、現在私たちが使っている暦を「太陽暦」「陽暦」と言うのに対して、古い暦や「旧暦」
などを「太陰暦」「陰暦」と言うことが割合とある。あれは本当だろうか?
「太陰暦」という暦法はどういう暦法かと言うと、月の朔望に基づいて一年の長さを示す暦をさすの
である。古い暦や「旧暦」の月は確かに月の朔望によっているから、表面的には太陰暦のように見え
るが、もし本当に「太陰暦」だとすると、一年は十二ヵ月だから月の朔望の周期およそ二九・五三日
を十二倍して三五四・三六日というのが太陰暦の一年の周期となる。季節の変化は太陽の力の消長と
関係しているから、そちらの周期はおよそ三百六十五と四分の一日、つまり一年で約十一日の差が出
ているのだ。これを単純に積み重ねれば三年で一ヵ月、九年で三ヵ月の差、つまり季節のずれが生じ
ることになり、それは正月から三月までは春で五行は木、とした五行の世界観を崩すことになる。
 ところが実際には、古い暦や「旧暦」では年によって多少のずれがあるものの、月と季節はほぼ一
致している。要するに、古い暦や「旧暦」は「太陰暦」と単純に言われるようなものではないのだ。
太陰暦によって起こる季節に対する月のずれを太陽暦で調節する、「太陰太陽暦」というのが正しい暦
法の名称なのである。そして、その太陽暦に相当するのが、冬
至から冬至までの期間をとらえる、この周期なのである。


19 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:10:00 ID:???

 そうすると、太陰太陽暦の一年には二種類あるということに
なる。一つは朔望月が十二回繰り返された太陰暦による一年、
もう一つは冬至から冬至までの太陽暦による一年である。中国
式の太陰太陽暦には、一年に二種類あったのと同時に月にも二
種類を設定した。そのうち太陰暦の月、つまり朔望月に基づく
月を「暦月」と言い、太陽暦に基づく月を「節月」と言った。
では節月とはどのような期間かというと、太陽暦の一年を二十
四等分してその区切りを「節(節気)」「中(中気)」とし、その
うちの節から節までの期間である三〇・四三日をさすのである。
この「節」と「中」による区切りは、現在でも季節の指標とし
て親しまれている「二十四節気(二十四気)」というあれである
(ただし、天保暦から現在までの二十四節気の算出の仕方は、それ以前のものとは違っている)。そして暦月
の月名は〔表8〕に示したように、実はこのうちの「中」によって決められていたのである。そうす
ると、節月と暦月の日数の差から何年かに一度「中」を含まない月も出てくるが、それこそが太陰暦
と太陽暦とのずれの累積による一月であって、その月を「閏月」として同じ月を重ねたのである〔図
10〕。中国式の太陰太陽暦はこのようにして太陰暦と太陽暦の間を調節したのである。
 前漢の太初暦以降、中国式の太陰太陽暦はここまでに挙げた、干支、月の朔望の周期、冬至から冬
至までの周期、という三要素を一体のものとして扱っている。ではなぜ多様な暦法がその中に生まれ
たのかと言えば、月の朔望や、冬至から冬至までの周期の微妙な違いがあったのである。


20 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 19:12:27 ID:???

「式占」と「易占」

 易占は『易経』に基づくもので、紀元前十一世紀に興った周の祖である文王が始めたとされる「周
易」が日本では行なわれた。周の時代には「三易」と呼ばれて他に「連山」「帰蔵」などがあり、
また漢の頃から始まったとされる「京房易」もあったが、連山や帰蔵は早くからその方法がわからな
くなっており、「京房易」は中国で長らく民間の易であって、公の場面で行なわれたり知識人たちが扱
うということはなかった。日本では、十二世紀の天文博士安倍泰親の残した天文密奏や地震勘文の中
に『京房易伝』という書物が引用されており、平安時代には京房易の書物が伝わっていたことがうか
がわれるが、実際に易占の方法として活用されたのかはわからない。易占の方法として利用されたの
は、少なくとも江戸後期の仙台藩の儒者であった桜田虎門が採り上げてからがようやくのことであっ
たようである。江戸時代から現在に至る易者が行なっているのは、周易の場合もあり、京房易の場合
もあるから、陰陽寮で扱った易を、現在の易者が行なっている易のイメージで重ねてしまうと、場合
によっては違うものを重ねることになる。


「京房易〈けいぼうえき〉」


21 :私事ですが名無しです:2006/12/18(月) 17:44:01 ID:???

式占に替わって主流となる

 易占が陰陽道の中で主要な占いとなってくるのは、早くても室町時代の頃だと考えられる。なぜな
らば、その頃に、それまで主流だった六壬式占が行なわれなくなったからであり、日常に供する占い
として六壬式占に代わる存在が必要となったからである。
 もう一つ、この頃から儒学の上で扱われ始めた朱子学の影響も考えられる。朱子学は後醍醐天皇が
建武の中興の根本理念としたことでもわかるように、室町時代にかかる頃から儒学の新説として重要
視されるようになった学説である。儒学の中でも君主の絶対性を強く説いた朱子学は、同時に天と君
主とのつながりを儒学の中で異常なほどに重視した学説であるが、その祖である朱熹は、天意を読み
取る方法として易を意識したもののようで、儒家にしては異質ながら、経世の学としてではなく天意
を読み取る占術として易を扱った。そこに示された易占の思想は、怪異がなければ天意を読み取るこ
とができない六壬式占に比べて、はるかに汎用性が高いものであり、そのために易占が六壬式占に取
って代わったのではないかと考えられるのである。
 江戸時代以降、陰陽師は易者と混同され、また易者は陰陽師の免許を持たなければ営業できなくな
ったが、それは、室町時代以降の、易占の主流化がもたらした現象だと見られるのである。


22 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 14:46:54 ID:???

鬼神としての式神

 小説やマンガなどで式神がキャラクターとして登場する際には、多くの場合、鬼形をとることが多
いが、それは十三世紀後期から十四世紀中期に成立したと推定される東京国立博物館蔵の『不動利益
縁起絵巻』や、十五世紀頃の製作と推定される京都清浄華院蔵の『泣不動縁起絵巻』という、三井寺
の不動明王像の霊験を示した絵巻物の中に安倍晴明が二人の鬼神を従えている〔図20〕のような場
面があって、それがモデルなのである。この絵巻物のもとになった話は、三井寺の智興という僧が重
病になった際に、弟子の証空が安倍晴明の力を借りて智興の病気を自分に移してもらって智興を助け、
自分が身代わりで死にそうになっている姿に不動明王が感涙して証空を助ける、という話で、『今昔物
語集』を初めとして多くの古典文学に見られる。しかし、筆者が調べてみたところ、この場面で鬼神
のようなものが出てくるとすれば、十四世紀には原型があったとされる『曾我物語』が記したこの場
面くらいのものである。そこには、次のように記されている。

  七尺の結界を地面に描いた中に証空を座らせ、その前で安倍晴明が礼拝供敬して、梵天帝釈・
 四大天王・堅牢地神・八大竜王などを勧請し、祭文を読むところまで進むと、護法(童子)がや
 ってきたようであって、さまざまな供え物が空に舞い上がって、飛び回ったり、祭壇の上を踊り
 まわったりした。
                   (巻第七「三井寺大師の事」、あらすじを現代語訳した)

 この話では、不動明王の「護法」はやってきたものの、「式神」
がやってきたとは記されていないのである。よく、この場面の
解説で、安倍晴明がしたがえた鬼神は護法だとか式神だとか記
されているが、こうなると、その解説も怪しい。辞書や古典文
学の注釈でも、大方この場面をもとに式神の姿を「鬼形」と説
明しているのだから、はやい話、式神の姿など実はわかってい
ないのである。


23 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:36:03 ID:???


  楢山祭りが三度来りゃよ
     栗の種から花が咲く

もう誰か唄い出さないものかと思っていた村の盆踊り歌である。
今年はなかなか唄い出されなかったのでおりんは気にしていたのであった。
この歌は三年たてば三つ年をとるという意味で、村では七十になれば楢山まいりに行くので
年寄りにはその年の近づくのを知らせる歌でもあった。

おりんは歌の過ぎて行く方へ耳を傾けた。
そばにいた辰平の顔をぬすみ見ると、辰平も歌声を追っているように顎をつき出して聞いていた。
だがその目をギロッと光らせているのを見て、辰平もおりんの供で楢山まいりに行くのだが
今の目つきの様子ではやっぱり気にしていてくれたかと思うと、
「倅はやさしい奴だ!」
と胸がこみあげてきた。


24 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:36:58 ID:???


おりんはずっと前から楢山まいりに行く気構えをしていたのであった。
行くときの振舞酒も準備しなければならないし、山へ行って坐る筵などは三年も前から作っておいたのである。
やもめになった辰平の後妻のこともきめてしまわなければならないその支度だったが、
振舞酒も、筵も、嫁のことも片づいてしまったが、もう一つすませなければならないことがあった。

おりんは誰も見ていないのを見すますと火打石を握った。
口を開いて上下の前歯を火打石でガッガッと叩いた。
丈夫な歯を叩いてこわそうとするのだった。
ガンガンと脳天に響いて嫌な痛さである。
だが我慢してつづけて叩けばいつかは歯が欠けるだろうと思った。
欠けるのが楽しみにもなっていたので、此の頃は叩いた痛さも気持がよいぐらいにさえ思えるのだった。

おりんは年をとっても歯が達者であった。
若い時から歯が自慢で、とうもろこしの乾したのでもバリバリ噛み砕いて食べられるぐらいの良い歯だった。
年をとっても一本も抜けなかったので、これはおりんに恥ずかしいことになってしまったのである。
息子の辰平の方はかなり欠けてしまったのに、おりんのぎっしり揃っている歯はいかにも食うことには退けをとらないようであり、
何んでも食べられるというように思われるので、食料の乏しいこの村では恥ずかしいことであった。


25 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:37:34 ID:???


  かやの木ぎんやんひきずり女
     せがれ孫からねずみっ子抱いた

おりんが嫁に来た頃はぎんやんという老婆はまだ生きていた。
ぎんやんはひきずり女という悪名を歌に残した馬鹿な女だった。
ねずみっ子というのは孫の子、曾孫のことである。
ねずみのように沢山子供を産むということで、極度に食料の不足しているこの村では曾孫を見るということは、
多産や早熟の者が三代続いたことになって嘲笑されるのであった。
ぎんやんは子を産み、孫を育て、ひこを抱いたので、好色な子孫ばかりを産んだ女であると辱しめられたのである。
ひきずり女というのは、だらしのない女とか、淫乱な女という意味である。

七月になると誰もが落ちついていなかった。
祭りはたった一日だけだが年に一度しかないので、その月にはいるともう祭りと同じ気分である。
そして、いよいよ明日になったのである。
辰平はなにかと忙しかった。
みんな有頂天になってしまって、けさ吉など何処へ行ったか少しも役に立たないので、辰平が一人でとびまわっていた。

辰平は雨屋の前を通ったときに、家の中でそこの亭主が鬼の歯の歌を唄っているのをきいたのである。

 ねっこのおりんやん納戸の隅で
    鬼の歯を三十三本揃えた


26 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:38:14 ID:???


辰平は、
「この野郎」
と思った。こんな歌は初めてきいたのだった。
去年けさ吉が唄いだしたのであるが、去年はおりんと辰平の耳にはいらなかったのである。
今年は堂々と根っこのおりんやんと名ざしになって歌われたのである。

辰平は雨屋の家の中にすーっと入って行った。
そして雨屋の亭主が土間にいたので土間の土の上にぴったりと坐り込んでしまった。

「さあ、うちへ来てもらいやしょう、おらんのおばあやんの歯が何本あるか勘定してもらいやしょう」

ふだん無口の辰平が口を尖らせて坐り込んだのであるから凄い剣幕である。
雨屋の亭主はすっかりあわててしまった。

「あれ、そんなつもりじゃァ根えよ、おめえのとこのけさやんが唄った真似をしただけだに、そんなことを云われても困るらに」

辰平は、この歌を唄い出したのはけさ吉であることも今はじめて知ったのであった。
そう云われればけさ吉が、
「おばあの歯は三十三本あるら」
といやにからみついていたけど、これでよくわかったのだった。
けさ吉でさえ辰平やおりんの前では唄わなかったのである。


27 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:38:46 ID:???


辰平は雨屋を黙ってとび出した。道のはじに転がっていた丸太ん棒を持って、けさ吉の奴はどこにいやァがると探しまわった。

けさ吉は池の前の家の横で四五人の子供と歌を唄っていた。

  年に一度のお山のまつり
     ねじりはちまきでまんま食べろ

杉の木立が垣根のように生えているので姿はわからないが、その中にけさ吉の声がまじっているのですぐわかった。

辰平は丸太ん棒をふり上げて、
「けさ! おばあやんの歯が鬼の歯か!
 てめえは、おばあやんに、あんねん可愛がってもらって、でかくしたのに、てめえは、てめえは!」

辰平は踊り上って丸太ん棒をふりおろした。
だがけさ吉は、ひょいと身をかわしてしまったので、そばの石を叩いてしまったのである。
あんまり力を入れたので痛い程、手がしびれてしまった。

けさ吉は向うの方に逃げて行って平気の顔でこっちを眺めていた。


28 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:39:17 ID:???


辰平はけさ吉の方に向って、
「バカ野郎! めしを食わせねえぞ!」
と怒鳴った。

村では「めしを食わせねえぞ」とか「めしを食うな」という言葉をよく使ったのである。
めしを食わせないという懲罰もあったけれども悪態のように使われる言葉である。

その晩のめし時になった。みんなが膳のまわりに坐った頃になると、
けさ吉は外から入ってきてみんなと一緒に膳の前にすわったのである。
辰平の顔をちらっと見ると、さっきの怒った形勢は全然なく、しおれているぐらいな顔つきである。

辰平の方は、あの鬼の歯の歌のことをおりんの前でふれることは実に嫌なことだった。
あんな歌があることをおりんにだけは知らせたくなかったのである。
腹の中で、けさ吉はさっきのことを云い出さないでいればよいと思っていたのだ。

けさ吉は腹の中で
「あの鬼の歯の歌のことを、あんなに怒ったが、あのくらいのことを怒る方がどうかしているぞ、
 そんなに嫌なことなのか、こんど何かあったら何度でも唄ってやるぞ!」
と気が強くなった。
これにかぎるぞと勢が出て来た。
けさ吉は父親が近いうちに後添を貰うことになっているが大反対であった。
そのうちにみんな飯をよそって食べ始めた。
めしと云っても汁の中に玉蜀黍のだんごと野菜が入っているもので、食べるというよりすするのである。


29 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 17:42:15 ID:???


  三十すぎてもおそくはねえぞ
     一人ふえれば倍になる

この歌は晩婚を奨励した歌であった。
倍になるということはそれだけ食料が不足するということである。
だからおりんも辰平もけさ吉の嫁などとは夢にも考えてはいなかった。


30 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:04:25 ID:???

「わしも正月になったらすぐ山へ行くからなあ」
そう云ってさするのを止めた。
玉やんは一寸黙っていたが、
「あれ、兄やんもそんなことを云ってたけんど、ゆっくり行くように、そう云っていたでよ」

「とんでもねえ、早く行くだけ山の神さんにほめられるさ」

おりんはもう一つ玉やんにすぐ話したいことがあった。
お膳の真中にある皿を玉やんのすぐ前においた。
いわなの煮たのが一杯盛ってある皿である。このいわなのことを話さなければと思った。

「このいわなはなァ、みんなわしがとってきただから」

川魚の王であるいわなの乾したものは山の貴重なさかなである。
玉やんは信じられないと云う風な顔つきで、
「あれ、おばあやんはいわながとれるのけえ?」

「ああ、辰平なんかも、けさ吉なんかも、まるっきり下手でなあ、村の誰だってわし程とってくるものはいんだから」

おりんは自分の唯一つの取り得である、いわなをとる秘伝を山へ行く前に玉やんに教えておこうと思ったのである。


31 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:05:23 ID:???

おりんは目を光らせて、
「おれはなあ、いわなのいるとこを知っているのだぞ、誰にも云うじゃねえぞ、あとで教えてやるから、
 夜行ってなあ、そこの穴へ手を突っこめばきっと掴めるのだぞ、誰にも云うじゃァねえぞ」

おりんはいわなの皿を玉やんにつきつけるように出して、
「こんなものは、みんな食っていいから、さあ食べてくりょう、まだ乾したのがうんとあるから」

それから立ち上って、
「辰平を呼んでくるから、食べていておくれ」

そう云って裏口から出て行った。
そして物置の中に入って行った。
いい人だと云われてうれしくなってしまったおりんは、ここで一世一代の勇気と力を出したのである。
目をつむって石臼のかどにがーんと歯をぶっつけた。
口が飛んでいってしまったと思ったほどしびれた。
そうしたら口の中があたたかくなったような甘い味がしてきた。
歯が口の中一ぱい転がっているような気がした。
おりんは口から血がこぼれるのを手で押えてチョロヽヽ川へ行って口を洗った。
歯が二本欠けて口の中から出てきた。


32 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:06:11 ID:???

「なーんだ二本だけか」
とがっかりしたが、上の前の歯が揃って二本欠けたので口の中が空っぽになったようになったので、うまくいったと思った。
その頃けさ吉は白萩様のどぶろくですっかり酔っぱらって、祭り場で鬼の歯の歌を唄っていたのである。
おりんは歯も欠けたが口の中のどこかに、けがをしてしまったのであった。
甘いような味がして血が口の中で湧いてくるように出てくるのである。

「止まれ、止まれ」
と思いながら手で川の水をすくって口の中を洗った。
血はなかなか止まらなかった。
それでも前歯が二本欠けたのは、しめたものだとうれしくなった。
ふだん火打石で叩いていたから、やっぱりうまく欠けたのだ、火打石で叩いたことは無駄なことじゃなかったと思った。
おりんは川に顔を突っこむようにして水を含んだり吐いたりしているうちに血も止まったのである。
口の中が少しピリピリと痛むだけであるが、そんなことはなんとも思わなかった。
玉やんに歯並びの悪いところを見せたくなったので家の中にまたひきかえしていった。
玉やんはまだ食べていた。
おりんは玉やんの前に坐って、
「ゆっくり、うんと食べねえよ、すぐ辰平を呼んでくるから」
それから、
「わしは山へ行く年だから、歯がだめだから」

おりんは下の唇を上側の歯でかんで、上側だけを見てくれとばかりに突き出した。
これで何もかも片づいてしまったと踊り上らんばかりだった。
辰平を探しに行きながら村の人達にも見せてやろうと家を出て祭り場の方へ歩いて行ったが、
実に肩身が広くなったものだと歩いて行った。


33 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:06:48 ID:???

おりんは楢山まいりのことばかりを考えていた。

強風が一日中吹いて、夜も夜どおし吹きまくった夜明け、不意に、あの奇妙な叫び声が起った。

「楢山さんに謝るぞ!」

そう叫びながら村の人達が方々で騒ぎ出した。
おりんはその声をきくと蒲団の中からすばやく這い出して、転がるように表に出た。
年はとっていても棒を掴んだ。
横から玉やんが末の子を背中にしばりつけるようにおぶって出て来た。
もう手に太い棒を握っていた。

おりんは、
「どこだ?」
と叫んだ。

玉やんは物を云うひまもないというように返事もしないで真っ青になって馳けて行った。
もう家中の者がみんな飛び出してしまった後であった。

盗人は雨屋の亭主であった。
隣りの焼松の家に忍びこんで豆のかますを盗み出したところを、焼松の家中の者に袋だたきにされたのであった。


34 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:07:27 ID:???

食料を盗むことは村では極悪人であった。
最も重い制裁である「楢山さんに謝る」ということをされるのである。
その家の食料を奪い取って、みんなで分け合ってしまう制裁である。
分配を貰う人は必ず喧嘩支度で馳けつけなければ貰うことが出来ないのである。
若し賊が抵抗していれば戦わなければならないので一刻も早く馳けつけることになっていた。
戦うつもりで早く馳けつけるのであるから必ず跣で行くことになっていたのである。
履き物をはいて行けばその人もまた袋叩きにされることになっていて、馳けつける方でも死にもの狂いである。
これは食料を奪いとられるということが、どれだけ重大な事であるかが誰もの神経にきざみつけられているからである。

雨屋の亭主は足も腰も動けない程弱っていた。
焼松の家で捕えられたのであるが担ぎ出されて祭り場の所へ運ばれた。
雨屋の家族もそのそばに坐っていなければならないのである。
わあわあと泣いているだけでどうすることも出来ないのである。
それから「家探し」ということをされるのである。
屈強な男達が雨屋の家の中を荒らして食べられるという食べ物を表に投げ出してしまったのである。
投げ出されたものを見て、みんな目を丸くして驚いてしまった。
芋が縁の下からぞくぞくと出て来て一坪ぐらいの山となったのである。
こんなに雨屋では芋がとれたわけがないのである。
芋を作るには種芋を埋めなければならないのである。
種芋は食べられるものであるから冬を越せば、どこの家でも僅かしか残らないのである。
冬を越すにはどこの家でも足りなくなるくらいである。
また、どこの家ではどれだけ芋を作ったか村の人は皆知っていることで、雨屋ではこの十分の一もとれなかったはずである。
この芋の山は、畑にあったときから村中の家の芋を掘り出したのに違いないのであった。


35 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:08:18 ID:???

雨屋では二代つづいて楢山さんに謝ったのであった。
先代の時は山の根を掘って食べて冬を越したというが、冬をうまく越せたのはどこかへ、山のどこかへ、
食い物を隠しておいたかも知れないと、その当時は云われたのである。

「雨屋は血統だから、泥棒の血統だから、うち中の奴を根だやしにしなけりゃ、夜もおちおち寝られんぞ」
と小声で云い合っていた。
雨屋の家族は十二人である。

その日は一日中誰も仕事が手につかないのである。
村中の人達は興奮してしまって落ちつくことが出来なかったのである。

おりんの家でも、みんなポカンとしていた。
辰平は足を投げ出して頭をかかえていた。

「この冬はうちでも越せるかどうか?」
と思っていた。
雨屋のことは他人ごとではなく、辰平の家でも切実に迫っていることなのである。
雨屋の事件はそれを目の前に見せつけられたのである。
食料は足りないし、そうかといって盗むことも出来ないし、雨屋は十二人で辰平の家族は八人であるが、
食い盛りの者が多いので困り方は雨屋と同じである。


36 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:22:44 ID:???

その夜、呼ばれた人達は集ったのである。
山へ行く前の夜、振舞酒を出すのであるが、招待される人は山へ行って来た人達だけに限られていた。
その人達は酒を御馳走になりながら山へ行くのに必要な事を教示するのである。
それは説明するのであるが誓いをさせられるのであった。
教示をするにも仁義のような作法があって、一人が一人ずつ教示するのである。
集った人は男が七人で女が一人であった。
この中の女は去年供で行ったのであるが女で供に行くことはめずらしいことである。
よくよく供のない家では他人に頼んで供になってもらって、たいがい男が行くのであった。
振舞酒に招待された八人の中でも一番先に山へ行った者が古参といって一番発言権が強いのであり、
その人が頭のような存在でみんなの世話人であった。
酒をのむのも一番先であって、すべてが山へ行った順できまるのである。
今夜の一番先輩格は「短気の照やん」と云う人だった。
照やんは短気ではなく落ちついた五十年輩の人であるが、
何代か前に照やんの家に短気の人があったので今でも短気と呼ばれていて、それは綽名ではなく家号のようになっていた。

おりんと辰平は自分の家ではあるが正面に坐っていて、その前へ客達が下手に並ぶのである。
おりんと辰平の前には大きい甕が置いてあった。
これはおりんが今夜のために用意した白萩様のどぶろくが一斗近くも入っている甕である。

照やんはおりんと辰平に向って先ず改まってお辞儀をすると、つづいて客達も揃って頭を下げた。


37 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:24:21 ID:???

照やんは辰平に向って、
「お山まいりはつろうござんすが御苦労でござんす」

おりんと辰平は此の席では物を云ってはならないことになっていた。
照やんは云い終ると甕を持って口を当ててがぶがぶと飲めるだけのんだ。
そして次の人に甕を廻すと、その人が飲めるだけ飲んで順に廻すのである。
終りまでくるとまた照やんの前に持ってくるのである。

照やんはおりんに向って本を読むような口ぶりで、
「お山へ行く作法は必ず守ってもらいやしょう
 一つ、お山へ行ったら物を云わぬこと」

云い終るとまた甕に口をあててがぶがぶと飲んで次の人に廻した。

おりんも辰平も今夜客達が教示することは皆知っていた。
ふだん話に聞いて知っていることではあるが、こうして改まってきくことが慣わしであるし、
客達を前にして誓いをたてるようなことになるのであるから一生懸命になって聞いていた。

甕がまた廻り終ると、照やんの次の人の前に置かれた。
その人がこんどは照やんと同じような口ぶりで、
「お山へ行く作法は必ず守ってもらいやしょう
 一つ、家を出るときは誰にも見られないように出ること」


38 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:26:04 ID:???

云い終ると甕に口を当ててがぶがぶと飲んだ、甕が一廻りすると三人目の人の前に置かれた。
その人も照やんと同じような口ぶりで、
「お山へ行く作法は必ず守ってもらいやしょう
 一つ、山から帰る時は必ずうしろをふり向かぬこと」

云い終るとまた甕に口を当ててがぶがぶと飲んだ。
甕が一廻りすると四人目の人の前に置かれた。
三人目まで終ったのであるが、四人目の人は楢山へ行く道順を教えるのである。

「お山へ行く道は裏山の裾を廻って次の山の柊の木の下を通って裾を廻り、三つ目の山を登って行けば池がある。
 池を三度廻って石段から四つ目の山へ登ること。
 頂上に昇れば谷のま向うが楢山さま。
 谷を右に見て次の山を左に見て進むこと。
 谷は廻れば二里半。
 途中七曲りの道があって、そこが七谷というところ。
 七谷を越せばそこから先は楢山さまの道になる。
 楢山さまは道はあっても道がなく楢の木の間を上へ上へと登れば神様が待っている」


39 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:26:44 ID:???

云い終ると甕が廻って、これで終ったのである。
この教示が終れば誰も物を云ってはならないのである。
だから教示を云った四人の以外は誰も物を云うことが出来ないのであった。
それから無言のまま甕が廻って酒を飲み終るのであるが飲めるだけ飲むとその人は黙って消えるように去って行くことになっていた。
照やんだけは最後に帰るのである。
みんな帰ってしまって照やんも席を立ったのであるが、立つ時に辰平を手で招いて戸外に連れ出した。

小声で、
「おい、嫌ならお山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」
そう云って、誰もいないのに暗い方を見廻しておどおどしている様子である。

「変なことを云うな?」
と辰平は思ったが、おりんはあれ程一心に行こうとしていることだから、そんな馬鹿なことには用はないのだと気にもとめなかった。
照やんはすぐ、
「まあ、これも、誰にも聞かれないように教えることになっているのだから、云うだけは云っておくぜ」
そう云って帰って行った。


40 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:36:33 ID:???

おりんは筵の上にすっくと立った。
両手を握って胸にあてて、両手の肘を左右に開いて、じっと下を見つめていた。
口を結んで不動の形である。
帯の代りに縄をしめていた。
辰平は身動きもしないでいるおりんの顔を眺めた。
おりんの顔は家にいる時とは違った顔つきになっているのに気がついた。
その顔には死人の相が現れていたのである。

おりんは手を延して辰平の手を握った。
そして辰平の身体を今来た方に向かせた。
辰平は身体中が熱くなって湯の中に入っているようにあぶら汗でびっしょりだった。
頭の上からは湯気が立っていた。

おりんの手は辰平の手を堅く握りしめた。
それから辰平の背をどーんと押した。

辰平は歩み出したのである。
うしろを振り向いてはならない山の誓いに従って歩き出したのである。


41 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:37:12 ID:???

十歩ばかり行って辰平はおりんの乗っていないうしろの背板を天に突き出して大粒の涙をぽろぽろと落した。
酔っぱらいのようによろよろと下って行った。
少し下って行って辰平は死骸につまずいて転んだ。
その横の死人の、もう肉も落ちて灰色の骨がのぞいている顔のところに手をついてしまった。
起きようとしてその死人の顔を見ると細い首に縄が巻きつけてあるのを見たのだった。
それを見ると辰平は首をうなだれた。
「俺にはそんな勇気はない」とつぶやいた。
そして又、山を下って行った。
楢山の中程まで降りて来た時だった。
辰平の目の前に白いものが映ったのである。
立止まって目の前を見つめた。
楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。

雪だった。
辰平は、
「あっ!」
と声を上げた。
そして雪を見つめた。
雪は乱れて濃くなって降ってきた。
ふだんおりんが、
「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」
と力んでいたその通りになったのである。
辰平は猛然と足を返して山を登り出した。
山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。
雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。
知らせようというより雪が降って来た! と話し合いたかったのである。
本当に雪が降ったなあ! と、せめて一言だけ云いたかったのである。
辰平はましらのように禁断の山道を登って行った。


42 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:38:03 ID:???

おりんのいる岩のところまで行った時には雪は地面をすっかり白くかくしていた。
岩のかげにかくれておりんの様子を窺った。
お山まいりの誓いを破って後をふり向いたばかりでなく、こんなところまで引き返してしまい、
物を云ってはならない誓いまで破ろうとするのである。
罪悪を犯しているのと同じことである。
だが「きっと雪が降るぞ」と云った通りに雪が降ってきたのだ。
これだけは一言でいいから云いたかった。

辰平はそっと岩かげから顔を出した。
そこには目の前におりんが坐っていた。
背から頭に筵を追うようにして雪を防いでいるが、前髪にも、胸にも、膝にも雪が積っていて、
白狐のように一点を見つめながら念仏を称えていた。
辰平は大きな声で、
「おっかあ、雪が降ってきたよう」
おりんは静かに手を出して辰平の方に振った。
それは帰れ帰れと云っているようである。

「おっかあ、寒いだろうなあ」
おりんは頭を何回も横に振った。
その時、辰平はあたりにからすが一ぴきもいなくなっているのに気がついた。
雪が降ってきたから里の方へでも飛んで行ったか、巣の中にでも入ってしまったのだろうと思った。
雪が降ってきてよかった。
それに寒い山の風に吹かれているより雪の中に閉ざされている方が寒くないかも知れない、
そしてこのまま、おっかあは眠ってしまうだろうと思った。
「おっかあ、雪が降って運がいいなあ」
そのあとから、
「山へ行く日に」
と歌の文句をつけ加えた。


43 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:38:46 ID:???

おりんは頭を上下に動かして頷きながら、辰平の声のする方に手を出して帰れ帰れと振った。
辰平は、
「おっかあ、ふんとに雪が降ったなァ」
と叫び終ると脱兎のように馳けて山を降った。
山の掟を破ったことを誰かに知られやァしないかと飛び通しで山を降った。
誰もいないはずの七谷の上のところまで降って来たとき、銭屋の倅が雪の中で背板を肩から降ろそうとしているのが目に入った。
背板には又やんが乗っていた。
荒縄で罪人のように縛られている。
辰平は、
「やッ!」
と思わず云って立止まった。
銭屋の倅は又やんを七谷から落そうとしたからだった。
四つの山に囲まれて、どのくらい深いかわからないような地獄の谷に又やんを落そうとするのを辰平は目の下に見ているのである。

「ころがして落すのだ」
と知った時、昨夜照やんが「嫌なら七谷の所から帰ってもいいのだぞ」と云ったのを思い出した。
「あれは、これのことを教えたのだな」
と初めて気がついた。
又やんは昨夜は逃げたのだが今日は雁字搦みに縛られていた。
芋俵のように、生きている者ではないように、ごろっと転がされた。
倅はそれを手で押して転げ落そうとしたのである。
だが又やんは縄の間から僅に自由になる指で倅の襟を必死に掴んですがりついていた。
倅はその指を払いのけようとした。
が又やんのもう一方の手の指は倅の肩のところを掴んでしまった。
又やんの足の先の方は危く谷に落ちかかっていた。
又やんの倅は辰平の方から見ていると無言で戯れているかのように争っていた。
そのうちに倅が足をあげて又やんの腹をぽーんと蹴とばすと、又やんの頭は谷に向ってあおむきにひっくり返って
毬のように二回転するとすぐ横倒しになってごろごろと急な傾斜を転がり落ちていった。


44 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:48:45 ID:???

辰平は谷の底の方を覗こうとしたその時、谷底から竜巻のように、
むくむくと黒煙りが上ってくるようにからすの大群が舞い上ってきた。
湧き上るように舞い上ってきたのである。

「からすだ!」
と辰平は身をちぢめるように気味悪くなった。
舞い上って、かあかあと騒ぎながら辰平の頭上高くとび廻っていた。
この谷のどこかに巣があって、雪が降ったのでそこに集っていたのだと思った。
きっと又やんはそこに落ちたのだと思った。

舞い乱れていたからすはだんだんまた谷底の方へ降り始めたのである。

「からすの餌食か!」

あんな大変のからすじゃァと身ぶるいをしたが、落ちた時は死んでしまっているだろうと思った。
倅の方を見ると、やっぱりからすを見て気味が悪くなったのであろう、空の背板をしょって宙を飛ぶように馳け出していた。
辰平は、
「あんなことをするのだから振舞酒も出さないわけだ」
と思いながら、狼が走って行くように背を丸めて逃げてゆく倅を眺めていた。


45 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:49:29 ID:???

雪は牡丹雪のように大きくなってきた。
辰平が村に帰り着いた時は日が暮れて暗くなってしまった。

「うちへ帰ったら、末の女の子はおりんがいなくなったので淋しがっているにちがいない」
と思った。

「おばあはいつ帰って来る?」
などときかれたら、なんと答えようかと困ってしまった。
家の前まで来たが戸口の外に立って中の様子をみた。

家の中では次男が末の子に歌を唄って遊ばせていた。

  お姥捨てるか裏山へ
     裏じゃ蟹でも這って来る

留守に子供達はおりんのことを話していたのだ。
もう知っているのだと思った。
蟹の歌ばかりをくり返して唄っているのである。

  這って来たとて戸で入れぬ
     蟹は夜泣くとりじゃない


46 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 19:51:36 ID:???

この歌は、村では昔は年寄りを裏山に捨てたものだった。
或る時、老婆を捨てたところが這って帰ってきてしまったのである。
その家の者だちは「這って来た、這って来た、蟹のようだ」と騒いで戸をぴったりと締めて中へ入れなかったのである。
家の中では小さい子が蟹が本当に這って来たのだと思い込んでしまったのである。
老婆は一晩中、戸の外で泣いていた。
その泣き声を聞いて子供が「蟹が泣いている」と云ったのである。
家の者が「蟹じゃないよ。
蟹は夜泣いたりしないよ、あれはとりが啼いているのだ」と子供などに話してもわけがわからないので、
そう云ってごまかしてしまったのである。
蟹の歌はそれを唄ったのである。

辰平は戸口に立って蟹の歌をきいていた。
こんな歌ばかりを唄っているのだから、おりんがもう帰って来ないことを承知しているのだと思うと気がらくになった。
辰平は肩から背板を降ろして雪を払った。
戸を開けようとした時、松やんが納戸の方から出てきた。
大きい腹にしめているその帯は、昨日までおりんがしめていた縞の細帯であった。
松やんが開けて出て来た納戸の奥では、昨夜おりんが丁寧に畳んでおいた綿入れを、
もうけさ吉はどてらのように背中にかけてあぐらをかいて坐っていた。
そばには甕が置いてあった。
昨夜の残りを飲んで酔っているらしく、うっとりとした目で首をかしげながら、
「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」
と悦に入っているように感心していた。

辰平は戸口に立ったまま玉やんの姿を探したがどこにも見えなかった。

辰平はふっと大きな息をした。
あの岩かげでおりんはまだ生きていたら、雪をかぶって綿入れの歌を、きっと考えてると思った。

  なんぼ寒いとって綿入れを
     山へ行くにゃ着せられぬ

47 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:21:04 ID:???



○朝十時ごろ、落合の駅のベンチで友達らしき中年のサラリーマン風の人物と
ハイリッキーを片手に熱心に話し込んでる広末さんを見ました。
広末さんは、林葉直子と武田久美子は同じ系統の顔であることを力説していました。
あと「会ってみたら意外と感じよさそうな人ベスト1!」と叫んで、西岡徳馬さんの名前をあげていました。
あまりにも目立つので人垣ができ始めると、広末さんは開き直ったような顔で
「あたし、椎名林檎の歌、沖縄音階で歌えるよ」とうそぶくや、何かよくわからない歌を少しだけ歌って去っていきました。
去りぎわ大学生風の男がサインを求めると「ハイ、よろこんで」と作ったようなアニメ声で言って、
なぜかポケットから梅ガムを取り出して彼に与えていました。
サインは結局してないようでした。


48 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:21:46 ID:???



八月のバカヂカラ。

身長百九十センチの知恵遅れ(二十六才、家事手伝い、愛称マー坊)が「ボクのオニギリ返せ」と首を絞めてくるような、
そんな抵抗不可能な暑さで目が覚める。

目が覚めたのは生島ヒロシ。つまり僕。僕はもちろんあの生島ヒロシじゃない。
あの生島ヒロシのおかげで十年も「アナウンサー」という見も蓋もない渾名で呼ばれてきたかわいそうなただの学生だ。
アパートの隣の部屋から聞こえる『笑っていいとも』の空虚な喧騒に、
機械的に「寝ちったよー」と反応してみたが、別に困ることは何もない。
なにしろ予定がない。
もちろん大学に行けば授業ってものがある。
でも、僕は今日大学に行くことができない。

理由がある。

僕ら「広末研」の人間は広末涼子が学校に行っていないだろう日には、同じように大学に行かない。

どうして?
決められたことだからだ。あとで詳しく話すが「秘密」の司令でなんだかとにかくいたしかたなくそう決まっている。
つまるところ僕はここのところまるで大学に行っていない。
言い訳のようだが、もちろん言い訳だ。
じゃあ広末が大学に入る前は授業に出てたのか、って話になると悲しいかな答えはノーなのだ。
違うのは「以前は理由がなかった」「そして今は理由がある」ってこと。


49 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:22:23 ID:???

僕は湯を沸かしパソコンに灯を入れて汗まみれのTシャツを脱ぎそれで脇の下をぬぐって洗濯籠に放りこみ
上半身裸のままカップヌードルに湯を注ぐ。
いや、正確には注ごうとしたところで、

おおおおおおおー! なんじゃこりゃあ! 不覚にも無自覚な松田優作。

肉しか入ってない!

麺がない。といったような騒ぎではない。
カップヌードルの容器の中には、縦十センチ、横五センチ、幅三センチ、
いってみれば小ぶりのレンガのような肉がゴロンと入っているのである。
普段ならほぼマギーブイヨン大の、あの正方形の、出どころのわからないものでできた乾燥肉がである。
切断面のめのが紛れ込んだのだろうか。とにかく生半可でない存在感だ。
肉界の北島マヤだ。お肉という名の事件。いやいやもはや奇跡?
そう。
しばらくぼんやりしていたが、これは「プチ奇跡」に相当する事態なんではなかろうかという思いが黒雲のように沸き上がってくる。
なんだかわからん。しかし、凄い。

これほどに怠惰な学生に今この不用意なタイミングで奇跡を見せるなんて、やっぱり八月はよっぽどに頭が悪い。


50 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:23:06 ID:???



「レンガ肉発見!」

思わず、パソコンに打ち込み、広末研の仲間に配信する。僕が暇な日は彼らも暇なはずだ。
といっても彼らと顔を合わせたことはない。

元々広末ファンの僕がネットで「広末涼子」を検索し、クネクネとリンクを迷走するうちたどり着いた
『広末と学校を休もう』という、総ヒット数わずか五百件あまりのサイトがことの発端だ。
「秘密」というハンドルネームを持つ人が管理人である(『秘密』というのはもちろん広末が主演した映画からとったものだろう)。彼は特別なルートでもって広末が学校に行く日の情報を入手し、掲示板に告知していたのだ。

「学校に行ったり行かなかったりするみなさん。どうせなら広末の都合に振り回されてみませんか」

広末ファンであり、そもそも学校をさぼり気味の僕らは一気にこれで免罪符を手に入れたわけだ。
わけだといってもこれは相当にくだらない免罪符なわけで、掲示板の常連は「アナウンサー」である僕を含めて「広末亭」
「平気で餅をつく人たち」「カロリー」「カロリーメイト」(二人は友達らしい)そして管理人の「秘密」、この六人だけである。
広末が学校に行ったとして会えるわけでもないのに、アホくさい話だとは思う。
だっておそらくこの中に早稲田の学生は一人もいないのだから。
早い話「秘密」の情報がガセであろうがかまわない。僕等の目的は「従う」ことなのだ。

さて、『広末と学校を休もう』が『広末涼子研究会』に発展したのはつい最近のことだ。


51 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:23:46 ID:???

「最近の広末の行動ってやばすぎ。これは研究の余地のある問題です。
 我々も彼女の行動に振り回されてばかりもいられません。
 マスコミからの攻撃から彼女を守るためにも、これからは彼女の行動を予測し先回りするぐらいの姿勢が大事であると思います」

との「秘密」のよくわかったようなわからないような主張が発端だった。
にしても確かにそうだ。
タクシー百五十キロ無賃乗車事件。
カブト虫つがいで購入(しかもツケで)事件。千葉真一、ジャン・レノの胸で号泣事件。
金子賢タクシーで追跡事件。
これすべて数日間のことで、広末涼子って本当に一人なのか、と思われるほどに過剰なのである。
たとえばある日の広末の行動を『女性セブン』誌から抜き書きしてみよう。

「広末は、その店の(見知らぬ)客が誕生日と知るや従業員に『じゃあ、ケーキ作ってよ!』と無理をいって、
 作ってもらったケーキに烏型のロウソクを立てようとするがなかなか立たず、『立たねー!』と叫んでイライラしたあげくに
 ロウソクをペロペロ舐め始め、やっと立つやいなや、今度は『火! 火!』と騒ぎ始める始末です」

何がしたいねん。ちゅう話だ。


52 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:24:53 ID:???

そこで「秘密」は提案したのだ。

「これからはあえて我々も広末の情報をネットを通じてばんばんリークしましょう。
 本当だろうが嘘だろうがかまわない。
 情報の煩雑さでマスコミを混乱させ、うんざりさせれば、広末の話題などそのうち相手にしなくなるのではないでしょうか」

異論はなかった。
「秘密」の司令に従うのは大好きだ。自分で何かを決めるなんて、そんな迂闊なことはしたくない。
他人の「ややぬるめの命令」をヘコヘコと聞いて従って、なんにも考えずにどうにか人生やり過ごして逃げこなしたい。
そう、本気で思っている。
何より広末の登校に合わせてスケジュールを組んでいるので暇でしょうがない。
僕らはせっせと広末に関する嘘情報を「まっとうな」広末ファンサイトを手始めに、
大手掲示板やらなにやらにリークし始めたのだった。


53 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:25:30 ID:???



○某月某日、池袋の西口でパチスロ屋から打ちひしがれた表情で出てくる広末さんを見ました。
オイオイ、素顔で大丈夫なのかなと思って見ていると、何か携帯電話に向かってブツブツ言い始めたので、
知らぬフリで聞いていました。
広末さんは「ビワが食いたか。ビワが食いたかとー」と相手に切々と訴えていました。
四国出身の広末さんがなぜそのとき九州弁だったのかわかりませんが「ビワくらい自分で買えば」と、
余計なお世話な気持ちになりました。

○新宿高島屋でやっていた九州物産展にスカーフにサングラス、ポロシャツに白手袋というキャディーさんのような出で立ちで
ヒョッコリ現われた広末さんがいました。
佐賀県のブースで広末さんは小さなメモを見ながら「カメ煮ないの? カメ煮ちょうだい」と物凄い勢いで販売員に迫っていました。
販売のおばさんが「ガメ煮じゃないですかね」とおそるおそる聞き返すと、えらくプライドを傷つけられた様子で、
再びメモを見て「じゃあジャコ豆昆布ちょうだい!」と言い放ちました。
おばさんは困った顔で「そんなものは聞いたことがない」というようなことを答えました。
広末さんは顔を真っ赤にして「最後の質問よ」と指を突きつけ「カブト虫を揚げた奴は?」と聞きました。
おばさんはだまって首を振りました。広末さんは「だったら揚げてない奴もないよね」と念を押し、
メモを破り捨てると「子供の使いじゃないんだよ!」とおばさんを一喝、逃げるようにその場を立ち去りました。
連れ合いに聞くと、その際、ちょっと照れ笑いを浮かべていたようです。
何かの罰ゲームでもうけていたのでしょうか。


54 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:26:37 ID:???

○浦安で砂浜を一人歩く広末さんを見かけました。オフの時間を楽しんでいるようでしたが、
よく見ると頬にルパン三世のようなもみあげがありました。
「そんなバカな」と思ってよくよく見ると、それはマジックで描かれたものでした。
絶対見間違いじゃないと思います。
しばらく歩いているうちに、捨てられたかっぱ海老せんの袋を見つけ、中身が残っていることを確認した広末さんは
「かわいい!」と微笑んで、迷う様子もなく口に放りこんでしまいました。
悪くなってたらお腹壊しちゃうよ、と他人事ながらドキドキしてしまいました。
あと「かわいい」の用法を間違ってるとも思いました。

これらのリークが何かに実を結ぶとかそういうのはどうでもいいことだった。
ただ、「秘密」の司令を聞くことが、凡庸以下である三流大学生の僕が広末の住む宇宙と
ほんのわずかでもつながっているような気がして妙な充実感を覚えていた。

玄関を叩く音がした。
「秘密」からメールで「ぜひ食べてみたいですね、レンガ肉」と返事が来て、教えろというので住所を教えてから一時間後のことだ。

今度は本当に本当の奇跡が起きた。

「あんたが『アナウンサー』やいか?」

ドアの向こうに広末涼子が汗びっしょりで立っていたのである。


55 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:29:56 ID:???



「……ちょっと待って」体の震えを止めるように堅い声を出した。

「じゃあ『秘密』って」

「……すまんな。私だったんやいな」

聞いたことのない地方のなまり方だった。

「黙っちろう思うたが、なんぼなんでも、レンガ肉には負けるでいな。こいも、リークするがえいが」

広末涼子は僕の脇を擦り抜け、部屋に土足でズカズカとあがるとテーブルの上置いてあったレンガ肉を見つけて狂気乱舞していた。

「もろてもえいな? たらふく食べるの夢じゃったよいな、カップヌードルの肉。もろてもえいな?
 広末涼子が、ちょくに頼んでるんば。もろてもえいかろうがい」


56 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:30:57 ID:???

僕はそんな彼女の背中を見つめながら、かろうじて一言だけ搾り出した。

「何者なんだ、いったい、あんた」

その刹那。

一瞬時間が止まったような気がして、そして、広末はゆっくりと振り向いた。

「それを聞くの? それを聞いちゃ、いけないよ」

とめどなく哀しい笑顔だった。

「それはあたしが聞きたいよ」

細く答えて、イヤイヤをするように顔を振りながら、ジジジジと音を立てて、四畳半の濃密な空気の中に彼女は溶けて消えていった。


57 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:32:29 ID:???



翌日、「一般大学生の家にレンガ肉を食いにいった広末」の話は何者かの手によって
しっかり広末のファンサイトに書き込まれていたが、もちろん、そんな話を信じるものは誰一人としていなかった。

もちろん僕は、学校に行っていない。

「秘密」からの次の司令を待って、待って、待ちに待って、僕はこのバカな夏を退屈で塗り潰す決心をしたのである。


58 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:37:13 ID:???

「材木もくさるけど、いっしょに砂もくさっちゃうんですね……
 埋まった家の、天井板をはがしてみたら、中からキュウリでも出来そうな、よく肥えた土が出てきたって……」

「まさか!」
男は、口をゆがめて、乱暴に言い返した。
自分のなかにあった砂のイメージが、無知によって冒?されたような気がしたのだ。
「ぼくは、砂のことについちゃ、これでも、ちょっとばかり、くわしいんでね……
 いいですか、砂ってやつは、こんなふうに、年中動きまわっているんだ……
 その、流動するってところが、砂の生命なんだな……
 絶対に、一カ所にとどまってなんかいやしない……
 水の中だって、空気の中でだって、自由自在に動きまわっている……
 だから、ふつうの生物は、砂の中ではとうてい生きのびられやしません……
 腐敗菌だって、その点は、同じことです……
 まあ、言ってみれば、清潔の代名詞みたいなもので、防腐の役目はするかもしれないが、
 腐らせるだなんて、とんでもないことだ……
 まして、奥さん、砂自身が腐るだなんて……
 第一、砂ってやつは、れっきとした鉱物なんですよ。」


59 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:38:46 ID:???

二度目の石油罐を搬びおえたとき、声がかかって、道の上で、カンテラがゆれた。

女がつっけんどんとも思える調子で、

「モッコだ! お客さん、こっちはもういいから、あっちの方を手伝って下さい!」

梯子の上に埋めこんであった、俵の用途が、はじめて呑込めた。
そこにロープをあてがって、モッコの上げ下ろしをするのである。
モッコの係は、四人ずつ、ぜんぶで二、三組あるようだった。
大体、若い連中で編成されているらしく、てきぱきと、いかにも調子に乗った仕事ぶりだ。

一組のモッコがいっぱいになると、もう次のモッコが待っているという具合である。
六回で、盛上げてあった砂が、平らになってしまった。

「大変だね、あの連中も。」


60 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:40:19 ID:???

シャツの袖で汗をぬぐいながら、男の口調は好意的だった。
青年たちが、彼が手伝っていることに対して、ひやかしめいたこと一つ言わず、
きびきびと、仕事に熱中している様子に、好感がもてたのだ。

「はい……うちの部落じゃ、愛郷精神がゆきとどいていますからねえ……」

「何精神だって?」

「郷土を愛する精神ですよ。」

「そいつはいいや!」

男が笑うと、女も笑った。
しかし、笑ったわけは、自分でもよく分らなかったらしい。


61 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:42:44 ID:???


「呆れたもんだね、毎晩こんなふうなの?」

「砂は休んじゃくれません……モッコも、オート三輪も、夜っぴて動いていますよ。」

「そりゃそうだろう……」
それはそうにちがいない。
砂は決して休んだりはしてくれまい。
男はひどくまごついてしまう。
小さいと思って何気なく踏みつけた、蛇のしっぽが、意外に大きく、
気がつくと、相手の頭が自分の後ろにあったと言うような、とまどいだ。

「しかし、これじゃまるで、砂掻きするためにだけ生きているようなものじゃないか!」

「だって、夜逃げするわけにもいきませんしねえ……」

男はますますうろたえる。
そんな生活の内側にまで、かかわり合いになるつもりはなかったのだ。


62 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:44:47 ID:???


「出来るさ!……簡単じゃないか……しようと思えば、いくらだって出来るよ!」

「そうはいきませんよ……」
女は、スコップをつかう動作に呼吸を合わせて、さりげなく、
「部落がなんとか、やっていけるのも、私らがこうして、せっせと砂掻きに、せいをだしているおかげなんですからね……
 これで、私らが、ほうりだしてしまったら、十日もたたずに、すっかり埋まっちまって……
 次は、ほら、同じように裏手のならびに、お鉢がまわっていくんです……」

「これはどうも、恐れいった美談だね……それで、あのモッコの連中も、あんなに熱心だったというわけか。」

「そりゃ、役場から、日当はもらってはいますけど……」

「そんな金があるくらいなら、なぜもっとちゃんとした砂防林をつくらないんだ?」

「計算してみたら、やはりこのやり方のほうが、ずっと安上りらしいんですね……」


63 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:46:34 ID:???


「やり方?……やり方だって!」
ふいに腹立ちがこみ上げてくる。
女をしばりつけているものにも、腹が立ったし、しばられている女にも腹が立ったのだ。
「そんなにまでして、どうしてこんな部落にしがみついていなけりゃならないのさ?
 さっぱりわけが分らんね……砂ってやつは、そんなに生易しいものじゃないんだ!
 こんなことで、砂にさからえると思ったら、大間違いさ。
 下らん!……こんな下らんことは、もうやめだ、やめだ……まったく、同情の余地もありゃしない!」

ほうりだした石油罐の上に、かさねてスコップをなげつけると、女の表情をみきわめもせずに、
さっさと部屋に引返して来てしまった。

寝苦しかった。
女の気配に、耳をそばだてながら、あんなふうに大見得をきってみせたりしたのも、
けっきょくは女をしばりつけているものへの嫉妬であり、女が仕事をほうりだして、
寝床へしのんで来てくれることへの、催促ではなかったかと、多少疚しい気持がしないでもない。
事実、彼の感情のたかぶりは、単に女の愚かさにたいする腹立ちというような単純なものではなかったようだ。
なにかもっと底知れないものがあった。
ふとんは、ますますしめっぽく、砂は、ますます肌にべたつく。
あまりにも不当だし、あまりにも奇怪だ。
だからと言って、スコップをなげだして来たことで、自分を責める必要もないだろう。
そこまで義務を負ういわれはない。
そうでなくても、負わなければならない義務は、すでにあり余るほどなのだ。
こうして、砂と昆虫にひかれてやって来たのも、結局はそうした義務のわずらわしさと無為から、
ほんのいっとき逃れるためにほかならなかったのだから……

なかなか寝つけなかった。


64 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:48:28 ID:???


「おい、梯子がないんだよ!
一体どこから上ればいいんだい?
梯子がなかったら、あんなとこ、登れやしないじゃないか!」

女は、あわてた仕種で、手拭をひろうと、思いがけない勢いで、二、三度、顔をはたき、
それからくるりと背をむけ、うつぶせになった。
はじらいの動作なのだろうか。あまりに場ちがいすぎた。
男は、せきを切ったようにわめきだした。

「冗談じゃないよ!
 早く梯子を出してくれないと困るじゃないか!
 ぼくは急いでいるんだ!
 一体、どこに隠しっちまったんだい?
 ふざけるのは、いいかげんにして、さっさと出してくれよ!」

それでも相手は、答えなかった。
同じ姿勢のまま、ただ首を左右にふりつづけるばかりである。


65 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:50:07 ID:???


ふいに、男は体を固くする。
視線は虚ろに、焦点を失い、呼吸も、ひきつり、ほとんど止りかけた。
とつぜん、自分の詰問の無意味さをさとったのだ。
そう、あれは、縄梯子だった……縄梯子には、自分で立つ力はない……
たとえ、手に入れたところで、下からかけるわけにはいかないのだ。
と言うことは、あれを外したのが、女ではなく、別の誰かが、道の上からとりのぞいたことを意味してはいまいか……
砂でよごれた不精ひげが、急にみすぼらしく、目立ちはじめた。

すると、女のこの仕種と沈黙は、とほうもなく恐ろしい意味をもってくる。
まさかと思いながらも、心の奥底で、いちばん案じていた不安が、とうとう的中してしまった。
縄梯子の撤去が、女の了解のうちに行われたことの、これは明白な承認にほかなるまい。
女は、まぎれもなく共犯者だったのだ。
当然、この姿勢も、はじらいなどという、まぎらわしいものではなく、
どんな刑罰でも甘んじようという、罪人、もしくは生け贄の姿勢にちがいない。
まんまと策略にかかったのだ。
蟻地獄の中に、とじこめられてしまったのだ。
うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、逃げ場のない沙漠の中につれこまれた、飢えた子鼠同然に……


66 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 22:52:15 ID:???


跳ね上って、戸口に駈出し、もう一度外を見た。
風が出ていた。
太陽は、穴のほとんど真上にあって、焼けた砂から、濡れた生フィルムのようなかげろうが立ちのぼっていた。
そして、砂の壁は、ますます高く、彼の筋肉と関節に、抵抗の無意味さを教えるようなさとり顔で、そそり立っている。
熱気が肌を刺した。急激に気温がのぼりはじめていた。

とつぜん、狂ったように、叫びだす。
なんと言えばいいのか分らないので、意味のある言葉にはならない。
ただ、声をかぎりに、ありったけの力でわめくのだ。
そうすればこの悪夢がおどろいて目をさまし、思わぬ失態をわびながら、
彼を砂の底から、はじき出してくれるとでもいうように。
だが、出しつけない声は、いかにもかぼそく、弱々しかった。
おまけに、途中で砂に吸われ、風に吹きちらされて、どこまでとどくものやらも心もとない。

ふいに、すさまじい響きがおこって、彼の口をふさいだ。
昨夜の女の言葉どおり、水分を失った、北側の砂のひさしが、くずれ落ちて来たのだ。
家全体が、むりやり捩じまげられたような、哀れっぽい悲鳴をあげた。
それから、苦しそうに、軒や壁の隙間から、さらさらと灰色の血をこぼしはじめる。
男は口の中を唾液でいっぱいにして、ふるえだした。
まるで、撃ちくだかれたのが自分自身だったように……


67 :私事ですが名無しです:2006/12/19(火) 23:04:19 ID:???


だが、それにしても、ありえないことだ。
あまりにも常軌を逸した出来事だ。
ちゃんとした戸籍をもち、職業につき、税金をおさめていれば、医療保険証も持っている、一人前の人間を、
まるで鼠か昆虫みたいに、わなにかけて捕えるなどということが、許されていいものだろうか。
信じられない。
おそらく何かの誤解なのだ、誤解にきまっている。誤解とでもいうよりほかに、考えようがない。

第一、こんなことをしたって、なんの役にも立ちはしないではないか。
おれは、馬や牛じゃないのだから、意志に反して、むりやり働かせるわけにはいかない。
労働力として役立たないとなれば、おれを砂の壁の中に閉じこめてみたところで、なんの意味もないわけだ。
女にしたって、とんだ厄介者を、くわえこんだというだけのことになる。

しかし……なぜか、確信はもてなかった……
しめつけるように、彼をとりまく、砂の壁を見ていると、
さっきの、よじ登ろうとしてしたみじめな失敗が、いやでも思い出されてくる……
もがくばかりで、なんの効果もない、全身を麻痺させるような無力感……
ここはもう、砂に侵蝕されて、日常の約束事など通用しなくなった、特別の世界なのかもしれない……
疑えば、疑う材料はいくらでもあるのだ……
たとえば、彼のために、あらたに石油罐とスコップが用意されたことが事実なら、
知らぬまに縄梯子がとりはらわれていたことも事実だし、
また、女が一言の弁明もせず、薄気味のわるいほどの素直さで、
易々として生け贄の沈黙に甘んじていることも、事態の危険性を裏づけていると考えられはしまいか?
そう言えば、昨夜、女がくりかえし、いかにも彼の永い逗留を前提にしたような口のききかたをしたのも、
単なる言いちがえなどではなかったのかもしれない。


68 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 21:36:10 ID:???


うつぶせになった、裸の女の、後ろ姿は、ひどくみだらで、けものじみていた。
子宮をつかんで、裏返しにでも出来そうだ。
だが、そう思ったとたんに、ひどい屈辱に息をつまらせた。
遠からず、女をさいなむ刑吏になりはてた自分の姿が、
まだらに砂をまぶした女の尻の上に、映し出されるような気がしたのだ。
分っている……いずれはそうなるのだ……
そして、その日に、おまえの発言権は失われる……


69 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:43:29 ID:???


とたんに、重大な思い違いをしていたことに、気づかされたのだ。
女の裸についての、おれの解釈は、どうやらあまりに一方的すぎたようである。
彼を罠にかけようという下心が、まるで無かったとは言えないにしても、
あれは案外、生活の必要からきた、ごく日常的な習慣だったのかもしれないのだ。
女が寝たのは、たしか夜が明けてからだった。睡眠中は、とかく汗をかきやすいものだ。
その睡眠を、日中、しかも焼きつけるような砂の壺のなかですごさなければならないとしたら、
裸になるのが、むしろ当然なのではあるまいか。
もし自分が、同じ条件におかれたとしても、やはり出来れば裸をえらぶにちがいない……

この発見は、はためく風が、皮膚の上から、みるみる砂と汗を分離してしまったように、
たちまち彼の感情のこだわりを、ときほぐしてくれた。
思いすごしにおびえていても仕方がない。
何重もの鉄格子やコンクリートの壁を破って逃げた男だっているのだ。
鍵がかかっているかどうかも確かめずに、錠前を見ただけですくみ上ることはない……
男はゆっくり、ねばつくような足どりで、小屋にむかって引返す……
落着いて、今度こそは必要なことをすっかり、女から聞き出してやろう……
あんなふうに、のぼせ上って、ただわめきちらしたのでは、女が黙りこんでしまうのも無理はない……
それにあの沈黙だって、うっかり裸の寝姿を見られてしまった、不用意を、
ただ恥入ってのことにすぎなかったのかもしれないではないか。


70 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:45:18 ID:???


「ねえ、なんとか部落の連中に、連絡をつける方法はないのかな?
 ……そうだ、石油罐でも叩いてみたらどうだろう?」

やはり女は答えない。
水に沈む石のはやさで、またあの受身な沈黙に戻ってしまったのだ。

「どうしたんだ、え?……なぜ黙っているんだ!」
またも気持がうわずり、わめきたくなるのを、やっとこらえながら、
「わけが分らん……手違いなら、手違いで、いいんですよ……
 済んでしまったことを、とやかく言っても、はじまらんからね。
 そんなふうに、黙りこんでいるのが、一番いかんのだ。
 よく、そういう子供がいるが、ぼくはいつも言ってやるんです……
 いかにも、自分を責めているようにみせかけて、その実、そういうのが一番卑怯なやり方なんだってね……
 弁解することがあるんなら、さっさと言ってしまったらどうなんだ!」

「でも……」
女は自分の肘のあたりに視線をおよがせ、しかし意外によどみのない声で、
「もうお分りなんでしょう?」


71 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:46:51 ID:???


「お分り?」
さすがに衝撃はかくせない。

「ええ……もう、お分りなんだろうと思って……」

「分らん!」
男はついに叫びだす。
「分るもんか! なにも言わないのに、分るはずがないじゃないか!」

「でも、本当に、女手一人じゃ無理なんですよ、ここの生活は……」

「そんなことが、ぼくになんの関係があるんです?」

「はい……すまないことをしたと、思っています……」

「すまないだと……?」
気ばかりあせって、かえって舌がもつれてしまうのだ。
「それじゃつまり、ぐるだったってわけか?……
 罠の中に、餌を仕掛けて……犬か猫みたいに、女さえいりゃ、すぐにとびつくかと思って……」

「はい、これからは、だんだん北風の季節で、砂嵐の心配もありますし……」
ちらと、開け放しの木戸に目をやりながら、その抑揚のない、こっそりとした調子には、
おろかしいほどの確信がこめられている。


72 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:48:29 ID:???


「冗談じゃないよ!
 非常識にも、ほどがある!
 これじゃまるで、不法監禁じゃないか……立派な犯罪だよ……
 なにもこんな無理をしなくたって、日当をほしがっている失業者ぐらい、いくらだっているだろうに!」

「ここのことを、外に知られちゃ、まずいんでしょうねえ……」

「ぼくなら、安全だってのかい?……とんでもない!……それこそ、とんだ見当ちがいってもんだよ!
 あいにくとぼくは、浮浪者なんかじゃない……税金も払っていりゃ、住民登録票だって持っている……
 いまに、捜索願がだされて、とんだことになってしまうぞ!
 分らないのかなあ、それっくらいのことが……一体、なんと言って申しひらきするつもりなんです?
 ……さあ、責任者を呼びなさい……どれっくらい間抜けたことか、ようく話して聞かせてやるから!」


73 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:50:13 ID:???


女は眼をふせ、かすかに吐息をついた。
それっきり、肩をおとすと、もう身じろぎしようともしないのだ。
まるで理不尽な難題をふきかけられた、不幸な仔犬のように。
それがかえって、男の怒りに、油をそそぐ結果になる。

「なにをぐずぐず、ためらうことがある?
 ……いいかね、問題はぼくのことだけじゃない。
 あんただって、けっこう、同じくらい被害者なんだろう?
 だって、そうじゃないか、現にあんたは、ここの生活が、外部に知られると困ると言った……
 これが不当な生活だってことを、あんた自身も認めているっていう証拠じゃないか!
 こんな、奴隷あつかいをされていて、そんな代弁者みたいな顔はよしなさい!
 ……誰にもあんたをここに閉じこめておく権利なんてありはしないんだ!
 ……さあ、すぐに誰かを呼ぶんだ!
 ここを出て行くんだ!
 ……ははあ、分った……恐がっているんだな?……馬鹿馬鹿しい!
 ……なにが恐いことなんかあるもんか!……ぼくがついてるよ……
 新聞社に勤めている友達もいるしね……こいつを社会問題にしてやろうじゃないか……
 どうしたんだ?……なぜ黙っている?……びくびくすることはないって言ってるだろう!」

しばらくして、いたわるように、女がぽつりと言った。

「ごはんの仕度にしましょうか?」


74 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:51:45 ID:???


ひっそりと、芋の皮をむきはじめた女の後ろ姿を、横眼で追いながら、男は女がこしらえている食事を、
素直に受付けるべきかどうか、そのことで頭をいっぱいにしていたのである。

たしかに今は、沈着と冷静こそが求められるべきときだ……
相手の意図がはっきりした以上、右往左往するよりは、現実を直視して、実際的な脱出のプランを練るべきだろう……
不法行為をなじるのは、そのあとからでいい……ただ、空腹は、意欲を喪失させる……精神の集中にもよろしくない。
とは言うものの、現状を拒否するつもりなら、当然食事もふくめて、徹底的に拒否しつくすべきではないだろうか?
腹を立てながら、飯を食ったりしては、こっけいになる。
犬だって、餌を口に入れたとたんに、尻尾を下げてしまうものだ。

だが、早まってはいけない……
相手がどこまで強気かも、見きわめないうちに、そこまで受身になってしまう必要はないはずだ……
なにも、只でめぐんでもらおうなどと言っているわけじゃなし……
ちゃんと食費は払うのだ……金を払った以上、負い目を感じることなど、これっぽっちもありはしない……
攻撃こそ、最良の防禦だと、テレビのボクシング解説者もよく言っていた。

すると……食事を我慢せずにすませる、巧い口実がみつかって、ほっとしたのか……
急に視界がひらけて、思考の糸口がほぐれだした。たかだか砂が相手じゃないか。
そうとも、べつに鉄格子を破ろうなどと、無理難題をふっかけられているわけじゃない。
縄梯子をとりあげられたのなら、木の梯子をつくればいい。
砂の壁がけわしすぎるのなら、それをくずして、傾斜をゆるやかにしてやればいい……
ちょっと頭を働かしさえすれば、ざっとごらんのとおりだ……
単純すぎるようでもあるが、目的にかなっているのなら、単純にこしたことはあるまい。
コロンブスの卵のたとえもあるとおり、真に正しい解答は、しばしば馬鹿らしいほど単純なものである。
面倒をいといさえしなければ……闘うつもりになりさえすれば……まだまだ万事休したというわけではないのである。


75 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:54:36 ID:???


食事はまた、傘の下だった。野菜の煮つけに、あぶった干魚……
どれもすこしずつ砂の味がする。
傘の頭を天井からつるせば、女も一緒に食べられると思ったが、わざわざ誘うほどの気にはなれなかった。
番茶は、色ばかり黒くて、味はひどく薄かった。

食べおえると、女は流し場に戻り、頭からビニールの布をかぶって、その下でこっそり自分の食事にとりかかる。
その後ろ姿を、虫けらのようだと思う。
こんな生活を、これから先も、ずっとつづけていくつもりなのだろうか?
……外から見れば、猫の額ほどの土地かもしれないが、穴の底に立って見れば、
目にうつるものは、ただ際限もない砂と空だけだ……
眼の中に閉じこめられてしまったような、単調な生活……
この中で、女はきっと、他人から憐みの言葉一つかけられた記憶もなしに過してきたのだろう……
もしかすると、罠にかかった自分をめぐんでもらって、娘のように胸をときめかせているのかもしれない……
あまりにもみじめすぎる……


76 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 22:58:30 ID:???


よごれた食器を、まとめて土間におろし、のろのろした動作で、その上に砂を盛上げながら、言いにくそうに女が言った。

「お客さん……これからすぐに、天井裏の砂おとしを始めなければなりませんのですが……

「砂おとし? ああ、いいでしょう……」
男は気がなさそうに、いまさら、そんなことが、おれになんの関係があるというのだ……
梁が腐ろうと、棟が折れようと、こちらになんの関係もありはしない。

「邪魔だったら、何処かにどいていましょうか?」

「すみませんねえ……」

白っぱくれるな!
なぜ白眼の端でも見せようとしないんだ!
内心じゃ、腐った玉ねぎを噛んだくらいの気持でいるくせに!
……しかし女は、習慣になった動作だけが持つ、あの無表情な素早さで、二つ折れにした手拭を、顔の下半分にまきつけ、
頭のうしろで結び、手箒と板切れを小脇にかかえて、片側しか襖が残っていない押入れの中仕切の上に、よじのぼっていく。

「率直に、ぼくの意見を言わせてもらえばだな、こんな家は、ぶっつぶれてしまったほうが、
 いっそせいせいするだろうと思うんだ!」

とつぜん口をついて出た癇走った自分のわめき声に、自分も驚き、女はさらにぎくりとした表情で振向いた。
なるほど、まだ虫けらになりきったわけではないらしい……


77 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:00:14 ID:???


やがて天井の一角から、砂がめまぐるしく変化する幾本ものテープになって、どっと吐き出されてきた。
その流れの激しさにくらべて、いやにひっそりしているのが、なんとも不思議な感じだ。
みるみる畳の上に、天井板の隙間や節穴の位置や大きさが、そっくり浮き彫りになって写し出される。
砂のにおいが鼻を刺した。眼にもしみた。急いで外に逃げた。

ぱっと、突然火を吹いたような風景に、踵から融けていくような気がした。
しかし、体の芯のあたりに、どうしても融けきれない、氷の棒のようなものが残った。
やはり何処かで、疚しさを感じているらしいのだ。
けもののような女……昨日も、明日もない、点のような心……
他人を、黒板の上のチョークの跡のように、きれいに拭い去ってしまえると信じ込んでいる世界……
現代の一角に、まだこれほどの野蛮が巣くっていようとは、夢にも思わなかった。
しかし、まあいい……
ショックから恢復して、やっと余裕をとり戻しはじめたしるしだと考えれば、この疚しさもそう悪くない。


78 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:02:08 ID:???


ぐったり、全身を女の手にゆだねてしまっても、病気という口実のせいか、さして気にならない。
熱病にかかった子供が、冷たい銀紙にくるまれる夢をみたというような、詩を読んだことがあったっけ。
汗と、砂に、塗り込められて、窒息しかかった皮膚が、たちまちすずしく、息をふきかえす。
その生き返った皮膚の上を、女の体臭が、微妙な刺戟になって、這いまわる。

とは言え、女を完全に許したわけでも、むろんない。
それはそれ、これはこれと、一応区別しているだけのことである。
三日間の休暇は、とっくに過ぎてしまった。いまさら、じたばたしてもはじまるまい。
崖をくずして、砂の傾斜をゆるやかにしようという、最初の計画も、失敗というよりは、むしろ準備の不足だった。
日射病などという、不測の事態に邪魔だてされさえしなければ、あれでもけっこう上手くいっていたはずなのだ。
ただ、砂掘り作業は想像していた以上に激しい労働であり、もっと上手い工夫があれば、その方がいいに決っている。
そこで、思いついたのが、この仮病作戦だったというわけだ。

失神から回復したとき、まだ女の家に寝かされたままであることを知って、男はいささか気を悪くした。
部落の連中には、彼をいたわる気持など、毛頭もちあわせていないらしい。
そうと分れば、こちらにだって、考えがあるというものだ。
医者も呼ばずに、甘くみてかかったことを、逆手にとって、思うさま後悔させてやろう。
女が働いている夜のあいだは、ぐっすり眠ってやる。
逆に、女が休まなければならない日中は、うんと大げさに苦痛を訴えたりして、睡眠の邪魔をしてやるのだ。


79 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:04:31 ID:???


「痛みますか?」

「痛いさ……やはり、背骨のどこか、脱臼したらしい……」

「揉んでみましょうか?」

「とんでもない! 素人に、変にいじられたりしてたまるものか。
 背骨の神経は、命の綱だからね。
 ぼくが、死んだら、どうするつもりなんだ!
 困るのは、あんたたちの方だろう?
 医者を呼びなさい、医者を!
 痛い……もうれつに痛むぞ……早くしないと、手おくれになってしまうじゃないか!」

女は、事態の重みに耐えかねて、やがてくたくたになってしまうだろう。
仕事の能率は低下し、建物の安全までがおびやかされることになる。
これは部落にとっても由々しき一大事だ。
労働力はおろか、とんだ邪魔物をくわえこんでしまったわけである。
さっさと、追い出してしまわなければ、それこそ取り返しのつかないことになってしまうのだ。

だが、この計画も、思ったほど順調には搬んでくれなかった。
ここでは、昼よりも夜のほうが、むしろ生々と息づいている。
壁ごしに聞えてくる、スコップの音……女の息使い……モッコを搬ぶ、男たちの掛声や舌打ち……
風に吸われて、ふくみ声になった、オート三輪のうなり……犬の遠吠え……
寝ようと努力すればするほど、かえって神経がたかぶり、目がさえてしまうのだ。


80 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:06:03 ID:???


夜、睡眠がじゅうぶんにとれないとなると、日中のうたた寝はさけられない。
その上、いけないことに、これが失敗しても、まだ何んとかなるのだという抜け道の存在が、
彼の忍耐力を中途半端なものにしていたようだ。
あれから一週間……もうそろそろ、捜索願が出されてもいい頃である。
はじめの三日だけは、届けを出してあった。しかしそのままになっている。
ただでさえ、他人の行動に神経過敏な同僚たちが、これを見逃してくれたりするはずがない。
おそらく、その晩のうちにも、誰かおせっかいやきが現われて、彼の下宿をのぞきに行ってくれたことだろう。
西陽にむれた、殺風景な部屋、すえた臭いをたてて、主人の不在を告げている。
訪問者は、この穴ぐらから解放された、運のいい住人に対して、本能的な妬みをおぼえるかもしれない。
そして、その翌日には、嫌味たっぷりな陰口が、ひそめた眉や、皮肉に曲げた指を添え物にして、囁きかわされることだろう。
むりもない……
彼の方でも、こんどの風変りな休暇が、そうした効果を同僚たちに与えてくれることを、
内心期待していなくもなかったのだから……
じっさい、教師くらい妬みの虫にとりつかれた存在も珍しい……
生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、
その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。
希望は、他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない。
彼等は、自分をぼろ屑のようだと感じ、孤独な自虐趣味におちいるか、さもなければ、
他人の無軌道を告発しつづける、疑い深い有徳の士になりはてる。
勝手な行動にあこがれるあまりに、勝手な行動を憎まずにはいられなくなるのだ。
……事故だろうか?……いや、事故なら事故で、なんとか連絡ぐらいはあるはずだろう……すると、自殺?
……じゃあ、やっぱり、警察沙汰というわけか!
……まさか、あのお目出度い男が、君、買いかぶっちゃいけないよ……
そうそう、自分勝手に行方不明になったんだ、いらんおせっかいをする必要はない……
しかし、もうかれこれ、一週間になる……
まったく、人騒がせな男だよ、なにを考えているのやら、さっぱり分りゃしない……


81 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:07:43 ID:???


もっとも、部落の連中だって、これだけ無理な冒険をあえてするからには、一応の予防策くらいは、当然立てているはずだ。
田舎巡査の一人や二人、まるめこむくらいわけはない。
めったなことでは、よりつかせないくらいの、用意はととのえているに相違ない。
しかし、そうした煙幕が役に立ち、また必要なのは、あくまでも彼が健康体であり、
砂掻きの労働に耐えうる場合だけに限っている。
一週間も寝込んだままの重病人を、それほどの危険をおかしてまで隠し通す価値はない。
役に立たないと決れば、あまり面倒なことにならないうちに、さっさと手離してしまったほうが利口だろう。
今のうちなら、まだ言いわけはたつ。
男が勝手に落込んで、そのショックでおかしな妄想にとりつかれたらしいと申し立てれば、
策略にかかって閉じ込められたなどという、非現実的な訴えなどよりは、
はるかに筋のとおった説明として受入れられるにちがいない。

牛の喉に、ブリキの笛をおしこんだような音をたてて、何処かでにわとりが鳴いた。
しかし、砂のくぼみの中には、距離も方角もない。
ただ、ここの外には、道端で子供が石けりをして遊んでいても一向に不似合いでないような、
いつものとおりの世界があり、時がくれば普通どおりに夜が明けることを告げていた。
そう言えば、米の炊けるにおいにも、夜明けの色がまじりかけている。

それに、女の体の拭きかたというのが、また丹念すぎるほど丹念ときているのだ。
濡らした手拭で荒拭きしたあとを、こんどは木片れのようにきつくしぼったやつで、
まるでガラスの曇りをおとすようなこすり方をする。
朝が来たという暗示にくわえて、そのリズミカルな刺戟が、そろそろ彼を耐えがたい睡りにさそいはじめていた。

「それはそうと……」
内側から、むりやり鉗子でこじ開けられるようなあくびを噛みころし、
「どうだろう、久しぶりに、新聞を読んでみたいんだが、なんとかならないだろうか?」

「そうですねえ……あとで、聞いておきましょう。」

82 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:10:44 ID:???


女が、誠意を示そうとしているのは、よく分った。
遠慮勝ちな、おずおずとした声の調子にも、彼の気を損うまいとする配慮が、ありありと感じられる。
だが、そのことがまた、いっそう彼を苛立たせるのだ。
聞いておきましょうだと?……おれには、許可なしに、新聞を読む権利もないというのか……
男は、ののしりながら、女の手をはらいのけ、中身ごと洗面器をひっくりかえしてやりたいような衝動にかられる。

しかし、ここで腹を立ててしまっては、ぶちこわしだ。
重病人は、新聞くらいで、そんなに興奮したりするものではない。
むろん新聞は読んでみたい。
風景がなければ、せめて風景画でも見たいというのが、人情というものだろう。
だから、風景画は自然の稀薄な地方で発達し、新聞は、人間のつながりが薄くなった産業地帯で発達したと、
何かの本で読んだことがある。
それに、あわよくば、尋ね人の広告が出ているかもしれないし、上手くいけば、失踪記事になって、
社会面の隅っこくらいを飾っていないとも限らないのだ。
もっとも、そんな記事がのっている新聞を、連中がおいそれと渡してくれるはずはない。
とにかく今は辛抱が第一だ。

たしかに、仮病も、楽ではなかった。
まるで、はじけそうになっているゼンマイを、むりやり手のなかに握りしめているようである。
いつまでも、こんなことを我慢していられるわけがない。
なりゆきまかせは禁物だ。自分の存在が、彼等にとってどんなに重荷であるかを、
徹底的に思い知らせてやらなければならないのだ。
今日こそは、なんとしてでも、女を一睡もさせずにおいてやろう!

(眠るな……眠ってはいけない……!)

男は、体をよじって、大げさなうめき声をあげていた。

83 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:12:37 ID:???


女がさしかけてくれる傘の下で、舌を焼きながら、海草入りの雑炊をすすった。
茶わんの底に、砂が沈殿して残った。

だが、記憶はそこで、とだえてしまう。
あとで、ながい、息づまるような夢のなかにまぎれこむ。
夢の中で、彼は、使い古しの割箸にまたがり、どこか見知らぬ街のなかを飛んでいた。
割箸は、ちょうどスクーターのような乗り心地で、さほど悪くもないのだが、
ちょっと気をゆるめると、たちまち浮揚力を失ってしまうのだ。
街は、近くのほうが煉瓦色で、遠ざかるにつれて、緑色にかすんでいく。
その色の配合には、妙に不安をそそるものがあった。
やっと、兵舎のような、長い木造の建物にたどりついた。
安物の石鹸の臭いがただよっている。
ずり落ちそうになるズボンを引き上げながら、階段をのぼっていくと、
細長いテーブルが一つあるだけの、がらんとした部屋に出た。
十人あまりの男女が、そのテーブルを囲んで、何やらゲームに打ち興じているふうである。
正面の男が、一組のカードを、順ぐりにくばっている最中だった。
くばり終えると同時に、最後に残った一枚を、いきなり彼につきつけて大声をあげた。
思わず受取ってみると、それはカードではなく、一通の手紙なのだった。
手紙はぶよぶよと、変な手触りだった。つまんだ指先に力をいれると、中から血がふきだした。
悲鳴をあげて、目がさめた。


84 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:15:21 ID:???


よごれた霧のようなもので、視界がふさがれていた。
身じろぐにつれて、かさかさと、乾いた紙の音がした。
ひろげた新聞紙で、顔を覆われているのだった。
ちくしょう、また寝込んでしまった!……はらいのけると、紙の表面を、砂の被膜が流れ落ちた。
その量からして、もうかなりの時間が、経ってしまったらしい。
壁の隙間からさしこむ日差しの位置も、ほぼ正午を告げている。
だがそれよりも、この臭いはなんだろう?
新しいインクの香り?……まさかと思いながらも、日付け欄に目を走らせてみる。
十六日、水曜日……やはり今日の新聞なのだ!
信じられないことだが、事実だった。
すると、女は、彼の希望を聞き入れてくれたというわけか?

汗をすって、じくじく粘りつくようなふとんから、片肘をついて上半身を起したが、
さまざまな思いが、いっせいに渦まきはじめ、せっかくの紙面も、いたずらに字づらを追いかけるだけである。


85 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:17:59 ID:???


《日米合同委、議題を追加か?》

……一体、あの女は、どうやってこの新聞を手に入れたのだろう?
……やはり、村の連中が、多少なりとも彼に負い目を感じはじめたということだろうか?
……それにしても、これまでのしきたりからすれば、朝食後は、一切外との連絡は絶たれてしまうはずだった。
女が、彼のまだ知らない、外との特別な連絡方法をもっていたのか、
さもなければ、自分で外に出て買ってきたかの、いずれかにちがいない……

《交通麻痺に、抜本的対策を!》

だが、待てよ……もし、女が、外に出掛けたのだとしたら……当然、縄梯子なしには、考えられない。
どんな方法でかは分らないが、とにかく、縄梯子がつかわれたことはたしかなのだ……
そんなことだろうと、うすうす予想はしていた……
逃げ出すことしか考えていない囚人ならいざ知らず、部落の住人である女が、
出入りの自由まで奪われて、我慢していられるわけがない……
縄梯子の撤去は、おれを閉じ込めるための、一時的な措置にすぎなかったのだ……
だとすると、このまま油断させつづけていれば、いつかはまた同じチャンスに巡りあい……

《玉ねぎに、放射能障害治療の有効成分》

どうやら、おれの仮病作戦には、またまた思わぬ付録がつけ加えられたようである。
果報は寝て待てとは、昔の人間も、うまいことを言ったものだ……
しかし、心は、なぜか一向にはずんでくれない。
なにか釈然としないものが残るのだ。あの、おそろしく胃にもたれる、奇妙な夢のせいだろうか?
……たしかに、あの危険な――なぜ危険なのか、理由は分らないが――手紙のことは、変に気にかかる。
一体、なにを暗示していたのだろう?

86 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:19:57 ID:???


しかし、夢のことなど、いちいち気にしていてもはじまらない。
とにかく、始めたことを、やりとおすだけだ。

女は、いつものとおり、囲炉裏をへだてた上りかまちのそばで、頭から洗いざらしの浴衣をかぶり、
その下で膝をかかえるように丸くなって、軽い寝息をたてていた。
あの日以来、さすがに、裸をさらすようなことはしなくなったが、浴衣の下は、相変らず裸のままなのだろう。

素早く、社会面と、地方欄に目をとおす。
むろん、失踪記事も、尋ね人の広告も見当らなかった。
それは予期していたことだし、べつに落胆することもない。
そっと起上って、土間におりる。
男も人絹のステテコをはいたっきり、上半身は素っ裸だ。
たしかにこの方が、ずっとしのぎよい。
ステテコの紐がくいこんだ、胴のまわりに、砂がたまり、そこだけが赤くかぶれて、むず痒かった。

戸口に立って、砂の壁を見上げた。
光が眼にしみ、あたりが黄色く燃えはじめた。
人影も、縄梯子も、むろんない。ないのが当りまえだ。
ただ念のために、たしかめてみただけである。
縄梯子がおろされた形跡さえなかった。
もっともこの風なら、どんな痕跡でも、五分とかからずに消してしまうだろう。
戸口のすぐ外でも、砂の表皮がたえまなく、流れるようにめくられつづけている。

87 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:22:42 ID:???


引返して、横になる。蠅が飛んでいた。
小さな、白桃色の、しょうじょう蠅だ。
どこかで、何かが、腐っているのかもしれない。
枕元の、ビニールにくるんだやかんで喉をしめしてから、女に声をかけた。

「ちょっと、起きてくれないかな……」

女は、体をふるわせて、はね起きた。
浴衣がずり落ち、胸の下まで、むきだしになった。
たれ下った、しかしまだ肉づきのいい乳房に、静脈が青くにじんでいる。
あわてて、浴衣をかきあわせながら、視線は宙をさまよい、まだ完全には醒めきっていないらしい。

男はためらう。ここぞとばかりに、声を荒げて、縄梯子の問題を詰問すべきだろうか?
……それとも、新聞の礼をかねて、やんわり尋ねてみる程度にしておいたほうがいいのか?
もし、相手の眠りをさまたげるだけが目的なら、かなり攻撃的にでたほうがいいにきまっている。
難くせをつける口実はいくらでもあるのだ。
だが、それでは、重病をよそおうという、せっかくのねらいから外れてしまうことになる。
脊椎が脱臼したほどの男には、あまり似つかわしいやり方とは言えまい。
ここで必要なことは、もはや労働力として役に立たないことを、彼等に認めさせ、とにかく警戒心をとかせてしまうことだ。
新聞をよこすところまで軟化した彼等の心を、さらに無抵抗なものにしてしまうことだ。

しかし、あっさり期待を裏切られてしまう。

「いえ、出たりなんかするもんですか。偶然、まえからたのんでおいた、防腐剤を、農協の人がとどけに来てくれましてね……
 それで、ついでに、おねがいしてみたんですよ……
 でも、この部落じゃ、新聞をとっている家なんか、ほんの四、五軒しかありませんものねえ……
 わざわざ、町の販売店まで、買いに行ってくれて……」


88 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:24:14 ID:???


たしかに、偶然の一致ということも、ありえないことではない。
だが、それではまるで、合鍵のない錠前で、檻のなかに閉じこめられてしまったようなものではないか。
地元の人間でさえが、幽閉に甘んじなければならないとすると、この砂の壁のけわしさはただ事でないものになる。
男は、やっきになって、食い下った。

「そんなことって……あんた……ここの主人なんでしょう?
 ……犬じゃあるまいし……自由に出入りするくらい、なんでもありゃしないじゃないか!
 それとも、部落の連中に、なにか顔向けできないようなことでもしたのかな?」

女の、睡たげな眼が、びっくりしたように見開かれた。
こちらがまぶしくなるほど、赤く充血した眼だ。

「いいえ、顔向けできないだなんて、めっそうもない!」

「じゃ、なにもそんなふうに、悪びれたりすることはないじゃないか!」

「でも、表に行ってみたって、べつにすることもないし……」

「歩けばいい!」

「歩くって……?」

「そうさ、歩くんだよ……ただ、歩きまわるだけで、充分じゃないか……
 そういう、あんただって、ぼくがここに来る前は、自由に出歩いていたんでしょう?」

「でも、用もないのに歩いたりしちゃ、くたびれてしまいますからねえ……」


89 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:27:14 ID:???


「ふざけているんじゃない! ようく自分の心に聞いてみなさい、分らないはずはないんだ!
 ……犬だって、檻の中に入れられっぱなしじゃ、気が狂ってしまうんだからね!」

「歩きましたよ……」
ふと、女は、殻を閉ざした二枚貝のような抑揚のない声で、
「本当に、さんざん、歩かされたものですよ……
 ここに来るまで……子供をかかえて、ながいこと……
 もう、ほとほと、歩きくたびれてしまいました……」

男は、不意をつかれる。まったく、妙な言いがかりもあったものだ。
そうひらきなおられると、彼にも言い返す自信はない。

そう……十何年か前の、あの廃墟の時代には、誰もがこぞって、歩かないですむ自由を求めて狂奔したものだった。
それでは、いま、はたして歩かないですむ自由に食傷したと言いきれるかどうか?
現に、おまえだって、そんな幻想相手の鬼ごっこに疲れはてたばかりに、
こんな砂丘あたりにさそい出されて来たのではなかったか……砂……1/8m.m.の限りない流動……
それは、歩かないですむ自由にしがみついている、ネガ・フィルムの中の、裏返しになった自画像だ。
いくら遠足にあこがれてきた子供でも、迷子になったとたんに、大声をあげて泣きだすものである。


90 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:30:09 ID:???


女が、がらりと調子を変えて言った。

「気分、よろしいんですか?」

豚みたいな顔をするのはよせ!
男は苛立ち、相手をむりやり捩じふせてでも、泥をはかせてやりたいと思った。
そう思っただけで、皮膚がけばだち、ばりばり乾いた糊をはがすような音をたてはじめる。
ねじふせるという言葉から、皮膚が勝手な連想をしてしまったらしい。
いきなり女が、背景から切りとられた、輪郭だけの存在になっている。
二十歳の男は、観念で発情する。四十歳の男は皮膚の表面で発情する。
しかし三十男には輪郭だけになった女が、いちばん危険なのだ……
まるで、自分自身を抱くように、気安く抱くこともできるだろう……
だが、女のうしろには、沢山の眼がひかえている……
女は、それらの視線の糸であやつられる、あやつり人形にしかすぎないのだ……
女を抱けば、今度はおまえがあやつられる番だ……
脊椎の脱臼などという、大ぼらだって、たちまち馬脚をあらわしてしまうことになる。
こんなところで、これまでのおれの生活が、中断されたりしてたまるものか!


91 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:32:11 ID:???


女が、にじりよって来た。
膝のまるみが、尻の肉におしつけられた。
眠っていたあいだに、女の口や、鼻や、耳や、腋の下や、その他のくぼみの中で醗酵した、
ひなた水のような臭いが、あたりを濃く染めはじめる。
そろそろと、遠慮がちに、火のような指が、背骨にそって、上下にすべりはじめる。
男は全身をかたくする。

急に、指が脇腹にまわった。男は悲鳴をあげた。

「くすぐったい!」

女が笑った。ふざけているようでもあり、悪びれているようでもあった。
あまり唐突すぎて、とっさの判断はつきかねた。
一体なんのつもりだろう?……わざとやったことなのか、思わず手がすべったというだけか?
……ついさっきまでは、目をしょぼつかせ、やっとの思いで、起きていたくせに……
そう言えば、最初の夜にも、通りすがりに脇腹をついて、妙な笑い声をたてたことがあったっけ……
あの動作に、女はなにか、特別な意味づけでもしているのだろうか?

それとも、彼の仮病を、本心から信じておらず、疑いをたしかめるために、さぐりを入れてきたのかもしれない……
可能性はある……うっかりはできない。
女のさそいは、結局、甘い蜜の香りをよそおった、食肉植物の罠にすぎなかったのかもしれないのだ。
暴行という、醜聞の種をまいておき、次は、恐喝の鎖が、彼の手足をつなぎとめて……


92 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:34:36 ID:???


新聞記事も、相変らずだった。
どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。
これが、外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。

《法人税汚職、市に飛び火》……《工業のメッカに、学園都市を》……《相つぐ操業中止、総評近く、見解発表》……
《二児を絞殺、母親服毒》……《頻発する自動車強盗、新しい生活様式が、新しい犯罪を生む?》……
《三年間、交番に花をとどけた、匿名少女》……《東京五輪、予算でもめる》……《今日も通り魔、二少女切らる》……
《睡眠薬遊びにむしばまれる、学園の青春》……《株価にも秋風の気配》……
《テナーサックスの名手、ブルー・ジャクソン来日》……《南ア連邦に、再び暴動、死傷二百八十》……
《女をまじえた、泥棒学校、授業料なし、テストに合格すれば、卒業証書》

欠けて困るものなど、何一つありはしない。
幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。
もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、
あぶなっかしいガラス細工になってしまう……
要するに、日常とは、そんなものなのだ……
だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。


93 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:36:13 ID:???


むろん、危険がないとは断言できない。
それに、あと三十分もすれば、彼等の態度が急変しないともかぎらないのである。
たとえば、例の、県の役人のこともあるわけだ。
最初、部落の老人は、彼をその役人かと思い違えて、ひどい警戒の色を示したものである。
役人の調査が、近く予定されていたのだろう。
だとすると、その実現によって、部落内の意見が対立し、もはや彼の存在を隠しきれず、
これ以上閉じ込めておくことを、あきらめてくれないとも限らないのだ。
ただし、その三十分が、半年、もしくは一年以上に引きのばされないという保証も、同様にない。
三十分と、一年が、五分と五分との確率に、賭けたりするのはもうまっぴらである。

もっとも、救援の手がとどいた場合のことを考えると、仮病のふりをつづけていたほうが、事は有利にはこぶにちがいない。
彼が、思いまどったのも、やはりその点についてだった。
法治国家に住んでいる以上、救援を期待するのが当然である。
失踪者がしばしば、謎の霧の向うに消えたまま、消息を絶ってしまうといっても、それは多く、本人の意志によるものだろう。
それに、犯罪のにおいがしないかぎり、刑事あつかいではなく、民事のあつかいになるので、
警察も、必要以上の深入りは出来ないらしいのだ。
だが、彼の場合は、まるで事情がちがっている。
このとおり、救いを求めて、死にもの狂いの手をさしのべているのだ。
なにも、直接、彼の声を聞き、あるいは姿を見なくても、主人を失った彼の下宿を一と目みただけで、
はっきり感じとれるにちがいない。
ページを開いたままの、読みさしの本……小銭をほうり込んだままの、通勤着のポケット……
額は少なくても、最近おろした跡のない貯金通帳……まだ整理を終えてない、乾燥中の昆虫箱……
切手をはって、出すばかりになっている、新しい採集瓶の注文書……
すべてが中断をこばみ、生き続けようとしている彼の意志を示すものばかりだ。
訪問者は、いやでもその部屋中から聞えてくる、哀訴の声に耳をかさずにはいられまい。


94 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:37:59 ID:???


そう……もし、あの手紙のことさえなかったら……あの馬鹿気た手紙のことさえなかったら……
しかし、あったものは、あったのだ……
夢でさえ、ああして真実を告げているというのに、いまさら自分で自分を言いくるめるようなことをして、何になる?
言いのがれはもう沢山だ。遺留品たちはもう死んでいる。
彼自身の手によって、とっくに息の根をとめられてしまったのだ。

彼は、こんどの休暇について、ひどく秘密めかした態度をとり、同僚の、誰にも、わざと行先を告げずにきてしまった。
それも、ただ黙っていただけでなく、意識して謎めかすように努めさえした。
これは、日常の灰色に、皮膚の色まで灰色になりかけた連中を、じらせてやるには、この上もない有効な手口である。
灰色の種属には、自分以外の人間が、赤だろうと、青だろうと、緑だろうと、
灰色以外の色をもっていると想像しただけで、もういたたまらない自己嫌悪におちいってしまうものなのだ。

めくるめく、太陽にみたされた夏などというものは、いずれ小説か映画のなかだけの出来事にきまっている。
現実にあるのは、硝煙の臭いがたちこめる新聞の政治欄を下に敷いて寝ころがる、つつましやかな小市民の日曜日……
キャップに磁石がついた魔法瓶と、罐詰のジュース……
行列して手に入れた一時間百五十円の貸ボートと、魚の死骸から湧く波打際の鉛色のあぶく……
そして最後が、疲労で腐りかけた満員電車……
誰もがそんなことは百も承知でいながら、ただ自分を詐欺にかかった愚かものにしたくないばっかりに、
その灰色のキャンバスに、せっせと幻の祭典のまねごとを塗りたくるのだ。
むりやり、たのしい日曜日だったと言わせようとして、むずがる子供を小突きまわす、みじめな不精ひげの父親たち……
誰もが一度は見たことのある、電車の隅の、小さな光景……
他人の太陽にたいする、いじらしいほどのあせりと妬み……


95 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:39:39 ID:???


だからと言って、それだけなら、ことさらむきになるほどのことでもない。
もし、あの男までが、他の同僚たちと同じような反応を見せたりしなかったら、
はたして、あれほど依怙地になっていたかどうか、疑わしいものである。

彼は、その男だけには、一応の信頼をよせていた。
いつも、顔を洗ったばかりのような、はれぼったい顔の、組合運動に熱心な男だった。
めったに見せたことのない本心を、真面目に打明けてみたことさえある。

「どうでしょう?……ぼくは、人生に、よりどころがあるという教育のしかたには、どうも疑問でならないんですがね……」

「なんです、その、よりどころと言うのは?」

「つまり、無いものをですね、あるように思いこませる、幻想教育ですよ……
 だから、ほら、砂が固体でありながら、流体力学的な性質を多分にそなえている、その点に、非常に興味を感じるんですがね……」

相手は、まごつき、ひょろりとした猫背を、いっそう前こごみにする。
しかし、表情はいぜんとして、開けっぱなしのままだ。
べつに嫌がっている様子はない。
誰かが、彼のことを、メビウスの輪のようだと評したことがある。
メビウスの輪とは、一度ひねった紙テープの両端をまるく貼り合わせたもので、つまり裏も表もない空間のことだ。
組合活動と、私生活とが、メビウスの輪のようにつながっているというほどの意味だろうか。
皮肉と同時に、多少は称讃の気持もこめられていたように思う。


96 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:41:10 ID:???


「つまり、リアリズム教育ということですか?」

「いや、ぼくが砂の例をもちだしたのは……けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか……
 砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない……
 砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという……どうも、上手く言えませんが……」

「分りますとも。実用教育には、どうしたって、相対主義的な要素が入りこんできちゃいますからねえ。」

「そうじゃないんだ。
 自分自身が、砂になる……砂の眼でもって、物をみる……
 一度死んでしまえば、もう死ぬ気づかいをして、右往左往することもないわけですから……」

「理想主義者なんだなあ、先生は……思うに、先生は、生徒たちをこわがっているんじゃないんですか?」

「しかし、ぼくは、生徒もまあ、砂のようなものだと思っていますから……」

そんな噛み合わないやりとりにも、一向に気を悪くした様子はなく、白い歯をみせて、さわやかに笑うのだ。
はれぼったい眼が、肉のひだの間にかくれてしまう。
仕方なしに、彼も、ぼんやりと微笑を返す。まったくこれは、メビウスの輪だ。
いい意味にも、悪い意味にも、メビウスの輪だ。
そのいい半面だけでも、じゅうぶん敬意をはらってやる価値はある。


97 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:44:40 ID:???


ところが、そのメビウスの輪までが、彼の休暇に対しては、他の同僚たちと同じ、灰色の妬みをあからさまに示したのだ。
おおよそメビウスの輪らしくない。
がっかりすると同時に、小気味よくもあった。
美徳に対しては、誰もがとかく、意地悪になりがちなものである。
おかげで、じらすたのしみに、ずっしり重みがくわえられることになってしまった。

そこで、例の手紙になるわけだ……すでに、くばられてしまった、とり返しのつかないカード……
昨夜の夢の強迫は、決していわれのないものではなかったのである。

彼とあいつとのあいだに、まるで愛情がなかったといえば、それは嘘になる。
ただ、互いにすねあうことでしか、相手を確かめられないような、多少くすんだ間柄だったというだけだ。
たとえば、彼が、結婚の本質は、要するに未開地の開墾のようなものだと言えば、あいつの方では、
手狭になった家の増築であるべきだと、わけもなく憤然として言い返す。
逆を言えば、おそらく逆の答えをしたにちがいない。
もうまる二年と四ヵ月、あきずに繰返してきた、シーソーゲームだ。
情熱を失ったというよりは、むしろ情熱を理想化しすぎたあげくに、凍りつかせてしまったと言ったほうがいいかもしれない。


98 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:46:11 ID:???


そこで、彼は、わざと行方を告げずに、しばらく一人旅に出ることを、いきなり手紙で知らせてやることにしたわけだ。
同僚たちに、あれほど効果のあった休暇の秘密が、あいつにだけは、無効であったりするはずがない。
だが、宛名を書き、切手まではったものの、いざとなるとさすがに馬鹿らしく、そのまま机の上にほうり出して来てしまった。

その無邪気ないたずらが、結果としては、持主にしか開けられない、
盗難防止装置つきの自動錠の役目をすることになってしまったのだ。
あの手紙が、誰の目にもとまらなかったなどと言うことはありえない。
まるで、逃亡が自分の意志であることの声明書を、わざわざ残してきたようなものである。
現場にいたことを、すでに目撃されていながら、ごていねいにも指紋を拭き消したりして、
かえって犯意を証拠だててしまった、愚かな犯人のやり口にそっくりではないか。

チャンスは、はるかに、遠ざかってしまった。
いまさらそんな可能性にしがみついてみたところで、期待の自家中毒に苦しめられるだけのことである。
いまとなっては、扉を開けてくれるのを待たずに、こちらからこじ開け、力ずくでも出ていくしかない。
もはや、どんなためらいも、口実にはなりえないのだ。

痛いほど砂にくいこませた爪先に、全身の重みをかけ、十かぞえたら、飛び出そう……
しかし、十三まで数えても、まだ思いきれず、それからさらに四呼吸も重ねて、やっとふみきっていた。


99 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:48:50 ID:???


さるぐつわの具合も、申し分なさそうだ。
ただでさえ冴えない色の唇を、ほとんど血の気が失せるまでに、左右に強くひきのばし、
そこだけ見ると、まるで妖怪の形相である。
したたる唾液が、頬の下の畳を黒く染めている。
ランプの焔がゆれるたびに、そこから声にならない絶叫が聞えてくるようだった。

「しかたがないさ、自分でまいた種なんだからな……」
思わず、気ぜわしげな早口で、
「だまし合いは、お互いさまだろう?
 こっちだって、人間なんだから、犬に鎖をつけるようには、簡単にいかないってことさ……
 誰が見たって、立派な正当防衛だよ。」

ふと、女が首をねじまげ、薄目の隅で、彼をとらえようとした。

「なんだ?……なにか、言いたいのか?」


100 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:52:19 ID:???


きゅうくつそうに、女が首を動かした。うなずいたようでもあり、否定したようでもある。
ランプをよせて、その眼の色を読もうとする。すぐには男は信じられない。
うらみでも、憎しみでもない、ただ無限の悲しみをたたえて、何かを訴えているようなのだ。

まさか……気のせいさ……眼の色などというのは、要するに言葉の言いまわしにすぎないんだ……
筋肉がない目の玉に、表情なんかがあってたまるものか。
そうは思いながらも、男はたじろぎ、さるぐつわをゆるめようと、つい手をのばしかけていた。

手をひっこめる。あわててランプを吹き消す。
モッコ搬びの声が近づいていた。
消したランプを、分りやすいように、上りがまちの端におき、流し場の下のやかんから、口づけで水を飲んだ。
スコップをにぎって、戸口のわきに身をひそめる。
汗が吹出す。
もうじきだ……あと、五分か十分の辛抱だ……採集箱を、しっかりと片手に引きよせた。


101 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:54:50 ID:???


「なるほど……しかし、こちらは、一向に平気だね……そっちが、そのつもりなら、こっちも持久戦だ。
 一週間が、十日になろうと、十五日になろうと、いずれ五十歩百歩さ……」

女が、足の指を、強く内側に折りまげた。小判鮫の吸盤のようになった。
男は笑った。笑いながら、吐気がした。

一体なにをそんなにびくついているのだ?
……敵の急所をおさえているのは、おまえじゃないか……
なぜもっと、落着いた、観察者の気持になれないのだ!
そうとも、無事に帰りつけたら、この体験は、ぜひとも記録しておく価値がある。


102 :私事ですが名無しです:2006/12/20(水) 23:57:19 ID:???


ほう! これは驚きました、先生がついに、ものを書く決心をされたとはねえ。
やっぱり体験なんだな。
皮膚に刺戟をあたえないでおくと、ミミズだって、一人前には育たないって言いますからね……

ありがとう、実はもう、題まで考えてあるんですが……

ほう、どんな題です?……

《砂丘の悪魔》か、さもなければ、《蟻地獄の恐怖》……

こりゃまた、ひどく、猟奇趣味だな。
ちょっと、不真面目な印象をあたえすぎるんじゃないですか?……

そうでしょうか?……

いくら強烈な体験であっても、出来事の表面をなぞっただけじゃ、無意味ですからね。
やはり、悲劇の主人公は、あくまでも地元の人たちなんだし、それを書くことによって、
すこしでも解決の方向が示されるのでなければ、せっかくの体験が泣いてしまいますよ……

畜生!……


103 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 00:01:53 ID:???


なんです?……

どこかで下水の掃除をやっているのかな?

それとも、廊下にまいた消毒液と、先生の口から出るにんにくの分解物とが、
なにか特殊な化学反応をおこしているのかもしれない……

なんだって?……
いえ、どうぞ御心配なく、いくら書いてみたところで、ぼくなんぞ、いずれ作者などという柄じゃないんだから……

これはまた柄にもないご謙遜だ、作者をそんなふうに特別視する必要はないと思いますがね。
書けば、それが作者でしょう……

さあ、どうかな、教師というやつは、とかくやたらに書きたがるものと、相場がきまっているが……

そりゃ、職業がら、比較的いつも作者のすぐ近くにいるからですよ……
例の、創造的教育ってやつですか?
自分じゃ、チョーク入れ一つ、こさえたこともないくせに……

チョーク入れとは、恐れ入りましたな。
自分が何者であるかに、目覚めさせてやるだけでも、立派な創造じゃありませんか?……

おかげで、新しい苦痛を味わうための、新しい感覚を、むりやり身につけさせられる……


104 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 00:07:25 ID:???


希望だってあります!……

その希望が本物かどうか、その先までは責任を持たずにね……

そこから先は、めいめいの力を信じてやらなけりゃ……

まあ、気休めはよしにしましょう、いずれ教師には、そんな悪徳なんぞ、許されちゃいないんだから……

悪徳?……

作者のことですよ。作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、
自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。
女の化粧と、本質的には、なんの変りもありゃしない……

きびしいですな。

しかし先生が、作者という言葉を、そういう意味に使っておられるのなら、
たしかに、作者と、書くこととは、ある程度区別すべきかもしれませんね……

でしょう?
だからこそ、ぼくは、作者になってみたかったんですよ。
作者になれないのなら、べつに書く必要なんかありゃしないんだ!

……ところで、駄賃をもらいそこねた子供は、どんな表情をしていたっけ?


105 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:37:02 ID:???


「男手のあるところには、毎週一度、酒とタバコの配給があるんですよ。

「配給……?」
せっせと飛んでいるつもりで、実は窓ガラスに鼻づらをこすりつけているだけのオオイエバエ……
学名、Muscina stabulans……ほとんど視力をもたない、見掛け倒しの複眼……狼狽をかくそうともせず、うわずった声で
「しかし、なにもそんな面倒なことをしてもらわなくたって、勝手に自分で、買いに出りゃいいじゃないか!」

「でも、なかなか、きつい仕事ですから、とてもそんな時間はありませんしねえ……
 それに、部落のためにもなっていることですから、部落会の方で、費用ももっていただけるんですよ。」

すると、妥協どころか、降服の勧告だったのかもしれない!……いや、もっと悪いことだって考えられる。
彼の存在は、すでにここの日常を動かす歯車の一つとして、部品台帳に登録ずみなのかもしれないのだ。

「ちょっと、念のために、聞いておきたいんだが、いままでに、こんな目にあったのは、ぼくが始めてなんだろうか?……」

「いえ、なにしろ、人手が不足しておりますでしょう?
 ……財産もちも、貧乏人も、働きがいのあるものは、つぎつぎ部落から出て行ってしまいます……
 とにかく、砂ばかりの、貧乏村ですからねえ……」


106 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:39:30 ID:???


「すると、なんだろうか……」
声までが、保護色に身をひそめ、砂の色になり、
「ぼくのほかにも、誰か、捕まっているやつがいるわけなんだね?」

「はい、去年の秋口のころでしたか、たしか絵葉書屋さんが……」

「絵葉書屋?」

「なんでも、観光用の絵葉書をこさえる会社の、セールスマンとかいう人が、組合の支部長さんのところに、
 たずねて見えられましてねえ……宣伝さえすれば、都会人むきの、けっこうな景色だとかで……」

「つかまったのか?」

「ちょうど、人手に困っていた、並びの家がありましてね……」

「それで、どうなった?」

「間もなく、亡くなられたそうですよ……いえ、もともと、体があまり丈夫なほうじゃなかったそうで……
 それも、運わるく、ちょうど台風のころで、とくべつ仕事がきつかったんでしょうねえ……」

「なんだって、すぐに逃げ出さなかったんだ?

女は答えない。答える必要がないほど、分りきったことだったのだろう。
逃げられなかったから、逃げなかった……おそらく、それだけのことなのだ。

107 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:40:17 ID:???


「ほかには?」

「ええ……今年に入ってからは、なにか本を売ってまわっていた、学生さんがいましたっけね。」

「行商かな?」

「何か、反対なことを書いた、十円ばかりの、薄っぺらい本でしたっけ……」

「帰郷運動の学生だ……そいつも、やっぱり、つかまったのか?」

「三軒おいた隣に、いまも、いるはずですよ。」

「やはり、縄梯子をはずしてあるんだな?」

「若い人たちは、なかなか、居ついてくれませんのですよ……
 どうしたって、町場のほうが、給金もいいし、映画館や食堂だって、毎日店を開けているんでしょう……」

「しかし、ここから逃げ出すことに、まだ一人も成功しなかったってわけじゃないんだろう?」

「はい、ぐれた仲間にそそのかされて、町に出た若いものがおりましたけど……
 そのうち、刃物をふりまわすかして、新聞にまで出されて……
 刑期があけてからは、すぐに連れもどされて、無事に親元でくらしているようですが……」

「そんなことを聞いているんじゃない! ここを逃げ出したっきり、帰ってこなかった人間のことだ!」


108 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:41:50 ID:???


「ずっと、以前のことでしたら……家族ぐるみ、まんまと夜逃げをしたのもいましたっけねえ……
 しばらく、空家になっているうちに、あぶなく、とり返しがつかなくなりかけて……本当に、あぶないんですよ……
 どこか、一ヵ所でもくずれると、あとはもう、堤防にひびが入ったようなもので……」

「その後は、ないって言うのか?」

「ええ、ありませんと思います……」

「ばかばかしい!」
耳の舌の血管が、瘤になって喉をしめ上げる。

「とつぜん、地蜂が卵を産みつけるような姿勢で、女が体を二つ折れにした。」

「どうした?……痛むのか?」

「はい、痛みます……」


109 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:42:29 ID:???


色の変った手の甲にふれてみる。結びめに指をとおして、脈をよむ。

「感じはあるんだろう?
 脈もはっきりしているし……まあ、大したことはないらしいよ。
 悪いけど、文句は、部落の責任者に言ってもらいたいな。」

「すみませんが、首の、耳のうしろの辺を、掻いてもらえませんか?」

不意をつかれ、拒めない。皮膚と、砂の膜のあいだに、融けたバターのような、濃い汗の層があった。
桃の皮に爪を立てる感じだった。

「すみません……でも本当に、出て行った人は、まだいないんですから……」

ふと、戸口の輪郭が、色のないほのかな線になって、浮び出た。月だった。
ウスバカゲロウの羽のような、淡い光のかけらだった。
目がなれるにつれて、砂の摺鉢の底全体が、脂っこい若芽の肌のような、艶やかなうるおいをおびてくる……

「いいともさ、それじゃぼくが最初に逃げ出してやる!」


110 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:43:23 ID:???


「すみません、水を下さい……」

どうやら、ちょっぴり、ほんのちょっぴり、うたた寝をしていたらしい。
つかの間の寝汗で、シャツはもちろん、ズボンの膝の内側までが、ぐしょぐしょに濡れていた。
その汗に、こびりついた砂は、色も感触も、しめった麦落雁にそっくりだ。
顔に、被いを忘れたせいで、鼻も口も、冬の水田みたいに、干上ってしまっている。

「すみません、おねがいします……」

女も全身、砂一色に塗りかためられ、熱病にかかったように、乾いた音をたてて、ふるえていた。
女の苦痛が、電線でつないだように、そのままこちらに伝わってくる。
やかんのビニールをはいで、まず自分が、かじりつく。
最初の半口で、口をすすいでみたが、とても一度や二度で、すすぎ切れるものではない。
吐き出したものは、ほとんどが砂のかたまりだった。
しかし、あとは、かまわず、そのまま水と一緒に胃のなかに流しこむ。
まるで岩石を飲んでいるようなものだった。

飲んだ水が、そのまま汗になって、噴き出してきた。
肩甲骨から背筋にかけて、鎖骨から乳のまわりにかけて、脇腹から腰骨のへりにかけて、
ただれた皮膚が、薄皮をむかれるように痛んだ。

やっと、飲みやんで、言いわけがましく女の口におしこんでやる。
女はやかんに噛みつくと、口をすすぐこともせず、そのまま鳩のようにうなって、飲み込んだ。
たった三口で、空になってしまった。
むくんだ瞼のかげから、男を見すえる女の眼に、はじめて容赦のない非難がこめられる。
空になったやかんは、紙細工のように軽かった。


111 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 01:45:33 ID:???


気まずさを、まぎらせようとして、体の砂をはたき落しながら、男は土間に降りた。
濡れ手拭でもこさえて、女の顔を拭いてやるとしようか。
そっくり汗にして、流してしまったりするよりは、よほど理窟にかなったやりかただ。
文明の高さは、皮膚の清潔度に比例しているという。
人間に、もしか魂があるとすれば、おそらく皮膚に宿っているにちがいない。
水のことを思っただけで、よごれた皮膚は、何万個もの吸盤になる。
氷のように冷たく透明で、しかも羽毛のようにやわらかな、魂の包帯……
あと一分おくれたら、全身の皮膚がべろべろに腐って、はげ落ちてしまうだろう。

だが、水甕をのぞいた男は、絶望的な悲鳴をあげる。

「おい、からっぽじゃないか!……こいつは、ぜんぜん、からっぽだぞ!」

腕をつっこみ、かきまわす。底にこびりついた黒い砂が、わずかに指先をよごしただけだった。
はぐらかされた皮膚の下で、無数の傷ついたむかでが、もがきはじめる。

「奴等、水をとどけるのを、忘れやがったな!……それとも、これから、搬んでくるつもりだろうか?」

気休めにすぎないことは、自分でもよく分っていた。
オート三輪が、最後の仕事を終え、戻っていってしまうのは、いつも夜が明けて間もないころだった。
奴等のねらいは分っている。このまま水の補給を絶って、音をあげさせようというのだろう。
考えてみれば、砂の崖を下から崩すことが、どんなに危険かをじゅうぶんに知りながらも、
黙ってするにまかせておいたほどの連中である。
彼の身を案じる気持など、毛ほども持ち合わせていないにちがいない。
たしかに、ここまで秘密を知ってしまった人間を、いまさら生かして帰すわけにもいくまいし、
やるとなれば、徹底的にやるつもりだろう。


112 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:24:28 ID:???


戸口に立って、空を見上げた。朝の陽差しの、赤いくまどりで、やっと見分けられる。
遠慮がちな綿毛の雲……とうてい、雨を望めるような空模様ではない。
吐く息ごとに、体の水分が失われていくようだ。

「一体、どうするつもりなんだ! おれを殺す気か!」

女は、相変らず、黙ってふるえつづけるばかりだ。
おそらく、何も彼も、知りぬいた上でのことだったのだろう。
要するに、被害者面をした、共犯者だったのだ。
苦しむがいい!……それぐらいの苦しみは、当然のむくいだ。

しかし、その苦しみが、部落の奴等に伝わってくれるのでなければ、なんの役にも立ちはしない。
しかも、伝わってくれるという保証は、どこにもないのだ。
それどころか、必要とあれば、女を犠牲にしてはばからないことも、じゅうぶんに考えられる。
女がおびえているのも、そのせいかもしれない。
逃げ道だと思って、身をおどらせた柵の隙間が、実は檻の入口にすぎないことに、やっと気づいた獣……
何度か鼻面をぶつけて、金魚鉢のガラスが通り抜けられない壁であることを、はじめて知った魚……
ふたたび、素手でほうり出されてしまったのだ。
いま、武器を握っているのは、彼等の側なのである。


113 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:25:34 ID:???


しかし、おびえてはいけない。
漂流者が、飢えや渇きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろ欠乏にたいする恐怖のせいだという。
負けたと思ったときから、敗北がはじまるのだ。
鼻の先から、汗のしずくがしたたった。
また、何分の一CCかの水分が失われたなどと、一々気にかけたりするのが、すでに敵の術中におちいったことなのだ。
コップの水が蒸発してしまうのに、どれほどの時間がかかるかを、考えてみるがいい。
不必要に騒いで、時間という馬を、駆り立てることもないだろう。

「どうだ、縄を、解いてやろうか?」

女は、疑わしげに、息をとめた。

「ほしくなければ、かまわないがね……ほしければ、解いてやる……ただし、条件があるんだ……
 許可なしには、絶対にスコップを持たないこと……どうだ、約束できるかい?」

「おねがいいたします!」
犬のように耐えてきた女が、突風で裏返ったこうもり傘のように、哀訴しはじめた。
「約束なんか、いくらでもしますから! おねがいいたします……おねがいしますよ……」

いましめの跡は、赤黒い痣になっていた。
その痣の表面に、白くふやけた膜がかかっている。
女は、仰向けになったまま、足首同士をすりあわせ、手首を交互につかんで、ゆっくりともみほぐしはじめる。
うめきをこらえ、歯をくいしばり、顔中から汗がぶちになって吹き出してくる。
そろそろと、体をまわし、尻のほうから、四つん這いになる。最後に、首を、やっとの思いで引き上げる。
しばらく、そのまま、ゆらゆらと揺れていた。


114 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:27:46 ID:???


男も、上りかまちに、じっとうずくまった。
唾液をしぼり出しては、飲み下す。
くりかえしているうちに、唾液が糊のようにねばって、喉にからみだした。
さすがに、睡気は感じなかったが、疲労で意識が濡れた紙のようになる。
すかしてみると風景が、濁ったまだらや線になって浮ぶのだ。
まるで絵さがしの風景だ。
女がいる……砂がある……空っぽの水甕がある……よだれを流している狼がいる……太陽がある。
……それから、彼の知らない何処かには、熱帯性低気圧もあれば、不連続線もあるにちがいない。
さて、この未知数だらけの方程式の、一体どこから手をつけはじめればいいのだろう?

女が、立上って、のろのろと戸口の方へ歩きはじめた。

「どこへ行く!」

避けるように、口ごもったが、よくは聞きとれない。
しかし、その間のわるそうな素振りを、男は理解した。
やがて、板壁のすぐ向うで、ひっそりと方尿の音がはじまった。
なんだかひどい無駄のように思われた。


115 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:33:23 ID:???


なるほど、時が馬のように駈け出したりすることはないかもしれない。
しかし、手押し車より遅いということもなさそうだ。
みるみる朝の気温が、本格的な暑さになり、目玉や脳味噌を茹ではじめ、さらには内臓を焦がし、つづけて肺に火をともす。

夜のあいだに吸い込んだ湿気を、蒸気にして、再び大気に吐きだす砂……
光の屈折のせいで、濡れたアスファルトのように光りだす……。
だがその正体は、ほうろくで炒り焦がされた麦粉よりも、まだ乾ききった、まじりっけなしの1/8m.m.にすぎないのだ。

やがて、最初の、砂なだれ……もう日課になった、聞きなれた音だったが、思わず女と顔を見合わせる。
一日砂掻きをしなかったことが、はたしてどれほどの影響をおよぼすものか……
大したことはあるまいと思いながらも、やはり不安だった。
しかし女は、黙って目をそらせてしまう。
勝手に一人で心配するがいい、と、ふてくされているようでもあり、そうなると、それ以上つっこんで聞くのも、癪だった。
なだれは、糸のように細まったかと思うと、ふたたび帯になって広がり、
それを不規則にくりかえしながら、やがて事もなく止んだ。


116 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:36:00 ID:???


やはり、気に病むほどのことはなかったらしい。
ほっとすると、いきなり顔の内側が、ごくごく脈うちながら火照りだした。
するとそれまで、つとめて意識にのぼせまいと努めてきた、例の焼酎が、暗闇に浮んだ灯のように、
とつぜん彼の全神経を、一点に引きよせはじめる。
なんでもいいから、喉をしめしたい。
このままでは、体中の血が死んでしまう。
けっきょくは、苦しみの種をまき、あとで後悔することを百も承知していながら、もう抗うことはできなかった。
栓をひきぬき、瓶の口を歯にぶち当てながら、ラッパ飲みにする。
それでも舌は、まだ忠実な番犬だった。
不意の闖入者におどろいて、あばれだした。むせかえった。
すり傷にオキシフルをふりかけたようなものである。
そのくせ、三口めの誘惑にも、ついにうちかてなかった。
とんだ祝い酒もあったものである……

行きがかり上、女にもすすめてみた。
むろん女は、強く断わった。
まるで毒を強いられでもしたような、大げさな拒みかただった。

あんのじょう、胃に落ちこんだアルコールは、すぐにピンポン玉のように、耳のへんまではね返り、
そこで蜂の羽音をたてはじめる。
皮膚が、豚皮のように、こわばりはじめる。
血が腐る!……血が死んでしまう!


117 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:38:34 ID:???


「なんとか、ならないのか!
 自分だってつらいんだろう?
 こっちも、縄を解いてやったんだから、なんとかしろよ!」

「はい……でも、部落の誰かに、搬んでもらわないと……」

「じゃあ、そうすればいいじゃないか!」

「それは、私たちが、仕事をはじめさえすれば……」

「冗談を言うな! やつらの何処に、こんな無茶な取引きをする権利があるってんだ……
 さあ、言ってみろ!……言えはしまい?……そんな権利なんてどこにもありゃしないんだ!」

女は目をふせ、口をつぐむ。なんてことだろう。
戸口の上に、ちょっぴりのぞいている空は、もうとっくに青をとおりこし、貝殻の腹みたいにぎらついていた。
仮に、義務ってやつが、人間のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証をうけなきゃならないんだ!
……人生はそんな、ばらばらな紙片れなんかではないはずだ……
ちゃんと閉じられた一冊の日記帳なのだ……最初のページなどというものは、一冊につき一ページだけで沢山である……
前のページにつづかないページにまで、いちいち義理立てする必要などありはしない……
例え相手が飢え死にしかかっていたところで、一々かかわり合っている暇はないのだ……畜生、水がほしい!……
しかし、いくら水がほしいからって、死人ぜんぶの葬式まわりをしなければならないとしたら、
体がいくつあったって足りっこないじゃないか!


118 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 05:39:23 ID:???


二度目の砂崩れがはじまった。

女が立上って、壁から箒をはずした。

「仕事はしちゃいかん! 約束だろう?」

「いえ、ふとんの上を……」

「ふとん?」

「そろそろ、おやすみにならないと……」

「睡たくなりゃ、自分で勝手にするよ!」

地面をゆするような衝撃をうけて、立ちすくむ。
天井から降りだした砂に、一瞬あたりがけむって見えた。
砂掻きを休んだ影響が、ついにあらわれたのだ。
はけ口をなくした砂が、のしかかってくる。
こらえようとして、梁や柱が、苦しげに関節をきしませる。
しかし女は、奥の鴨居のあたりをじっとにらんだまま、べつにうろたえた様子もない。
どうやら、圧力はまだ、土台のあたりにかかったばかりのところらしい。

「ちくしょう、奴等……本気でいつまでも……こんなまねを、つづける気なのかな……」


119 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:08:57 ID:???


なんていう、大げさな心臓だろう……まるで、おびえた子兎みたいに、跳ねまわっていやがる……
きめられた巣に落着けないで、口だろうと、耳だろうと、尻の穴だろうと、
もぐり込めそうなところなら、どこでもかまわないと言わんばかりだ。
唾液のねばりが、前よりもひどくなった。
しかし、その割には、喉のかわきは変らない。
おそらく、焼酎の酔いで、適当に中和されているせいだろう。
アルコールが切れたとたんに、火を吹くのだ。
燃え上って、ちりちりの灰になってしまうのだ。

「こんなことをして……いい気になりやがって……鼠の脳味噌ほどもありはしないくせに……
 もしか、おれが死んだら、一体、どうするつもりなんだ!」

女は、なにか言いたげに、顔を上げたが、すぐまたもとの沈黙にもどってしまう。
言っても無駄なのだと、最悪の答えを、肯定しているようにも思えた。

「よかろう……どっちみち、結末が一つだというなら、試せるだけのことは、ためさせてもらうとしようじゃないか!」

男は、もう一と口、口づけで焼酎をあおると、気負いこんで外にとび出した。
いきなり両眼に白熱した鉛の一撃をうけて、よろめいた。
足跡のくぼみのそって、めくれた砂が、渦をまく。
昨夜、女を襲って、しばり上げたのは、たしかあの辺だ……
スコップも、多分、そのあたりに埋まっているにちがいない。
砂崩れは、ちょうど中休みに入っていたが、それでも海側の崖では、たえず幾らかかの砂が流れつづけていた。
ときおり、風のせいか、壁面をはなれて、布切れのように宙にひるがえったりする。
なだれを警戒しながら、足先で、砂の中をさぐった。


120 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:14:17 ID:???


すでに、砂崩れがあったあとらしく、かなり深くさぐりを入れているつもりなのだが、
いっこうにそれらしい手応えがない。
やがて、太陽の直射が、耐えがたくなった。
きつく絞りこまれた瞳孔……くらげのように踊りだす胃袋……額をつきぬける激痛……
もう汗を流してはいけない……これが限度だ。
それよりも、おれのスコップの方は、どこにやったっけ?
……たしかあのとき、武器にするつもりで、持って出て……そう、それなら、あの辺に埋まっているはずだ……
地面をすかしてみると、砂が、スコップの形に盛上っているのがすぐ分った。

唾を吐きかけて、あわててやめる。
わずかでも水気を含んだものは、体の中に還元してやらなければならないのだ。
唇と歯のあいだで、砂と唾とを分解し、歯にこびりついて残った分だけを、指先でこそげおとした。

女は、部屋の隅で、あちらを向いて、着物の前をどうにかしていた。
多分、腰紐をゆるめて、たまった砂をかき出してでもいるのだろう。
男は、スコップの柄の中ほどをつかみ、肩の上に水平にかまえた。
戸口のわきの、土間の壁をめがけ、刃を先にして……

背後で女の叫び声がおこった。全身の重みをかけて、スコップをつきだした。スコップは、あ
っけなく、板壁をつきとおしてしまう。まるで、しけった煎餅のような手応えだ。砂に洗われ、
外見はいかにも新しそうに見えるのだが、実質はすでに腐りかけているらしい。


121 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:18:35 ID:???


「なにをするんです!」

「こいつをひっぺがして、梯子の材料をつくるのさ!」

べつな場所をえらんで、もう一度ためしてみる。やはり同じことだ。
砂が木を腐らせるという、女の言葉は、どうやら事実だったらしい。
どこよりも日当りのいい、この壁でさえそうだとすると、あとはおして知るべしだ。
よくも、こんなぶよぶよの家が建っていられたものである……傾き、ゆがみ、半身不随になりながら……
もっとも最近では、紙やビニールだけの家でも建つらしいから、
ぶよぶよには、ぶよぶよなりの、力学的構造というものがあるのかもしれないが……

板の部分がだめなら、今度は横木をためしてみてやろう。

「いけませんよ! やめて下さい!」

「どうせ、そのうち、砂におしつぶされてしまうんだろう?」


122 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:20:07 ID:???


かまわず、打ち込もうと構えた腕に、わめきながら、女がむしゃぶりついてきた。
肘をつっぱり、体をねじって、ふりほどこうとした。
ところが、どう計算ちがいしたのか、ふりまわされたのは、逆に男のほうだったのだ。
すかさず反撃をこころみる。
しかし、スコップの女は、鎖で結び合わされてしまったみたいに、もうびくともしないのだ。
わけが分らない……すくなくも腕ずくでなら、負けるはずはなかったのに……
二度、三度と、土間の上をもみあったあげく、なんとか組みふせることが出来たと思ったのも束の間、
スコップの柄を楯に、あっさり逆転させられてしまった。
どうかしている、多分、焼酎のせいなのだ……
もう相手が女であることなど念頭になく、反射的に、曲げた膝頭で、女の腹を蹴上げていた。

女が叫んで、急に力をぬいた。すかさず、はね起きて、女を上からおさえこむ。
胸がはだけて、汗みどろになった素肌のうえに、男の手がすべった。

とつぜん、映写機が故障したように、二人はじっと動かなくなった。
どちらかが、何かしなければ、そのままいつまでも続きそうな、固くこわばった時間だった。
網目になった女の乳房の皮下組織を、ありありと腹のあたりに感じながら、
男の指はまるで独立した生物のように、じっと息をひそめる。
身じろぎのしかた一つでは、スコップの取り合いが、まったく別のものに変ってしまいかねなかった。


123 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:29:06 ID:???


生唾を飲み込もうとして、女の喉が、大きくふくらんだ。
男の指も、それを動く合図だと感じた。
女がしわがれ声で、さえぎった。

「でも、都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」

都会の女?……たちまち男は鼻白む……腫れあがった指の熱もさめていく……
危険はあっさり通りすぎてくれたらしい……
メロドラマの影響が、こんな砂の中でも、生きつづけられるものとは知らなかった。

どうやら、ほとんどの女が、股一つひらくにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、
自分の値段を相手に認めさせられないと、思いこんでいるらしい。
しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、
一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっているというのに……

彼は、あいつとの時には、いつもかならずゴム製品をつかうことにしていた。
以前わずらった淋病が、はたして全快したかどうか、今もって確信がもてなかったのだ。
検査の結果は、いつもマイナスと出るのだが、小便のあとで、急に尿道が痛みだし、
あわてて試験管にとってみると、はたして白い糸屑みたいなものが浮んでいたりする。
医者はノイローゼだと診断したが、疑惑がとけない以上、同じことだった。


124 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:33:01 ID:???


「まあ、私たちには、おあつらえむきなんじゃない?」
血がすけて見えるような皮の薄い、小さな顎と唇……
その効果を計算に入れた、変に身軽な意地の悪さで、
「私たちの関係は、いずれ商品見本を交換しているようなものでしょう?
 ……お気に召さなかったら、いつでもお引き取りいたします……
 封を切らずに、ビニールの袋ごしに、ためつ、すがめつ、値ぶみしてるってわけよ……
 どうかしら?……本当に信用できるのかしら?
 ……うっかり買って、あとになって、後悔したりするんじゃないかしら?」

しかし、あいつが、本心から、そんな商品見本的な関係に満足していたわけではない。
たとえば、あいつがまだ寝床の中で、股に手拭をはさんだまま、素裸でいるというのに、こちらはすでに、
追い立てられるような気持で、ズボンのボタンを掛けはじめているといった、あの過酸化水素の臭いがする時刻……


125 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:36:18 ID:???


「でも、たまには、押し売りしてやろうくらいの気持になってもいいんじゃない?」

「いやだね、押し売りなんて……」

「だって、もう、なおっちゃっているんでしょう?」

「君が本気でそう判断するのなら、合意のうえで、素手にしようじゃないか。」

「なんだってそう責任のがれするのよ?」

「だから、押し売りは嫌だって言っているだろう?」

「変ねえ……あなたの淋病に、私が一体どんな責任があるのかしら?」

「あるかもしれないさ……」

「馬鹿言わないでよ!」

「まあ、とにかく、押し売りは願い下げだってことさ。」

「それじゃ、一生、帽子は脱がないつもり?」

「どうして、そう非協力的なんだろうなあ……一緒に寝ていて、やさしい気持があれば、それくらい当然じゃないか。」

「要するに、あなたは、精神の性病患者なんだな……それはそうと、私、明日は残業になるかもしれないわ……」


126 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:38:07 ID:???


あくびをしながら、精神の性病患者か……あいつにしては、うまい文句を思いついたものだ……
だが、それがどんなにおれを傷つける文句であったかは、決してあいつには分るまい……
第一、性病は、メロドラマとは正反対なものだ……
メロドラマなんぞが、この世に存在しないことの、もっとも絶望的な証拠の品でさえある……
コロンブスが、ちっぽけな船で、ちっぽけな港に、こっそり持ち帰ったものを、
みんながせっせと手分けして、世界中にひろげた……
人類が平等だと言えるのは、死と性病に対してだけかもしれない……
性病は、人類の連帯責任なのだ……だのに、おまえは、絶対に認めようとしない……
おまえは、鏡の向うの、自分を主役にした、おまえだけの物語りに閉じこもる……
おれだけが、鏡のこちらで、精神の性病をわずらいながら、取り残されるのだ……
だから、おれの指は、帽子なしでは、萎えてしまって役に立たない……
おまえの鏡が、おれを不能にしてしまうのだ……女の無邪気さが、男を女の敵に変えるのだ。


127 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:47:56 ID:???


男はいまいましげに、目をそむける。
だが、いまいましい一方かというと、そうも言いきれない。
下の先には、渇きとはまたちがった、奇妙な情感も残っていた。
女が、あの馬鹿気た文句で、彼を萎えさせるまでは、ほんの短い時間ではあったが、
ゴム製品なしに、彼の指は立派に脈うち、いきみかえったのだ。
その名残りの火照りはまだ残っている。
発見などと言っては、大げさすぎるかもしれないが、これは一応、注目にあたいする。

彼はべつに変質者ではないつもりだった。
ただ、精神的強姦だけは、どうにも気がすすまない。
生こんにゃくを、塩もつけずに食うようなものだ。
相手を傷つけるより前に、まず自分を侮辱することだ。
そのうえさらに、精神的性病まで引受けなければならないというのは、一体どういうことだろう?
踏んだり蹴ったりじゃないか。
女の粘膜は、おれの視線がかすめただけでも、血を吹かなければならないほど、果して弱いものなのか?


128 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:48:43 ID:???


ただ、薄々と感じているのは、性欲にも、二つの種類があるのではないかと言うことだ。
たとえば、メビウスの輪のやつは、女友達をくどくとき、
かならず味覚と栄養についての講義からはじめることにしているらしい。
――そもそも、飢えきった者にとっては、食物一般があるだけで、
神戸牛だとか、広島の牡蠣の味だとかいうものは、まだ存在していない……
一応、満腹することが保証されてから、はじめて個々の味覚も意味をもってくる……
同様、性欲についても、まず性欲一般があり、ついでさまざまな性の味が発生する……
性も、一律に論ずべきではなく、時と場合に応じて、ビタミン剤が必要になったり、
うなぎ丼が必要になったりするというわけだ。
いかにも整然とした理論だったが、惜しむらくは、その理論に応じて、性欲一般、
もしくは固有の性を、すすんで彼に提供した女友達は、まだ一人もいなかったらしい。
当然のことだ。男だろうと、女だろうと、理論にくどかれる奴なんているわけがない。
馬鹿正直なメビウスの輪も、そんなことはすっかり承知のうえで、
ただ精神的強姦がいやなばかりに、せっせと空き家の呼び鈴を押しつづけていたのだろう。


129 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:49:40 ID:???


むろん彼だって、純粋な性関係などというものを夢想したりするほど、ロマンチックだったわけではない。
そんなものは、おそらく、死に向って牙をむきだす時にしか、必要のないものだ……
枯れはじめた笹は、あわてて実を結ぶ……飢えた鼠は、移動しながら、血みどろな性交をくりかえす……
結核患者は一人のこらず、色情狂にとっつかれる……
あとは階段を降りるしかない、塔の頂上に住む王や支配者は、ひたすらハレムの建設に情熱をかたむける……
敵の攻撃を待つ兵士たちは、一刻もおしんで、オナニーにふけりだす……

だが、幸い、人間はそうやたらと死の危険ばかりにさらされているわけではない。
冬さえ、恐れる必要のなくなった人間は、季節的な発情からも自由になることが出来た。
しかし、戦いが終れば、武器はかえって足手まといになる。
秩序というやつがやって来て、自然のかわりに、牙や爪や性の管理権を手に入れた。
そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびに、
かならずパンチを入れてもらわなければならないことになる。
しかもその回数券がはたして本物であるかどうかの、確認がいる。
ところが、その確認たるや、秩序のややこそさにそっくり対応した、
おそろしく煩瑣なもので、あらゆる種類の証明書……
契約書、免許証、身分証明書、使用許可証、権利書、認可証、登録書、携帯許可証、組合員証、
表彰状、手形、借用証、一時許可証、承諾書、収入証明書、保管証、さては血統書にいたるまで……
とにかく思いつく限りの紙片れを、総動員しなければならないありさまだ。


130 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:50:51 ID:???


おかげで性は、みのむしのように、証文のマントにすっぽり埋まってしまった。
それで気がすむのなら、それもよかろう。
だが、はたして、証明書はこれで終いなのだろうか?
……まだ何か証明し忘れているのではあるまいか?
……男も、女も、相手がわざと手を抜いているのではないかと、暗い猜疑のとりこになる……
潔白を示すために、むりして新しい証文を思いつく……
どこに最後の一枚があるのか、誰にも分らない……
証文は、けっきょく、無限にあるらしいのだ……
(あいつはおれが、理窟っぽすぎると言って非難した。しかし、理窟っぽいのはおれではなくて、この事実なのだ!)

「でも、それが、愛情の義務ってものじゃないかしら?」

「とんでもない! 消去法で禁止事項を消していった、残り滓さ。
 それほど信じられないのなら、始めから信じなきゃいいんだよ。」

性に贈答用の熨斗をつけたりするような悪趣味まで、我慢しなければならないほどの義理はない。
性にも、毎朝きちんとアイロンをかけましょう……性は、袖をとおしたとたんに古くなり……
アイロンをかけて、皺をのばせば、すぐまた新品同様になり……
新しくなったとたんに、またすぐ古くなる……
そんな卑猥な話にまで、真面目に耳をかす義務があるというのか?


131 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:52:03 ID:???


むろん、秩序の側で、それに見合っただけの生命の保証をしてくれるというなら、まだ譲歩の余地もある。
だが、現実はどうだろう?
空からは死の棘が降り、地上でも、ありとあらゆる種類の死で、足の踏み場もない。
性の方でも、うすうすは感じはじめているらしいのだ。
どうやら、つかまされたのは、空手形だったらしいと。
そこで、不服な性を相手の、回数券の偽造がはじまる。
こいつはけっこう、いい商売になる。
あるいは、精神的強姦が、必要悪として黙認される。
こいつなしには、ほとんどの結婚が成り立たなくなる。
性の解放論者がやっていることだって、大同小異だ。
互いに強姦し合うことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。
そんなものだと思ってしまえば、それだって結構たのしめるだろう。
しかし、しまりの悪いカーテンを、たえず気にしながらの解放では、いやでも精神的性病患者になるしかないわけだ。
あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない。


132 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 06:53:12 ID:???


けいれん……同じことの繰返し……
いつも、別なことを夢みながら、身を投げ入れる相も変らぬ反復……
食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること……


133 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 22:41:08 ID:???


筋肉の隙間に、石膏を流しこまれたら、おそらくこんな気分になるにちがいない。
目は、覚ましているつもりなのに、なぜこんなに暗いのだろう?
どこかで、鼠が、巣をつくる材料でもひきずっているらしい……
喉がひりひり、やすりを当てたように痛んでいる……
内臓が、汚物処理場のように、泡をたてている……タバコが吸いたい……
いや、その前に、水が飲みたい……水!……とたんに、現実に引き戻される……
そうだ、あれは鼠などではない、女が仕事をはじめているのだ!
……一体どれぐらい睡っていたのだろう?
……起上ろうとして、また、おそろしい力で、ふとんの上に、ねじ伏せられた……
思いついて、顔の手拭そむしりとると、開けはなたれた戸口から、
ゼラチンを透したような月明りが、淡く涼しげにさしこんでいる。
いつの間にやら、また夜だった。

枕元に、やかんと、ランプと、焼酎の瓶がおいてあった。
さっそく、片肘をついて、口をすすぎ、すすいだ水を、いろりめがけて、吐きとばした。
ゆっくりと、味わいながら、喉をうるおした。
ランプのわきをさぐると、柔らかな包みが手にふれ、マッチと、それにタバコもあった。
ランプをともし、タバコに火をつけ、焼酎を一口、かるく含んでみた。
ばらばらだった意識が、おもむろに形をととのえてくる。


134 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 22:44:20 ID:???


包みの中は、弁当だった。
まだぬくもりが残っている、麦のまざった握り飯三つ、めざし二本、
乾いた皺だらけのたくあん、それに苦い味のする野菜の煮つけ……
野菜はどうやら、干した大根の葉らしい。
めざし一本に、握り飯一個が、やっとだった。
胃が、ゴム手袋のように、冷たくひえていた。

立上ると、節々が、風に鳴るトタン屋根の音をたてた。
こわごわ、水甕をのぞきこむ。
口元までたっぷり補充されていた。
手拭をぬらして、顔におし当てた。
戦慄が、蛍光を発して、全身をつらぬいた。
首と、脇の下を洗い流し、指のまたの砂を拭きとった。
人生の目的も、この瞬間でとめておくべきものなのかもしれない。


135 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 22:48:55 ID:???


「番茶でも、いれましょうか?」

戸口に女が立っていた。

「いいよ……すっかり水っ腹なんだ。」

「よく睡れましたか?」

「一緒に起してくれりゃよかったのに……」

うつむいて、女はくすぐったそうな笑い声をたてた。

「本当に、途中で、三度も起きて、顔の手拭をかけなおしてあげたんですよ。」

大人の愛想笑いの使いみちを、やっとおぼえたばかりの三歳の子供がみせる、あの媚態だ。
いそいそした気持を、どう表現していいのか分らず、まごついている様子が、むきだしになっている。
うっとうしげに、男は目をそむけた。

「掘るほうを手伝おうか?……それとも、搬んだほうがいいかな?」

「そうですねえ……もうじき、次のモッコが来るところですから……」


136 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 22:53:00 ID:???


いざ仕事にかかってみると、なぜか思ったほどの抵抗は感じられないのだ。
この変化の原因は、いったい何だったのだろう?
水を絶たれることへの恐怖のせいだろうか、女に対する負い目のせいだろうか、
それとも、労働自身の性質によるものなのだろうか?
たしかに労働には、行先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、
人間のよりどころのようなものがあるようだ。

いつだったか、メビウスの輪にさそわれて、なにかの講演会を聞きに行ったことがある。
会場は、低い錆びた鉄柵で、ぐるりと取りまかれ、柵の中は、紙屑や、空箱や、
その他得体の知れないぼろ布などで、地面が見えないほどになっていた。
設計者は、どういうつもりで、こんなものを取り付ける気になったりしたのだろう?
すると、彼の疑問を写しとったように、鉄柵の上にかがみこみ、
しきりと指先でこすってみている、くたびれた背広の男がいた。
あれは、私服刑事なのだと、メビウスの輪が小声で教えてくれた。
それから、会場の天井には、まだ見たこともないほど大掛りな、コーヒー色の雨もりの跡があった。
そのなかで、講師が、こんなことを言っていた。

「――労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。
 労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる……
 その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。」

指の輪を吹いて鳴らす、鋭い口笛の合図が聞えた。
つづいて、モッコを引いて走る、屈託のない掛け声……
さすがに、近づくにつれて、ひっそりとなる。
無言のうちに、モッコがおろされる。
はりつめた警戒の気配が感じられ、しかし今さら、壁にわめいてみても、はじまるまい。
予定量の砂が、無事に搬び上げられてしまうと、ほっと緊張がゆるんで、空気の手ざわりまでが変ってしまったようだった。
誰も、何も言わなかったが、これで当面の諒解は成り立ったようでもある。

137 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 22:57:10 ID:???


女の態度にも、はっきりした変化が見られた。

「一服しましょう……お茶をいれてきます……」

声も、動作も、はずんでいる。
見当をつけそこねて、はみ出してしまったような、はしゃぎかただ。
男は、砂糖をなめすぎたように、げんなりする。
それでも、通りすがりに、後ろから、そっと女の尻をなで上げるくらいのことはしてやった。
むろん、電圧が上りすぎれば、フィラメントは焼け切れてしまう。
決して、そんなぺてんにかけたりするつもりはない。
いずれは、幻の城を守る衛兵の話でもしてやるつもりである。

城があった……いや、城でなくても、工場でも、銀行でも、賭博場でもかまわない。
当然、衛兵が、守衛か、用心棒であっても、一向に差支えないわけだ。
さて、衛兵は、つねづね、敵の侵人にそなえて、警戒をおこたらなかった。
ある日、ついに、待ちに待った敵がやってくる。
ここぞとばかり、警告の合図を吹きならした。
ところが、奇妙なことに、本隊からは、なんの応答もこないのだ。
敵が、衛兵を、難なく一撃のもとにうち倒してしまったことは、言うまでもない。
うすれていく意識のなかで、衛兵は見た。
敵が、何者にもさまたげられず、門を、壁を、建物を、風のように通りぬけて行ってしまうのを。
いや、風のようなのは、敵ではなくて、実は城のほうだったのだ。
衛兵は、ただ一人、荒野のなかの枯木のように、幻影を守って立っていたのだった……


138 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 22:59:23 ID:???


スコップに腰をおろして、タバコに火をつける。
三本目のマッチで、やっと火がついた。
水にたらした。
墨のように、よどんだ疲労が、輪になり、くらげになり、くす玉になり、原子核模型図になって、にじんでいく。
野鼠を見つけた夜の鳥が、嫌な声で仲間を呼んでいる。
胃を吐きだして吠える、不安な犬。
高い夜空で、鳴りつづける、速度のちがう風の摩擦音。
地上では、一枚一枚、砂の薄皮をむいては流しつづける。
風のナイフ。汗をぬぐい、手鼻をかんで、頭の砂を掻きおとした。
足元の風紋は、ふいに動きを停めた波頭に似ていた。

もしこれが、音の波だったとしたら、一体どんな音楽が聞えてくるのだろう?
鼻の穴に、火箸をたたきこみ、その血糊で耳を詰め、歯を一本一本、槌でくだいて、その破片を尿道におしこみ、
陰唇を切りとって、上下のまぶたに縫い合わせれば、人間でも、それくらいの歌は歌いだすかもしれない……
残酷に似てはいるが、残酷とも、少しちがうようだ……
ふと、自分の目玉が、鳥のように高く飛び立ち、じっと自分を見下ろしているような気がした。
こんなところで、奇怪さについて考えている自分こそ、よほど奇怪な存在にちがいない。


139 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:08:42 ID:???


Got a one way to the blues, woo woo ――

(こいつは悲しい片道切符のブルースさ)
……歌いたければ、勝手に歌うがいい。
実際に、片道切符をつかまされた人間は、決してそんな歌い方などしないものだ。
片道切符しか持っていない人種の、靴の踵は、小石を踏んでもひびくほどちびている。
もうこれ以上歩かされるのは沢山だ。
歌いたいのは、往復切符のブルースなのだ。
片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。
そんな、傷だらけの片道切符を、鼻歌まじりにしたりできるのは、
いずれがっちり、往復切符をにぎった人間だけにきまっている。
だからこそ、帰りの切符の半分を、紛失したり、盗まれたりしないようにと、あんなにやっきになり、
株を買ったり、生命保険をかけたり、労働組合と上役に二枚舌をつかったりもするわけだ。
風呂の流し口や、便所の穴から立ちのぼる、片道切符の連中の、
助けを求めるあきらめの悪い叫び声から、耳をふさごうとして、
やたらに大きな声でテレビをかけたり、せっせと片道切符のブルースを口ずさんだりすることにもなるわけだ。
とらわれた人間の歌が、往復切符のブルースであっても、いぶかることは少しもない。


140 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:15:49 ID:???


女は、紙栓をされたような寝息をたてている……
呼吸は、深く、長く、踵のあたりを軽く蹴ってみたが、ほとんど変化を示さない……
情欲をしぼり出されてしまった古チューブだ。
ずれかけている顔の手拭をなおしてやり、下腹でよじれて縄になっている着物を、膝のへんまで下ろしてやった。
さいわい、計画の最後の仕上げに忙殺されて、感傷にふけったりする暇はない。
目をつけておいた古鋏に、細工をしおえると、ほぼ予定の時刻になった。
さすがに、出しなの一瞥には、ひきさかれるような痛みがあった。

穴の上縁から、一メートルほどのところに、淡い光が、輪になって浮んでいた。
およそ、六時半から、四十分くらいの見当だろう。ちょうど頃合だ。
両腕をつよく後ろに引き、首をまわして、肩の筋肉をときほぐす。


141 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:21:55 ID:???


まず、屋根にのぼらなければならない。
物を抛るには、仰角四十五度に近いほど、効率がいいわけだ。
本当は、屋根に上るにも、ロープを使って、具合を験してみたいところだったが、
屋根に鋏が当る音で、女に目を覚まされたりしてはかなわない。
テストははぶいて、裏手にまわり、以前なにかの干し場だったらしい、
雨除けの名残りを足場にして、よじのぼることにする。
半分、腐りかけた、細い角材なので、気骨がおれた。しかし、大変なのは、その後だった。
飛砂に研ぎ出されて、屋根は、葺きたてのように白く柾目を浮き立たせていたが、
いざ乗ってみると、やはりしっけたビスケットのように、ぶよぶよなのだ。
踏み抜いたりしては、ことである。這いつくばって、体重を分散させ、そろそろと先に進んだ。
やっと棟までたどりつき、またがる姿勢で、膝で立つ。
屋根の上も、すでに影の中だったし、西側の穴の縁の、凍った蜜色の淡いつぶつぶは、そろそろ靄の出はじめたしるしである。
もう櫓の見張りを気にする必要はなさそうだ。

鋏から、一メートルばかりのところを、右手に持ち、投げ縄の要領で、頭上に輪を描いてまわす。
目標は、モッコの上げ下ろしの際に、滑車がわりにしている、例の俵だ。
縄梯子を固定できたくらいだから、かなりしっかり埋めこんであるにちがいない。
しだいに廻転を早め、ねらいを定めて、ほうり投げた。
まるで見当ちがいの方角に飛んでしまった。投げるという考え方がいけなかったのだろう。
鋏は円周の切線にそって飛ぶわけだから、ロープが目標に対して、直角になった瞬間か、
あるいはそのほんの直線をえらんで、ただ手を離せばいい。
そう、その調子!……だが、残念ながら、今度は崖の途中に当って、落ちてしまった。
廻転速度と、仰角のとりかたが足りなかったらしい。


142 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:28:56 ID:???


何度か、繰返すうちに、距離も、方角も、かなり安定してきた。とは言え、命中にはまだほど遠い。
幾分かでも、上達の気配が見えてくれれば、まだ気が楽なのだが、誤差がちぢまってくれる様子はさらになく、
疲労と、あせりで、かえってむらがひどくなるようでさえある。
どうやら簡単に考えすぎていたようだ。
誰に、だまされたわけでもないのに、むしょうに腹立たしく、泣き出したいような気持だった。

もっとも、可能性は反復に正比例するという確率の法則に、嘘はなかったらしい。
なんの期待もなく、ほとんど捨て鉢な気持で投げた十何度目かのロープが、まっすぐ俵の上をとおってのびてくれたのだ。
ぞっと、口の中がしびれた。飲み込むはしから、生唾が、あふれ出した。
だが、有頂天になるのは、まだ早い……やっと、籤を買う金を、手に入れたというだけだ……
当るか、当らないかは、これからなのだ。
全神経をロープに托し、蜘蛛の糸で星をひきよせるような思いで、そっと手元に引きよせた。

手応えがあった。すぐには信じかねたが、ロープは事実動かない。
さらに引く手に力をこめてみる……幻滅の瞬間を、今か今かと、身がまえて待ちながら……
だが、もう、疑う余地はなかった。
鋏の鈎は、がっちり俵に、咬みついてくれたのだ。
なんて間がいいのだろう!……どえらく、ついていやがる!……
この分だと、これから先も、うまく行ってくれるにちがいない!


143 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:37:31 ID:???


いそいそと、屋根を降り、いまはただ静かに砂の壁を垂直に切っているロープの下に立つ。
地上はもうすぐそこだ……信じられないほど、すぐそこなのだ……
顔がこわばり、唇のまわりに、しびれが走った。
コロンブスの卵は、きっと茹で卵だったにちがいない。
あまり、あたためておきすぎると、かえって傷みが早いのだ。

ロープにつかまり、そろそろと、体重をかけていく。
急に、ゴムのように、のびはじめた。ぎくりと、毛穴から、汗が吹き出した。
さいわい、三十センチほどで、とまってくれた。
すっかり、体重をあずけてみたが、どうやら今度は心配はなさそうである。
手のひらに唾をはき、足の裏でロープをはさんで、のぼりはじめた。
玩具の木登り猿の要領だ。興奮しすぎているせいか、額の汗が変に冷たい。
なるべく、砂をかぶらずにすませようと、ロープだけをたよりにするので、体がくるくるまわって落着かない。
思ったよりも、はかどらず、なるほど引力というやつはしぶといものだ。
それにしてもこのふるえは、一体なんとしたことだろう?
しまいに、腕が、意志とは無関係におどり出し、自分で自分を、はじきとばしそうになる。
まあ、あの、毒にまみれた、四十六日間のことを思えば、無理もないかもしれない。
一メートルはなれれば、百メートルの深みになり、二メートルはなれれば、二百メートルの深みになり、
次第に深さを増して、目くらむばかりの深淵になる……
疲れすぎているのだ……下を見てはいけない!……ほら、もうそこが地上だ……
どちらを向いても、世界の果まで、自由に歩いて行ける道のついた、地上なのだ……
地上にあがれば、すべては追憶の手帳のあいだで、小さな押し花になってくれるだろう……
毒草だろうと、食肉植物だろうと、薄い半透明な一片の色紙になり、居間で、番茶でもすすりながら、
電燈の光にかざして、世間話の薬味にすることができるのだ。


144 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:40:46 ID:???


だからと言って、いまさら女をとがめたりするつもりなど、毛頭なかった。
彼女が、淑女でもなければ、淫売でもなかったことは、おれがはっきり保証する。
もし、添書が必要だというなら、判子の十や二十くらい、いつでもよろこんで押してやろう。
ただ、おれと同じく、往復切符にしがみつくしか能のない、馬鹿な女だったということだ。
しかし、同じ往復切符でも、出発地がちがえば、しぜん目的地もちがってくる。
こちらの帰りの切符が、相手には往きの切符になっても、べつに不思議はないわけだ。

仮に女が、なにか勘違いしていたとしても、しょせん、勘違いは、勘違いにすぎない。

……下を見るな、下を見てはいけない!

登山家だろうと、ビルの窓拭きだろうと、テレビ等の電気工だろうと、サーカスのブランコ乗りだろうと、
発電所の煙突掃除夫だろうと、下に気をとられたときが、そのまま破滅のときなのだ。


145 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:47:45 ID:???


靴をはき、まるめたロープを、ポケットにねじこんだ。
鋏つきのロープは、いざというとき、武器としても役立ってくれるだろう。
逃げる方向は、とりあえず、逆行がかばってくれる、西の方角だ。
一刻も早く、日暮れまでをすごす、適当な隠れ場所を見つけ出さなければならない。

さあ、急ごう!……うんと、腰をおとして、低いところを走るのだ!……べつに周章てふためくことはない……
慎重に、充分あたりに気をくばって、急ぐのだ……そら、そのくぼみに身をふせろ!
……怪しい物音はしなかったか?……不吉な予感はないか?……なければ、立って、また前進だ……
右によりすぎてはいけない!……右の崖は、低すぎて、中からのぞかれるおそれがある……


146 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:51:13 ID:???


夜毎のモッコ搬びで、穴と穴とのあいだに、まっすぐ一本溝が刻まれていた。
溝の右側は、起伏の多い、ゆるやかな斜面だ。その下に、二列目の家並が、ちょっぴり屋根をのぞかせて並んでいた。
海側の列に守られているおかげで、崖もずっと低く、砂防用の粗朶垣も、ここではまだ役に立っているらしい。
表の崖からなら、おそらく自由に出入りできる程度にちがいない。
すこし姿勢を高くすると、ずっと部落の奥の方まで見渡すことができた。
広く、扇形にひらいた砂の起伏のかなめのあたりに、瓦屋根や、トタン屋根や、板葺きの屋根が黒く群がり……
貧弱ながら、松林もあったし、池らしいものも見えた。
わずかこれだけの風景を守るために、海に面した十数軒が、どれいの生活に甘んじているわけなのだ。

その、どれいの穴は、いま、道の左側に並んでいる……
ところどころに、モッコを引き込む溝の枝があり、その先に、すり切れた俵が埋めこまれて、穴のありかを告げている……
目をやるだけでさえ、苦痛だった。
俵には、縄梯子を取り付けてないところもあったが、つけてある方が多いようだった。
すでに脱出の意欲さえなくした連中も、少なくはないということだろうか?

そんな生活がありうることも、むろん理解出来なくはなかった。
台所があり、火の燃えている竈があり、教科書をつんだ机がわりのリンゴ箱があり、
台所があり、囲炉裏があり、ランプがあり、火の燃えている竈があり、破れた障子があり、煤のたまった天井があり、
台所があり、動いている時計や止っている時計があり、鳴っているラジオやこわれたラジオがあり、
台所と、火の燃えている竈があり……
そして、それらの間にちりばめられた、百円玉と、家畜と、子供と、性欲と、
借用証書と、姦通と、線香立てと、記念写真など……恐ろしいほど完全な反復……
それが心臓の鼓動のように、生存には欠かすことのできない反復であるとしても、
心臓の鼓動だけが、生存のすべてではないこともまた事実なのだ。


147 :私事ですが名無しです:2006/12/21(木) 23:58:46 ID:???


しっ、早く伏せろ!……いや、なんでもない、ただの鴉だった……
とうとう、つかまえて剥製にしてやる機会はなかったが、もうそんなことはどうでもいい。
入墨やバッジや、勲章をほしがるのは、信じてもいない夢を、夢見ているときだけのことである。

やがて、部落の外れに出たらしく、道が砂丘の稜線に重なり、視界がひらけて、左手に海が見えた。
風に辛い潮の味がまじり、耳や小鼻が、鉄の独楽をしばいたような唸りをあげた。
首にまいた手拭がはためいて頬をうち、ここではさすがに靄も湧き立つ力がないらしい。
海には、鈍く、アルマイトの鍍金がかかり、沸かしたミルクの皮のような小じわをよせていた。
食用蛙の卵のような雲に、おしつぶされ、太陽は、溺れるのをいやがって駄々をこねているようだ。
水平線に、距離も大きさも分らない、黒い船の影が、点になって停っていた。

そこから先、岬まではまだゆるやかな砂丘が、幾重にもうねりつづけているばかりだ。
このまま進むのは、危険かもしれない。
迷いながら、振返ってみると、さいわい火の見は小高い砂の隆起にさえぎられて、視界から切れている。
姿勢を、すこしずつもたげていくと、すぐ右手の斜面の陰に、その角度からしか見えない掘立て小屋が、
ほとんど横倒しになって埋もれているのが目にとまった。
風下の方は、匙ですくったような、深いくぼみになっている。

おあつらえ向きの隠れ場所だ……砂の肌は、貝殻の腹のようになめらかで、人が歩いたりした形跡はどこにもない……
だが、おまえ自身の足跡はどうなるのだ?
……たどってみると、三十メートルあたりから先は、もうすっかり拭き消されている……
すぐ足もとのでさえ、みるみる崩れ、変形していく……風の日にぶつかって、悪いことばかりでもなかったようだ。


148 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:06:05 ID:???


小屋の後ろに、まわりこもうとしたとたん、中から黒いものが這い出してきた。
豚のように、ずんぐりとした、赤犬だった。おどかしちゃいけない、あっちに行け!
だが、犬は、じっと男を見返したまま、たじろぐ気配もない。
片耳がちぎれ、不相応に小さな眼が、いかにも陰惨な感じだ。
鼻をひくつかせている。吠える気だろうか?
吠えてみろ……ポケットの鋏をにぎりしめ……そんなことをしたら、こいつで、脳天に穴をあけてやるぞ!
うなり声一つあげず、黙ってこちらをにらみ返す。
野犬だろうか?……つやのない、すり切れた毛……皮膚病のあとらしい、鼻面のかさぶた……
吠えない犬は、危険だという……畜生、なにか食い物を用意してくればよかった……
そうだ、食い物といえば、青酸カリを忘れて来てしまったっけ……
まあいい、女も、あの隠し場所には、まさか気がつくまい……
小さく口笛を吹き、手を差しのべて、犬の気を引いてみる……
返事のかわりに、燻製の鰊のような、薄い唇をめくり上げ、隙間に砂がつまった黄色い牙をむきだした……
こいつ、まさか、おれに食欲を感じたりしているのじゃあるまいな?
……いやに太い喉をしていやがる……一と突きで、うまく、くたばってくれればいいのだが……

急に、犬は視線をそらせ、うなじを下げると、何事もなかったように、のっそり立去って行った。
どうやらおれの殺気に負けたらしい。
野犬をにらみ負かすとは、おれの気魄も、ちょっとしたものだ。
ずるずる、くぼみの中にすべり込むと、そのまま斜面にもたれかかった。
風からさえぎられたせいか、ほっと呼吸までが楽になる。
犬は、風によろけながら、飛砂の向うに消えて行った。
野犬がすみかにしていたということは、とりもなおさず、人間が近よらないことの保証でもあるだろう……
犬のやつが、農協の出張所に告げ口でもしないかぎり、まずは安全とみてよさそうだ。
じわじわと滲みはじめた汗さえ、いまはかえって気持がいい。
静かだ!……まるでゼラチンの底に閉じこめられているようだ……
いつ爆発するかも分らない、時限爆弾を抱えこんでいながら、それが目覚し時計のテンプの音ほども気にならない……
メビウスの輪なら、たちどころに状況分析して、言うところだろう……


149 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:34:38 ID:???


「そいつは、君、典型的な、手段の目的化による鎮痛作用ってやつだよ。」

「まったくだ、」
彼は手もなく同感する。
「しかし、手段だ、目的だと、そういちいち区別しなけりゃならないものだろうかねえ?
 ……必要に応じて、適当に使いわけたって……」

「そうはいかないさ。まさか時間を縦に暮したりするわけにはいかないだろう?
時間ってやつは、本来横に流れるものと相場がきまっているんだ。」

「そいつを縦に暮してみたら、どういうことになる?」

「ミイラになるにきまっているじゃないか!」

男は、くすくす笑って、靴をぬいだ。たしかに時間は横に流れているらしい。
靴の中にたまった汗と砂とが、我慢できなくなったのだ。
靴下もぬいで、指のまたをひろげ、風を当ててやる。
それにしても、動物のすみかというのは、どうしてこう嫌な臭いがするのだろう?
……花のような匂いの動物がいたって、一向に差支えないと思うのだが……
いや、これは、おれの足の臭いだ……
そう思ってみると、急に親しみがわいてくるのだから、おかしなものだ……
誰だったか、自分の耳垢の味ほどうまいものはない、本場もののチーズ以上だなどと言っていたやつがいたっけ……
それほどではないにしても、腐った虫歯の臭いなどには、たしかにいくら嗅いでも嗅ぎあきない蠱惑的なものがある……


150 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:37:14 ID:???


小屋の入口は、半分以上砂にふさがれていて、ほとんど見透しがきかなかった。
古井戸の跡だろうか?
砂を防ぐためには、小屋掛けの井戸があっても不思議はないわけだ。
もっとも、こんなところから水が出るとは思えないが……
のぞこうとして、こんどは本物の犬の体臭をあびせかけられた。
動物の体臭というやつは、たしかに哲学以上の存在だ。朝鮮人の精神は好きだが、
あの臭いだけは我慢できないと言った、社会主義者がいたっけ……
それにしても、時間が横に流れているものなら、さっと流れて見せてくれればいい!
……期待と、不安……解放感と、あせり……こんなふうにじらされるのが、いちばんやりきれない。
顔に手拭をかけて、仰向けに倒れ込んだ。
こいつは、おれの臭いだが、おせじにも上等とは言いかねる。

もぞもぞと、何かが足の甲を這っている……ハンミョウ属なら、あんな歩き方はしっこない……
どうせ、貧弱な六本足でやっと体重を引きずっている、ゴミムシかなんぞに決っている……
男はもう、たしかめてみる気さえしなかった。
もっとも、それが仮に、ハンミョウ属だったとしても、果して追い掛ける気になっていたかどうかは、疑わしい。
おそらく、彼自身にも、確答はできなかったにちがいない。


151 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:39:46 ID:???


風で、手拭がめくれ上った。
眼の端で、砂丘の稜線の一つが、金色に輝いた。
なだらかに盛上ってきた局面が、その黄金の栓を境に、急角度で影のなかにすべりこむ。
その空間の構成には、異様に緊迫したものがあり、男は妖しいまでの人恋しさに、ぞっとしてしまった。――

(さよう。まったくロマンチックな風景です……
 こういう風景こそ、最近の若い観光客には、大もてなんですな……大した優良株だ……
 その道の経験者として、将来の発展は、絶対に保証しますよ。
 ただし、そのためにも、まず宣伝!
 宣伝しなけりゃ、蠅だってよりつきやしません……
 知らないってのは、無いのと同じことですからな……とんだ宝の持ち腐れです。
 では、どうすればよろしいか?
 ……腕のいい写真家に頼んで、きれいな、楽しい、絵葉書をこさえます。
 昔は、名所があってから、後で絵葉書が出来たもんだ……
 ところが今じゃ、まず絵葉書……それから名所が出来るってのが、常識なんですね。
 ここに、二、三、見本を持って参りましたから、とにかくそいつをご覧いただくことにして)

――罠にかけたつもりで、逆に罠にかかり、そのまま病死してしまった、哀れな絵葉書屋のセールスマン。
だが、その絵葉書屋が、からっきしの舌先三寸だったとも思えないのだ……
あんがい本気で、ここの風景に夢を托し、事業を賭けていたのかもしれない……
一体、この美しさの正体は、何なのだろう?
……自然のもつ、物理的な規律や、正確さのためか、
それとも逆に、あくまでも人間の理解を拒みつづけようとする、その無慈悲さのせいなのか?


152 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:42:04 ID:???


もっとも、昨日までだったら、そんな風景のことなど、考えただけでも胸がむかついたにちがいない。
事実、絵葉書屋などという、ぺてん師になら、まさにおあつらえの穴だと、つい腹立ちまぎれに思ったものだった。

とは言え、あの穴の生活と、この風景とを、対立させて考えなければならない理由はどこにもない。
美しい風景が、人間に寛容である必要など、どこにもありはしないのだ。
けっきょく、砂を定着の拒絶だと考えた、おれの出発点に、さして狂いはなかったことになる。
1/8m.m.の流動……状態がそのまま、存在である世界……
この美しさは、とりもなおさず、死の領土に属するものなのだ。
巨大な破壊力や、廃墟の荘厳に通ずる、死の美しさなのだ。
……いや、ちょっと待ってくれ。
だからと言って、おれが往復切符を握って離さなかったことを、云々されたりしたのでは、立つ瀬がない。
猛獣映画や、戦争映画のたのしみは、たとえ心臓病が悪化するほど、真に迫ったものであったとしても、
ドアを開ければすぐそこに、昨日のつづきの今日が待っていてくれるからなのだ……
映画館に、実弾をこめた銃を担いで行ったりする馬鹿が、どこにいるものか……
沙漠のなかで、風景に生活を調和させられるのは、水がわりに自分の小便を飲むという特別な鼠か、
腐肉を餌にしている昆虫か、せいぜいまともなところで、片道切符しか知らない、遊牧の民ぐらいのものである。
切符は、もともと片道だけのものと思い込んでいれば、岩にはりついた牡蠣を真似て、
砂にへばりついてやろうなどという、無駄な試みもせずにすむ。
もっとも、その遊牧も、今では畜産業と、呼び名まで変ってしまったが……


153 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:44:05 ID:???


そうだ、女に、この風景の話をしてやればよかったのかもしれない……
絶対に往復切符が通用する余地のない、砂の歌を、多少音程が狂ってもかまわないから、
聞かせてやっていればよかったのかもしれない……
だのに、おれのしたことと言ったら、たかだか、別の生活という餌で女を釣り上げてやろうという、
下手な色事師の真似事にすぎなかった。
精神までが、砂の壁に鼻面を抑えこまれて、紙袋をかぶった猫同様になっていたのだ。

稜線の光が、ふっと消えた……風景全体が、みるみる闇に沈んでいく。
いつか、風もおさまり、この分だと、靄も、また勢いをとり戻しはじめているにちがいない。
この急な日暮れも、多分そのせいなのだろう。

さあ、出掛けよう。


154 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:45:42 ID:???


モッコ搬びの連中が、仕事にかかる前に、とにかく部落を、通り抜けてしまわなければならない。
これまでの経験からすれば、あと約一時間の猶予はある。安全を期して、四十五分とみておこう。
岬の延長が、部落を抱き込むように、次第に奥に曲りこみ、東側の入江まで達して、
部落の通路を狭い一本の道にしぼっているわけだが、その辺になれば、もう岬の屏風岩も終って、
せいぜいが化粧剥げした、小高い砂丘といった程度のものらしい。
靄ににじんだ部落の明りを右に見て、まっすぐ進めば、ほぼそのあたりに出る見当である。
距離にして、約二キロ……その先は、もう部落の外だし、ぽつぽつ、砂まじりの落花生畠があるくらいで、
家らしいものがあった憶えはない。
丘さえ越えてしまえば、あとは道を通ることにしてもいいだろう。
一応、赤土を下地にした道だったし、力いっぱい駈け出せば、国道までざっと十五分。
そこまで行きつけば、もうこっちのものだ。
バスも走っていれば、人間の正気もはしっている……

そこで、部落を抜け出すまでの待ち時間は、差し引き三十分という計算だ。
この砂地で、時速四キロは、かなりの難行である。
砂時の辛さは、足がめりこむことより、踏み切るときの、力の無駄にある。
駈け足などは、浪費もはなはだしい。
むしろ踏みしめるような大股のほうが、能率的なくらいである。
ただ、砂は、力を吸収した埋め合わせに、足音のほうも吸い取ってくれる。
足音を気にしないですむところが、取柄といえばまあ取柄だろう。


155 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:47:21 ID:???


ほら、足もとに気をつけろ!
……ころんでも大したことはないと、たかをくくってしまうせいか、
ほんのちょっとした隆起やくぼみにも、すぐにつまずいて、膝をついてしまう……
膝をつくだけなら、かまわないが、万一、また深い砂の崖にでも出っくわしたら、どうするつもりなのだ!

あたりは暗く、砂はどこまでも不規則なうねりをくりかえす。
うねりのなかに、またうねりがあり、その小さなうねりが、さらに幾つもの小刻みな起伏に分割されているのだ。
目標に定めた部落の明りも、はてしないうねりの峰にさえぎられてめったに視界に入ってこない。
そのあいだ、勘にたよって、修正しながら進むのだが、いつも呆れるほどの誤差があった。
おそらく、無意識のうちに明りを求めて、つい高いところに足がむいてしまうせいなのだろう。

そら、また違ってしまった!
もっと左だ!……このまま行ったら、まっすぐ部落のなかに入りこんでしまう……
もっとも小山みたいな丘を、三つも越えて来たっていうのに、明りはほとんど近づいていなかった……
まるで、同じところを、どうどう巡りしているようである。
汗が眼に流れこむ……一と足休んで、肩で息をつく。


156 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:48:57 ID:???


女は、もう、目を覚ましただろうか?
……目を覚まして、おれがいなくなったことに気づいたら、どんな反応を示すだろう?
……いや、そうすぐには気づくまい……裏で、用便の最中だぐらいにしか思うまい……
今夜、女は疲れている……暗くなるまで、寝すごしたことに驚いて、あわてて這い起きるのがやっとだろう……
それから、股のあいだが、ばりばりに乾き、まだ微かに痛みの残っている火照りに、やっと今朝の狂態を思い出す……
女は、ランプを手さぐりながら、はにかみ笑いを浮べることだろう……

だからといって、その笑いに、おれが義務や責任を感じなければならないという法はない。
おれの脱出によって、女が失うものはと言えば、たかだかラジオと鏡でおきかえられる。
生活の破片にしかすぎないはずだ。


157 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:50:58 ID:???


「本当に、助かりますよ……一人のときと違って、朝もゆっくり出来るし、仕事じまいも、二時間は早くなったでしょう?
 ……行くゆくは、組合にたのんで、なにか内職でも世話してもらおうと思って……それで、貯金してね……
 そうすれば、いまに、鏡や、ラジオなんかも、買えるんじゃないかと思って……」

(ラジオと、鏡……ラジオと、鏡……)
――まるで、人間の全生活を、その二つだけで組立てられると言わんばかりの執念である。
なるほど、ラジオも、鏡も、他人とのあいだを結ぶ通路という点では、似通った性格をもっている。
あるいは人間存在の根本にかかわる欲望なのかもしれない。
いいとも、向うに着いたら、ラジオくらいすぐに買って送ってやるよ。
あり金をはたいて、最高級のトランジスターでも買ってやる。

しかし、鏡のほうは、ちょっと受け合いかねるな。鏡はここでは、消耗品だ……
半年目には、裏の水銀膜が浮き上がり、一年たつと、たえず空中を流れている砂の摩擦で、表のガラスまでが曇ってしまう……
いまの鏡と同様、片眼をうつせば鼻がかすみ、鼻をうつせば、口がうつらないといったことになるわけだ。
いや、なにも、もちの点だけを問題にしているわけじゃない。
ラジオとちがって、鏡が通路になるためには、まず見てくれる他人の存在が前提にならなければなるまい。
もはや、見てもらえる機会さえないものに、いまさら鏡がなんの役にたつ?

そら、ぎくりとして、耳をそばだてるがいい!
……大便にしては、あまり時間がかかりすぎはしまいか……
そのとおり、奴はまんまと、逃げおおせてしまったのだ……
わめき立てるだろうか?……呆然自失するだろうか?……それとも、ちょっぴり、涙ぐむだけだろうか?……
どっちにしても、おうおれの責任じゃない……鏡の必要を拒んだのは、おまえ自身だったのだから。


158 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:53:35 ID:???


……これも、何かで読んだ話だが……ほら、最近は、大変な家出ばやりだろう?
……生活環境の悪さのせいかと思っていたら、どうも、そればかりじゃないらしいんだなあ……
なんでも、中程度の農家で、新しく土地を買い足したり、機械を入れたりで、
経営もまあまあだった家の長男が、ひょっこり家出してしまったって言うんだよ。
大人しい、仕事熱心な青年だったし、さっぱり原因が分らなくて、両親も頭をかかえこんでしまったらしい。
農村じゃ、世間体だとか、つき合いの義理ってこともあるし、跡取りの家出ともなれば、よくよくの事情がなけりゃねえ……

「そうですよ……義理は、なんたって、義理ですから……」

「そこで、親戚のものが、わざわざ出掛けて行って、話を聞いてみたらしい。
 ところが、実際にも、女と同棲しているわけじゃなし、道楽や借金に追いまわされている様子もなし、
 具体的な動機は、何一つないって言うんだな。
 それじゃ一体、どういうわけなんだ?……すると、青年の言い分ってのが、これまたさっぱり要領を得ない……
 ただ、これ以上我慢できないという以外、自分でもうまく説明できないらしいんだ。」

「本当に、世間には、向う見ずな人がいますからねえ……」


159 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 00:57:22 ID:???


「しかし、考えてみれば、その青年の気持も分らないじゃない。
 百姓ってやつは、働いて土地をふやせば、それだけまた仕事の量も多くなる……
 結局、苦労に限りはないし、あげくに手に入れられるのは、もっとよけいに苦労できるという可能性だけだ……
 もっとも、百姓の場合は、米や芋の収穫というお返しがあるだけ、まだましってものかな?
 それにくらべると、この砂掻きときたら、まるで賽の河原の石積みじゃないか!」

「賽の河原って、あれ、しまいに何うなるんでしょうねえ?」

「どうもなりゃしないさ……どうにもならないから、地獄の罰なんじゃないか!」

「それで、その跡取り息子のほうは、それからどうなりました?」

「どうって、そりゃ、あらかじめ計画的にやったことだし、就職先ぐらい、前もって決めておいただろうさ。」

「それで……?」

「だから、そこに勤めたんだろう……」

「それで、その後……」

「その後って、まあ、給料日になれば給金をもらうだろうし、日曜日には、シャツを着替えて、映画にでも行ったりしただろうな。」

「それから?」

「そんなこと、直接本人に聞いてみなけりゃ、分りゃしないよ!」

「やっぱり、貯金がたまったら、ラジオを買ったりしたんでしょうかねえ……」


160 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:03:07 ID:???


……やれやれやっと登り切ったと思ったのに、まだ途中か……いや、ちがう……
ここはもう平地だ……それじゃ、目標の明りは、どこに行ってしまったのだろう?
……信じられない気持で、しばらく前進をつづけてみる……たしかにここは、かなりの丘の稜線の上らしい……
それで、明りが見えないというのは、一体どうしたわけか?
不吉な予感に、足もとがすくんだ。
どうやら、さっきの横着が失敗の原因だったらしい。急な坂を、方向もたしかめずに、すべり下りてしまった。
想像した以上に、長い谷間だった。深いばかりでなく、幅も広かった。
おまけに、幾層ものうねりが、その底でややこしく交錯し、それが判断を狂わせてしまったのだろう。
それにしても、まるで明りが見えないというのは、腑に落ちない……
たかだか行動半径一キロ以内の誤差である……迷ったところで、たかが知れている……
気分としては、左に行きたいところだったが、それは部落に対する警戒心のせいかもしれず、
むしろ明りに近づくためには、思いきって右を選ぶべきであるような気もする……
間もなく、靄が晴れて、星も出るころだ……
とにかく、なるべく展望を得るためには、方角を問わず、すこしでも高みへと登って行くのが、結果的には一番の早道だろう……

それにしても、分らない……
女が、あの賽の河原に、なぜあれほど執着しなければならないのか、さっぱりわけが分らない……
「愛郷精神」だとか、義理だとか言っても、それを捨て去るときに、
一緒に失うものがあって、はじめて成り立つことではないか……
いったい彼女が、失う何を持っていたというのだ?


161 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:06:27 ID:???


(ラジオと、鏡……ラジオと、鏡……)

むろん、ラジオは、送ってやるさ……
しかし、結果からみて、かえってなくしたものの方が多かった計算になりはしまいか?
たとえば、おまえが大好きだった、おれに行水をつかわせる儀式も、もうなくなってしまった。
洗濯を犠牲にしてでも、おれの体を拭く水だけは、かならず残しておいてくれたものである。
股のあいだに、湯をとばし、まるで自分がそうされたように、体をよじって、きゅうきゅう笑い声をたてたりする。
もう二度と、あんな笑い声をたてる機会は、なくなってしまったのだ。

いや誤解してはいけない……おれと、おまえとの間には、契約めいたものなど、最初から何もなかった。
契約がない以上、契約破棄ということもありえない。
それに、おれの方にだって、ぜんぜん損失がなかったわけじゃないのだ。
たとえば、あの、堆肥をしぼったような、一週一度の焼酎の臭い……
雨樋のような筋肉がういてみえるおまえの内股の肉のはずみ……
焦げたゴムのような、黒い襞にたまった砂を、唾でしめして指で拭きとる、破廉恥な感触……
そして、それらをいっそう猥褻なものに見せる、あのはにかみ笑い……
その他、合算していけば、かなりの額になるはずである。
信じられないといっても、事実なのだ。
男は、女以上に、ものの破片や断片に耽溺する傾向があるものだ。


162 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:10:29 ID:???


さらに部落の仕打ちのことを考えに入れれば、おれがうけた被害は、とうてい計算しつくせないほどになる。
二人のあいだの、個人的な貸し借りなど、問題ではない。
いずれ徹底的な復讐をしてやるつもりだが……
ただ、どうすれば最大の打撃になるのか、そこのところがまだよく分らない……
最初は、部落全体に火をかけてやるとか、井戸に毒を入れてやるとか、罠を仕掛けて、
責任者を端から穴のなかに引きずり込んでやるとか、そんな直接的な手段で、もっぱら空想に鞭うち、
自分をはげまして来たものだが、いざ実行の機会をあたえられてみると、そう子供っぽいことばかりも言っていられない。
いずれ、個人の暴力など、たかの知れたものだ。やはり、法律に訴えるしか、手はないだろう。
その場合、はたして法律に、この事件の残酷さの意味が、どこまで理解できるものやら、多少の懸念もなくはないが……
まあ、とりあえず、県の警察にだけでも、報告かたがたとどけておくとしよう。

そうだ、それから、最後に、もう一つだけ……

待て!……なんだ、いまの音は?……聞えなくなった……たぶん、そら耳だったのだろう。
それにしても、部落の灯は、一体どこに行ってしまったのか?
いくら地形が複雑だからといっても、ちょっと、ひどすぎる。
想像できることは、おれの舵には左にふれる癖があり、岬の方に迂回しすぎて、部落との間を、
どこかの高い稜線でさえぎられてしまったという場合だ……
ぐずぐずしてはいられない……思いきり、右よりに、方向転換してみてやろう。


163 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:13:48 ID:???


……最後に、もう一つだけ、忘れてほしくないことは、おれの疑問に、
おまえ自身も、ついにはっきりとは答えられなかったという点だ。
たしかあれは、二日つづいた、雨の日だった。
雨が降ると、なだれの威力が増大するかわりに、飛砂の量もずっと減ってくれる。
最初の日に、すこし仕事を余分にしておけば、翌日はずっと楽ができた。
久しぶりのくつろぎを利用して、おれは執念深く、追求してみることにした。
おまえを、ここに引きとめておくものの、正体を、皮膚病のかさぶたを剥ぐような根気で、つつきまわすことにした。
われながら驚くほどの、ねばりようだった。
はじめは、はしゃいで、裸を雨にうたせたりしていたおまえも、ついに追いつめられて、泣きだしてしまった。
あげくに、ここを離れられない理由は、ほかでもない、以前台風の日に、
家畜小屋と一緒に埋められてしまった、亭主と子供の、骨のせいだなどと言いだす。
なるほど、それならば、納得もいく。
すこぶる、実際的だったし、今までおれに言いづらかった気持も、分らなくはない。
とにかくそのまま信じることにした。
早速、翌日から、睡眠時間をけずって、骨さがしに当てることにした。


164 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 01:19:46 ID:???


おまえが指示した場所を、二日にわたって、掘りつづけた。
だが、骨どころか、小屋の破片一つ出て来やしない。
するとおまえは、ちがった場所を示した。そこでも、やはり、何も見つからなかった。さらに、指定が変更される。
こんなふうにして、場所で五回、日数にして九日にわたる無駄掘りのあげくに、
おまえはまた泣き出しそうな顔で、弁解しはじめた。
どうやら家の場所が変ってしまったらしい、絶え間ない砂の圧力で、母屋自身の位置も、角度も、
ずれてしまったのかもしれず、ことによると穴自体も、もとの位置から移動したのかもしれないというわけだ。
家畜小屋も、亭主と子供の骨も、隣との地境いの、厚い砂の壁の下になっているのかもしれない
し、場合によっては、そっくり隣の庭に入りこんでしまった可能性もあるという。
たしかに、理屈としては、ありうることだ。
だが、おまえの、その不幸そうな、うちひしがれた表情は、嘘を言っている、というよりは、
はじめから教えるつもりなど、少しもなかったことを、あからさまに示していた。
骨も、要するに、口実にすぎなかったのだ。おれにはもう、腹を立てる気力もなかった。
そして、それ以上、貸し借りにこだわるのはやめにした。そのことは、おまえだって、
納得しないわけにはいかないと思うのだが……

何んだ、これは!……男はうろたえた、頭から地面に、つっ伏した……
あまりの唐突さに、すぐには事情が飲み込めない……いきなり、部落の全景が、目の前にあったのだ!
……部落に接した砂丘の峰に向って、直角に歩いて来ていたらしい……
視界がひらけたとたんに、彼は部落の中に入りこんでしまっていた……
判断をめぐらすゆとりもなく、すぐ間近の粗朶垣のあたりから、敵意をこめた犬のうなり声がした。
つづいて、一匹、また一匹と、すさまじい連鎖反応をおこして、ひろがりはじめる。
闇の中で、カタカタと、白い牙の群が舞いながら、迫ってくる。
男は、鋏つきのロープをつかみ出し、はね上って、駈け出した。
もはや選択の余地はない。あとは、村の出口に向って、最短コースを走るだけだ!

165 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 03:46:16 ID:???
【ウンこずタッパー】勤務先からうんこ売りをしていた大学職員(女)2【函館より産直】
http://anime.2ch.net/test/read.cgi/news/1166696010/

166 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 08:13:45 ID:???


月はまだ出ていなかったが、月明りで、ぼんやりあたりが濃淡のむらをつくり、
むろん、遠くの稜線などは、はっきり見分けることができた。
どうやら、岬の先端あたりに、向っているらしい。
よくよく、おれの舵は、左にふれるくせがある。向きを変えようとして、はっとした。
それは、とりもなおさず、追手との距離をちぢめることだ。
はじめて、追手の意図に気づいて、愕然とする。

一見、不器用そうにみえた、彼等の追跡は、じつは、彼を海の方に追いつめようという、きわめて計画的なものだったのだ。
知らずに、彼は、誘導されていた。
考えてみれば、あの懐中電燈だって、わざわざ自分たちの位置を教えていたようなものである。
つかず、離れずの、この距離のとり方だって、おそらく、計算ずくでのことだったにちがいない。

いや、あきらめるのは、まだ早い。
どこかには、屏風岩をのぼる道もあるということだし、
いざとなれば、海を泳いで、岬の裏側にまわることだって不可能とは言いきれまい。
捕まって、つれ戻されることを思えば、いまさら迷ったりする余地はないはずだ。

長いゆるやかな上り坂につづく、急な下り坂……急な上り坂につづく、長いゆるやかな下し坂……
一と足、一と足を、ビーズ玉をつなぐように、つぎ足し重ねていく、忍耐の連続だ。
いつか半鐘は鳴りやんでいる。風も、海鳴りも、耳鳴りの音も、もう区別がつかない。
坂を一つ這い上ったところで、振り向いてみた。追手の明りは消えていた。
一呼吸、二呼吸まで待ってみたが、やはり現われない。

うまく、逃げきれたのだろうか?


167 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 08:35:03 ID:???


期待のたかぶりが、心臓の圧力をあげ、そうだとすれば、なおさら、休むわけにはいかない
……さあ、もう一と息、次の丘までつっ走れ!

急に、走りづらくなった。やたらに、足が重い。この足の重さは、尋常でない。
ただ、そう感じているだけでなく、実際に、足がぬかりはじめているのだった。
雪のようだ、と思ったときにはすでに、脛の半分くらいまで、めり込んでしまっている。
驚いて、抜きとろうと、ふんばった反対側の足が、こんどは膝まで、ずぶずぶともぐってしまった。
なんていうことだ……人食い砂と言うようなものがあることを、話には聞いたことがあるが……
なんとか、抜け出そうと、もがいてみるのだが、もがけばもがくほど、ますます深く、めり込んで行く。
両足とも、すでに、太股のあたりまで埋まってしまった。

さてはこれが、罠だったのか!……ねらいは海などではなく、ここだったのだ!
……捕えたりする手間はかけずに、いきなり抹殺してしまう腹だったのだ!……まさしく、抹殺である……
手品師のハンカチだって、これほど鮮やかにはやれはしまい……
一と風吹けば、なにもかもが、消えて無くなる……
コンクール一等賞の警察犬にだって、もう歯も立ちはしないのだ……
いまさら、奴等が、のこのこ姿を現わしたりするはずがないじゃないか!
……何も見なかったし、何も聞かなかった……馬鹿な他所者が一人、勝手に迷い込んで、消えていった……
奴等は、少しも手を汚さずに、すませられるのだ……

沈んで行く……沈んで行く……もうじき、腰骨を越してしまう……一体、どうすりゃいいんだ!
……接触面を広くすれば、それだけ面積当りの体重が軽くなり、多少でも沈下をふせげるかもしれない
……両手をひろげて、がばっと伏せる……だが、もう、手遅れだった。
腹ばいになると言っても、下半身は、すでに垂直に固定されてしまっているのだ。
ただでさえ、くたびれている腰を、そういつまでも、直角に保ったりしているわけにはいかない。
よほど訓練された軽業師ででもないかぎり、こんな姿勢には、いずれ限度がくる。


168 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 08:43:27 ID:???


なんという暗さだろう……世界中が、眼を閉じ、耳をふさいでいる……
おれが死にかけているというのに、誰も、振り向いてくれようとさえしないのだ!
唾の奥で、ひくついていた恐怖が、いきなり炸裂した。男は、だらりと口を開けて、けもののような叫び声をあげていた。

「助けてくれえ!」

きまり文句!……そう、きまり文句で、結構……死にぎわに、個性なんぞが、何んの役に立つ。
型で抜いた駄菓子の生き方でいいから、とにかく生きたいんだ!
……いまに、胸まで埋まり、顎まで埋まり、鼻の下すれすれまでやって来て……
やめてくれ! もう、沢山だ。

「たのむ、助けてくれ!……どんなことでも、約束する!……おねがいだから、助けてくれよ!……おねがいだ!」

ついに男は、泣き出してしまった。
それでもはじめは、一応自制のきいた、嗚咽だったのが、やがて、手離しの号泣に変り、
男はその浅ましい崩壊感に、おぞけをふるいながらも、観念した。
誰も見ていないのだから、仕方がない……
実際こんなことが、なんの手続もなしに行われるなんて、あまりに不公平すぎる……
死刑囚だって、死ねば、あとに記録を残してもらえるのだ……
いくらだって、吠え立ててやるとも……誰も見ていないのが、悪いのだ!


169 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 08:50:10 ID:???


だから、いきなり後ろから声をかけられたときの驚きは、ひとしお無惨だった。
完全にうちのめされた。
屈辱を恥じ入る気持さえ、トンボの羽に火をつけたような、あっけなさで、ちりちりと灰になってしまった。

「ほら、こいつに、つかまっていな!」

長い板切れがすべって来て、脇腹に当った。光の輪が、宙を切って、その板切れにとまった。
彼は、不自由な上半身をねじまげながら、背後の気配に、哀願した。

「すみません、このロープで、引っ張って下さい……」

「まさか、あんた、根っこを、引っこ抜くようなわけにはいかないよ……」

どっと、後ろで、笑い声がおこる。はっきりはしないが、四、五人はいるらしい。

「いま、スコップを取りに行っているところだから、もうちょっとの辛抱だ……
 その板っ切れに、肘をあてがっていりゃ、心配はいらんから……」

言われたとおりに、肘をつき、頭をかかえこんだ。汗で、髪の毛が、ぐっしょり濡れている。
ただ、一刻も早く、恥知らずな状態にけりをつけてほしいという以外、なんの感激も湧いてこなかった。


170 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 08:54:26 ID:???


「しかし、なんだよ……
 わたしらが、あとを追って来たから、いいようなものの、この辺は、あんた、塩あんこと言って、
 犬も近づかんようなところだからねえ……まったく、あぶないとこだった……
 知らずにまぎれこんで、とり返しのつかんようになった者が、どれだけいたか分りゃしない……
 ちょうど、山かげになっておって、吹きだまりになるんだなあ……冬になると、雪が吹きだまる……
 その上に、砂が吹きだまる……
 また雪が吹きだまるといった具合で、約百年も、薄焼煎餅を重ねたみたいなあんばいになっておるんだと……
 こりゃ、町の学校に行っておった、元の組合長んとこの、次男坊の話だがね……面白いもんだねえ……
 底の方を、掘り返してみたら、何か、金目のものが出てくるかも分らんなあ……」

いったい、なんのつもりだ!
いまさら、そんな、白々しい、罪のないような話しっぷりはやめてもらいたい……
もっと、歯をむきだしにした文句でも並べてくれたほうが、ずっとこの場にはふさわしい……
さもなければ、せめて、このぼろ屑のあきらめのなかに、そっとしておいてもらいたいものである……

やっと、背後がざわつき、スコップが到着したらしい。
靴の底に、板を履いた、男が三人、よたよたと、遠まきに彼のまわりを掘り返しはじめる。
砂は、ぽくぽく、層になってめくりとられた。
夢も、絶望も、恥も、外聞も、その砂に埋もれて、消えてしまった。
男たちの手が、肩にかかったときも、だから、びくりともしなかった。
命ぜられれば、ズボンを下ろして、見ている前で、糞でもたれてみせただろう。
空が明るくなり、間もなく月が出るらしい。
女は、どんな顔をして、おれを迎えるだろうか?
……どんな顔でもかまいやしない……今なら、殴られ屋にだって、なれそうだ。


171 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:05:53 ID:???


女は、その暗がりのなかで、暗がりよりももっと暗かった。
女につきそわれて、寝床のほうに足をはこびながらも、なぜか彼には女がまるで見えないのだ。
いや、女だけでなく、すべての輪廓がぼやけてしまっていた。
ふとんに、倒れこんでからでも、気持のうえでは、まだせっせと砂の上を駈けていたりする……
そしてそのまま、夢の中でも、まだ走りつづけている……そのくせ、睡りは浅かった。
モッコの往き来する音も、犬の遠吠えも、そっくり記憶に残っている。
女が、夜食に戻って、枕元のランプを点けたのも、ちゃんと知っていた。
途中で一度、水を飲みに起きると、それっきり目が覚めてしまった。
そうかと言って、まだ女を手伝いに行くほどの気力はない。


172 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:21:42 ID:???


女のすすり泣きで、目を覚ました。

「何を泣いているんだ?」

女は、狼狽をかくそうとして、あわてて立上った。

「すみません……お茶をいれようと思って……」

その水っぽい鼻声は、男を、まぶしがらせた。
かがみ込んで、コンロの火をいじっている、女の後ろ姿は、変におどおどとしていて、
その意味を理解するのに、しばらく手間どった。
黴だらけの本のページを、むりにめくっているような、まどろこしさだった。
しかし、とにかく、ページをめくることは出来た。急に自分が、いとおしいほど、哀れなものに見えてきた。

「失敗したよ……」

「はい……」

「まったく、あっさり、失敗してしまったもんだな。」

「でも、巧くいった人なんて、いないんですよ……まだ、いっぺんも……」

女は、うるんだ声で、しかし、まるで男の失敗を弁護するような、力がこめられている。
なんていうみじめなやさしさだろう。
このやさしさが、酬いられないのでは、あまりに不公平すぎはしまいか?


173 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:26:20 ID:???


「しかし、残念だったよ……成功したら、すぐにラジオを買って、送ってやろうと思っていたのに……」

「ラジオ?」

「ずっと、そう、思いつづけていたんだ。」

「いいんですよ、そんな……」
女は、うろたえ、言いわけがましく、
「うんと、内職すれば、ここでも買えます……月賦だったら、頭金だけでいいんでしょう?」

「そうだね、まあ、月賦だったら……」

「沸いたら、体を拭きましょうか?」

ふと、夜明けの色の悲しみが、こみ上げてくる……互いに傷口を舐め合うのもいいだろう。
しかし、永久になおらない傷を、永久に舐めあっていたら、しまいに舌が磨滅してしまいはしないだろうか?


174 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:31:38 ID:???


「納得がいかなかったんだ……まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないだろうが……
 しかし、あの生活や、この生活があって、向うの方が、ちょっぴりましに見えたりする……
 このまま暮していって、それで何うなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……
 どの生活だろうと、そんなこと、分りっこないに決っているんだけどね……
 まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……」

「洗いましょう……」

はげますように女が言った。しめった、しびれるような声だった。
男は、ゆっくり、シャツのボタンを外し、ズボンを脱ぎはじめる。砂が、筋肉の内側にまで、詰ってしまったようだった。
(あいつ、今ごろ、何をしているだろう?)……昨日までのことが、何年も昔のことのように感じられた。

女が、手拭に、石鹸をつけはじめた。


175 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:34:24 ID:???


十月――

日中はまだ、未練がましい夏の足踏みが、裸足では五分と辛抱できないほど砂を焦がしていても、陽が沈めば、
隙間だらけの部屋の壁が、さすがに肌寒く感じられ、湿ったいろりの灰を乾す仕事を、いやおうなしにせかされたりする。
その気温の変化で、風のない朝夕など、霧が、にごった川のようになった。

ある日、男は裏の空地に、鴉をとらえるための罠をしかけてみた。
それを《希望》と名づけることにした。

罠の仕掛けは、砂の性質を利用した、ごく簡単なものである。
やや深めに掘った穴の底に、木の桶を埋め、小さめの蓋を、三ヵ所ばかり、マッチ棒ほどの楔で止めてある。
その楔のそれぞれに、細い糸が結んである。
糸は、蓋の中心の孔を通して、外の針金と連絡している。
針金の先には、餌の干魚が、つきさしてある。
さて、その全体が、慎重に砂でかくされ、外から見れば、砂の摺鉢の底に、餌だけが見えているという仕掛けなのだ。
鴉が、餌をくわえるや、たちまち楔が外れ、蓋が落ち、同時にまわりの砂がどっと崩れて、鴉はすっぽり生き埋めになる……
二、三度、実験してみた限りでは、まず申し分なかった……
羽ばたく暇もなく、ずるずると砂に吸い込まれていく哀れな鴉の姿が、目に見えるようだった。

……そして、あわよくば、手紙を書いて、鴉の脚にむすび……いや、むろん、あわよくばの話である……
第一、逃がしてやった鴉が、二度と人間の手に捕まるかどうか、可能性は、ごく薄い……
それに、どこに飛んで行くかも、知れたものじゃない……大体、鴉の行動半径は、ごく限られたものである……
もっといけないことは、おれの鴉が逃げたことと、鴉の群のなかに一羽、足に白い紙切れをつけたのがいることと、
この二つを結びつければ、部落の連中にも、こちらの意図がそっくり筒抜けになってしまうことだ……
せっかくつみ重ねてきた、これまでの忍耐が、まるで無駄になってしまうことになる……


176 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:37:30 ID:???


脱出に失敗してからというもの、男はひどく慎重になっていた。
冬眠しているくらいのつもりで、穴のなかの生活に順応し、まず部落の警戒を解くことだけに専念した。
同じ図形の反復は、有効な保護色であるという。
生活の単純な反復のなかに融けこめば、いつかは彼等の意識から、消えさることも不可能ではないだろう。

反復にはまた、べつの効用もあった。
たとえば女は、この二ヵ月あまり、くる日もくる日も糸にビーズ玉をとおす内職に、
顔が腫れぼったくむくんで見えるほどの、うち込みようだ。
長めの針先が、紙函の底にひろげた鉄色の粒を、ひょいひょい、踊るようにして拾っていく。
間もなく貯金が、二千円になる予定だった。
この調子で、あと半月もつづければ、なんとかラジオの頭金にはなりそうだ。

その針の踊りには、そこに地球の中心を感じさせるほどの、重みがあった。
反復は、現在に彩色をほどこし、その手触りを、確実なものにしてくれる。
そこで男も負けずに、ことさら単調な手仕事にせいを出すことにした。
天井裏の砂はらいや、米をふるいにかける仕事や、洗濯などは、すでに男の主な日課になっている。
はじめてみると、すくなくもその間は、鼻歌まじりに時がすぎ去ってしまってくれる。
睡眠中にかぶる、ビニール製の小型天幕の考案や、焼いた砂のなかに魚をうめて蒸し焼きにする工夫なども、
けっこう時を過しがいのあるものにしてくれた。


177 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:41:25 ID:???


気持を乱されないために、あれ以来、新聞もなるべく、読まないですませられるように努力した。
一週間も辛抱していると、さほど読みたいとも思わなくなった。
一ヵ月後には、そんなものがあったことさえ、忘れがちだった。
いつか、孤独地獄という銅版画の写真を見て、不思議に思ったことがある。
一人の男が、不安定な姿勢で、宙に浮び、恐怖に眼をひきつらせているのだが、その男をとりまく空間は、虚無どころか、
逆に半透明な亡者たちの影で、身じろぎも出来ないほど、ぎっしり埋めつくされているのだ。
亡者たちは、それぞれの表情で、他を押しのけるようにしながら、絶え間なく男に話しかけている。
どういうわけで、これが孤独地獄なのだろう?
題をつけ違えたのではないかと、その時は思ったりしたものだが、いまならはっきり、理解できる。
孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。

だから、心臓の鼓動だけでは安心できずに、爪をかむ。
脳波のリズムだけでは満足できずに、タバコを吸う。
性交だけでは充足できずに、貧乏ゆすりをする。
呼吸も、歩行も、内臓の蠕動も、毎日の時間割も、七日目ごとの日曜日も、四ヵ月ごとにくりかえされる学期末のテストも、
彼を安心させるどころか、かえってあらたな反復にかりたてる結果になってしまうのだ。
やがて、日を追うてタバコの量が増え、爪垢をためた女と、やたらに人目につかない場所を探してまわる、
汗ばんだ夢にうなされたりして、ついに中毒症状を呈しはじめたことに気づいたとき、
ふと、このうえもなく単純な楕円運動の周期に支えられた天空や、1/8m.m.の波長が支配する砂丘地帯を思って、
翻然としたりすることにもなるわけだ。

男が、繰返される砂との闘いや、日課になった手仕事に、あるささやかな充足を感じていたとしても、
かならずしも自虐的とばかりは言いきれない。そうした快癒のしかたがあっても、べつに不思議はないのである。


178 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:47:45 ID:???


しかし、ある朝、きまりの配給品といっしょに、漫画の雑誌が差入れになった。
いや、雑誌自体は、べつにどうということもない。
表紙は破れ、手垢でべろべろになった、おそらく屑屋から仕入れて来たにちがいないような代物で、
不潔という点をのぞけば、まあ、部落の連中が思いつきそうな、心づくしだと言ってもよかった。
問題なのは、それを読んで、胃痙攣をおこしそうなほど、体をよじり、畳を叩いて、笑いころげてしまったということだ。

おおよそ馬鹿気た漫画だった。
何がおかしいのか、説明を求められても、答えようのないほど、無意味で粗雑なただの描きなぐりだった。
ただ、大男を乗せたために、足を折って倒れた馬の、その表情がむしょうにおかしかっただけなのである。
こんな状態にいながら、よくもそんな笑い方が出来たものだ。恥を知るがいい。
現状との馴れ合いにも、限りというものがある。
それはあくまでも手段であって、目的などではなかったはずだ。
冬眠などと、聞えはいいが、どうやら、土竜に化けたっきり、一生日向に顔を出す気をなくしてしまったのではあるまいか。

たしかに、考えてみれば、何時どんなふうにして脱出の機会がやってくるものやら、見とおしらしいものはまるでなかったのだ。
あてもなしに、ただ待つことに馴れ、いよいよ冬ごもりの季節が終ったときには、
まぶしくて外に出られないというようなことだって、じゅうぶんに考えられるわけである。
乞食も三日したらやめられないという……そうした内側からの腐蝕は、意外に早くやってくるものらしい……
そんなふうに、思いつめていながら、例の馬の顔を思い出したとたんに、またあの馬鹿笑いにとりつかれてしまうのだ。
ランプの下で、相変らずビーズ玉細工に余念のない女が、顔をあげて、無邪気な微笑を返してきた。
男は、自分の裏切りに、やりきれない思いで、漫画本を投げだし、外に出た。

179 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:50:29 ID:???


崖の上には、乳色の霧が、大きくうねりながら渦巻いていた。
夜の名残が、まだしみになって残っている影の部分……焼けた金属線のように輝く部分……
光る蒸気の粒になって、流れ動く部分……その陰影の組合わせは、幻想に満ち、際限のない空想をかきたてる。
いくら見ていても、見飽きない。
あらゆる瞬間が、そのたびに、新しい発見にあふれているのだ。
現実的な形体から、まだ見たこともない奇怪な形体にいたるまで、ここで用のたりないものはないだろう。

男は、その渦にむかって、思わず訴えかけている。

180 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:52:38 ID:???


(裁判長閣下、求刑の内容をお教え下さい! 判決の理由をお聞かせ下さい! 被告はこのとおり、起立して待っているのです!)

すると、霧の中から、聞きおぼえのある声が返ってくる。いきなり、受話器をとおしたような、口先だけの含み声で、
(百人に一人なんだってね、結局……)

(なんだって?)

(つまり、日本における精神分裂症患者の数は、百人に一人の率だって言うのさ。)

(それが、一体……?)

(ところが、盗癖を持った者も、やはり百人に一人らしいんだな……)

(一体、なんの話なんです?)

(男色が一パーセントなら、女の同性愛も、当然、一パーセントだ。それから、放火癖が一パーセント、
 酒乱の傾向のあるもの一パーセント、精薄一パーセント、色情狂一パーセント、誇大妄想一パーセント、
 詐欺常習犯一パーセント、不感症一パーセント、テロリスト一パーセント、被害妄想一パーセント……)

(わけの分らん寝言はやめてほしいな。)

(まあ、落着いて聞きなさい。高所恐怖症、先端恐怖症、麻薬中毒、ヒステリー、殺人狂、梅毒、白痴……
 各一パーセントとして、合計二十パーセント……この調子で、異常なケースを、あと八十例、列挙できれば……
 むろん、出来るに決っているが……人間は百パーセント、異常だということが、統計的に証明できたことになる。)

(なにを下らない! 正常という規準がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!)


181 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:56:18 ID:???


(おやおや、人がせっかく、弁護してあげようと思っているのに……)

(弁護だって……?)

(いくら君だって、まさか、自分の有罪を主張したりするつもりじゃないんだろう?)

(あたりまえじゃないか!)

(それなら、もっと素直にふるまってほしいものだね。いくら自分の立場が例外だからって、
 気に病んだりすることは、すこしもありゃしないんだ。
 世間には、色変りの毛虫を救う義務がないと同様、それを裁く権利もないのだから……)

(毛虫?……不法監禁に抗議することが、なんで色変りの毛虫なんだ!)

(いまさらそんな白を切っちゃいけないよ……
 日本のような、典型的多湿温帯地域で、しかも、年間災害の八十七パーセントを水害が占めているような条件において、
 こんな飛砂による被害なんぞ、コンマ以下三桁にもなりはしない。
 サハラ砂漠で、水害対策の特別立法するくらい、ナンセンスな話さ!)

(対策のことなんか言っているんじゃない、おれの苦しみのことだよ……
 沙漠の中だろうと、沼地の中だろうと、不法監禁が、不法だってことに、なんら変りはないはずじゃないか!)
(糞でもくらえだ! おれにだって、もっとましな存在理由があるはずだ!)


182 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 09:58:34 ID:???


(いいのかい、大好物の砂に、そんなけちをつけるようなことを言ったりして?)

(けち……?)

(世間には、十年もかかって、円周率を小数点下何百桁とかまでも計算した人がいるそうだ……
 けっこう……それにはそれなりの存在理由もあったのだろう……
 しかし、君は、そんな存在理由を拒否したからこそ、わざわざこんな所にまでやってきて……)

(そりゃちがう!……砂にだって、まるで正反対の面もあるんだ!……たとえば、その性質を逆に使って、鋳型をつくるだろう?
 ……それから、コンクリートを固めるにも、欠かすことの出来ない原料だし……
 その他、雑菌や雑草を除くのが容易な点を利用して、無菌耕や純粋耕作なんかの研究もされているんだ……
 おまけに、ある種の土壌分解酵素をつかって、砂を土に変えてしまう実験だってあるくらいなんだからね……
 砂と、一口に言ったって……)

(おやおや、とんだ御宗旨変えだ……
 そう、そのたびに主張を変えられたんじゃ、一体どちらを信じていいのやら、分らなくなってしまう。)

(のたれ死にはいやなんだ!)

(いずれ五十歩百歩じゃないのかねえ……釣り落した魚は、いつだって大きなものさ。)

(ちくしょう、おまえは一体、誰なんだ!)


183 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 10:00:42 ID:???


しかし、霧の塊りが大きくうねって崩れおち、相手の声をかき消してしまった。
かわりに、定規をあてたような光線が、何本も束になって、なだれ落ちてきた。
まぶしさにくらみ、こみあげてきた煤のような疲労を、奥歯のあいだでかみ殺す。

鴉が鳴いた。思いついて、裏の《希望》をのぞいてみることにする。
いずれ、成功の気づかいはないにしても、漫画本よりはまだましだ。

餌は、相変らず仕掛けたときのままだった。腐った魚の臭いが、つんと鼻をつく。
《希望》を仕掛けてから、もう二週間以上になるというのに、まるで反応がない。
一体、なにが原因なのだろう?
罠の構造には、自信があった。餌を食ってくれさえすれば、あとは絶対にこっちのものなのだ。
だが、まずその餌に、振向いてももらえないのだから、取りつくしまがない……

それにしても、この《希望》の、どこが一体、それほど連中の気に入らないというのだろう?
怪しいところなど、どこから、どう見ても、これっぽっちもありはしないのに。
鴉というやつは、人間の廃物をあさって、人間の周辺をうろついているだけあって、用心深いことにかけては、とにかく抜群である。
こうなれば、根気くらべでいくしかあるまい。このくぼみの中の、腐った魚が、
連中の意識にとって、完全な反復になってしまうまで……
忍耐そのものは、べつに敗北ではないのだ……むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが、真の敗北の始まりなのだろう。
もともと、《希望》というのも、そのくらいのつもりでつけてやった名前だ。
希望峰というのは、ジブラルタル……ではなくて、ケープタウンだったっけ……

男は、のろのろと足を引きずり、引返す。……また、寝る時間がやってきた。


184 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:03:36 ID:???


女は、男を見ると、思い出したようにランプを吹き消し、戸口の側の、明るい方へ場所を移した。
まだ仕事をつづけるつもりだろうか?
とつぜん、我慢のならない衝動がこみあげてきた。
いきなり、女のまえに立ちはだかると、膝から、ビーズ玉の箱をたたきおとした。
黒い、草の実のようなつぶつぶが、土間に飛びちり、たちまち砂に滲みこんでしまう。
女は、声もあげずに、おびえた表情で、じっと男を見返した。
男の顔から、がっくり表情がはげおちた。
力なくたるんだ唇から、黄色い唾液といっしょに、萎えたうめきがこぼれだした。

「無益だよ……わるあがきじゃないか……まったく無益な話だ……いまに、毒がまわってしまうぞ……」

女はやはり黙ったままだ。糸にとおしおえたガラス玉が、指のあいだで、かすかに揺れている。
飴のしずくのように光っている。
男の足のほうから、細かいふるえが、這い上ってきた。

「そうだとも、いまに、とりかえしのつかないことになってしまうんだ……
 ある日、気がついてみたら、部落の連中は、一人もいなくなって、われわれだけが、あとに残されていて……
 おれには分っている……本当だとも……いまにきっと、そんな目にあわされるんだ……
 裏切りだと気づいたときには、もう手後れで……せっかく、これまで尽してきたことも、ただの笑い話になってしまって……」

女は、にぎりこんだビーズ玉に、じっと目をそそいだまま、弱々しく首をふった。


185 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:06:59 ID:???


「そんなはずはありませんよ。ここから出て行ったからって、誰もがすぐに暮しを立てられるというわけじゃなし……」

「同じことじゃないか。ここにいたって、いずれ、暮しらしい暮しはしちゃいないんだろう?」

「でも、砂がありますから……」

「砂だって?」
男は、歯をくいしばったまま、顎の先で輪をかいた。
「砂なんかが、なんの役に立つ? つらい目をみる以外は、一銭の足しにだってなりゃしないじゃないか!」

「いいえ、売っているんですよ。」

「売る?……そんなものを、誰に売るんだ?」

「やはり、工事場なんかでしょうねえ……コンクリートに混ぜたりするのに……」

「冗談じゃない! こんな、塩っ気の多い砂を、セメントにまぜたりしたら、それこそ大ごとだ。
 第一、違反になるはずだがね、工事規則かなんかで……」

「もちろん、内緒で売っているんでしょう……運賃なんかも、半値ぐらいにして……」

「でたらめもいいとこだ! あとで、ビルの土台や、ダムが、ぼろぼろになったりしたんじゃ、
 半値が只になったところで、間に合いやしないじゃないか!」

ふと女が、咎めるような視線で、さえぎった。
じっと、胸のあたりに目をすえたまま、それまでの受身な態度とは、うって変ったひややかさで、
「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」


186 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:10:20 ID:???


男はたじろいだ。まるで、顔がすげかえられたような、変りようだ。
どうやら、女をとおしてむき出しになった、部落の顔らしい。
それまで部落は、一方的に、刑の執行者のはずだった。
あるいは、意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャクであり、
彼はたまたま、それにひっかかった、哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。
しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ、自分たちの方だということになるのだろう。
当然、外の世界に義理だてしたりするいわれは、何もない。
しかも彼が、その加害者の片割れだとなれば、むき出された牙は、そのまま彼にたいして向けられていたことにもなるわけだ。
自分と、部落との関係を、そんなふうに考えたことは、まだ一度もなかった。
ぎこちなく狼狽してしまったのも、無理はない。
だからと言って、ここで退き下っては、自分の正当性を、みずから放棄してしまうようなものである。

「そりゃ、他人のことなんか、どうでもいいかもしれないさ……」
姿勢をたてなおそうとして、やっきになり、
「しかし、その、インチキ商売で、けっきょく誰かが、しこたまもうけているわけなんだろう?
 ……なにも、そんな連中の肩までもたなくても……」

「いいえ、砂の売り買いは、組合でしているんです。」

「なるほど……それにしても、結局はやはり、特殊だとか、出資額の多寡で……」

「そんな、船をもっていたような旦那衆は、とっくにここを引き払ってしまいましたからねえ……
 私たちなんか、これで、ずいぶんよくしてもらっている方なんですよ……本当に、不公平はありませんね……
 嘘だと思ったら、帳簿を見せてもらえば、いっぺんで分りますから……」


187 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:11:44 ID:???


とりとめもない、混乱と不安のなかで、ついに男は立ちすくんでしまう。
なんだかやたらと心細い。
はっきり敵と味方に塗り分けられていたはずの作戦地図が、
あいまいな中間色で、判じ絵みたいなわけの分らないものに、ぼかされてしまった。
考えてみれば、たかだか漫画本くらいで、なにもあれほどいきり立つ必要はなかったのだ。
おまえが馬鹿笑いしようと、しまいと、そんなことをいちいち気にかけている者など、どこにもいやしないのに……。
こわばった舌の奥で、きれぎれに呟きはじめていた。

「……まあ、そう……むろん、そうさ……そんな、他人のことなんて……そりゃ、そうだよ……」

それから、なんのつながりもなく、自分でも思いがけない言葉が、勝手に口をついて出た。

「そのうち、なにか、植木の鉢でも買おうじゃないか……」
自分でも呆れ、しかしそれ以上にまごついている女の表情に、ますます引込みがつかなくなり、
「なにかこう、息抜きでもないと、殺風景でしょうがないからな……」


188 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:13:21 ID:???


落着きのない声で、やっと女が答える。

「松の木がいいでしょうか?」

「松?……松はきらいだね……なんでもいい、雑草でもいいんだよ……
 岬の方には、だいぶ草も生えていたようだけど、あれはなんていう草だろう?」

「こうぼう麦か、はまぼうふうでしょう。でも、やっぱり、木がいいんじゃないですか?」

「木なら、楓か、桐みたいな、枝が細くて、歯の大きなのがいいね……風で、葉が、ひらひらするようなやつ……」

ひらひらするやつ……逃げようとしても、幹につながれて、逃げられず、ひらひら身もだえている葉っぱの群……

気持とは無関係に、呼吸がうわずってくる。どうやら、泣き出しかけているような感じだった。
いそいで、土間の、ビーズ玉がこぼれたあたりに、かがみこんだ。
不器用な手さばきで、砂の表面を、さぐりはじめる。

女があわてて立上った。

「いいんですよ、私がします……そんなの、ふるいにかければ、すぐだから……」


189 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:18:22 ID:???


ある日、穴のふちにかかった、一とかかえほどもありそうな灰白色の月を正面に見て、
小便の最中、とつぜん男は激しい悪寒におそわれた。
風邪をひいたのだろうか?……いや、この悪寒は、なにかもっとちがった性質のものらしい。
熱が出るまえの悪寒なら、いくらも経験ずみだが、そんなのとはまるでちがっている。
空気に棘も感じなければ、鳥肌が立った様子もない。
ふるえているのは、皮膚の表面よりも、むしろ骨の髄のあたりだ。
水の波紋のように、中心から外にむかって、ゆっくりと輪をかきながら広がっていく。
鈍いうずきが、骨から骨へと共鳴しあって、いっかな止みそうにない。
まるで、錆びたブリキ罐が一つ、風といっしょに飛んできて、カラカラ鳴りながら体の中を通りぬけて行ったようだった。

ふるえを通して、月の表面から、彼は何かを連想しかけている。
まだらに粗い粉をふいた、かさぶたのような手ざわり……ひからびた安物の石鹸……
というよりはむしろ、錆びたアルミの弁当箱……それからさらに、焦点が近づいて、そこに思いがけない像を結ぶのだ。
白い髑髏……万国共通の標識である、毒の紋章……殺虫瓶の底の、粉をふいた白い錠剤……
そう言われてみると、風化した青酸カリの錠剤と月の表面とは、なるほど肌合いがよく似通っていた。
あの瓶は、まだあのまま、入口に近いあがりがまちの下あたりに、埋めたままだったっけ……


190 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:20:50 ID:???


心臓が、割れたピンポン玉のように、ぎくしゃくとはずみだす。
連想するものにこと欠いて、なんだってまた、あんな不吉なものを思い出したりしたのだろう。
そうでなくても、十月の風には、せつないほどの悔恨のひびきがこめられている。
中身がはぜて、からっぽになった種子の莢を、笛のように吹き鳴らしては、飛び去って行く。
月光に淡くくまどられた穴のふちを見上げながら、この焼けつくような感情は、あんがい嫉妬なのかもしれないと思った。
街や、通勤電車や、交差点の信号や、電柱の広告や、ネコの死骸や、タバコを売っている薬屋や、
そうした地上の密度をあらわすすべてに対する嫉妬なのかもしれない。
砂が、板壁や柱の内部を食い荒してしまったように、嫉妬が彼の内部に穴をあけ、
彼をコンロの上の空鍋同様にしてしまったのかもしれない。
空鍋の温度は、急激に上昇する。
やがて、その熱に耐えられなくなり、自分で自分をほうり出してしまわないとも限らないのだ。
希望を云々するまえに、この瞬間をのりきれるかどうかが、まず問題だった。

もっと軽い空気がほしい!
せめて、自分の吐いた息がまじっていない、新鮮な空気がほしい!
一日に一度、たとえ三十分でもいいから、崖にのぼって海を眺めることができたら、どんなにか素晴らしいことだろう。
それくらいは許されてもいいはずだ。
いずれ、部落の警戒は厳重をきわめているのだし、この三ヵ月余りの忠実な仕事ぶりを考慮に入れてもらえば、
ごく当りまえの要求なのではあるまいか。
禁固刑の囚人だって、運動時間の権利ぐらいはもっている。


191 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:32:16 ID:???


「あんた、気が変になったんじゃないの?……きっとそうだよ……気がふれてしまったんだよ!
 ……そんなこと、容赦しやしないからね!……色気違いじゃあるまいし!」

そうだろうか?……おれは気が狂ってしまったのだろうか?
……女の激しさに、たじろぎながらも、男の内部には、むしろねじれたような空白がひろがっていく……
ここまで、踏みつけにされた後で、いまさら体面などが、なんの役に立つだろう?
……見られることに、こだわりがあると言うなら、見る側にだって、同じ程度のこだわりがあるはずだ……
見られることと、見ることとを、それほど区別して考える必要はない……
多少のちがいはあるにしても、おれが消えるための、ほんのちょっとした儀式だと考えればすむことだ……
それに、代償として得られるもののことも、考えてみてほしい……
自由に歩きまわれる地上なのだ!……おれは、この腐った水面に顔を出して、たっぷり息がしたいのだ!


192 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:34:26 ID:???


また、変りばえのしない、砂と夜の何週間かが過ぎさった。

《希望》もいぜんとして、鴉たちから無視されたままだった。
もっとも、餌の干魚は、もう干魚ではなくなった。
鴉に無視されても、バクテリヤからは、さすがに無視されなかったのだ。
ある朝、棒の先でさわってみると、魚は皮だけを残して、黒いねばねばした液体に変ってしまった。
餌をつけかえるついでに、仕掛けの具合も点検してみることにする。砂をとり除き、蓋を開けてみて、驚かされた。
桶の底には、水が溜まっていたのである。
底から十センチほどだったが、透明な、毎日配給される金気の浮いた水などよりは、はるかに純粋に近い水だった。
最近、いつか、雨が降っただろうか?
……いや、すくなくも、ここ半月は降っていない。
すると半月前の、雨が、残っていたのだろうか?
……出来れば、そう考えたいところだったが、困ったことに、この桶は水もりがする。
現に、持上げたとたん、水は見るみる、底からもれはじめた。
その深さに、地下水の線でもない限り、もれて行く分だけが、
絶えず何処からか補給されていたものと考えなければならないわけである。
すくなくも理屈では、そういうことになる。
だが、この乾ききった砂のなかで、一体どこから、そんな水が補給されえたのだろうか?


193 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:36:09 ID:???


男は、次第にこみ上げてくる興奮を、おさえきれない。
考えられる答えは、一つしかなかった。
砂の毛管現象だ。砂の表面は、比熱が高いために、つねに乾燥しているが、
しばらく掘って行くと、下の方はかならずしめっているものである。
表面の蒸発が、地下の水分を吸上げるポンプの作用をしているためにちがいない。
そう考えると、朝夕、砂丘が吐き出す、あの厖大な量の霧も、
壁や柱にこびりついて、材木を腐らせていくあの異常な湿度のことも、すべて容易に説明がつくわけだ。
けっきょく、砂地の乾燥は、単に水の欠乏のせいなどではなく、
むしろ毛管現象による吸飲が、蒸発の速度に追いつけないためにおこることらしい。
言いかえれば、水の補給は、たゆみなく行われていたのである。
ただ、その循環が、ふつうの土地では考えられないほどの速度をもっていた。
そしてたまたま、彼の《希望》が、その循環をどこかで絶ち切ったというわけだ。
おそらく、桶を埋めた位置や、蓋の隙間の具合などが、偶然、吸い上げた水を蒸発させずに、
ちょうど桶の中に流しこむような関係にあったのだろう。
その位置や関係が、どういうものか、まだはっきりとは説明できないが、
研究次第では、もう一度同じことを繰返すことも出来るにちがいない。
さらには、もっと高能率の貯水装置だって、出来ないとは限らないのだ。

もし、この実験に成功すれば、もう水を絶たれて降参したりすることもない。
それどころか、この砂全体がポンプなのだ。
まるで、吸上げポンプの上に坐っているようなものである。
男は、動悸を静めるために、しばらくは、息を殺して、じっとしゃがみこんでいなければならないほどだった。
むろん、まだ、誰にも言ったりする必要はない。
いざというときのための、大事な武器である。


194 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:37:52 ID:???


それでも、笑いが、しぜんに吹きこぼれてくる。
《希望》について、沈黙を守ることはできても、その心のたかぶりを隠すのは、やはりむつかしかった。
男は、寝床の支度をしている女の後ろから、いきなり奇声を発して、腰を抱えこみ、かわされると、
仰向けに倒れたまま、足をばたつかせてなおも笑いつづけた。
特製の軽い空気をつめた紙風船で、胃のあたりをくすぐられているようだった。
顔にかざした手が、そのままふわりと、宙に浮んでしまいそうである。

女も、仕方なしに笑い声をたてたが、調子をあわせただけのことだろう。
男が、砂の隙間をぬって這い上っていく、銀の綿毛のような、見渡すかぎりの水脈の網を思い浮べていたのに対して、
女は、これから始まる性交のことでも考えていたにちがいない。
それでいいのだ。
やっと溺死をまのがれた遭難者でもないかぎり、息ができるというだけで笑いたくなる心理など、とうてい理解できるはずがない。

いぜんとして、穴の底であることに変りはないのに、まるで高い塔の上にのぼったような気分である。
世界が、裏返しになって、突起と窪みが、逆さになったのかもしれない。
とにかく、砂の中から、水を掘り当てたのだ。
あの装置があるかぎり、部落の連中も、めったな手出しはできないわけである。
いくら水を絶たれても、もうびくともしないですませられるのだ。
連中が、どんなに騒ぎうろたえるか、思っただけで、また笑いがこみ上げてくる。
穴の中にいながら、すでに穴の外にいるようなものだった。
振向くと、穴の全景が見渡せた。
モザイックというものは、距離をおいて見なければ、なかなか判断をつけにくいものである。
むきになって、眼を近づけたりすると、かえって断片のなかに迷いこんでしまう。
一つの断片からは脱け出せても、すぐまた別の断片に、足をさらわれてしまうのだ。
どうやら、これまで彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。


195 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:40:40 ID:???


あいつや、同僚たちについても、そっくり同じことが言えた。
これまで、思い浮ぶものといえば、異様に拡大された、細部ばかりであり、肉の厚い鼻の穴……
しわだらけの唇……のっぺりした薄い唇……ひらたい指……とがった指……目のなかの星……
鎖骨の下の、糸のようなイボ……乳房を走っている菫色の静脈……
そんな部分ばかりが、やたらと間近にせまって、彼に吐き気をもよおさせてしまうのだ。
だが、広角レンズをつけた眼には、すべてが小ぢんまりした、虫のようにしか見えなかった。
あそこを這いまわっているのは、教員室で番茶をすすっている同僚たちだ。
こちらの隅にはりついているのは、しめっぽいベッドの中で、タバコの灰が落ちかけているのに、
まだ薄目のまま身じろぎしようともしない、裸のあいつである。
しかも、すこしの嫉妬もまじえずに、その小さな虫だちを、菓子型のようだと思ったりする。
菓子型には、輪郭があるだけで、中身はない。
だからと言って、それに合わせて、たのまれもしない菓子を焼かずにいられないほど、律儀な菓子職人である必要もないわけだ。
もし、もう一度、関係を回復することがあるとしても、それはすべてを御破算にしてからのことである。
砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。
彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。


196 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:42:49 ID:???


こうして、溜水装置の研究が、あらたに日課としてくわえられることになる。
桶を埋める位置……桶の形態……日照時間と溜水速度の関係……気温や気圧が効率におよぼす影響……
数字や図形の記録が、たんねんに積み重ねられていった。
もっとも、女には、男が鴉の罠くらいに、なぜそれほど熱中できるのか、さっぱりわけが分らない。
いずれ男というものは、何かなぐさみ物なしには、済まされないものだからと納得し、
それで気がすむというのなら、けっこうなことである。
それに、どうしたはずみか、彼女の内職にも、積極的な態度を示しはじめてくれた。
悪い気持はしない。鴉の罠くらいは、差引きしても、まだたっぷりおつりがくる。
とは言え、男の方でも、ちゃんとそれなりの計算や動機は容易されていたのである。
装置の研究は、いくつもの条件を組合わせねばならず、以外に手間取った。
資料の数は増えても、なかなかその資料を統一する法則がつかめない。
さらに、正確な資料をとろうとすれば、どうしてもラジオで、天気の予報や概況をたしかめておく必要があった。
ラジオは二人の共通の目標になったのである。

十一月のはじめに、一日四リットルを記録したのを最後にして、あとは一日ごとに、下降線をたどりはじめた。
どうやら、気温のせいらしく、本格的な実験は、春を待つしかなさそうだ。
やがて、砂といっしょに氷のかけらが飛ぶ、長い、きびしい冬がやってきた。
そのあいだ、すこしでも上等のラジオを手に入れるために、せいぜい女の内職に手をかすことにした。
穴の中は、風がさえぎられるという利点はあっても、ほとんど一日中陽が射さず、おせじにもしのぎやすいとは言えなかった。
砂が凍る日でも、飛砂の量は減らず、砂掻きの仕事に、休みはない。
何度も、指のあかぎれが破れて、血が流れた。


197 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:44:50 ID:???


べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。
いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。
それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。
話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。
今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。

逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。


198 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 10:52:14 ID:???

P28-  4

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199 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 11:00:08 ID:???

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200 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 11:01:39 ID:???

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P227-


201 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:38:32 ID:???

 2.アレックスと彼のドルーグ


202 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:40:50 ID:???

おれがいた 名はアレックス

3人のドルーグはピート ジョージー ディム

コロバ・ミルク・バーでラズードックス

夜のプランを思案中ってわけ

コロバのミルク・プラスは3種

ベロセット シンセメスク ドレンクロム

そいつをやってる

精神が刺激され いつもの超暴力〈アルトラ〉へ盛り上がる


203 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:57:55 ID:???

 3.浮浪者への超暴力


204 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:05:20 ID:???

ダブリンのフェア・シティーじゃ――

娘はみんな美しい

おれの目を捕らえた――

スイート・モリー・マローン

屋台の車を押しながら――

路地から路地へ売り歩く

取り立てのムール貝だ イキがいいよ


205 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:05:55 ID:???

耐えられないのは老醜さらす酔っ払い

親譲りの猥歌をほえて――

ゲップの伴奏が入る――

腐臭を放つ内臓の卑猥なオーケストラ

そんなやつにガマンできない

老いぼれだと なおさらだ


206 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:08:35 ID:???

カッター銭 恵んでくれ 兄ちゃん


殺すなら殺せ このろくでなし

こんな きたねえ世界にゃ未練はねえよ

何がそんなに きたねえのかな

無法がはびこるきたねえ世界だ

若者が年寄りをイビる世界だ

これがそうさ

老人が暮らせる世界はもう残っちゃいない

何という時代だ

月へ行く人間と地球を回る人間

だけど地上の法と秩序にゃみんなが無関心だ

ああ我が祖国 なんじにささげし この命


207 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 09:40:14 ID:???

 7.ディムを教育


208 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 09:42:55 ID:???

おれたちヘトヘト ひざもガクガク

それなりにエネルギーを消費できた夜さ 兄弟

車を捨て コロバに戻って寝る前の一杯

ルーシー 忙しかった?

おれたちもメチャ働いたさ

ご免よ ルース


209 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 09:44:56 ID:???

TV局の気取り屋どもがいた

笑ったりグブリ話に興じたり

このデボチカもノー天気に楽しんでいた

するとディスクが一曲 終わって――

曲間の短い静寂…

女がいきなり歌い出した


210 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 09:47:06 ID:???

何て言うか――

一瞬 巨大な鳥が舞い込んだかと

おれのマレンキー・ヘアがごっそり逆立ち――

戦りつがマレンキーとかげになって――

体をはい回った

知っている曲なんだ

ルドウィヒ作曲 あの栄光の第九


211 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 09:48:27 ID:???

何するんだよ

マナーが悪過ぎる

人前で振る舞う常識ドゥークに欠けるぞ 兄弟

そんなやり方ありかよ

もう兄弟じゃないしなりたくもねえや

気をつけろ

目一杯 気をつけろ なんじ 生きんと欲するなら

くそボルシーのヤーブロッコあほ

勝負してやる 鎖かノズかブリツバか

ワケなしのトルチョック制裁はうんざりだ

おれはスジ通してるぜ

ノズで勝負と行くか


212 :私事ですが名無しです:2006/12/27(水) 09:49:41 ID:???

分かったよ〈ドゥービドゥーブ〉…

疲れてるのかな

これ以上は やめよう

ベッド方向に気が向いてる

家方向でスパチカねんねだ

ライティ・ライト?

ライティ・ライト

ライティ・ライト


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